浦上則宗 成り上がり 第四話
赤松領内の混乱は終わった。赤松家は領地を取り戻したが則宗は息子を失う。
赤松家が昔日の勢いを取り戻そうとしている中で則宗は何を考えて生きるのか。
赤松家が領地を山名家から取り戻してからは、政則が中心となって領国の立て直しを図った。また政則は幕府に出仕して将軍であった九代義尚、さらに十代義材の信頼を得る。また管領であった細川政元(細川勝元の息子)とも接近して行く。こうして幕府とつながりを強化した政則は自分の権力を強くしていった。
この時期、則宗は表立った動きはしなかった。そして政則に従順に仕えその活動を補佐する。
例えば延徳三年(一四九一)に足利義材が近江(現滋賀県)の六角家の討伐を行った。この時政則は従軍している。則宗も一緒だった。
この時政則は若狭(現福井県)守護の武田元信と共に主力として抜擢された。
重要な役目を担うことになった政則は不安になる。
「なんとか手柄を立てなければ」
将軍の信任に応えようと政則は必死な思いを抱いていた。そんな政則に則宗は言う。
「拙者にお任せください」
「お主に? 大丈夫なのか」
「ご心配はごもっともです。しかしどうか拙者に汚名をそそぐ機会をいただけないかと」
「うむ。そうだな。頼む」
政則は少し考えた後則宗の進言を採り入れた。まだ政則は則宗に不信感を抱いているが、その実力も承知している。ここは任せてみようと考えた。
則宗は早速行動を開始する。六角家は一度城を捨てた後でゲリラ戦を展開して幕府軍を苦しめた。だが則宗は持ち前の情報網を駆使して敵将の場所を察知し強襲する。そして敵将を捕らえた。これにより戦いは幕府方有利に傾く。
この功績に将軍義材は喜んだ。
「見事じゃ。浦上よ」
則宗をほめたたえる義材。そんな義材に則宗は言った。
「滅相もありません。全てはわが殿の功であります」
この言葉に今度は政則が喜ぶのであった。
こうして赤松家はさらに将軍の信任を受けるようになった。また則宗も政則の信頼を取り戻したのである。
則宗が従順になったことを政則は喜んだ。
「則宗もやっと私に心服したのだな」
政則がこういうと則宗は笑って言った。
「もとより心服しております。しかしあの時は驕りのあまり魔が差してあのようなことを。申し訳ありません」
「なに。反省しているのなら問題ない」
「ありがたき幸せ」
則宗は床に額をこすりつけていった。それを見て政則はますます満足そうな様子になる。一方、周りでその光景を眺める赤松家臣たちは落ち着かなかった。
「浦上殿はどうなされたのだ」
「ああ、以前の自信に満ち溢れた様子とはまるで違う」
「やはりご子息を失ったのが応えたのか」
そんなことをひそひそという家臣たち。則宗の姿に満足そうな政則。そして平伏する則宗の顔は一切笑っていなかった。
延徳三年の戦いの後も政則は幕府に必死で奉公した。勿論則宗も政則に従って幕府に奉公する。両者の間に険悪な雰囲気はなく赤松家の前途は順風満帆であった。
そんな折に政則に縁談が持ち上がった。相手は細川政元の姉の洞松院である。この縁談に赤松家中はどよめいた。
「洞松院さまはもう三十になるとか。そのような方と縁組とは」
「しかも不器量であるらしい。体のいい厄介払いではないか」
「いや、政元殿はこの頃公方様とうまくいっていないらしい。政元殿は何とか殿を味方にしようと必死なのであろう」
そんな赤松家臣たちは言っていた。事実政元は将軍足利義材とは不仲であった。これは前将軍の義尚の後継を決める際政元は別の人物を推薦したという。義材にはそれが気に食わなかった。
これだけではなく自ら政治を行おうとする義材と、有力大名による政治を行おうとする政元との方針の違いもあった。ともかく政元と義材は反目しあいそれが幕府内での火種となっている。
さてそれはともかく政則は則宗に縁談の是非を訪ねた。
「則宗はどうしたらよいと思う? 」
このころになると政則は元の通り則宗を信頼するようになっていた。
政則に尋ねられた則宗ははっきりと言う。
「この縁談。受けるのがよろしいかと」
「政元殿の方に着く方が良いという事か」
「はい」
やけに則宗ははっきりと言った。政則はその理由が分からない。
「何故そう言い切れる」
政則はストレートに則宗に尋ねた。政則の質問に対し則宗は自分の考えを述べる。
「六角征伐の折、不満を漏らす物が多くいました」
「不満? 」
「はい。此度の征伐の軍役が思った以上に負担になっていたようです。それに不満を抱くも物も多くいるようでした。さらに義材さまは河内(現大阪府)の畠山義豊殿を征伐なさるおつもりのようです。この度重なる軍役に義材さまへの不満はさらに高まるかと。もしかしたら義材さまの座も長くはないかもしれませぬ」
「なるほどな…… 」
則宗の言葉はいちいち納得できるものだった。政則はしばらく考え込むといった。
