戦国塵芥武将伝 特別編その七
年末恒例の特別編。読まなくても大丈夫なような内容ですがご容赦を。
丸目長恵(1540~1629)
関わった出来事 大口城の戦い
来歴 天文9年(1540)に肥後国(現熊本県)で生まれる。肥後天草の天草伊豆守の下で2年間修業したのちに上洛。京で新陰流の上泉信綱の弟子になる。一度帰国したが再度上洛し信綱から免許皆伝を授かった。
帰国したのちは相良家の兵法指南役を務める。しかし大口城の戦いで敗北の原因を作り武将としての栄達を断念せざる負えなくる。そののちは九州一円の兵法家を破りタイ捨流を創設した。九州の多くの武将がタイ捨流の門下となり一大勢力となる。晩年は隠居地の開墾に従事しながら穏やかな日々を送った。寛永6年(1629)死去。
作者より 基本戦国武将や大名が多い中で初めてと言っていい剣豪の主人公です。そういうわけで今まで主人公にしてきた人々とは全く違う人生を記すことになりいろいろと新鮮でした。
関一政(1564~1625)
関わった出来事 小牧・長久手の戦い 九州征伐 小田原征伐 九戸政実の乱 関ヶ原の戦い 大阪の陣
来歴 伊勢(現三重県)の武将関盛信の次男。初めは比叡山に僧として入っていたが、兄の死を機に還俗する。父と共に織田信長、豊臣秀吉に仕え各地を転戦した。父が隠居すると家督を継ぎ蒲生氏郷の与力となる。氏郷の下で九戸政実の乱などで活躍し大封を得た。氏郷が死に蒲生家が転封されると豊臣家の直臣となる。
豊臣秀吉の死後起きた関ヶ原の戦いでは当初西軍につくも途中で東軍に寝返る。大阪の陣でも活躍するが晩年家中内紛のために改易された。子孫は旗本として残る。
作者より 戦国末期に駆け上がる様に出世して最後にはすべてをご破算にしてしまいました。戦国乱世が激動なのは言うまでもありませんが、江戸時代の初期も大名の改易などで別の激動があった時代ではあります。最後の最期で油断してしまったと言えばそれまでですが何とももったいない終わり方をしてしまったという感じです。
金森長近(1524~1608)
関わった出来事 堂洞合戦 長篠の戦 越前一向一揆 賤ケ岳の戦い 小牧・長久手の戦い 富山の役 関ヶ原の戦い
来歴 大永4年(1524)美濃(現岐阜県)大畑で生まれる。しかし父が美濃を離れ近江(現滋賀県)金森に移ったのでこれに従い10年を過ごした。そののち尾張(現愛知県)の織田信秀に仕え、そのまま息子の信長に仕える。堂洞合戦など美濃攻略に功があり赤母衣衆任命された。それから長篠の戦、越前一向一揆などで活躍し所領を得る。
信長の死後ははじめ柴田勝家に従うも途中で秀吉に仕える。秀吉の下でも功をあげて飛騨(現滋賀県)飛騨一国を与えられた。秀吉死後の関ヶ原の戦いでは徳川家康に従い旧領安堵と共に美濃に所領を加増された。晩年はここで過ごす。
千利休に師事し茶人としても著名であった。また晩年過ごした美濃小倉山城の城下は現存しておりうだつの上がる街並みとして有名である。
作者より 織田信長の配下は多士済々といった感じで知名度に関わらず有能な人々が多くいます。長近もまさしくその一人ですが、彼の場合は秀吉、家康の下でも活躍し領地を守り抜いた稀有な存在であります。地味ながらも顕実に成果を残していった姿には見習うべきものがたくさんありますね。
松井友閑(生没年不詳)
関わった出来事 永禄の変 有岡城の戦い 信貴山城の戦い
来歴 室町幕府に仕える松井家に生まれる。初めは将軍足利義輝に仕えていたが、永禄の変で義輝が死ぬと京を脱して尾張の織田信長に仕える。信長が上洛したのちは祐筆として活動しつつ京周辺の政務にも携わった。また堺の代官として豪商たちとの様々な交渉にもあたっている。さらに様々な武将へ投降の交渉なども行っていた。
信長が本能寺の変で死ぬと堺の豪商たちに状況を説明し共に事態の収拾にあたる。のちに秀吉が信長の事業を継ぐとそのまま堺の代官を任された。しかし突如として不正を理由に代官を罷免される。その後の消息は不明。
作者より 有力な大名家には必有能な吏僚がいるものです。友閑もその一人で信長の天下統一を陰ながら支えていました。同様の立場に村井貞勝がいますが彼とは別の方面の仕事を任されていたようでここにも織田家の人材の層の厚さがうかがえます。しかし最後は罷免されてしまうわけですがこの不正についてもはっきりしていないようです。
伊丹親興(生年不詳~1574)
関わった出来事 一庫城の戦い 江口の戦い 教興寺の戦い 本圀寺の変 野田・福島の戦い 白井河原の戦い
来歴 享禄4年(1531)従兄弟の伊丹国扶が戦死したことで家督を継いだ。摂津の有力な国人として細川家の下で活躍する。しかし細川家の家臣である三好家が台頭すると初めは対立していたがやがて傘下に入った。そして教興寺の戦いなどに参戦する
しばらくして三好家の内紛が始まると松永久秀に味方する。やがて織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると再興された幕府の支配下にはいる。以後は義昭と行動を共に義昭が信長と決裂した後も義昭に従った。しかし義昭が破れほかの味方も敗北すると孤立する。最後は荒木村重に攻められて敗死した。
作者より 戦国時代の国人の苦労や生き方をある意味で示しているような人生です。国人たちは命がけの損得勘定をして、それでも運が悪ければ滅亡してしまう。そうした人々でした。親興は幾度となく危機を迎えていますが何度も乗り越えていました。最後はしくじってしまいましたが当時の情勢を考えると無理もない判断です。ゆえに惜しい人生であったとも言えますが。
今年も最後の投稿となりました。振り返ってみれば年明けからいろいろなことがありすぎて何とも大変な一年であったと思います。特に政治は国内外問わず激動の時代を迎えました。もしかすると今が時代の変換点なのかとも感じます。ただまあ一人の人間としてできることなど限られますので、皆さまも各々の生活を第一に健やかに生きていければよいのかと思います。
さて例年通りこれが今年の最期の投稿となります。次の投稿は来年一月五日となりますのでお楽しみに。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。ではよいお年を。




