篠原長房 臣の務め 第十二章
起死回生の一手であった本圀寺への襲撃は失敗した。好機を逃した長房たちは一時体制を整えることにする。そうした中でも情勢は変わっていき、その中に再びの好機の糸口が見えてくる。
永禄十二年も終り年が明けた。永禄十三年(途中改元して元亀元年、一五七〇)この年の初めに三好家に事態を公転させる兆しが見え始める。織田信長が朝倉家への攻撃を企図しその軍勢に松永久秀などを動員することを発表したのだ。従って畿内は手薄になる。これはまたとない好機であった。
「すぐに畿内に入る準備を勧めましょう。ひとまず長逸殿か友通殿、もしくは康長様がまずは入られるべきかと」
「それならば拙者が向かおう。長逸殿は後続の本隊をまとめておいてくだされ」
「承知した。康長殿は私と共に畿内へ」
「ああ構わんよ。長房は例の件を進めておいてくれ」
「承知しました」
長房と康長、三好三人衆との会議はあわただしく終わった。幸い本圀寺の変での痛手も完全に癒えていたので出陣には問題はない。
長房は康長に言われた例の件を進めるために居城の上桜城に帰ろうとする。だがその前に勝瑞城で長治に今回の動きについて説明することにした。折よく長治は城にいたのですぐに面会する。
「此度の戦は大きいものとなるかもしれませぬ。ゆくゆくは長治様にも渡海していただき三好家の総大将として指揮していただくことにもなりましょう」
「そうか…… 」
長治の反応は鈍かった。なんだかやる気も感じられず覇気もない。少し前までは拙いなりにやる気に満ち溢れて活発であったのである。
「(いったいどうなされたのだ長治様は)」
疑問に思う長房に長治は言った。
「のう長房。これ以上公方様に逆らってもどうしようもないのではないか」
長房は唖然とした。まさかここで主君からこれまでのこともこれからのことも否定されるとは思っていなかったからである。唖然とする長房に長治はさらに続けた。
「先だっての戦も負けてしまった。そもそも義栄様ももういない。これ以上の戦ったところで何の意味もないのではないか? 」
そう淡々と告げる長治の声色に悲嘆や悲壮感はない。むしろ感じられるのはやる気のなさと投げやりな空気であった。ただめんどくさいからやめよう、と言っているようにと長房には見える。
この態度にはさすがに長房は怒った。
「馬鹿なことを言ってはいけませぬ。ここに至っては三好本家の方々と力を合わせて勝利しなければ家の行く末も危ういでしょう。今は戦い抜いて勝利を収めるしかないのです」
長房が先の理由が阿波三好家の行く末を心配してゆえのことならともかくただ無気力さゆえに出た言葉であったからだ。
しかし長治には届かなかったようである。長治は長房を言葉にめんどくさそうに聞いていた。これには長房もあきれるしかない。
「(いったい長治様はどうなされたのか)」
疑問と困惑が頭によぎる。だがそれを足しかめる術はない。長房にできるのはひとまずこの場を後にすることだけであった。
長治の下を辞し上桜城に戻った長房はある書状をしたためていた。それは本願寺の法主、顕如にあてた書状である。その内容は以下のようなものであった。
「先だっての淡路での戦の一向宗の御助力に感謝します。織田信長は将軍の威光を借りて各地の大名を己の下に置こうとしている。我らもその脅威にさらされています。そしてそれは大名だけでなく仏門も例外ではないようです。今の一向宗は武家に力を貸さぬ方針と聞いておりますが、ここは我らと力を合わせて仏敵である信長を打ち倒そうではありませんか。何分難しい問題なので熟慮されるでしょうから、ご返事はすぐでなくて構いません」
長房は織田家と本願寺の関係性の不穏さに目を付けて自分たちの味方に引き込もうと考えていた。事実信長は本願寺や一向宗に対して圧力を強めている。
書状を書き終えた長房は少し思案してから家臣を呼んだ。
「斎藤龍興殿にこの書状を渡してくれ。それから龍興殿からの添状のお願いも」
「承知しました」