「則宗よ。政元殿に了承したと連絡してくれ」
「かしこまりました」
そう言うと則宗は早速政元に手紙を送った。そして話は進み明応二年(一四九三)に婚姻が成立した。
その直後、京にて政元がクーデターを起こし幕府を掌握した。世に言う明応の政変である。この政変により義材は京を追われ、政元が擁立した足利義澄が将軍に着く。
このクーデターをほとんどの大名が支持した。それだけ義材への不満は高まっていたのである。まさしく則宗の読み通りであった。
「全く見事なものだ、則宗」
「いえ、滅相もございません」
「何謙遜するな。さすがわが家臣だ」
こう言って政則は則宗を一応褒めるのであった。
この後、政則は政元の義理の兄であるということもあってか破格の扱いを受ける。そしてそれは官位という形で現れた。
明応五年(一四九六)に政則は従三位に叙せられ公卿になった。これ将軍・足利一門を除く武家が叙されることのなかった位である。管領の細川家もなかった。
この破格の昇進に周囲からは異論も出た。しかし政則は気にしない。
「私にふさわしい位だ」
そう言って政則は得意げであった。この時政則は人生の絶頂にいたのであろう。しかし叙任の二ヶ月後政則に異変が起きた。
その時鷹狩りに出ていた政則は突如体調の不良を訴えた。
「く、苦しい。則宗…… 」
そして政則はそのまま死んでしまうのであった。享年四二歳。あまりにも唐突な死である。
この政則の急死を則宗は自分の屋敷で聞いた。
「殿、大変です」
「なんだ五郎兵衛」
「大殿が無くなりました」
政則急死の知らせを聞いた則宗は一瞬固まった。そしてうつむき肩を震わせ始めた。
「殿? 」
五郎兵衛はうつむく則宗の顔を覗き込む。そこで目にしたのは笑いをこらえる則宗の顔であった。その壮絶な笑みに五郎兵衛は腰を抜かす。
「と、殿…… 」
「死んだか。あ奴が死んだか。きっと則景が引きずり込んだのだ。ははははは」
則宗は顔をあげ空を眺めた。空には雲一つなく月が浮かんでいる。そして月を見上げて叫ぶ。
「これからは拙者の時代だ! 」
則宗の叫びが夜空にこだまする。唖然とする五郎兵衛の前で則宗は笑い続けていた。
政則の急死に赤松家はどよめいた。その主な理由が政則に男子がいなかったことにある。もともと赤松家の権力基盤は脆い。しかも赤松家当主の座をめぐって一族同士での争いも起きている。政則の死によって赤松領国は混乱状態に陥った。
こうした混乱の中で則宗は表向きなかなか動き出さなかった。しかし裏では亡き政則の妻洞松院に接触している。
則宗は洞松院にこう切り出した。
「この度は洞松院様にお願いがございます」
「ほう、なんじゃ」
洞松院はそう言って則宗を睨みつけた。この洞松院という女は陰気な雰囲気をしているが、目だけはギラギラと光っている。その眼は則宗同様の野心溢れる目であった。
「拙者は政則さまの後継に義村様を推したいと考えております」
「義村を、とな」
「はい」
則宗はにやりと笑った。洞松院も同じように笑っている。
ここで名前が挙がった義村というのは政則の婿養子である赤松義村である。義村は赤松家諸流の出身であった。そして義村の妻は洞松院の娘である。
則宗は言った。
「義村様が当主の座に着けば洞松院様の思いのままに」
そう言われた洞松院はまた笑った。
「だがそなたは何が望みか」
「もうこの老骨に望みなどありませぬよ」
則宗はそう言った。もっともそれが嘘だということは洞松院にもわかっている。そして嘘がばれているということも則宗は理解していた。
「(この者は幼い義村を利用して赤松家を思いのままにするつもりなのだろう。そしてわらわが赤松の家を手に入れたいということも知っている)」
この洞松院は野心のあふれる女であった。それは三十年近く寺に押込められ不器量と笑われてきた女がたどり着いた心境である。
洞松院はしばし思案した後で言った。
「よろしい。そなたの力になろう」
「ありがたき幸せ…… 」
則宗は恭しく礼をした。そして内心ではこんなことを考えている。
「(なるほどわかっている女だ。拙者と組むのが己の野心を果たすのに一番都合がいいと心得ている)」
則宗もまた洞松院の野心を理解していた。そのうえで今回の提案をしたのである。実際則宗からしてみれば洞松院の後ろ盾は心強く、洞松院にとっては則宗の力は便利なものだった。お互い利害が一致したという事である。
「それでまずどうするのじゃ? 」
「洞松院様は義村様を推すと公表していただければよろしいです。あとは拙者が義村様を連れて播磨に入ればそれで片付きます」
「そうか。ではそのようにいたせ」
「ははっ」
こうして洞松院の後ろ盾を得た則宗は義村と合流する。そして則宗は義村に言った。
「洞松院様に申し付けられて義村様をお助けすることになりました。よろしくお願いします」
「そうか、頼むぞ則宗」
