篠原長房 臣の務め 第四章
教興寺の戦いは三好方の大将で終った。長房は無事に主君実休の仇を討つことに成功する。だが長房はまだ知らない。この勝利が三好家最後の輝きであったという事に。
教興寺での戦いは三好家の大勝で終った。すると京を制圧していた六角義賢が長慶に和睦を持ち掛けてくる。畠山家が破れたことでもはや挟撃は不可能となった。これ以上の戦いは不利であると悟ったのである。
「六角家が動かなかったことが幸いとなったか。ともかくこれで三好家に匹敵する者はいないはず」
もはや畿内で三好家に匹敵する勢力はいない。まだ敵対している勢力はいるがそれらが手を組んでも問題なく対応できるくらい三好家の勢力は大きくなっているのだ。もはや三好家の天下と言って過言ではない状況である。
さて六角家の撤退を以て今回の戦は終わりとなった。そして戦後処理と新たな支配体制の一環として三好康長が高屋城に入ることになる。大敗を喫したとはいえ畠山高政はまだ健在であった。その警戒のためには信頼のできる有能な人物を高屋城に入れる必要がある。そこで選ばれたのが康長だった。
康長は三好家の重鎮である。特に阿波三好家では一門の代表として実休を支えていた。そんな康長が阿波からいなくなることについては長房も不安である。
「高屋城の重要性は理解しております。しかし康長様まで阿波から出ていかれるとは。いささか不安に思います」
長房は康長に素直に心情を吐露した。これに対して康長は豪快に笑い飛ばす。
「何を情けないことを言うのだ。千鶴丸はおぬしがいれば問題なかろう。阿波のことも讃岐のことも今はお前が差配すればいい。千鶴丸が大きくなればかつての実休の時のようにおぬしが支えればよい。そうすれば万事実休が生きていた時と同じようになるだろう。それでうまく行く」
「それはありがたき言葉にございます。しかし一門の方々が悉く阿波から出ていくのはやはり不安はあります。もちろん誠心誠意千鶴丸様を支えるつもりですが」
「そう考えているならなんも問題はなかろう。まあ敵らしい敵も今はいないのだ。しばらくは世が乱れるようなことはない。そう心配するな」
康長は気楽そうに言った。長房もその通りだと思うがなぜか心のうちに不安が残っている。もっともそれを顔に出すようなことはしなかった。
「(康長様の言う通り千鶴丸様を支え実休様がご存命の時の政道を行えばいい)」
そう考えた長房はそれ以上何も言わなかった。康長も長房が得心したと理解し満足げに微笑むのである。
だがこの後で三好家を揺るがすとんでもないことが起きてしまうのである。
阿波に帰国した長房は自遁や宗伝と共に幼い千鶴丸を支えていく。実休死後の混乱もなく阿波三好家は無事に代替わりを果たせそうであった。
時が流れて教興寺の戦いから一年と一月ほど経った頃、長房は三好義興が病に倒れたという話を聞く。これを聞いて長房の心中に不安が湧きあがった。その不安を長房は宗伝に吐露する。
「義興様はとても聡明なお方だ。それゆえにあのお方が亡くなられたら三好家の行く末は暗いものになるだろう」
この長房の不安が宗伝には不思議であった。
「どんな武士でも病に倒れることなどあろう。義興様はまだ若いのだ。すぐによくなられる。長房殿は心配しすぎだ」
「そうかもしれない。だが一存様のこともあったからな」
「それはそうだが。心配はいらぬだろう。どうしてもというのなら病気快癒の祈祷でもしてもらえばいい」
そう言ってそれ以上宗伝は長房の言葉に取り合わなかった。
だが義興が病に倒れてから二月後、長房の不安は的中してしまう。義興の病は治らずそのまま亡くなってしまったのだ。これは阿波三好家だけでなく三好家全体を揺るがす大事件であった。長房はすぐに自遁と宗伝を呼び話し合う。特に三人が気にしているのは長慶の後継ぎを誰にするかという事であった。長慶には男子が義興しかいなかったのである。こうなると長慶の血縁に近い人物が跡を継ぐという事だ。
この話し合いの初めに自遁は興奮気味に言った。
「血統で言えば我らの千鶴丸様が一番直系に近い。もしやすると千鶴丸様が後継ぎに選ばれるかもしれんぞ」
これに対して宗伝は不快な表情を浮かべる。
「本家の後継ぎが亡くなったというのに貴様大分喜ばしげだな」
「ふん。なんとでもいうがいい。だが儂の言っていることがあながち間違いではないというのは貴様も長房も分かっているだろう」
実際のところ自遁の言っていることはあり得る話であった。長慶の弟たちにはそれぞれ男子の後継ぎがいる。だがその中で唯一実休だけが後継ぎともう一人の男子、千松がいたのだ。つまり千鶴丸が本家を継いでも千松が継げば阿波三好家は存続する。血統的にも各家の状況においても一番あり得る話であった。