斎藤龍興というのはかつて美濃を治めていた大名である。しかし信長に敗れて伊勢(現三重県)長島の一向宗に匿われていた時期があった。そのため本願寺ともつながりがあり、今回はその時のつながりを生かして手を貸してくれている。龍興自身信長への憎しみがあったので存分に働いてくれていた。長房としてはありがたい限りである。
書状を家臣に託し一息つく長房。だがその心は晴れない。
「(あの長治様のご様子。どうも気になるな)」
頭に思い浮かぶのは長治の無気力な様子である。畿内にいたころとは大分違う。義栄の葬儀の時もああではなかったのだ。
いろいろと理由を思案する長房。だが思い浮かばない。そんなとき部屋の外から家臣が声をかけてきた。
「赤沢宗伝様が参られました」
「そうか。通してくれ」
それからすぐに宗伝が姿を現した。何やら重苦しい雰囲気である。宗伝は長房の前に座ると重苦しく口を開いた。
「長治様にお会いになられたようで」
長房はうなずきつつ理解した。宗伝は長治がああなった理由を報せに来てくれたのである。そしてその理由が長房にとって面白くないことにも。
「長治様がああなられた理由、教えてくれるか」
「ああ。もちろんだ。長治様が覇気をなくされたのは自遁殿のせいだ」
宗伝は断定的に言った。長房にとってはある程度予見できたことではあるが正直信じたくない答えである。
「自遁殿は長治様に何をしたのだ」
「長治様は畿内から逃げ延びたことと義栄様をなくされたことに大分気落ちしていていまして。そこに自遁殿が気晴らしと称していろいろとよからぬ遊びを吹き込んでいましてな。今はそちらに熱中しているという事です」
長房は頭を抱えた。その時期の長房は畿内への再進出や本圀寺の変での痛手からの回復のためにいろいろと活動していたころである。その間は阿波三好家へのかかわりも薄くなっていた。その隙に長治を誑し込まれた、という事なのだろう。
「自遁殿は長治様をどうなされるつもりだ」
「おそらくは己の思うままに、という事だろう。無論拙者を含めてそんなことを許さぬものも大勢いる」
「そうか。ならば頼む。私は色々と働くことが多い。これも阿波三好家の為と信じているが、私の不足で家が揺らいではどうしようもない」
「あい分かった。任されよ」
宗伝は力強くうなずくと去っていった。長房はその後姿を頼もし気に見送りつつ、言い知れぬ不安を抱えるのであった。
阿波三好家内部に若干の不安を抱えつつも諸々の準備は整いつつあった。長逸は来るべき反攻作戦のためにまず岩成友通らを畿内に上陸させる。この動きが織田家や義昭に入ることは織り込み済みであった。どちらかと言えばこれに対しての反応を確かめるというのが主な目的である。そして友通らの上陸に対して織田家も幕府も無反応であった。いや、もしかすると何か動きがあったのかもしれないが目に見えるものではなかったのである。
「おそらく織田家は朝倉家との戦を優先するつもりなのだろう」
長逸はそう予測した。果たしてそれは正解であり信長は朝倉家との戦のために松永久秀や三好義継も動員している。つまり幕府の戦力も大分少ないわけだ。
「義継様と松永殿は義昭様の旗下でも特に大身。それを奪われては我らに抵抗できない。信長殿もそれは分かっているのでしょうが」
「おそらくは朝倉家を攻め滅ぼそうというのではなく痛手を与えようという事なのだろうな。その上で降るならば気にしないという事か」
「何にせよ義昭様だけでは我らと戦うことはできぬでしょう」
長房と長逸は織田家と幕府の動きをそう読み取った。これも正解であり三好本家にも阿波三好家にも好機が到来したという事である。そしてうれしい報せはまだあった。これを伝えたのは康長である。
「近江に潜んでいた六角殿から連絡がきた。近々ふたたび兵をあげるらしい。それに何か当てがあるようだ」
「当て? まあなんにせよ近江で六角家が再興すれば織田家と幕府の連絡も断てるか」
「池田家の方の調略も順調だ。近いうちに成果が出るだろう」
「それは良いことです。池田家が落ちれば畿内で我らも動きやすくなりましょう」
池田家は摂津の国人で伊丹家にならび摂津の義昭の有力な戦力の一つであった。しかし家中の統制に不安定な面があり、康長はそこをねらって調略を仕掛けていたのである。
