浦上則宗 成り上がり 第三話
応仁の乱も終わり一応の平和は戻った。しかし各地に騒乱の火種はくすぶり続けている。当然赤松家も無関係ではない。
やがて新たに始まる動乱は則宗にある決断をさせる。そしてその決断が更なる動乱を招くのであった。
応仁の乱の後も政則と則宗は京にとどまっていた。これは侍所の仕事として京の治安維持もあったからである。京の町は応仁の乱の余波で大打撃を受けていた。そういう不安定な状況なので幕府としても赤松主従に期待しているものがあったのであろう。
しかし、文明十一年(一四七九)に思いもよらない出来事が起きる。
「我々に出仕するなと…… 」
この年、赤松家は幕府への出仕を止められた。この理由はよくわからない。一説には幕府の権力争いが原因だともいわれている。
ともかく出仕を止められた則宗と政則。当然二人は憤った。
「我々がどれほど幕府に尽くしてきたか。それを公方様はわかっているのか」
「則宗の言う通りだ。しかしどうする」
政則は則宗に尋ねた。二人の脳裏には山名家の存在が浮かんでいる。
現在山名家は山名宗全の孫(息子の説もある)政豊が当主の座についていた。政豊は赤松家が奪還した美作、備前、播磨の地を虎視眈々と狙っている。そんな政豊が今回の件に反応して何か行動を起こすことも考えられた。
今の状況ではなんにせよ幕府の後援は得られないだろう。周りの味方になってくれそうな大名は自分たちのことで手いっぱいで行動できない。そうなると山名家と独力で戦わなければならなかった。
則宗はしばらく考えた後政則に言った。
「殿はこれより播磨にお戻りください」
そう言われた政則は愕然となった。
「ど、どういう事だ」
「今は領内をまとめることが重要です。さすれば山名に攻められても大丈夫でしょう」
「なるほどな。私が直々に出向いた方がまとまるという事か。京のことは則宗に、領地のことは私にと役目を分けるのだな」
この頃は政則もこれくらい言うようになった。応仁の乱の激動を経て政則もなかなかに立派な青年になっている。
「その通りです。それと山名では宗全殿が死に色々ごたついているとか」
「ああ、そのようだな。なればそこをつくのもよかろう」
「左様です」
「ふむ。そうと決まれば早速下向の準備をするか」
二人はいくつか打ち合わせをすると早速行動を開始した。
政則は播磨に戻ると領内をまとめるべく奔走する。今赤松家が治めている三つの地には赤松家に友好的な勢力もいる。一方で利害の一致で赤松家に従っているものやはっきりと敵対するものもいた。さらに赤松一族の中には政則に反発する者もいる。政則はそれらの勢力を何とか抑え込んでいった。
さらにそれと並行して山名家の領内で山名家に反発する勢力の支援等も行う。これは一応成功し山名家に動揺した。だが政則の出仕停止の前後の時期に政豊も自分の領地に帰還していたため反対勢力の鎮圧に尽力する。もっともこうした領内の動揺の鎮静化はほかの大名たちも行っていた。応仁の乱の余波はこうしたところにも出ている。
一方、京に残った則宗は幕府との関係の修復に尽力した。これに関しては則宗や政則が京周辺の安定に実績があったこと。それに加えて幕府に対して従順であったことなどから関係の修復はスムーズに行った。こうして幕府との関係が修復し政則は京のある山城(現京都府)の守護を任じられ、則宗は守護代になった。
「ひとまずは安心か」
「そのようで」
屋敷でそんなふうにつぶやく則宗。それに答えたのは息子の則景であった。則景は政則と同年代で則宗同様に優れた武将である。政則の信頼は則宗同様強く現在は播磨で政則の補佐をしていた。
この時、則景は政則や領内の現状の報告のために父親を訪ねていた。則景はあいさつ代わりに報告を述べる。
「現状領内は平和なものです」
「そうか。だが油断は禁物だ」
「はい。実際領内で不穏な動きが無いわけではないのですが」
「そうなのか? 」
「まだはっきりと誰がどうとかはわからないのですが、一部に政則さまに反する動きが感じられます」
「確証はないのか」
「はい。もっとも彼らも自分たちだけではどうしようもないことが分かっているのでしょう。今後は山名殿の状況次第かと」
「そうだな」
則景の報告を聞いて則宗はいささか不安になった。
「則景よ」
「はい」
「殿にくれぐれも油断しないようにと」
「かしこまりました」
「何か大きく動くときには拙者に連絡するようにと。それと山名家の動きに警戒するように伝えてくれ」
