伊丹親興 暗中模索 第六章
将軍足利義輝の暗殺をきっかけに始まった三好家の内紛。松永久秀と三好三人衆の争いは久秀が消息を絶ち三人衆の勝利に終わったかに見えた。だが事態を一変させるある出来事が起き、親興もそれへの対応を求められる。
親興が降伏してから月日が経ち年も明けた永禄十年(一五六七)の正月、足利義栄が朝廷より将軍宣下を受けた。これにより義栄が新たな将軍となる。そしてそれと時を同じくして親興を驚かせる報せが届いた。
「久秀殿が姿を現しただと!? 」
なんと行方をくらませていた松永久秀が大和の信貴山城に入城したという。そして変わらず三好三人衆との敵対の姿勢を見せる。とはいえ親興を含む摂津の国人たちは三人衆に降伏しているし畠山高政も三人衆と和睦していた。つまり久秀は孤立した状態にある。
「義昭様の上洛の準備が整ったという事か? だが義栄様が将軍宣下を受けた以上はどうしようもないのではないか」
この親興の疑問はもっともなことで誰もがそう思ったことである。この段階では久秀の行動は無謀なものにしか見えない。ところが久秀は思いもよらぬ勝ち筋を手に入れていた。久秀が信貴山城に復帰してから数か月後、なんと三好義継が久秀の下に逃れてきたのである。その上で三好三人衆を公然と批判し敵対する姿勢を見せた。
「なんとまぁ。義継様が不満を抱いているという話は聞いていたが。だがこれでこの後どうなるのか」
この後も松永久秀と三好三人衆の戦いは続くが、三好家当主を擁したことにより久秀の劣勢も次第に覆されていく。しかし兵力差もあり戦況は膠着状態に陥っている。だがこの時久秀はもう一つの勝利への道筋を用意していた。そしてそれは親興を含む多くの人々の運命を変えていくことになる。
義栄が将軍に就任したとはいえ情勢は不安定である。そのためか三好三人衆は義栄を京に入れるのを不安に思い摂津の城に入れて手元に置く。義栄は不満であったようだが仕方なく受け入れた。そして三好三人衆は一気に決着を付けるべく大和に侵攻する。
久秀と義継はこれを迎え撃ち激しい戦いとなった。結果東大寺の大仏殿が焼け落ちるほどの戦いとなり、最終的には久秀と義継が勝利する。とはいえ三好三人衆方は摂津、河内などは確保していたので膠着状態は変わらない。
こうした情勢を親興は注意深く見つめていた。
「久秀殿は息を吹き返したようだがまだまだ戦力差はある。四国の軍勢もいるから厳しい戦いなのは変わらないだろう。だがあの御仁のことだ。何か手を考えているはず、しかしそれがあてになるかどうか」
親興の思い浮かぶ久秀のあては義昭の上洛である。だが問題はそれがどのようになされるかであった。今義昭は越前(現福井県)にいるらしいという風聞を聞いているがそれが真実かはわからない。なんにせよ京やその周辺が義昭の敵だらけで上洛するには相当の軍事力が必要である。久秀が味方するにしても四国の勢力も含む三好家と戦って勝てるだけの戦力が必要であった。
「越前の朝倉殿は相当な大家らしい。しかし三好家に敵うかどうかは分からないなぁ」
親興は心情としては久秀に味方したい気持ちである。しかし降伏して勢力も保てた現状を捨ててまですぐに味方になろうとも思えなかった。
ともかく親興は情勢を眺めながら煩悶する。しかしどこかで決断しなければ伊丹家に致命傷になりかねない。悩みぬく親興であった。
戦いが続く中で年も明けて永禄十一年(一五六八)松永久秀、三好義継方と三好三人衆方の戦いは相変わらず膠着状態である。そんな折に足利義昭が上洛するという情報が親興の耳に入った。義昭の家臣がひそかにやってきて直接伝えたのである。
「義昭様が上洛するのか。それでいったいどこの誰の手を借りるのだ」
親興の疑問に義昭の家臣はこう答えた。
「尾張(現愛知県)美濃(現岐阜県)を治める織田信長殿にございます」
「織田信長? 知らぬ名ですが」
