松井友閑 交渉人 第七章
友閑の説得の甲斐もなく松永久秀は戦いの道を選び死んだ。しかしこれも信長の覇道の前には一つの障害に過ぎない。信長の覇道は数多くの障害を踏み越えて進んでいく。そしてまた新たな障害が現れるのだがそれに友閑も関わることとなる。
久秀の謀反を鎮圧したことで本願寺の包囲もつつがなく続くこととなった。とはいえ本願寺は毛利家からの補給を受けており、これを行う毛利家の水軍は強力で織田家も大敗を喫するほどである。とはいえ封じ込めには成功しているので本願寺への厳しい包囲は続いた。畿内ではほかに丹波(現京都府)の波多野家や赤井家が敵対している。信長は明智光秀に攻略を任せた。
こうして状況がさらに変遷していく中で年も明けた。それからしばらくして天正六年(一五七八)の三月に驚くべき情報が友閑の耳に入る。
「上杉謙信殿が亡くなった? しかも後継ぎを決めないうちにか。これは大変なことになるぞ」
友閑はかつて上杉家との外交に携わっていた時の伝手でこの情報を知った。信長もほかの筋からも同様の情報を得ていたようでそれらを総合し謙信の死が事実であると判断する。
「さすればもはや上杉家は恐れるに足らぬ」
信長は北陸方面を柴田勝家に任せることにした。そして羽柴秀吉に一軍を預け播磨(現兵庫県)への侵攻を任せる。だがこの動きを受けて毛利家も播磨に浸出する動きを見せた。越して毛利家との全面的な構想に移行していく。
「秀吉殿は目端の利く御仁。さてどうなるか」
友閑はこの状況を楽観視していた。確かに毛利家は強大であるが織田家にはかなわない。秀吉も有能な人物であったのでうまく行くだろうと見通していたのだ。ところがある男の思わぬ行動で織田家の西進計画は行き詰ってしまうことになる。
荒木村重と言う男がいる。村重は摂津(現大阪府)の池田家の家臣であった。しかし三好三人衆と共謀して池田家を掌握しやがては乗っ取ってしまう。まさに乱世の武将らしい男であった。体格も熊のように大きく髭や毛も濃い。顔立ちも厳めしいものであるが目つきは柔らかくある。それゆえか落ち着いたところのある人物であったという。
「今は乱世。生き残るためならば何でもしよう。そうでなければ何もかも失ってしまう。しかしただ獣のように暴れまわってはいけない。落ちついて周囲を見渡し己の生き残る道を選ぶ。それが肝要だ」
そんな村重であるが信長が上洛した時は敵であり義昭の家臣である和田惟政らと戦に及ぶこともあった。だがそのあとは信長に仕えるようになっている。信長はその手腕を相当認めていたようで摂津一国を任せ様々な戦に村重を呼び出した。村重も信長の期待によく応えて様々な戦いで活躍している。
友閑は村重とは交流があった。と言うのも村重は稀代の茶人と名高い千利休の弟子であり自身も優れた茶人でもある。利休は堺に住んでいたので友閑とも交流があった。その縁で友閑と村重は茶会を通じて幾度も交流している。
茶会の席で友閑は所作に重きを置いている。一方村重茶器に重きを置いていた。ある日村重は友閑にこんなことを言った。
「茶器と言うのは本当に美しい。拙者のような武骨ものでは至れぬ境地そのものでございますな。茶人と言うのはこの美しさをいかに引き出すかと言うことも大切なのかもしれぬと思います」
「面白き考えですな。私は茶の湯の所作を極めてみたいと考えておりますがそのようなことは思いつきませぬ」
「いやいや。友閑殿の所作の中の茶器は美しく輝いております。拙者はまだまだその域に達しておりませぬ。これからもご教授お願いします」
そう言って熊のような体を縮めてあいさつする姿を友閑はよく覚えている。おとなしいともいえるが臆病とも感じられる姿であった。
そんな荒木村重が突如として謀反を起こしたのである。
村重が謀反を起こしたのは天正六年の十月のことである。この時村重は羽柴秀吉に従い毛利家に味方している別所長治の三木城を包囲していた。だがこの時突如として戦線を離脱し居城である有岡城に籠城したのである。
