伊丹親興 暗中模索 第四章
三好長慶と足利義輝の和睦。この出来事は畿内に平穏をもたらすかに見えた。しかし戦乱の火種はまだまだくすぶっている。終わりなき戦いの中で親興も戦うしかない。
機内で随一の実力者となった三好長慶と将軍足利義輝の和睦。これは畿内に平穏をもたらすかに見えた。しかし戦の火種は色々なところに存在している。
例えば河内。ここは畠山家が守護を務めていたが実質的に支配していたのは長慶の舅で守護代の遊佐長教である。だが長教は暗殺されてしまい、このころに支配権を握っていたのは長教の家臣であった安見宗房であった。だが宗房は当主である畠山高政と対立し、高政は居城である高屋城から出奔してしまう。これに長慶は介入し宗房を破って高政を高屋城に戻した。ところが今度はこの高政が長慶に反発し、あろうことか宗房と手を組んでしまう。
「私が助けたというのに。その恩も忘れて仇敵と手を組むとはなんと浅はかな」
長慶は河内に出兵し高政と宗房を破った。しかし二人は紀伊(現和歌山県)に逃れ河内への復帰をうかがっている。
一方近江の六角義賢も三好家とは距離を保ち続けていた。こちらも虎視眈々と言った風である。
そんな中で義輝と長慶の関係は安定しているようにも見えた。しかし義輝は京に復帰して以来将軍としての活動を活発化させていて、これを好まない三好家の人間も多い。
こういう緊張感が高まる状況下では偶発的な出来事でも大きな動きに発展していく。そしてそれは新たな時代への序曲でもあった。
もっともそうした時代の摂理など親興は知らない。親興はやっとこぎつけた平穏が続くことを祈っている。
「これよりは長慶様が公方様の下で天下を治める。それが永劫続くといいのだが」
親興は知らない。その願いはかなうすべもないという事を。
三好家には長慶を支える一門衆がいる。その中で長慶の大きな力となったのが三好実休、安宅冬康、十河一存の三人の弟であった。
三人はそれぞれとても優秀であったが特に武力に秀でていたのが一存である。一存は兵を率いても強く個人の武勇も優れていた。江口城での戦いでもすさまじい戦ぶりを見せた通称「鬼十河」三好家随一の武辺ものである。
永禄四年(一五六一)その一存がこの世を去った。病を患っていたというが一存はまだ三十代の働き盛りである。もちろん体も頑強であった。そんな一存が病で急死するなど誰も思いもよらないことである。
この報せを聞いた長慶は絶句した。あまりに急すぎる訃報に何の言葉も出なかったのである。この報告を持ってきた伝令に何も言えずに固まった。そんな長慶に代わり事の次第を訪ねたのは息子の義興である。
「叔父上は何故亡くなられたのだ? 」
「有馬に湯治に向かったのは皆聞いていたのですが…… 何分供もほとんど連れず、気づいたときには息を引き取っていたそうです」
困惑気味に答える伝令。ともかく詳細は分からないとのことであった。なんにせよ三好家の武の要である鬼十河が急にこの世を去った。それはとてもではないが隠し通せることではない。無論親興もこのことを知る。
「一存殿が急死したとは。大丈夫か? 」
この時親興が心配したことは二つ。一つは弟を急に失った長慶の精神状態。もう一つは三好家を取り巻く情勢である。
「一存殿は岸和田に入っていた。あちらの抑えを失ったことになるが」
一存は和泉(現大阪府)の岸和田城に入っていた。和泉は摂津の隣国である。その摂津を虎視眈々と畠山高政と安見宗房はねらっている。そのことが親興の気がかりであった。
一存の死から二か月ほどのち、長慶は義輝の勧めもあって晴元との和睦をすることにした。しかし長慶は晴元と対面する否や晴元を捕らえて幽閉してしまう。長慶と晴元の因縁を考えればおかしくはなさそうであるが、これまで義輝とも晴元とも穏便な決着を望んでいた。それを否定するような長慶の行動に違和感を持つものも多い。特にこんな声が多かった。
「一存様が亡くなられて長慶様の人も変わったのでは」
それが真実かはわからないがこの行動が新たな問題を引き起こす。
晴元が幽閉されたと聞いて怒ったのが六角義賢であった。
「かつての主君をだまして捕らえるとは。なんという不義。このうえは長慶を討つしかない」
このところは静観しつつ力を蓄えていた義賢であるがこの長慶の行動には怒り心頭のようである。義賢と晴元は義兄弟であるのだから当然と言えた。ここで義賢は英明であった父を彷彿とさせる行動に出る。