「かしこまりました。急いで戻り殿に伝えます」
「そうしてくれ」
則景は言った通りその日のうちに播磨に帰っていった。
そして文明十五年(一四八三)にある重大な事件が起きる。その事件が則宗の人生に大きな影響を及ぼすのであった。
文明十五年備前の有力な国人である松田元成が赤松家に攻撃を仕掛けてきた。元成は自分と同じく赤松家に反抗的な国人を集め備前の福岡城を包囲する。
福岡城を守るのは浦上一族の浦上則国である。この同族の危機を受けて則宗は政則に救援を要請した。
「なんとしてでも福岡城を守らねば」
この時期に反抗的な勢力に城を落とされれば、今までの苦労が水の泡となる。そうした意識もあって則宗はあった。
だが危機はこれだけでは終わらなかった。山名政豊が自ら出陣し攻勢に出たのである。
「松田の動きは山名と共謀してのことか」
則宗は舌打ちした。おそらく前々から仕込んでいた作戦なのだろう。ありがたくもない話だが見事な連携である。そして悲しいかな京にいる則宗にはこの事態に対応できる手立てがない。
「(こうなれば播磨の殿と則景を頼むしかないな)」
そんなふうに祈る則宗。しかしこの状況に政則は驚くべきことを言い出した。
「山名の軍がこちらに向かっている隙をつき、逆に我らが山名の領地に攻め入る」
政則が考えたのは政豊が兵を率いて播磨を攻めてくる裏をかき、逆に山名家の本拠地の但馬(現兵庫県)に攻め入ろうというものだった。この作戦を聞いた則景は絶句する。
「殿、その策はあまりにも危ういかと」
「なに、心配いらん。今や播磨は完全にわが手に納まっている。山名の軍を防ぐこともできよう」
「しかし…… それと福岡城はどうされます」
「福岡城にはお主と政秀を救援に送る。それなら文句はあるまい」
そう言われて則景は黙った。ここで上がった政秀というのは赤松一族の赤松政秀のことである。政秀は応仁の乱の際の播磨奪還で名をあげた武将だった。勿論赤松家中だけでなく他家にも名を知れた名将である。確かに則景と合わせれば十分すぎる戦力であった。
しかし則景は不安だった。
「父上も政秀殿も連れずに大丈夫ですか? 」
則景の不安はそこだった。確かに政則は幼いころから立派に当主として活動している。しかしそれは昔から老臣たちが支えているからという事でもあった。
政則は則景の質問に答えなかった。そして表情は露骨に不満顔である。こうなればもう則景に言えることは何もなかった。
こうして政則は意気揚々と但馬に出発する。その後姿を則景は政秀と共にこれを見送った。則景は政秀に尋ねる。
「大丈夫でしょうか」
「信じるほかあるまい」
ため息まじりに政秀は言った。そんな政秀の様子に則景の不安はますます募る。そしてその不安は最悪な形で的中した。
政則は居城のある姫路から北上し但馬を狙った。そして播但国境の真弓峠に差しかかる。その時山名家の強襲を受けてしまった。この攻撃に政則含む赤松軍は混乱し大敗する。自軍が潰走する中で政則は命からがら逃げのびた。そして行方をくらませてしまう。
一方政則敗北の報告を福岡城への途上で聞いた政秀と則景は急ぎ兵を返した。このままでは勢いに乗った山名軍が播磨へ侵攻してくるのは必定である。そのため急いで守りを固める必要があった。
「済まぬ則国」
則景はそう言い残して引き返していった。結局福岡城は耐えきれず落城する。浦上則国は何とか城を脱出して播磨に帰還した。
さて山名政豊は政則を破ると一気に南下した。政秀と則景の予測通り一気に播磨を制圧するつもりらしい。結局主君不在の赤松家はちゃんとした抵抗もできず播磨を山名家に奪われてしまった。
この一連の動きを則宗は京で聞いた。そして
「あのバカ殿がぁぁぁぁ! 」
そう叫んだかどうかわからないがとにかく激怒した。則宗からしてみれば今までの努力が水泡に帰したわけである。
怒りが収まらない則宗だがすぐさま行動を起こす。
「播磨に向かうぞ。もう殿には頼らん」
こうなれば自分の力だけで赤松家を動かす。則宗はそう強く決意するのであった。
則宗は急ぎ支度をすると播磨に下った。そして息子の則景や主な赤松家臣と合流する。
年が明けて文明十六年(一四八四)播磨で則宗は熱烈に迎えられた。主君の行方が分からない中で、実績のある則宗がやってきたのはありがたいことなのだろう。だが播磨にやってきた則宗が言い出したのは驚くべきことだった。
「この大敗の責はすべて政則さまにある。しかも政則さまは山名にやられ行方知れずになってしまった。この上は新たに赤松諸家の有馬氏の慶寿丸様を主君に立て戦おうと思う」
