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戦国塵芥武将伝  作者: 高部和尚
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伊丹親興 暗中模索 第八章

 三好三人衆の攻勢をなんとかしのいだ親興たち。しかし信長に敵対する勢力の蠢動は止まずむしろ激化していく。そんな中で義昭や従う者たちの中には疑心が生まれつつあった。やがてその中で親興は大きな決断をする。その果てにあるものは。

三好三人衆との和睦が成立し畿内は一時平穏を得た。しかし近江では信長と浅井家や六角家の残党との戦いが継続している。この状況下で親興の心境に不安が芽生え始めた。

「今の幕府だけの力では三好三人衆にはかなわない。だが近江で戦いが続いているとなれば信長殿もそう簡単には上洛できないだろう。このままでいいものか」

 こうした懸念は幕府に従う多くの武将たちが感じていることである。とはいえ義昭の信長への信頼は強く両者の関係はうまく行っている。だからおいそれ三好三人衆など信長と敵対する勢力の和睦だとか同盟だとかは進言できるものではない。そもそも親興はそういう立場ではないのである。

「今は義昭様に従う皆で力を合わせていくしかないか」

 そんなことを考えていた親興であるが元亀二年(一五七一)の八月衝撃的な事件が起きる。松永久秀と三好義継が畠山家の交野城を攻撃したのだ。これを聞いて親興は絶句した。それも当然で両者はともに幕臣として幕府を支える立場の大名である。戦うはずがない両者なのだ。それに久秀と畠山高政は義輝死後も義昭を擁立するために共に戦い続けた仲でもあるそれが突如として交戦するというのはとても理解できないことであった。

「そう言えば最近義昭様が久秀殿を冷遇していると聞いている。まさかそれが原因なのか」

 親興は思い当たることがあった。義昭は自身の養女を筒井順慶に嫁がせている。この順慶は大和で長く久秀と戦い続けた仇敵であった。そんな人物に養女を嫁がせ味方に引き込もうというのは久秀を無視した行為である。だがこのところ義昭が久秀を冷遇していたというのが事実であれば、これは完全に久秀を切り離すための行為と言えた。

「このような事態に幕府の内側で争ってどうするのだ。こんな事態になったら私にも難事が降りかかりそうであるが」

 頭を抱える親興。だが確かにこの後にさらに事態を深刻化させる難事が起きるのである。


 義昭から離反した義継と久秀は三好三人衆との和睦を選んだ。もっともこの時すでに三好長逸は重病で病に倒れている。動ける三好三人衆もはや岩成友通だけであった。三好家勢力の主導権は阿波三好家の重臣篠原長房が握っていて実質的には長房と和睦したようなものである。

 さて信長が近江の情勢への対応に忙殺されている上に久秀と義継が離反した今、義昭の味方の戦力は相当限られていた。その中で特に信頼されていたのは細川藤孝と和田惟政である。二人は義昭が奈良から脱出したころからの重臣であった。藤孝は山城の勝竜寺城主、惟政は摂津の高槻城主である。それぞれ義昭にとっては両地域の要でもある。それを翻せば彼らのうちどちらかが失われれば義昭にとっては大打撃であった。

 この時惟政は義昭の命で交野城への救援に向かっている。しかしこれに立ちふさがった者がいた。荒木村重である。村重は惟政が交野城への救援に向かうのを知り摂津の白井河原で待ち受けていたのだ。

 惟政の軍勢を待ち受ける村重の軍勢は倍以上の数であった。とてもではないが勝てる数ではない。この状況下で惟政と共に出陣していた国人の茨城城主、茨木重朝は惟政にこう進言した。

「このような多勢には勝てるはずがない。良い大将とは可、不可を見極めて進退を決めるものだ。ここは一度退くべきです」

 尤もな物言いであるが惟政はこれを退けた。

「確かに不利であるがここを越えて畠山殿を助けられなければますます三好方は勢いづく。それだけは避けねばならぬ」

 義昭を支え続けたものの危惧か意地かはわからないが惟政の意思は固かった。だが重朝もなかなか引かず惟政たちは進むことも退くこともできない。これを見逃す荒木村重ではなかった。村重は惟政たちに先制して攻めかかり戦いが始まったのである。もっとも多勢に無勢決着はすぐについた。惟政も重朝も討ち取られて軍勢は壊滅状態に陥ったのである。従軍していた惟政の息子の惟長は何とか生き残り居城の高槻城に逃げ込む。しかし追撃してきた荒木軍の攻撃を受けて落城こそしなかったものの城下町は焼き払われた。

 惟政戦死の報を聞いて親興はすぐに城の防御を固めた。幸いすぐに伊丹城が攻撃されるような事態にはならずに済む。しかしこの敗戦で和田家の勢力は大きく減退し逆に村重の勢力が大きくなった。親興は摂津でほとんど孤立したような状態になってしまったのである。