「紀伊に隠れている畠山高政殿に急ぎ使者を出せ。鬼十河がいない今和泉は手薄。俺が京を攻めれば長慶は挟み撃ちにされる。そうなれば我らの勝利は必定だ」
この義賢の作戦に高政も飛びついた。実際一存の死を聞き行動を起こすタイミングを見計らっていたところである。
「六角殿の誘いはまたとない好機。ここで捲土重来を果たして見せよう」
義賢の誘いに乗った高政は岸和田城に攻め入った。こうして三好家は挟み撃ちにされることになった。これが新しい悲劇を生むことになる。
この事態に長慶も手を拱いていたわけではない。息子の義興に摂津の国人を、松永久秀に大和(現奈良県)の国人を預けて六角家の軍勢に備えさせた。この時久秀は大和の信貴山城を本拠地としている。現在摂津は長慶の直接管理の下にあったが、実質的には義興の管理下にあった。
この時三好義興はまだ十九歳の若武者である。しかし聡明で若き日の父長慶を彷彿とさせる才覚をよく見せていた。性格も真面目でおごり高ぶったところはない。政長とは大違いの人物であったので摂津国人たちの覚えもよかった。
「義興様が跡を継がれるのであれば三好家は安泰であろう」
親興もことに触れてそうつぶやくほどである。
さて京の守りは義興と久秀に託された。一方で岸和田城の援軍には長慶の弟の実休が向かう。この時実休は高屋城の城主を務めており河内方面の責任者でもある。高政は高屋城への帰還を目指していたから実休としてはここで高政を仕留めておきたかった。
「この際に高政殿を討ち和泉、河内の安寧をもたらそう。それが亡き一存の願いでもあるはずだ」
実休は自分の手勢だけでなく四国から来た将兵も加えて岸和田城の救援に向かった。こうして戦いが始まったが、六角、畠山連合軍は思いのほか精強でしぶとい。京の方面はにらみ合いが続き、和泉方面は畠山家の軍勢の勢いが強く一進一退の攻防が続く。結果戦いは長引きやがては年が明けて永禄五年(一五六二)になった。それでも決着がつかない状況に実休は焦りを見せ始める。と言うの自身の主力は四国勢であり海を渡っての長期の在陣が精神、肉体の両面に疲労をもたらすことを理解していたのだ。
「これも奴らの計算のうちか。こうなればどうにか一手打ちたいところだが」
そんな最中畠山高政と安見直房が実休達に攻撃を仕掛けてきた。実休はこれを好機と見る。
「そろって攻めてくるとはむしろ好機。ここであの二人を討ち取るか返り討ちにすれば我らの勝ちだ」
実休達三好家の軍勢は高政たちを迎え撃った。戦いは一進一退の攻防を繰り広げる。だが勝利に焦る三好家の軍勢に一瞬のスキが生じてしまった。畠山家の軍勢の果敢な攻撃に対応した結果実休のいる本陣が手薄になる。そこに畠山家に味方する根来衆の鉄砲が撃ち込まれた。
鉄砲の乾いた音が周囲に響く。そして馬上の実休はゆっくりと地面に落ちた。これにより三好家の軍勢は大混乱に陥る。そこに畠山家の軍勢が攻め込んできたのだからたまらなかった。それでも何とか撤退を成功させるが当然岸和田城も高屋城も維持できるわけはない。どちらの城も畠山家の手に落ちてしまう。一方京の義興と久秀はこの敗戦を知って思い切った行動に出た。
「畠山家の軍勢は父上の飯森山城に向かっているとのこと。このまま京にいては挟み撃ちにあう。ここは思い切って義輝様を連れて京を出ていった方がよいと思う」
「それは良いお考えかと。しからば岩成殿を義輝様の護衛につけ義興様は摂津の衆と共に勝竜寺城にお引きください」
「わかった。殿は任せるぞ。久秀」
義興たちの動きは迅速であった。親興含む摂津の国人たち軍勢は迅速に撤退し、久秀の殿部隊も損害を受けることなく撤退する。義輝は三好家臣岩成友通の護衛で石清水八幡宮に避難した。そして代わりに京には六角義賢が入る。
こうして三好家を取り巻く情勢は一変した。この状況に親興は不安しかない。
「一気にここまで劣勢になるとは。味方はほとんどいないこの状況で挽回出来るのか」
そうは言いつつも長慶を信じるしかない親興であった。
六角、畠山連合の猛攻の前に劣勢に立たされた三好家。しかしここで長慶は一気に反撃に出る。現状河内、和泉は畠山家の手に落ちていた。京は六角家に制圧されている。河内にある長慶の飯森山城も包囲されていたが攻め疲れたのか後方に退き、河内の教興寺で戦況をうかがっている。
長慶率いる飯森山城は畠山家の攻撃に二か月以上耐えた。この頑強な抵抗を支えたのは長慶の見事な指揮と実休を失ったことから出る怒りである。
「必ずや畠山の者どもを討ち取ってくれる。必ずだ」