自遁からしてみれば自分の主君が本家を継げば自分も本家の重臣になれるかもしれないという野心がある。それゆえに興奮気味なのだ。無論宗伝はそんな自遁の考えなどお見通しなので怒っているのである。
この間長房は何も言わなかった。確かに後継ぎのことは気になるがそれ以上に気になるのは三好家の行く末である。
「(義興様は長慶様の跡を継ぐのに十分すぎるお方であった。ゆえにその代わりなど誰もいない。だれがなろうと三好家は確実に乱れる)」
長房としては本家あっての三好家である。本家が乱れれば阿波三好家もその余波が来るのであろうというのは予測できた。
「何事も起らなければいいのだが」
何気なしにつぶやく長房。そのつぶやきは幸か不幸か二人には聞こえなかったようである。しかしこの長房の願いもむなしく三好家は混沌に陥っていく。
義興の死から月日が流れて年が明けた永禄七年(一五六四)一月。長慶の後継者が決まった。選ばれたのは十河一存の息子の義継である。この決定に小さくない動揺が三好家家中に走った。
「義継様を後継ぎにすれば十河家は絶える。だというのに義継様を選ぶのか」
「どうせなら二人いる阿波三好家から後継ぎを取ればいいものを。長慶様はどうなされたのだ」
少なくない疑問の声が飛び交った。阿波三好家でもそうした疑問が浮上しないわけではなかったが、それ以上に別の問題に追われてしまっている。というのも実休次男の千松が十河家に養子に入り跡を継ぐことになったからだ。そのため長房をはじめとした阿波三好家重臣たちは十河家への根回しなど様々な作業に追われていたのである。
そんな中で長房の下に一通の書状が届いた。それは安宅冬康からの物である。
「兄上が義継を後継ぎにした件につき長房殿のご意見を聞きたい。正直わたしは疑問を感じるところではある。一存の妻は朝廷の重鎮である九条家の出でそれゆえに選ばれたようだが、逆にそのせいで家中に疑念が生じてしまっている。そのことを兄上に問いただそうとしても重臣たちはともかく兄上自身が取り合ってくれない。どうも私を疎んじているようだ。ここは阿波三好家の重臣で実休兄上の信も厚かった貴殿の意見を知り、できればともに兄上を問いただしたい。如何か」
この書状に目を通して長房は背筋が凍り付く思いであった。
「長慶様が冬康様を疎んじているというのか。そんなことでは三好家が一つになって動くことなど出来まい。どうにか私にできることはないか」
長房はとりあえず義継の家督継承に疑問はないが懸念がある、といった内容の書状をつづり冬康に送った。だがそれから具体的な行動にはつながらない。そして四月に入るととんでもないことが起きた。なんと長慶が冬康を呼び出し自害させたというのである。
「そ、そこまで長慶様は冬康様を疎んじておられたのか。いや、まさか長慶様は義興様を失い正気を失われたのではないか」
そんなことを考えてしまうのも無理もない所業である。実際冬康が自害させられたと聞いた三好家の家臣たちは皆一様に同じようなことを考えた。実際この時の長慶は相次ぐ弟の死と最愛の息子の死で精神が擦り切れてしまったようである。それが体調にも影響したのか冬康誅殺の四か月後に三好長慶はこの世を去った。
三好長慶は畿内に絶大な影響力を持つ人物である。その長慶の死が不測の事態を引き起こす可能性は大きかった。そのため三好長逸や松永久秀などの長慶のそばに仕えていた面々は一時長慶の死を秘匿することにする。幸い義継への代替わりは完了しており長慶が表舞台に姿を見せないで済む体制ではあった。
そういうわけで長慶の死は秘匿とされたがこれは三好家の内部でも同じことであった。阿波三好家にも長慶死去の情報は久秀や長逸達によって知らされなかったのである。つまり長房は長慶の死を知らなかった。
だが高屋城の康長は知っていた。康長が三好一族の中でも重鎮であり畿内の重要拠点を守る立ち居場であったから当然ともいえる。康長は長慶の死を知らされたとき久秀と長逸にこう言われた。
「長慶様の死については家中でもしばらくは秘しておいてくだされ。冬康様の件もありました。無用な混乱が起こりうるかも知れませぬ」
「阿波の方々には拙者が折を見て報せます。ですので康長様は知らぬふりをしておいてもらいたい」
この書状は別々に届いた。この時点で三好家内部での暗闘が始まっているのが見て取れる。康長もそれを当然感じ取った。その上でひそかに長房へ長慶が亡くなったことを伝えたのである。
長房への書状は厳重なものであった。康長からの使者から受け取った長房はその厳重さの意味を理解し秘かに自分の部屋で書状を読む。