義村からすれば則宗は歴戦の勇士で赤松家の中心であった。この近年の行動で文明、長享年間のいざこざは忘れ去られている。
「かしこまりました義村様」
こうして則宗は義村の後見役となった。そしてそのまま播磨に入り、赤松家の諸将に対して宣言する。
「これより赤松家の当主は義村様となった。これには洞松院様もご了承している。拙者は義村様を助け赤松家を盛り立てる。異論があるものはかかって来い」
この宣言は多くの赤松家臣に支持された。実際義村は後継者候補としては一番であったし、亡き政則の妻である洞松院の後ろ盾もある。何より則宗は赤松家において最大の実力者であった。それだけの要素がそろってわざわざ敵対する者はいない。全ては則宗の目論見通りであった。
「これよりは拙者が赤松家を取り仕切る! 」
そう則宗は宣言した。それに反論するものは何処にもいない。則宗は人生の絶頂に立ったのである。
こうして則宗の時代が始まるのであった。
則宗は宣言通り赤松家を取り仕切った。その権勢は赤松家を凌いでおり圧倒的な存在感を示す。則宗は勝手に守護代に浦上一族の者を任じようとするなど専横を極めた。
赤松家の多くの人間が則宗に反感を抱いた。しかし則宗は気にしない。
「誰も拙者に逆らえるものか」
則宗は今でも赤松家が大きくなったのは自分の力だと信じている。そしてそんな自分が赤松家を取り仕切るのは当然のことだと考えていた。
「すべては拙者の力だ」
そういう則宗を見て五郎兵衛はしみじみと言った。
「殿は変わりませんね」
それを聞いた則宗は剣呑な顔をする。しかし五郎兵衛はそれに気づかずさらに言った。
「京で落ちぶれた頃とギラギラしてるのは変わらないですな」
そんな五郎兵衛の何気ない一言は、成り上がった則宗を怒らせるのには十分だった。
後日五郎兵衛は何者かに殺されてしまった。
「(拙者はもはやあの落ちぶれていた時とは違う。ここまで上り詰めたのだ)」
自分は今や大大名赤松家を支配する立場にある。京の野盗崩れの浪人とはまるで違う存在だ、そう言い聞かせた。そしてこんなことも考えている。
「(逆らうもの、無礼なものは許さん)」
そんなふうに傲慢を極める則宗。そしてついに行動に出るものが現れた。明応八年(一四九九)に浦上一族の浦上村国が則宗に反発し、則宗打倒の挙兵したのである。
想像もしなかった自分を打倒するための挙兵。しかも同じ浦上一族の者がである。則宗は怒り狂った。
「拙者に逆らったことを後悔させてやれ」
すぐに則宗は村国の討伐に向かった。しかし赤津家は則宗支持と村国支持の二派に分かれてしまう。これに則宗は怒った。
「何故拙者に従わんのだ! 」
結局則宗への不満はそこまで高まっていたのである。
則宗と村国は一進一退の攻防を続けた。戦いの決着は一向に付かない。さらに戦いの途中に洞松院に権限をゆだねるべきだと主張する勢力も現れる。赤松家はさらに混乱した。
「拙者が大きくした赤松家だぞ。なぜ拙者に従わん」
結局戦いは赤松政秀の奔走で将軍足利義澄が介入したことにより終わる。戦いの決着はつかず両者痛み分けの結果となった。
戦いが終わった後の赤松家の体制は以前とほとんど変わらなかった。義村が当主で則宗が後見するというものである。しいて変わったことをあげれば洞松院が政務に関わるようになったことぐらいである。
「これからは仲良うしましょう。則宗殿」
洞松院はあざ笑うかのように言う。それに言い返す気力はこの時の則宗にはなかった。
その後則宗はめっきり老け込んだ。思い返してみれば自分が何か主導権を握って行動してもいい結果にはならなかったように思う。ここにきて則宗はやっと気づいた。
「拙者の人生はいったい何だったのか。ここまで成り上がったのは何のためだったのか」
このところはそんなふうに考えるようになっていた。そして浦上則宗は文亀二年(一五〇二)に静かに息を引き取った。享年七四歳。当時においてはかなりの長生きである。しかし幸せな人生であったかどうかは当の則宗以外の誰にもわからない。
これで則宗の話は終わりました。しかし浦上家と赤松家の反目はこの後も続きます。この話で登場した赤松義村は政則同様に赤松家の主導権を握ろうとしますが最後は暗殺されてしまいます。この暗殺を計画したのが則宗の甥の村宗です。さらに村宗の背後には松堂院がいたともいわれています。さらに村宗の息子の宗景は家臣の宇喜多直家に浦上家を滅ぼされました。何とも下剋上のお手本のような人々です。
さてここでお知らせなのですが連載のストックの兼ね合いやお盆とこともあり、7月22日の更新はお休みさせていただきます。ですので次は7月29日になる予定です。お楽しみにしていただいている方々には申し訳ありません。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡ください。では