「信長殿は幕府への忠誠も強く義輝様に拝謁されたこともある御仁です。此度の義昭様の苦境を知って手を差し伸べられたのです」
「そうですか…… 」
「信長殿は松永久秀殿とも誼をつないでおります。伊丹殿もよきご判断をされるように」
そう言って義昭の家臣は去っていった。残された親興の頭には疑問しかない。
「久秀殿と誼を通じている御仁らしいが。果たして義昭様を上洛させることが出来るのか」
この疑問は親興だけでなく畿内の大半の武将も同様の考えのようであった。とりあえず三好三人衆も義昭が念願の上洛を手伝わせた相手であるから一応の警戒はする。
「それなりのものであろうが我等にはかなうまい。しかし念のために六角殿と手は結んでおくか」
信長の領国から上洛するには近江を通らなければならない。この近江の北半国の浅井家は織田家と婚姻を結んでいる。しかし南半国の六角家は織田家を警戒していた。そこで手を組んだのであった。
こうして義昭の上洛とそれを阻止する体制は整った。そしてこの上洛が天下を一変させることになる。
永禄十一年九月七日。織田信長は上洛のために出陣した。そして六角家を破り同月二十六日には京の東寺に入っている。同じころ義昭も清水寺に入ったので無事に義昭の上洛は成し遂げられた。
この展開に親興は大いに焦った。六角家がこんなに早く敗れるとは思っていなかったのである。もっともそれは親興に限ったことではなく誰もがそうだった。六角家と言えば少し前までは三好家とも戦えるような実力者であり、最近は衰えたとも言われていたがそれでも勢力は健在だと思われていたのである。それがこうもあっさりと敗れてしまうとはだれも想定していない事態であった。
「信じられん。しかし久秀殿はこれを予測していたのか。なんと目端の利く御仁だ」
久秀の慧眼に驚きつつもあきれる親興。なんにせよ織田家の軍勢はほぼ無傷でやってきたのだ。少なくとも京は確保されるだろうし、この先の動きによっては畿内の勢力も完全に塗り替わるかもしれない。おそらくは義昭を京に入れて幕府の再興を行うだろう。そうなれば幕府の威光もある程度よみがえるはずであった。そうなると親興のやるべきことは一つである。
「何とか織田信長殿とつなぎを付けなければ。攻め込まれてから降伏するのではいささか覚えが悪いはず。なんとか先んじて動かなければ」
親興は急いで久秀に使者を送った。そして久秀経由で信長に降伏し酔おうとしていたのである。なんとか信長が摂津に進軍してくる前に降伏しておきたかった。
だがここで信長は親興に思いもよらぬ動きをした。信長は京にはいらずそのまま山城の勝竜寺城に向かったのである。ここを守るのは三好三人衆の一人の岩成友通。激しい戦いが予想されたが勝竜寺城はあっさりと落城し友通は逃走した。これが二十九日のことである。信長はどうやらこのまま摂津に向かうようだった。
「これはいかん。なんとか信長殿に降伏しなければ」
焦る親興。信長の軍勢は目の前に迫ってきている。
岩成友通の敗北は一つの契機となった。友通含む三好三人衆と篠原長房は織田家の戦力を改めて認識したのである。
「織田家は強い。松永や義継様も敵に回っている今では勝ち目はない」
そう判断した三好長逸は三好政勝や友通、篠原長房と相談し畿内からの撤退を決断した。そうなると動きは早く勝竜寺城落城の翌日に長逸は芥川山城を放棄して撤退した。芥川山城は畿内における三好家の本拠地であった。これを放棄するという事はある意味で三好長慶の作り上げた体制の崩壊ともいえる。ともかくこの後三好三人衆は順次撤退していった。
またこの時足利義栄も病没している。義栄は少し前まで摂津に滞在していたが病になり阿波で療養していた。しかし回復せずそのまま亡くなったという。思わぬ形で担ぎ上げられ将軍になった。しかし一度も京には入れず三好家の内部抗争に巻き込まれて最後は寂しく病没する。あまりにも周囲に振り回され続けた人生であった。
