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戦国塵芥武将伝  作者: 高部和尚
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浦上則宗 成り上がり 第二話

 赤松家が再興し則宗も落ちぶれた身から浮き上がった。だが則宗と赤松家に時代の激動が襲い掛かる。その中で則宗はどう生きるのか。

赤松家が再興したころ当主の次郎法師はまだ三歳であった。当然政務ができるはずもない。そういうわけで成人するまでの間は後見役がつくことになった。その後見役に選ばれたのが石見太郎左衛門。そして則宗であった。

 則宗は自分が後見役に選ばれたことを素直に驚いた。太郎左衛門は赤松家再興活動の中心人物であったからわかる。しかし則宗はあくまで再興活動に参加していたにすぎない。

「何故拙者なのだ」

 その疑問に対して太郎左衛門はこう答えた。

「浦上殿は先だっての神璽奪還に功があります。それに加え浦上氏は赤松家の重臣。ゆえに適任かと」

 則宗が選ばれたのはそういう理由だった。なるほど筋の通った理由である。

 そう言うわけでならず者とそれほど変わらなかった則宗が次郎法師の後見をすることになった。もっとも則宗自身そこまで気負いはしていない。

「(まあ石見殿もいるからな)」

 公卿の家臣であったこともある太郎左衛門がいるのだから儀礼とか作法とかは任せればいい。自分はあくまでその補佐をしていればいいのだと則宗は考えていた。しかしそうも言っていられない事態が勃発する。

 則宗はその報告を京で聞いた。勿論、次郎法師も一緒である。

「石見殿が殺された!? 」

 その報告とは石見太郎左衛門が暗殺されたというものだった。

「へ、へい。信じられませんが確実な情報でして」

 報告をあげたのは五郎兵衛である。五郎兵衛をはじめとするならず者たちは皆則宗の家臣として召し抱えられていた。そして情報収集や雑務に励んでいる。

「詳しく話せ。それと言葉遣いを何とかしろ」

「ああ、すんません。ええと石見殿は備前から帰る途中に襲われたみたいです」

「誰がやったのだ」

「はっきりとしたことはわかりません。ですが噂じゃあ山名さまが仕向けたんじゃないかと言われています」

 ここで五郎兵衛が挙げた山名というのは山名宗全のことだった。宗全の山名家は有力な大名の一つで嘉吉の乱においても活躍した。そしてその褒美として領地を与えられている。うちの一つに赤松家の旧領で浦上氏が守護代を務めた備前もあった。

 赤松家は再興に際して加賀半国の守護職と備前の一部が与えられた。当然これが山名家には面白くない。

「そういう事か」

 今回の事件は山名家の赤松家への攻撃の一環であろう。則宗はそう受け止めた。

「(自分たちと敵対するならどうなるか。その見せしめか)」

 この山名家の行動に則宗は怒る。その感情が表情に出たのか則宗は鬼気迫る表情をしていた。付き合いの長い五郎兵衛も顔を青くするほどに。

 するとそこで次郎法師が口を開いた。

「則宗よ」

「なんでしょう」

「わたしはどうなるのだ? 」

 則宗が次郎法師に目をやると、次郎法師は顔を青くして震えていた。まだ幼い身なのだから当たり前である。それを見て則宗も冷静になった。

「(ともかく今は赤松家が力をつけることが必要だ。そのためには次郎法師様を支えねばならん)」

 そう割り切ると則宗は次郎法師を見た。

「これよりは私にお任せを」

 力強く言う則宗に次郎法師は笑った。あどけない幼い笑顔である。

「(何とかこの子供を一人前にせねばならん)」

 則宗はそう決意するのであった。


 こうして前途多難な船出をした赤松家。とりあえず則宗は主家を支えるために奔走する。

「まずは加賀のことだ」

 則宗は比較的信頼できる長禄の変の時に活躍した人物を招集する。そして奉行衆として編成し加賀に送ることにした。

 一方で則宗は次郎法師と共に京に残った。この時代の守護は基本的に在京しているものである。次郎法師もそれに習い則宗もそれを支えるために在京した。さらに則宗は主君の代行として幕府への奉公を積極的に努める。これは将軍から気に入られれば満祐のようなことをする必要もなくなるからだ。