本来は穏やかな気性の長慶が怒り狂うほどであった。それでも冷静な指揮を執っているのは傑物というほかない。
さて長慶が飯森山城で耐え忍ぶ間、着々と反撃の準備は整っていた。実休と共に戦っていた四国勢は敗戦後一度帰国していたがすぐに軍勢を立て直して飯森山城の後詰に向かっている。松永久秀も戦力を立て直して合流した。そして義興も摂津の国人を引き連れて参陣する。むろんこの中に親興もいた。
親興をはじめとした摂津の国人たちの士気は高い。
「ここで勝てなければ三好家はおしまいだ。我等もまた不安定な立場に戻る。それだけは避けたい」
摂津の国人たちにとって三好家の勢力が衰えるのは死活問題である。ゆえに士気も高かった。
こうして合流した三好家の軍勢のうち、四国勢と摂津勢が教興寺を強襲することになった。その上で長慶も飯森山城から出て挟撃するとのことである。
「皆この一戦ですべて決まる。必ずや勝って叔父上の仇を討とうではないか」
教興寺を攻撃する部隊の総大将は義興である。次代を担う若き侍姿に誰もが感嘆した。
「義興様は見事なお方だ。長慶様の後をあの方が継ぐならば何も心配はいらぬ」
親興はそう思ったし誰もがそう思った。そして義興に率いられた軍勢は教興寺に攻め入る。これを畠山家の軍勢は迎撃するが数で勝り士気も高い三好家の軍勢が圧倒した。やがて飯森山城から長慶が出陣し攻めかかるともはや一方的な戦いとなる。畠山家の将兵は次々と討たれ命からがら退いていった。
この戦いで畠山高政は何とか逃げ延びることが出来た。そして一度高屋城に入るも限界を悟り城から出る。安見宗房も同様でふたたび紀伊に逃れていった。
この畠山家の敗戦に衝撃を受けたのは六角義賢であった。義賢はこれ以上の戦いの無謀を悟ると三好家と和睦をして京を放棄。近江に帰っていった。
こうして三好家は劣勢からの逆転勝利を遂げた。そしてその先頭を切ったのは長慶の後継ぎである三好義興。
「結果的であるがこの戦は三好家の安泰を示したのかもしれないなぁ」
戦いに勝って安堵する親興はそんなことを漏らした。だが翌年あまりにも唐突な悲劇が起きる。
教興寺の戦いでの勝利の後三好義興の名声は高まった。長慶もこれを好機と見たのか表立った活動は義興に任せている。また義興の義輝からの評価は高かったので幕府と三好家の関係も好転していった。
こうした動きは摂津の国人たちにも喜ばしいことである。応仁、文明の乱以来の混乱もこれで終結に向かうのだろう。親興はそう考えていた。
「これよりは幕府を三好家が支える。我等は三好家を支える。それで天下は太平に収まるはずだ」
親興だけでなく誰もがそう考えていた。だが永禄六年(一五六三)六月こんな情報が親興の耳に入った。
「義興様が御病気? そうか。早く良くなられるといいが」
入ってきた情報というのは義興が病になったという情報である。だがこの時親興は特に気にしなかった。義興は若いし体も壮健である。病もすぐに治るだろうと考えた。それは全くおかしくないし誰もがそう考えた。
だがその二か月後信じがたい報せが入った。
「義興様が亡くなられた? 馬鹿な。そんなことがあるはずがないだろう! 」
「それは拙者もそう思います。ですがどうも事実のようで…… 」
「ば、馬鹿な…… そんなはずが」
親興の下にやっていた伝令も半信半疑の様子であった。それほど信じがたい情報である。
この後も親興は情報を収集したが義興の死を覆すような情報はなかった。そうなると信じるしかない。
「こんなことになってしまうとは。これからどうなるのか」
義興の死は確実に新たな混乱をもたらす。親興はそう確信していた。そしてその通りに新たなる混乱が巻き起こるのだが、それは親興の想像を絶するものであった。
歴史上の人物は時に物語の主役に起きるご都合主義のような幸運に見舞われることがあります。ですがこの章で起きた三好家の不幸の連続は負のご都合主義と言えるような不運の連続です。特に一存と義興の死はあまりに唐突すぎて当時の人々はおろか今を生きる我々にも信じがたい出来後です。人には唐突に死が訪れるものですがいくら何でもこれはあんまりではと常々感じているところです。
さて不幸に見舞われ続けた三好家ですがこの先さらに迷走していきます。無論親興も巻き込まれますが、果たしてどう対処するのか。お楽しみに。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では




