村上頼勝 動じない男 第十四章
いよいよ決まった上杉討伐。だが頼勝や堀家のあずかり知らぬところで事態は大きく変わっていく。そして頼勝も新たな問題に直面するのだが果たしてどうなるか。
慶長五年(一六〇〇)七月。江戸に入った徳川家康と率いられてきた軍勢は上杉領国へ進軍する準備を整えていた。越後の堀家と与力一同も準備は終わり出陣の時を待つ身である。だがそんなとき不穏な報せが頼勝の耳に入った。
「領内で不穏な動きがあるだと? 」
部下からの報せによると頼勝の領内で一部の領主たちが秘かに武器と人を集めているというのだ。しかもその領主たちは皆上杉家に従っていた者たちらしい。
「これはいかんな」
頼勝はすぐに秀勝と直政にこのことを連絡した。秀勝からの返信はすぐにくる。どうやら秀勝も同じような動きを感知しているらしい。
「もしやすると上杉家の者たちは我らが出陣した後、領内で一揆を起こさせるつもりなのではないか」
秀勝からの返信の最後にはそう書かれていた。それについては頼勝も同感である。
「留守を任せる兵を多くすべきか。なんにせよ堀家からの連絡次第か」
ひとまずは見に徹するしかない頼勝。だがこの時すでに事態は大きく動いていた。
実は家康が上杉家領国に向けて出陣する前に、畿内で家康に反発する者たちが動き出したのである。その中には長束正家もいた。
「秀吉様の作り上げた方を蔑ろにする家康殿にこれ以上好き勝手させるわけにはいかない」
正家は蟄居していた三成と図り五大老の毛利輝元、宇喜多秀家、そして上杉景勝を巻き込み家康との対決を図ったのである。まず手始めに三成を復帰させると畿内で挙兵した。そして毛利輝元を大阪に呼び込んだのである。こうして反家康の勢力である西軍が出来上がった。一方家康率いる勢力、東軍は三成の挙兵や輝元の行動を知っても上杉家領への進軍を止めていない。まずは上杉家の出方を見ようということであった。
やがて上杉家が打って出ず迎撃を行う構えを見た家康は進軍を止めて畿内に引き返すことを決意する。
「三成ら奉行たちは秀頼様を利用して己の野心を満たそうとしている。そしてこの家康を逆臣として滅ぼそうとしている。儂はこれを打破するつもりだ。皆がついてくるかは各々に任せる」
この時家康に従っていた面々はほとんどが家康についていくことにした。それがどのような心境での判断かは各々違う。とにかくなんにせよ東軍の方針として西軍の打倒が決まったのだ。
こうして事態は激変していたのだが頼勝や堀家はまだその動きをあずかり知らない。頼勝は居城で情勢を静かに見守っている。
東軍の西上が決定したことは頼勝や堀家、秀勝にも知らされた。そして時を同じくして正家ら奉行たちから家康を弾劾し自分たちに味方することを求める書状が届く。
「正家、お前はその道を進むのか」
書状からは並々ならぬ正家の決意が感じられた。しかし頼勝は正家の求めに応じることは考えていない。これは堀家も秀勝も同じのようで皆家康に従うつもりである。
「おそらくこの戦は家康様が勝つ。よしんば正家たちが勝ってもうまく行かぬだろう」
頼勝の知る限りでも豊臣氏に恩のある大名たちは各々東軍か西軍に味方している。その状態で戦いが決すればなんにせよ豊臣家は衰える。逆に西軍が勝てば上杉家と毛利家の勢力が伸張することは確実であった。となれば今度はその両家が主導権を争うかもしれない。
「そうなれば結局乱世よ。何の意味もない」
秀吉の成し遂げた天下統一を持続させるためには抜きんでた実力者に統治を任せるしかない。それは別に豊臣氏でも家康でもいい。頼勝はそんなことを考えているが、今後の豊臣氏にそんな力は残らないだろう。
「信長様が亡くなった後のことと似たようなことを今度もするだけだ」
そしてそれに勝利するのは家康だろう、と頼勝も直政や秀勝も信じただけである。
さて家康は自分たちの西上を知らせるとともに頼勝たちには自領での待機を命じた。おそらくは上杉家への牽制を期待したのであろう。頼勝たちもそれは理解していたので素直に従う。ところがこの直後事態は動いた。まず上杉家は家康が西上する動きを見せると隣国の最上家の領地に侵攻する。最上家は東軍であり、また上杉家の領地を分断する位置に領国を持っていた。上杉家としては最上家を撃破し領地の分断を解消しながら勢力を強めようという意図である。最上家と上杉家では勢力に大きな差があり、最上家に積極的に味方する勢力も少なかった。唯一伊達家が支援の動きを見せつつあったが上杉家と一時和睦してしまい満足に動けていない。
こうした情勢の変化の中で越後でも動きがあった。その動きを知らせる伝令が頼勝の下に駆け込んでくる。