「こ、こうなった以上はとるべき道は一つしかない。攻められる前に三好家につなぎを付けなければ」

 親興は急いで三好家との交渉を行おうとした。しかし義昭に隠れてのことなのでなかなか進展しない。

「こうなれば義昭様に攻められるのを覚悟して表立って動くべきか」

 そう考えた親興であるが、ここで思わぬ形で事態が好転する。


 親興は表立って三好家との交渉を開始した。これに対して義昭は何の対応もしない。

「信長殿があの状態では義昭様も迂闊には動けぬという事か」

 そう考える親興であったが事実は違った。実はこの時義昭は信長を見限りつつあったのである。というのも信長は現状近江での戦いで苦戦していた。また義昭に対してその行状を批判する書状を送っていたのである。これが義昭を怒らせた。

「幕府再興の功を認め重んじていたというのに。もはや信長は信頼できん」

 怒った義昭はひそかに信長との断交を決意。秘密裏に三好義継や松永久秀との同盟を模索していたのである。それはある意味で親興と同じ動きであった。もっともこちらも秘密裏に行われていたので親興も知らなかったのである。

 さて信長との断交を決意した義昭が期待していたのは、甲斐(現山梨県)を中心に数か国を治める大大名武田信玄の上洛であった。信玄の軍事力は相当のもので織田家に取っては相当の脅威である。信長も武田家を脅威に感じ少し前までは同盟関係であったがそれも破綻してしまっていた。

 もし武田信玄が信長と敵対すれば浅井家や朝倉家、三好松永と組んで信長を包囲することが出来る。義昭が期待するのも無理のない話であった。

 最もそんなことを親興は露とも知らない。生き残るために最善であろう三好家への降伏を達成するのがすべてであった。

「久秀殿から連絡があった。義継殿に取り次いでもらえるらしい。これでひとまず安心だ」

 胸をなでおろす親興。ともかくこれで命拾いできそうだった。この時は。

 

 元亀四年(一五七三)三月、足利義昭は織田信長と断交し挙兵する。そして三好義継と松永久秀の両者と和睦を行った。また畠山高政と秋高の兄妹も義継、久秀と和睦している。結果的に畿内の勢力は一つにまとまったと言えた。

「皮肉だな。幕府をよみがえらせた信長殿との手切れが結果的に畿内の諸将を一つにしたのだ。しかし私の選択もそれほど間違っていなかったようだな」

 先年にはいよいよ武田信玄が織田家と断交し、織田家の同盟者である徳川家の領地に侵攻している。十二月に起きた武田家と徳川、織田家連合軍との戦いでは武田家が大勝したようだった。こうした動きも義昭に思い切った決断をさせる後押しとなったのだろう。

「信長殿は周囲を完全に囲まれている。風前の灯だ。しかし織田家が滅んだあとは武田家が義昭様を支えるという事なのだろうか。いったいどうなることか」

 親興はそんなことを考えていた。思い浮かぶのは新体制での伊丹家の立場である。今のような守護職は望めないかもしれないが家名と領地の保証ぐらいは問題ないだろう。そんなことを考えていた。

 だがここで予期せぬ事態が二つ起きた。一つは荒木村重が主君の池田知正を追放したのである。知正は勝正が追放された後で擁立された主君であるが、今度はこの知正を追放した。しかもその追放後に村重は信長に味方するのを表明したのである。これには親興も驚くばかりであった。

「今畿内に信長殿の味方はほとんどいない。村重は何を考えているのだ」

 驚く親興だがさらに信じられない情報が入った。なんと高槻城の和田惟長が家臣の高山友照、右近の親子に殺害されたのだという。そもそもこの時惟長は高山親子を疎んじ暗殺しようとしたがこれが察知され返り討ちにあったとのことである。そして高山親子はそのまま和田家の領地と城を乗っ取りそのまま村重の傘下に入ったというのだ。これで摂津の大部分は村重の支配下にはいったといえる。

 翌月信長は義昭を攻めるために岐阜から出陣した。これを村重が迎え入れたがこの時細川藤孝も同道していた。義昭を放浪期から支えていた家臣が裏切ったのである。この思わぬ裏切りと信長の迅速な行動の前に義昭の挙兵はあっさりと鎮圧された。尚この時親興は知る由もないが武田信玄は病に倒れてこの世を去っている。義昭に味方する勢力の大半が当てにしていた武田家の上洛が潰えたのと同義であった。

 この目まぐるしく変わる事態の前に親興は絶句するしかない。

「まだ信長殿に敵対する諸将は多い。まだこれからのはずだ」

 そう言って自分を奮い立たせるが言い知れぬ不安を感じる親興であった。そして実際親興の不安は的中する。


 義昭は一度信長に降伏したものの三か月後に再度挙兵した。これに三好三人衆の一人の岩成友通も呼応して義昭は槙島城に、友通は淀城に立てこもる。だがこれらもすぐに鎮圧されてしまう。義昭は逃れたが友通は戦死している。この時三好三人衆の筆頭である三好長逸はこの世には居らず友通が三人衆最後の一人であった。かつては畿内に覇を唱えかけた三好三人衆であったが最後は織田信長という新しい時代に敗北したという事である。