この事態に秀吉だけでなく信長を含む織田家に人々は驚愕した。
「荒木殿は信長様に厚遇されている。だというのになぜこのような謀反と思われるようなことを」
今回の行動はあくまで勝手に戦線を離脱しただけである。久秀のように砦を焼き払うようなことはしていない。まだ謀反ではないという思いを抱くものも居た。とはいえ村重は城に籠り防備を固めている。これは織田家への敵対を示したようなものであるから実際謀反であろう。
ともかく織田家の人々は困惑した。先にも記した通り村重が裏切りそうな理由がないのである。とにかく村重を翻意させるべく説得を行うことにした。
説得のために選ばれたのは明智光秀、そして友閑である。これに信長の小姓がついてきた。光秀の娘は村重の息子の妻なのでその縁であろう。友閑は茶人としてのつながりである。
光秀は細身で色白であるが虚弱そうな印象はない。鋭い知性を表すかのような切れ長の目であるがその奥の光は穏やかで優しいものである。有岡城に向かう道中でもしきりに村重のことを気にしていた。
「今回のこと、村重殿だけの考えとは思えませぬ。おそらくは何か複雑な理由が関わっているはずでしょう」
友閑はこの言葉にうなずきつつも光秀にこう言った。
「人の心は思いもがけぬ動きをするものです。信長様は英傑と言うにふさわしいお方。ゆえにその心がわからず心を離してしまう方もいるのでしょう」
そう言って思い浮かんだのは松永久秀のことであった。久秀も信長の世での自分の居場所を悲観して謀反に至った。そしてそれは戦国武将らしく勝算あってのことでもある。
「(もうすでに毛利家は播磨に出てきている。毛利家と連携を取れれば戦えると考えてもおかしくはない。だとすると説き伏せるのは難しいな)」
有岡城に向かう道中で頭を抱える友閑であった。
有岡城に到着した友閑と光秀さっそく村重と面会しようとした。二人の到着を受けて意外なほど村重はあっさりと面会の準備を整える。城内を進む二人だが城兵たちは殺気立っている者、うろたえているものなど様々であった。友閑の目にはどうも城内の意思が統一されているようには見えない。これには光秀も気づいたようである。
「村重殿はやはり迷っておられるようですね」
「そのようだ」
光秀は城内の様子から村重の迷いを読み取った。友閑もこれには同意である。
「(松永殿の時は城内の者たちも皆覚悟を決めているようであったな)」
あの時との違いを感じて少しばかり希望が持てる。
実際村重の目の前に通されるとなるほど確かに村重は迷っているようだった。その時は村重に従う城主である高山右近もやってきていて熱心に説得しているところである。
「信長様は村重様をとても重用されてきました。此度のことはその恩義に背くことでございます。何より今や日の下を治めんとする信長様に逆らうのは無謀の極み。このままでは村重様だけでなく荒木の家そのものも取り潰されかねません。どうかお考え直してくだされ」
右近の言っていることはほとんど友閑と光秀が言おうとてしていたことであった。この熱心な説得に村重も大分心が揺らいでいるようである。ここで光秀も説得に加わった。
「お久しぶりにござる。村重殿」
「おお。光秀殿か。お久しぶりにござるな」
村重の目は不安に揺れているようであった。ここにきて自分の判断に不安を感じているようである。この姿に友閑は内心呆れた。
「(これほどの大身であるのにここに至ってうろたえるとは。驚くな)」
尤もその不安は友閑達に有利となるものであった。光秀は穏やかに村重に告げる。
「このうえはいち早く信長様に謝りましょう。その時は拙者も共に信長様の下に向かいます。そして共に頭を下げましょう」
「そう言ってくれるか…… 光秀殿」
村重は光秀の言葉に感じ入ったようであった。ここで友閑は一気に畳みかけることにする。友閑はすっと進み出ると村重に一通の書状を渡した。
「利休殿よりの文です。どうぞお読みになられるとよい」
「利休様からの!? 」