 また幕府の有力者である細川勝元にも接近する。これは備前の領地のことで争う山名家への対抗のためであった。さらに赤松家の一族で義政の側近の僧、季瓊真蘂きけいしんずいとも交流を深めていく。真蘂は赤松家再興にも手を貸した人物であった。

 則宗はともかく思いつくあらゆる手段を使って赤松家の立場を安定させようとしていく。

 一方このころ政情は不安定で将軍も有力な守護と対立したり京の周辺で一揆が頻発したりした。

 則宗は一揆に対して赤松家の兵を率いて奮戦した。この奮戦は将軍足利義政にとって頼もしく映ったようである。

 寛正三年(一四六二)の一揆の時は赤松家の奮戦を称え義政から次郎法師に感状と太刀が与えられている。

 これには次郎法師も喜んだ。

「すべて則宗のおかげだ。ありがとう」

「いえ。全ては赤松家のためです」

 称賛された則宗はまんざらでもない気持ちになった。

 その後、寛正六年(一四六五)にも一揆がおきた。これも則宗率いる赤松軍が奮戦している。この奮戦も称賛された。

 この寛正六年に次郎法師は元服し政則と名乗るようになった。政則の「政」は義政からもらったものである。名を下されるということはそれだけ赤松家が信頼されているという事であった。

 この時も政則は喜び則宗を称賛する。

「則宗なしでは赤松家は成り立たぬ。全くありがたいことだ」

「何の。それほどのことではありませぬ」

 この賞賛を則宗は当然のものと受け止めた。

「(ここまで赤松家も殿も私が苦労して育て上げたのだ。当然のことだ)」

 このころになると幕府内でも赤松家の浦上則宗ありという風評になっていた。赤松家内でも則宗への信頼は強い。則宗は自信を深めるのも無理からぬことであった。

 しかしこのころになると政情の不安がいよいよ高まってきた。そして文政元年(一四六六)にある事件が起きる。

 その時則宗は京の屋敷にいた。そこに五郎兵衛が駆け込んでくる。

「大変です。殿」

「なんだ五郎兵衛」

「真蘂殿が謀反を疑われているようです。どうも山名殿が絡んでいるようで」

「なんだと! それで真蘂殿は? 」

「京から逃げ出すつもりのようで。我々はどうしますか? 」

 則宗は少し考え込んでから言った。

「何が起こるかわからん。我々も京を出る」

「わかりやした。私は残って情報収集します」

「頼む。それと、少し待て」

 そう言うと則宗は急いで書状をかき上げた。そしてそれを五郎兵衛に渡す。

「それを細川殿に届けてくれ」

「承知しました」

 そう言うと早いや五郎兵衛は駆け出していった。則宗も急いで政則に報告する。

「それでどうするのだ」

「とりあえず京より逃れましょう」

「わかった。則宗が言うのだからそれが一番いいのだろう」

 こうして赤松主従は京から逃げ延びるのであった。

 このとき起きた文正の政変は諸大名の将軍の側近への不満が爆発した結果であった。赤松家はいわばとばっちりを受けたに等しく情勢が落ち着くと京にもどることができた。

 この事件は将軍の権力を弱め大名たちの発言力をより強くした。さらに細川勝元と山名宗全の両派閥の対立も深くなる。そして日本全土を揺るがす巨大な戦いに流れ込んでいくのであった。

 

 文正の政変は有力大名同士の緊張をさらに高めた。文正二年(のちに応仁元年。一四六七)の一月には有力大名畠山家のお家騒動により京で合戦が起きている。この戦いで細川勝元の派閥の者が敗れた。

 ここに至り細川派は山名派との全面衝突を企図した。そしてその先制攻撃の一環として赤松家は播磨に侵攻することとなる。

 播磨は元々赤松家の領国であった。それが嘉吉の乱以来山名家の領国となっている。

今回の攻撃は細川派としての攻撃であると同時に、赤松家のかつての領国を取り戻す戦いでもあった。これに政則はがぜんやる気になる。

「今こそ我々の手で播磨を取り戻すのだ」

「もちろんです山名の者どもは追い出しましょう」

 則宗と政則は手早く軍勢を編成した。また播磨では山名家に反発し赤松家の再来を待ち望む勢力もいる。則宗はそうした勢力に働きかけるのも忘れなかった。

 こうした準備を終え赤松家の軍勢は播磨に攻め入った。さらに細川派のほかの大名もそれぞれ山名派の大名の領地に攻め入る。これが文正から改元して応仁元年五月のことである。これを機に細川山名両派は東軍と西軍に別れての全面戦争、応仁の乱が始まった。