「領内の地侍達が結託し一揆を起こしたようです」
「そうか。わかった。すぐに鎮圧に移る」
頼勝の予測通り一揆がおきたのだ。しかも村上家の領国だけでなく堀家や溝口家の領国でも発生したらしい。越後の各所で同時多発的に一揆が発生したのだ。中心となったのは会津についていかなかった旧上杉家家臣達。これがのちに言う上杉遺民一揆である。
直江兼続は越後の旧上杉家臣や上杉家に従っていた地侍などに呼びかけ一揆を起こさせたのである。この際上杉家から兵や武器も送っていた。そして一揆に参加する者たちにこう呼びかけている。
「此度の戦が終われば上杉家は再び越後の主となる。この一揆で活躍した者たちはその際に取立てるので皆奮戦する様に」
この呼びかけに堀家に反発していた者たちを中心に意気は上がった。そして堀家や与力たちの領国各所で一揆がおきたのである。
一揆勢の侵攻は堀直政の居城である三条城にも攻め込んだ。この時直政は春日山城で秀治の側に仕えていたので不在である。しかし直政の嫡男の直清が奮闘し一揆勢を撃退した。
そのほか越後各地で一揆が発生している。頼勝の領国でも同様であった。頼勝も出陣し一揆を鎮圧している。幸い会津に向けて出陣する準備をしていたことで素早く攻勢に出られた。そのため一揆は次々とと鎮圧されていったが、ここで頼勝は違和感を抱く。
「何というか、どうも動きがおかしい。一揆同士の連携が拙すぎる」
どうも対峙している一揆勢の動きがそれぞれバラバラで一揆同士の連携が取れていないのだ。この一揆が上杉家、というか兼続の策略によるものだということは事実であり頼勝も察している。だがだとするならばこの連携の拙さはおかしい。
「どうも一揆を統率する者がいないようだ。上杉家は誰も送り込まなかったのか」
頼勝はそう訝しんだ。実際のところ上杉家から送り込まれたものはいる。しかし小身の物であったため、一揆の中核をなす旧上杉家臣や地侍達を制御できなかったのである。それに加えて兼続の言葉を受けた一揆の一同は手柄をねらい各々が勝手に動いたのだ。留めにこの時兼続は最上攻めで苦戦しており一揆に対して何の指示も出せないでいたのである。
「これならば問題あるまい。緒戦烏合の衆」
この散発的な一揆に対抗するのは頼勝や秀勝は歴戦の強者である。堀家も直政を筆頭に信長の代から戦場をかけてきた武士であった。こうなるともう勝敗は日の目を見るより明らかである。むしろこんなことを頼勝はじめ一同が考えるほどであった。
「この際我らに反抗する者共を打ち倒してしまおう。そうすればこの後楽になる」
頼勝たちはこれをあえて好機として反抗勢力の撃滅に移ったのである。結果上杉家から満足な支援も受けられなかった一揆は随時鎮圧されていった。結局のところ直江兼続は堀家や与力たちを侮っていたのである。その上自分は最上攻めに失敗するありさまであった。
一揆の鎮圧が終わったころ家康からの連絡が届いた。美濃関ヶ原において東軍と西軍が決戦に至り、東軍が勝利したという。こうして天下分け目の関ヶ原と堀家の未来を占った上杉遺民一揆は終結した。
戦いが終わると戦後処理が行われた。堀家及びその与力たちは所領を安堵される。それと同時に頼勝と秀勝は与力大名という立場から独立した立場に変わった。これは全国的な傾向のようで頼勝たちが特別な扱いというわけでもない。
「まあなんにせよ良しとするか」
今回の戦い頼勝たちは自領の一揆を鎮圧しただけである。それで領地の加増など望めるはずもない。そもそもそんな野心もないので今回の処遇には納得しかない。
ただ与力という役目も外れるとなると堀家とのかかわりあいも変わることになった。今までは堀家の補佐も仕事の内であったがそれもなくなるということである。
「秀勝殿や頼勝殿の支えが無くなるのはいささか不安ではありますなぁ。ですが此度の扱いは至極真っ当なものでしょう」
直政はからりと笑いながら言った。少し前の上杉家との関係に苦慮していた時には全く見られなかった姿である。そんな直政に頼勝も苦笑するしかない。
「肩の荷が下りたようにも見えます」
「いや、まさしく。此度のことを秀治様は見事に治められました。もはや拙者の役目も終わりでしょうな」
「確かに秀治様は立派になられました。いや、うらやましく思います」
そう言った頼勝の脳裏に思い浮かんだのはかつての主君、丹羽長秀の遺児の長重であった。長重は今回の戦いで西軍に味方し見事な戦いをしたという。しかしその結果所領を奪われ丹羽家臣も離散してしまったそうだ。坂井直政や江口正吉も長重の下を離れざる負えなかったようである。
「戦のことは運否天賦。致し方のないことでしょう」