さて勝竜寺城を攻め落とした織田信長はそのまま長逸の放棄した芥川山城に入った。これで完全に三好三人衆の機内での体制は崩壊したといえる。そしてその支配下にいた摂津の国人たちは次々と信長への降伏を表明した。親興もその一人である。幸いすんでのところで久秀と連絡が取れ信長への取次もうまく行ったようだ。
「これでとりあえず安心か」
ひとまず安心する親興だがここで思いもよらぬ情報が入った。摂津の国人である池田勝正が信長に抵抗する姿勢を見せたのである。驚く親興であるが同時に納得してしまう理由もあった。
「確か勝正殿の母親は政長殿の娘で勝正殿の姉妹。そのつながりゆえにこのようなことをしてしまったのか」
つまりは三好三人衆の一人、三好政勝の甥という事である。叔父はすでに畿内から出て阿波に逃れたのにまだ戦うつもりのようだった。
「勝正殿も律儀なことだ。しかし周りに味方もいなこの状態で戦えると思っているのか」
実際十月二日に信長は軍勢を引き連れて勝正の籠る池田城を攻撃。勝正は一日で降伏した。城下町も焼き払われたので完全に無駄骨である。
「素直に降伏していればよかったものを。だが三好三人衆の縁者である自分が許されるはずもないと考えたのか? 」
そう考える親興であるが答えが出るはずもない。ともかく勝正とは付き合いもないので忘れることにした。だがこの後で親興と勝正は思いもよらぬ縁で結ばれることになる。
勝正も降伏し摂津は平定された。信長はしばらく芥川山城に滞在していたが、この間に摂津や山城などの国人や大名たちが次々と信長の下に現れている。勿論親興もその一人でやってきた目的は伊丹家の領地と立場の認めてもらうことだ。これは親興以外も同様である。
こうした国人たちの願いを信長はあっさりと受け入れた。親興をはじめとした国人たちの領地を次々に安堵していったのである。その中には池田勝正も含まれた。これには親興も驚いている。
「勝正殿とは一戦交えたというのに。信長殿、いや信長様は思ったより心の広いお方なのか。それとも余計な問題を増やさないために我等をこのままにしたのか。わからぬ」
信長はほかに三好義継に河内の飯森山城と河内の半国を安堵された。残りの半分は畠山高政に安堵されている。松永久秀は大和を安堵されたが、三好三人衆に味方した筒井家の勢力が残っているので同時にこれの掃討も任されている。おおよそはもともとの領地や城を安堵した形であった。だが三好家の城であった芥川山城だけは別でここは義昭の家臣である和田惟政に与えられた。惟政は義昭が大和からの脱出を助けそこから従い続けた人物である。当然義昭からの信頼も厚いからそこを見込んで摂津の要地である芥川山城を任されたのだろう。
ともかくこうして義昭の上洛は成功し無事に将軍に就任すると子ができた。信長はそれを見届けると京に残らず美濃の岐阜城に戻っている。
「まるで嵐だ。しかしまあ何はともあれ意に残れたのだから良しとしよう」
義輝が殺害されてからいろいろありすぎたが親興や伊丹家には殆ど痛手はない。結果新たな将軍にもそれを支える実力者にも伊丹家の存続を認められた形である。うますぎるといえるほどうまい結末であった。
足利義栄という人物は本当に数奇な運命をたどった人物です。そもそも父の義維は義輝、義昭兄弟の父義晴の弟でしたが争いに敗れ阿波に逼塞していました。義栄も一緒にいたわけですが義輝の政権が盤石になりつつある中では自分が将軍になれるとは思わなかったでしょう。それが思いもがけず将軍になることが出来ました。しかし京に入ることはできず結局そのまま病でこの世を去ります。ともかく周囲に翻弄され続けた人生で何とも言えない悲しみがありますね。
さて織田信長の登場で情勢は一気に変化しました。変わりゆく世の中で親興も新たな役目を任されます。その先にあるのは幸か不幸か。お楽しみに。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では