「長慶様が亡くなられたのか。ああ、なんということだ。しかし我らに知らせぬとは…… それに松永殿と長逸殿とで別々に康長様に知らせたというのも気になるな」
久秀と長逸の行動から考えられるのは二点。一つは三好本家の諸々の阿波三好家を関わらせたくなかったという事、そして久秀と長逸が別の思惑を以て行動していたという事である。その点から察するに三好本家内部でなにがしかの抗争が起こりかけているか怒っているかのどちらかであった。
長房は考えた。この情報を阿波三好家で共有すべきなのかどうかという事である。康長が秘密の書状を長房だけに送ったのはその判断を長房に任せるという事ではあるだろう。
「下手に知らせれば康長殿の心遣いが無駄になるかもしれぬ。しかしこのまま秘してよいことではない。ならば」
深く考えたうえで長房は重臣たちにのみすべて話すことにした。なんにせよ今回の件で三好本家と阿波三好家の関係が悪化することも考えられる。ならば阿波三好家だけでも一丸とならねばならなかった。
長房は重臣のうちまず赤沢宗伝にすべてを話した。むろん宗伝は驚嘆する。
「長慶様が亡くなられたとは…… しかしそれを我等阿波の者たちに伝えぬのは何という不義利だ。信じられん」
驚きが収まると宗伝は怒り心頭の表情になった。確かに宗伝の言っている通りで本家の当主の死を分家、しかも当主の弟の家に伝えないというのは怒りを買っても仕方のないことである。今後の三好本家と阿波三好家の連携にも差しさわりが生じかねない事態であった。しかし長房はそうした危惧を生じさせてまでこんなことをやった三好本家の重臣たちの思惑が何となく理解できる気がする。
「おそらく本家の重臣の方々は先ず長慶様の死を家のものにも秘するという事は一致していたのでしょう。その上で松永殿も長逸殿も折を見て秘かに我らにも知らせようと考えた。そうして相手を出し抜き我らを味方につけようとお考えなのだ」
「なるほど。と、なれば本家の内内では諍いが起きているとみていいか」
「左様ですね。しかしこうなっては我らも我らなりの道を行かなければなりませぬな」
長房の言葉に宗伝はうなずいた。そして翌日になると自遁を含む重臣たちを集めて長慶の死を告げる。皆動揺する以上に長慶の死を隠していたことに怒っていた。
「このような大事を秘すとは。本家の者どもは何を考えておるのだ」
怒り心頭の自遁の言葉にうなずく重臣たち。その上で自遁は長房に疑惑の目を向けた。
「長房。貴様はいつこのことを知ったのだ。そもそもなぜ知れたのだ。まさか本家の者どもに通じているのではないな? 」
「私も知ったのは数日前です。康長様とは以前よりいろいろと情報を交換していました。その伝手があったからまず私にという事だったようです。ともかく康長様は我らを蔑ろにしようとは考えておりませぬようです」
この長房の言葉に自遁以外の重臣たちは納得したようだった。自遁はそうではなかったが、自分が多勢ではないことを悟って黙る。
自遁が黙ったのを確認すると宗伝は長房に尋ねた。
「これよりどうしますか? 殿にも伝えるべきかと思いますが」
「それについては私と自遁殿、宗伝殿で伝えましょう。殿の周りの信のおける者にも。ほかの方々は日ごろのように常に戦に備えて己が家をよく律しておいてください」
「ふん。それで構わん。皆もそれでよいな」
これには自遁も納得したようだった。重臣たちも理解して各々の持ち場に戻る。
その後長房たち三人は千鶴丸に今回の件を報告、他周りに仕える者たちにも話したうえで長慶の死に関することは秘する様にと厳命した。
そうした処理が終わり長房は一人考えた。
「おそらく畿内は乱れる。その時我等阿波の衆の力が必要とされるだろう。だが利用されてはならない。そのためにすべきことは…… 」
長房は一人阿波三好家の未来を考える。それこそが実休亡き後の阿波三好家を支える臣としての務めであるからだ。
三好長慶の周囲の人間を何度か主人公に取り上げたことがあります。そうなると長慶晩年の悲惨な姿も記さなければならないという事で、今回は特に三好家の深いところにかかわる長房が主人公という事でいつもより細かく描写しています。しかし父の仇と討ち天下人と称されてもおかしくない立場に至った長慶があのような最期を迎えることにいつもいつも無常さを感じずにはいれらません。この悲劇は戦国時代ゆえという事でもなさそうなのがますます悲壮さをあおりますね。
さて長慶が死に三好家の当主は義継となりました。次の章はこの義継の起こした大事件が中心となります。お楽しみに。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では