頼勝の言葉からそれを察した直政はそう頼勝を慰めた。頼勝も素直に直政の行為を受け取る。
「お気遣いありがとうございます」
「いや、お気になさるな。我らは隣国同士。この先もお付き合いがあるでしょうしな」
「左様で。では、お元気で」
直政の言葉にうなずくと頼勝はその場を去っていった。
居城に戻った頼勝の下に手紙が届いた。差出人は長束正家である。これに頼勝は驚いた。
「正家からの手紙とは。いつ出したものか」
正家は今回の騒乱の責任者として処罰された。死罪でありもうこの世にはいない。そのこの世にはいないはずの正家から手紙が届いたのである。
「ならばこの手紙はいつの物か。いや、それは聞けばわかるか」
頼勝は正家の手紙を届けた人物に尋ねた。その人物は正家の近習で、元服したばかりの少年と言っていい若さである。その少年は涙ながらに言った。
「正家様は関ケ原にて戦われましたが敗れました。水口の城に戻りこの手紙をしたためたると私に預けられました」
「そうか。その時正家は何と言っていた」
「「もうすべては終わる。お前はまだ若い。無駄に命を散らすことはない。この手紙を持って越後の村上頼勝殿の下に逃れよ。あのお方ならばお前を粗略に扱うまい」そう申されておりました」
「そうか…… 」
正家からの手紙には秀吉死後からここに至るまでの経緯や正家の心情が書かれていた。
「秀吉様亡き後はおそらく家康殿が主のごとくふるまうだろうと予期しておりました。そしてそれを支えることが結果的に豊臣の家を守ることにつながるだろうということも理解しているつもりでした。しかしながら家康殿の振る舞いに納得できぬことも多く、また奉行として共に働いた三成を見捨てることもできず、一計を案じてここに至った次第にございます。ですが結局それは博打にすぎず、このありさまになりました。もはやこれまで。ですがこの若者を道連れにするのも馬鹿馬鹿しく思い、頼勝殿への手紙を託し送り出すことに。できるならばこの者をお使い下されれば幸いです。これまでお世話になりました上にこのようなお願いは厚かましいですがご容赦を。では、おさらばです」
手紙を読み終えた頼勝は何も言わなかった。ただ正家の心情に思いを寄せる。おそらく正家は秀吉に相当の恩義を抱いていたのだろう。ゆえにこのようなことに至ったのだと。それが計算に合わぬことだと知っていながら行動したのであろうと。
頼勝はそう理解した。ならばそんな正家にできる手向けは一つしかない。頼勝はこの手紙を届けた若者を家臣として雇った。それだけが今は亡き後輩にできることである。
関ヶ原の戦いが終わりその戦後処理も終った。この時頼勝は養子をとっている。頼勝には男子がなくかつて堀秀政の子を養子にしていたがその子も早世していた。
頼勝が養子にしたのは戸田重典の子である。重典は勝成の子であった、つまり戸田勝成の孫である。勝成とは越後に内ってから疎遠になってしまっていた。そして最近その消息を聞いたのだが、その内容は関ケ原の戦いで勝成、重典親子が戦死したという報せである。その結果戸田家も取り潰しになって、戸田一族は散り散りになってしまったそうだ。
「何ということだ。だがここで何もしなければ戸田家への恩義に背くことになる」
頼勝はかつて信濃から逃れてきたとき自分たちを迎えてくれたことを忘れていない。そして今こそその恩義に報いるときである。頼勝は何とか重典の子を見つけ出して養子にしたのであった。
「これで最低限の恩義は果たせた。もはや思い起こすことはないな…… 」
重典の子は名を忠勝と改めて元服した。このころになると頼勝も積年の疲れ化すっかり衰えてしまっている。
「もう私も長くはないな」
慶長九年(一六〇四)の年始に頼勝は家督を忠勝に譲った。そしてその年の五月にこの世を去る。眠る様に死んだその体には歴戦の傷跡がいくつもあったという。
村上頼勝をはじめ丹羽家の人々はともかく激動の人生を歩みました。本編中でも触れられていますが戸田勝成と長束正家は西軍に参加し死亡。丹羽長重も西軍に加担しますがこちらは改易で済みました。のちに大名に復帰し散り散りになった家臣たちも戻ってきたそうです。溝口秀勝は頼勝同様所領を安堵され幕末まで大名として存続しました。一方の村上家は頼勝の次の代で家中の内紛から改易されてしまいます。それぞれが数奇な人生を歩み違った結末を迎えました。何とも数奇な運命をたどった人々ですね。
さて次の話は九州のある地域に関わる人物です。短い話になる予定です。お楽しみに。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では