 応仁の乱が始まると京の政則と則宗は京の各所で奮戦する。赤松家は細川派改め東軍の主力の一つでたびたび前線に出る。

 激戦の中で則宗は政則を守りながら戦った。

「殿! 前に出すぎです」

「そ、そうか」

「殿は拙者の後ろにいればいいのです」

「そうだな。則宗に任せた」

 このころ政則はまだ十代前半の少年なのだから本来戦えるはずもない。当然則宗が全ての指揮を引き受けることになる。

 こうした則宗の奮闘を周りの諸将は称えた。

「浦上殿は真に素晴らしい人物だ」

「その通りだ。幼い主君を盛り立ててよく戦っている」

「本当に素晴らしい」

 こうした賞賛に則宗は喜んだ。

「ほかの家の者たちも拙者を認めているのだな」

 かつては夜盗同然の身に落ちぶれてから則宗。しかし今では名だたる武将から称賛を集めるほどの存在になっていた。則宗はこれに気を良くしさらに奮戦する。

 だがそんな則宗の前に立ちはだかるものがいた。名を朝倉孝景という。

 孝景は越前守護の斯波氏の家臣であった。しかし斯波氏家中での影響力は強く主家の家督相続に強く干渉するほどである。さらに山名宗全とも親しく文正の政変にも一役買っていた。則宗や赤松家にとってはある意味仇敵ともいえる。

 孝景は山名派改め西軍の主力として奮戦した。東軍に将軍義政が加担し西軍に動揺が走っても自分一人で西軍を支え続けると豪語するほどである。

 則宗は孝景の主君の斯波義廉の屋敷を攻撃した時に孝景と交戦した。その戦いぶりは自分の力を誇示するような戦いで、不思議と則宗には好印象であった。

「(この男は主君を差し置いて己の力を見せつけている。拙者もこうありたいものだ)」

 則宗は孝景に共感した。そして自分もこうありたいと思うようになっていく。こうして則宗は野心を強めていく。

 さて則宗や孝景が奮戦する応仁の乱は時間が経つにつれさらに激化していく。両軍に参加する大名が増えてきたからだ。

 この終わりの見えない戦いを則宗は喜んだ。

「拙者の力を見せつけるのだ」

 則宗の目的は赤松家がどうとか東軍がどうとかではなく自身の力を見せつけることになっていく。そして幸か不幸かそれができる実力が則宗にはあった。

 自身の力を見せつけるために戦う則宗。だがそれは赤松家と東軍への貢献にもなる。そして皆はさらに則宗を称賛した。賞賛された則宗は自身を深めさらに奮戦する。

 戦いはまだ続く。京の町が火に焼かれても則宗は戦うのを止めなかった。


 京の町を舞台にした戦いは年号を変えても続いた。形勢は将軍足利義政を擁した東軍が若干有利という雰囲気である。しかし朝倉孝景などの奮戦で西軍の意気も軒昂であった。さらに西軍は義政の弟の義視を擁して対抗する。両軍の戦いは泥沼化しており着地点が見えなくなっていた。

 この状況を政則も不安に思い始めていた。

「これ以上の戦いに意味はあるのか」

 心配そうな政則の問いに則宗も言葉に詰まる。さすがの則宗も戦いが長期化した現状に不安を覚えていた。

 黙っている則宗に政則は続けていった。

「もはや我々の領地であった備前、美作(現岡山県)、播磨は取り戻した。もう戦う意味も無かろう」

 この時点で赤松家は旧領の回復に成功していた。そういう意味では赤松家が闘う理由は薄くなっている。その点については則宗も理解していた。しかし則宗は難しい顔をして言う。