 槙島城から逃れた義昭が頼ったのは三好義継であった。義継は義昭が将軍になったすぐ後に義昭の妹を娶っている。つまり義継は義昭の兄の仇でありながら義弟でもあるという複雑な関係であった。ともかく義昭としては頼れるのが義継しかいなかったのである。だがこの時義継も苦境に陥っていた。

「義昭様。阿波の長治は援軍を出さぬと言っております」

「な、なんだと。私は阿波の者たちとも和睦したのだ。この際過去の遺恨は忘れてともに戦うと言っていたではないか」

「そう言っていた篠原が討たれてしまった以上はもはやどうすることもできませぬ」

 実は義昭が挙兵した頃に篠原長房が阿波三好家当主の三好長治に討たれてしまったのである。長房は義輝亡き後の戦いで阿波三好家の代表として戦ってきた。しかしそれを当主の長治に疎まれて討たれてしまったのである。またこの時期畠山秋高も家臣に討たれ兄の高政も紀伊に逃れていて畠山家の動きも期待できる状態ではなかった。朝倉家と浅井家も織田家に滅ぼされてしまっている。

「もはや我らの味方は松永ぐらいしかおりませぬ」

「馬鹿を言うな。まだ毛利や上杉がいる。あの者たちに信長を攻めさせれば勝機はあろう」

 義昭柏言っているがこの段階で両家とも織田家と同盟を結んでいる。落ち目の将軍に力を貸すかと言えば難しい話であった。

「もはやこれまで。こうなれば三好家の名に恥じぬ戦ぶりを見せるしかない」

 義継は義昭を退去させて若江城で織田家の軍勢を迎え撃った。しかし内応する家臣が出る有様であっという間に城は攻め落とされてしまう。しかし義継が最後まで戦い抜きすさまじい討ち死にを遂げた。

 松永久秀は義継の戦死を見届けると織田家に降伏する。信長は久秀を許して降伏を受け入れた。

 こうして半年ほどで事態は一変し畿内の大半は織田家の勢力下に入る。敵対しているのはもはや親興ぐらいしかいない。

「どうにかせねば。どうにかせねば」

 焦る親興であるがもはやどうしようもない状況である。もはや終焉の時は目前に迫っていた。


 足利義昭が追放されたとき改元が行われた。これにより元亀四年から天正元年に代わる。畿内の支配者が織田信長に変わった画期の年であった。

 天正元年の終わりに松永久秀が降伏したことで信長は畿内の対処から離れた。というのも武田信玄亡き後の武田家が動きを見せ始めていたからである。そのため畿内の問題の対処は各武将にゆだねられた。つまり摂津のことは荒木村重にゆだねられたという事である。

 この状態は親興にとって最悪の状況であった。村重は摂津を支配下に置く気満々であり親興の降伏など受け入れる様子はない。親興がこれまで交渉の窓口になってもらっていた松永久秀も織田家の中では大和の一武将に過ぎない。もはや親興に残された選択肢は戦いしかなかった。

「もはや我らに残された道は戦い抜くことしかない。戦い抜いて活路を切り開くしかないのだ」

 悲壮感漂う表情で親興は言った。幸いと言っていいかわからないが家臣たちも親興の意をくんで最後まで戦い抜くつもりのようである。

 親興はふと、今までの人生を思い返して呟いた。

「私はどこで間違えたのか。少し前までは我が家も安泰であったはずなのに」

 後世の視点で考えれば信長ではなく義昭を選んだことが間違えだったようにも見える。しかしあの時の信長は確かに絶望的な状況であり、当時の人間からしてみればなすすべもなく滅びるであろうと思われたのだ。だからあの時の親興の判断が間違っていいたともいえない。しかしこうして親興が、伊丹家が滅亡に瀕しているのは事実である。

「もはや考えてもどうしようもないことだ」

 親興はもはや考えるのをやめた。

 天正二年(一五七四)十一月、伊丹城は荒木村重の軍勢の攻撃を受けて落城した。親興は落城の際に自害している。村重は伊丹城に移り大改修の末に有岡城という名に変えた。

 親興の子は難を逃れて後にいくつかの大名家の家臣になって一応家名は存続させた。しかし摂津に戻ることはなかったようである。


 義昭が信長と敵対してから親興が破れるくらいまでの時期は次代の大きな転換点と言えます。それまでは幕府を温存しつつ支配体制を模索していく勢力がほとんどでしたが、信長は義昭を追放し幕府を事実上滅亡に追い込みました。そこから新たな体制が作りあげられていきやがては江戸幕府の開府に至ります。親興は室町幕府をめぐる抗争の中で生きてきた武将です。そんな親興の死はある意味で一つの時代の終焉の象徴とも言えるのではないかと思います。

 さて次の主人公は今回の話にも何度も登場したある三好家家臣です。いったい誰なのか。お楽しみに。

 最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では

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