則宗が言い出したのは政則を追い出して新しい当主をたてようというものだった。この提案に重臣たちは驚く。だが反対の声をあげる者はいない。
会議の場は静まり返った。すると重臣の一人小小寺則職が立ち上がる。
「浦上殿の言うことはごもっともである。この上は慶寿丸様もとに一統し戦おうではないか」
則職の発言にその場の家臣の大半が頷いた。結局のところ政則への忠誠で赤松家に仕えているものはおらず皆赤松家の権威に従っているだけだった。そしてそれを失墜させてしまった政則に従う理由は無い。
こうして則宗は自分の意見を承諾させた。
「(主君など誰でもいい。要は拙者さえいれば赤松家は滅びん)」
則宗は心からそう思っていた。現にここまで赤松家が大きくなったのには則宗の功績は大きい。幕府にも則宗の功績は認められている。それは事実の面もあった。だが今回の行動に則宗の驕りが無かったと言えばうそになる。則宗は赤松家を自分の思うようにしようとも考えていた。
その後則宗は幕府に対し慶寿丸の家督相続の許可を申し出た。
「(拙者は幕府の覚えもめでたい。この申し出は許されるだろう)」
そう則宗か考えていた。しかし思いもよらない事態が起きる。
山名家に敗れ行方をくらませていた政則の所在が判明したのである。政則は和泉(現大阪府)の堺にいた。そこで今回の則宗の動きを知った政則は激怒する。
「則宗め! 今まで目をかけてきた恩を忘れて何という事を! 」
政則は自分の失態と則宗への恩義を忘れて激怒した。幸い則宗に反発する赤松家臣もいないわけではない。政則はそうした家臣の助けを受けて幕府に則宗の提案を拒否するように働きかけた。
その後政則の活動は実を結び慶寿丸の家督相続は承認されなかった。
「それ見た事か。則宗め」
政則は当然喜んだ。一方で則宗は当然憤る。
「逃げ出しておいて拙者の邪魔をするか」
則宗は慶寿丸の家督相続をあきらめ当主不在のまま戦うことを決めた。しかし当主がいなければさすがにまとまりが欠けるのも事実である。さらに当主不在と山名家の侵攻を機に赤松領内で独自に新当主をたてる活動も沸き上がった。結局則宗の目論見ははずれ赤松家は分裂状態に陥る。この状況では山名家を播磨から追い出すどころか戦うこともままならなかった。
播磨で苦戦を続ける則宗に則景は言った。
「この上は政則さまにお戻りいただいては」
「今更そんなことできるか! 」
「しかしこのままでは赤松家もろともわが家も滅びます」
則景の冷静な物言いに則宗は怒鳴り返した。しかし内心ではそれ以外にとれる手段が無いことも理解している。
「(仕方あるまい…… 家が滅んではどうしようもない)」
この時則宗の頭に思い浮かんだのは嘉吉の乱で赤松家が滅んだ時のことだった。再び赤松家が滅びもう一度あの境遇になるのは耐えられない。ここにきて則宗の中でプライドに恐怖が打ち勝った。
則宗は前将軍足利義政の仲介で政則と和解した。こうして政則は赤松家の当主に返り咲いたのである。
対面した席で政則は則宗に言った。
「則宗よ」
「はっ」
「これよりはしっかり私に仕えるのだぞ」
政則はにやにやしながら言う。則宗は怒り狂いそうになるのを必死で抑えて平伏するのであった。
若干の軋轢は残ったが、赤松家は再び政則を当主にして再出発した。この展開に播磨国内の内乱はある程度鎮静化する。そして赤松家にある程度のまとまりが戻った。
則宗はこの展開に不満であった。しかしそんな内心を押し殺して赤松家臣として行動する。
政則は返り咲いた後は積極的に指揮を執った。しかしそれがあまりいい出来ではない。結局重臣たちが政則の補佐をして戦いに勝つ。基本そういう流れになった。
勿論則宗も政則を補佐する。すると不思議なことに戦況は優勢に傾いていった。そもそも則宗自身は優秀な将なので家中がまとまっていれば存分に力を発揮できる。
「(だが殿の態度は我慢ならん)」
戦局が優勢になったのは政則の再起だけではなくその後の則宗の奮戦もある。しかし政則は則宗を認めようとしなかった。
「此度は小寺が一番手柄だな。則宗ではまるで及ばん」
とか
「則宗はもっと奮起せよ」
といったふうに嫌味を言った。
政則の嫌味はただの憂さ晴らしである。則宗もそれはわかっていて我慢した。他の赤松家臣も則宗に同情的であったし息子の則景も則宗を励ます。
そんな状態で戦い続けて文明十七年(一四八五)、播磨の蔭木で行われた合戦が起きた。