こうして三好家は着々と反攻の準備を進めていた。そんな中で織田信長は元亀元年の四月に越前の朝倉義景の領地に攻め入った。ところがここで重いもよらぬ事態が起きる。なんと織田家の同盟国である浅井家が離反したのである。浅井家は近江の北部を支配する家で当主の長政は信長の妹を娶っていた。しかし朝倉家とも深いつながりがあり今回の朝倉攻めには賛成できずついに離反したのである。
この時六角家も挙兵した。これを知った長房は得心する。
「なるほど。当てとはこのことか」
六角家は浅井家が織田家と決裂することを何らかの方法で知っていたのであろう。ともかくこれで織田家は窮地に陥った。しかしその場は何とか切り抜け一月後に織田家は六角家を撃退。その翌月には同盟者の徳川家康の力を借りて浅井、朝倉連合軍との合戦に勝利した。しかし浅井家も朝倉家も六角家も健在であり織田家と幕府の連携は難しくなる。それはすなわち長房や長逸達が待ち続けていた好機であった。
近江で織田家が浅井家や朝倉家と戦っていた頃、畿内では大きな動きがあった。それは摂津の池田家が三好三人衆の軍門に加わったのである。正確に言えば池田家で内紛が起き、家臣の荒木村重が権力を掌握。そしてそのまま三好三人衆に降ったのだ。
村重は池田家の有力な家臣であり先だっての本圀寺の変でも活躍した男である。それが今度は三好家に味方したのだから随分な変わり身である。だがこの調略を主導した康長はそんなことは気にせず喜んだ。
「何にせよこれで畿内に浸出する準備が整った。あとは乗り込むだけだ」
もうすでに出陣の準備は整っている。長逸らは出陣の準備を整えていった。一方長房の動きは鈍い。これについて長房は長逸に素直に謝罪した。
「この好機に申し訳ない。実は家中に些か不穏な動きがある。兵は出すが私は阿波に残りたい。許してくれ」
そう言って頭を下げる長房に長逸はため息を吐いた。
「長治殿がごねているというのは本当か」
「申し訳ない。家中の大半は出陣に賛同してくれているのだが、長治様が承知してくれていなくてな」
「この好機に…… 長治殿は一応我らの総大将でもあるのだ。なんとか説き伏せておいてくれ」
「それはもちろん。それと本願寺への調略も続けよう」
「本願寺はまだ首を縦に振らんのか」
康長の言葉にうなずく長房。この段階で本願寺は三好家に味方する旨を公言していない。もっとも長房から見れば時間の問題ではあった。
「このところの織田家の動きは本願寺にとっても気に食わぬものらしい。あと一手うまく行けば必ずやこちらに味方する。そうなれば戦況も有利になって長治様を説き伏せる助けとなろう」
長治が動かないのは自遁の影響もあるが根本的にはまた負けるのを恐れているという事がある。実は少し前に長治は宗伝にこんなことを漏らしていた。
「長房は私を再び戦に送ろうとしている。正直私は不安だ。また負けて阿波に逃げるようなことがあるかもしれん」
「長治様。長房殿は必勝のために策を講じておられます。何も心配することはありませぬ」
「しかしなぁ。どうしても私が出ていかなくてはならぬのか」
そんなやり取りがあったのを長房は宗伝から聞いた。
「(本願寺が我らに加われば戦況は確実に我らに傾く。その上で勝利すれば長治様のお考えも変わるはずだ)」
長房はそう考えていた、というかそう信じるしかない。ともかくここが長房にとっての正念場でもある。
「私は必ずや長治様を連れて海を渡る。それまで待っていてくれ」
そう言って長房は再び頭を下げた。この姿に長逸達も納得するしかない。こうして長逸達は海を渡り長房はそれを見送った。
こうして三好家と織田家の戦いは新たな段階に移っていく。そしてそれは思いもがけぬ激流となり長房も周りの人々も否応なしに巻き込まれていくのである。
今回の話はいわば溜めの話で次からは一気に情勢が動き始めます。この先に起きることは後に織田信長最大の危機ともいわれる事態であり長房や三好家も大きく関わることになります。その中で長房はいったいどのような役割を果たすのか。お楽しみに。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では