「殿。今更戦いを止めるなどということはできませぬ」

「だが我々の目的は達せられているぞ」

「確かに旧領は回復しましたがいまだ山名勢は健在。ここで東軍や細川殿と疎遠になればせっかく取り返した地を失う事にもなりかねません」

 そう言われて政則は顔を青くした。政則はそこまで考えていない。

 則宗はため息をつく。

「(しかし殿の考えも道理ではあるな。早いうちに東軍の勝利を決めねば)」

そんなことを則宗は考えていた。すると合戦の開始から三年経った文明二年(一四七〇)に思いもよらぬ事案を担当することになった。それは朝倉孝景の調略である。

 実は朝倉氏に仕える魚住氏は赤松家に仕えていたことがあった。魚住氏は嘉吉の乱で赤松家が没落すると朝倉家に仕えるようになったという。

「これはいい手だ」

 この提案を則宗は喜んだ。孝景は西軍の中核でありそれを寝返らせれば戦況は東軍の有利に傾く。

 孝景への調略は戦いの間もないころから始まっていた。しかし交渉は難航し現状に至るという。交渉が難航しているのは孝景が提示している条件にあった。それは孝景が越前守護職を得るという事である。

 この条件をのむのはいささか難しかった。それは東軍に所属している斯波氏(孝景の主君)の立場をないがしろにする。ゆえになかなか飲めない条件であった。

 この状況に対し則宗は東軍首脳を説き伏せた。

「孝景殿は西軍随一の猛将。そんな孝景殿を迎え入れられれば東軍の勝利は目の前です。多少難しい要求でも受け入れるべきです」

 則宗は熱心に東軍首脳と義政を説得した。そして孝景の条件をのむことが決まる。

 文明三年(一四七一)に義政は朝倉孝景を越前守護にするという内容の書状を孝景に出した。これにより孝景は東軍に着く。東軍に着いた孝景は京を離れ越前に向かった。この報を聞いて則宗はほくそ笑む。

「これで東軍の勝利は決まったな」

 さらにこの調略の功績で政則は侍所所司となり則宗は所司代となった。これで政則は室町幕府の軍事のトップとなり則宗は二番手となった。

「(どうだここまで成り上がったぞ)」

 則宗の気分は最高に盛り上がった。しかしその翌年の文明四年(一四七二)に驚くべきことが起きた。なんと東軍西軍の和睦交渉が始まったのである。

 これに則宗と政則は反発した。則宗はこうまくしたてる。

「我々が制圧した播磨、備前、美作はいまだ山名との争いが続いております。それを終えずに和睦などありえましょうか」

 この則宗の意見が聞き入れられたどうかはわからない。しかし結局この和睦交渉は失敗した。

 しかし文明五年(一四七三)に東軍の総帥細川勝元と西軍の総帥山名宗全が死んだ。これを機に再び和平交渉が開始される。この時も則宗と政則は当然反発した。

 結局文明六年(一四七四)に細川・山名の両家のみで和睦がなされた。だが東西両軍は京でにらみ合いを続けている。もっともにらみ合っているだけで大規模な戦闘には発展しなかった。

 この状況に則宗もさすがに呆れた。

「なんという無駄な時間だ」

 この間則宗は政則と共に京周辺の治安維持に力を注いだ。一応侍所としての役目は果たそうという事である。

 こうして戦いはゆっくりと鎮静化していき文明九年(一四七七)に東西両軍の間で和睦が成立する。こうして応仁・文明の乱は終わった。

 戦いが終わってみれば赤松家は再興したといってもいい状態であった。領地は取り戻し幕府の内部での立場も上がっている。

「これも拙者の力だ」

 則宗がふとつぶやいたことを誰も咎めなかった。この時は皆則宗の尽力が功を奏したのだと考えている。それはある意味間違いではない。

 しかしこの則宗の自信が思わぬ混乱を引き起こすことになるとはだれも知らなかった。勿論則宗自身も。


 一話にして応仁・文明の乱が終わりました。重要なところなのですがあまりだらだら続けてもどうかということで一挙にまとめました。いかがでしたか?

 則宗の主君の赤松政則はこの話の時系列ではまだ幼い少年でした。このころには政則が政務を行っていた形式があります。もちろんこれは則宗をはじめとする家臣たちが実務を担っていたわけですが、実際浪人であった人々も多かったわけでいろいろ大変だったのではないでしょうか。いろいろな苦労がしのばれます。

 さてこの話で名をあげた則宗ですが同時に悪い意味での自信もつけてしまいました。そしてこの後則宗と政則の身にある重大な事態が起きます。お楽しみに。

 最後に誤字脱字等がありましたらご連絡ください。では

 

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