この合戦の先鋒を政則は則景に任せた。
「父の汚名をすすぐ機会をやろう」
政則の言い分はこうである。しかし則宗は反対した。
「拙者の手に入れた情報によると山名勢は主力を配備し万全の守りと聞きます。ならば私が先陣に赴いた方がよろしいかと」
則宗としては危険な戦いの先陣を息子に任せるのに抵抗があった。また敵の主力とぶつかるなら年季のある則宗が浦上の精兵を率いてぶつかるのが良いとも考えられる。
この則主の提案にうなずくものも何人かいた。しかし政則は則宗の意見を退ける。
「敵に万全の備えなどない。だからお主が出るまでもない」
「しかし…… 」
「お主の情報など当てにならん。息子可愛さに適当なことを言っているのだ。そうに決まっている」
あまりにもひどい言葉であった。今度ばかりは則宗は怒りを抑えられない。則宗は立ち上がり政則に食ってかかろうとした。その時
「先陣、ありがたく引き受けます」
則景がそう言った。政則は則宗を睨みつけて言う。
「それでこそわが家臣。頼むぞ」
政則はそう言うと去っていった。重臣たちもそれに続く。残されたのは浦上親子だけになった。
則宗は息子を問い詰める。
「何を考えているのだ。まさかおぬし拙者の情報を信頼していないのか」
そう言われて則景は首を振る。
「違いますよ。ですがああ言いだした以上政則さまは聞きますまい」
「そうだな…… 」
則宗はうなだれた。そんな父親に則景は微笑みかける。
「大丈夫です私は浦上則宗の息子。山名の者どもに後れはとりませぬ」
「そうか…… だが気を付けるのだぞ」
「はい」
こうしたやり取りがあった翌日。蔭木にて赤松山名の両家は合戦に及んだ。
山名家は則宗の情報の通り主力を配置して守りを固めた。そこに則景率いる先陣が突入し合戦が始まる。
「これはすさまじいな」
則宗が感嘆するほど山名勢の反撃は激しかった。山名家としては不利に傾いている現状を挽回したい気持ちがこの奮戦につながっている。赤松家は当然苦戦した。
「(則景は無事なのか)」
先陣としてこの敵陣に向かっていった息子を心配する則宗。しかし助けに向かえるほど状況は楽ではない。
そんな時前方から信じがたい声が聞こえた。
「浦上則景様、討ち死に! 」
その声が聞こえた瞬間則宗の動きは止まった。
「何、だと」
呆然とする則宗。だがそこに槍が突き出される。それを則宗の近くにいた五郎兵衛が払った。
「殿! しっかりなせい! 」
則宗は五郎兵衛の一声で正気を取り戻した。そして山名勢を睨みつけると槍を振るう。
「(信じんぞ。信じんぞ)」
そう心の中で叫びながら則宗は戦った。
戦いは一進一退の攻防の後、赤松家の勝利に終わった。この戦いで山名家は主力を失う大損害を受けている。赤松家もそれなりの損害を被ったが山名家ほどではない。しかしこのそれなりの中には則景の命もあった。
この戦果に政則は喜んだ。とは言え側近であった則景を失いさすがに笑顔が若干引きつっている。
「此度は皆よくやった」
今回ばかりは則宗への嫌味も出なかった。さすがに今回は則宗に気を遣ったのだろう。
則宗は戦勝の祝いの席にはいかず則景の弔いをした。
「済まん則景…… 」
浦上則宗人生一番の悔恨であった。やがて悔恨は怒りに変わる。
「(あの時殿が拙者の言を採り入れてくれればこうはならなかった)」
則宗はそんなことを考えるのであった。
この則景を失った戦いで、勢いは完全に赤松家有利に変わった。そしてその後も合戦を重ね長享二年(一四八八)に山名家は播磨から撤退。赤松家は播磨を奪還した。
「これも皆のおかげだ。特に則宗はよく働いた。見事だ」
このころになれば政則の怒りも解けていた。どうも則景の死が政則にも応えたらしい。
「ありがたき幸せです」
則宗は政則の言葉を笑って受けた。一見その姿からは政則への他意は無いように見える。しかしその眼は笑っていなかった。そしてすさまじい怒りを秘めている。だが、それに気づくものは誰もいなかった。
今回の話の中で政則は主君の座を一時追われました。こうした事件は赤松家に限ったことではなく戦国時代には割とありふれたことではあります。戦国時代の過酷さはこうしたところにも表れていますね。
さて浦上則宗の話は次回で終わる予定です。主君との関係が悪化し息子を失った則宗はどんな終わりを迎えるのか。お楽しみに。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡ください。では