驚いた村重は書状を食い入るように読み始めた。それは友閑が説得に向かうにあたって利休に書いてもらった村重宛の手紙である。そこには村重のことを心配する内容が書かれてあった。
友閑は書状を読み終えた村重に言った。
「利休殿は村重殿と再び茶の湯を楽しみたいと申されていました」
「そうですか…… 利休様が」
そう言ってから村重は決意を固めた顔をする。そこには迷いはなかった。
「皆様方のお言葉。響きました。拙者はこれより信長様に詫びを入れに行きまする」
「おお。よくご決断成された。よかったよかった」
喜ぶ右近とうなずきあう友閑と光秀。これで村重の説得は終わった。
「此度はうまく行ったか」
境に戻って安心する友閑。ところがその直後信じられない報せが入る。
「村重殿が城に戻って毛利と本願寺と同盟を結びました」
これには友閑は絶句するしかなかった。
村重が本格的に敵対したことを受けて信長は迅速な行動に出た。即座に軍勢を派遣し村重に従う砦を次々と攻め落としたのである。この素早い攻撃に村重や同盟を結ぶ本願寺は抵抗できずあっという間に村重の籠る有岡城だけになった。
こうした動きの中で友閑に声がかかるという事はなかった。それはすなわち信長は自分から村重に降伏を要請しようとは思っていないという事である。
「結局高山殿の言うとおりになったわけだ。しかしいったいなぜ村重殿は考えを変えたのか。それがわからぬ」
あの時村重は本気で降伏するつもりだったのだろうと友閑は考えている。だからこそ驚いたのだ。友閑としてはそこがどうしても気になる。
「無駄なことかもしれぬが調べてみるか」
友閑は自分の伝手を駆使して村重がなぜ降伏をやめたのかを調べる。すると以下のようなことが分かった。
村重はどうも本気で降伏するつもりで有岡城を出たらしい。だが途中で家臣に引き留められたらしい。その時のやり取りは不明であるが、おそらくは信長が村重を処断するつもりなのだと言われたのだろう。よくよく考えてみれば深く考えずに謀反をしてそれをすぐに撤回しているのだからあの時の村重の精神は相当不安定だったと思われる。
またどうも村重の治めていた摂津の人々は信長のやり方に不満を募らせていたようだった。村重にもその不満をたびたび申し出ていたらしい。城内にいた殺気立った者たちはどうもそうした人々に近い立場の家臣であったようだ。そして村重が出ていくのならば別のものを立てて信長と争うという風に言っているものも居たらしい。それが本当かどうかは分からないが。
「結局は信長様の世を受け入れられるかどうか、と言う話であったのか。そこだけは松永殿と同じだな」
感心するような、何とも言えない感情を抱く友閑。ただ久秀との大きな違いはある。
「松永殿は自ら決められた。荒木殿は周りに流された。その違いは大きいな。しかし果たしてその最期はどこまで違うか」
久秀は最後まで抗い死んだ。それに対して村重はどうなるか。ただ友閑はその趨勢を眺めることしかできない。
村重の謀反から数か月後、本願寺への補給をもくろむ毛利水軍と織田家の水軍とでの合戦が起きた。この戦いに織田家は大勝する。この勝利は本願寺を追い込むだけでなく戦略的な意味も持った。なぜかというと毛利家の最大の強みである水軍を打ち破ったのは織田家の圧倒的な優位性を示すことが出来るからである。
「こうなると荒木殿はどうするつもりか。頼みの本願寺もこれではもう戦えまい」
友閑は本願寺の降伏は時間の問題だと見た。包囲は完全であるし海路からの補給ももはや不可能であろう。これは当然の見通しと言えるが実際この後本願寺は一年以上持ちこたえる。友閑の見通しは外れた。
それはさておき毛利水軍の敗北は織田家にさらなる勢いを与えた。ここで織田家は自分に敵する小勢力に対するさらなる追い込みを図る。その中には村重も含まれた。有岡城の包囲もさらに厳しくなった。だが村重はここでさらなる粘りを見せる。年明けて天正七年(一五七九)になり味方の勢力が次々に陥落しても籠城から一年近く持ちこたえたのだ。これには友閑も驚くしかない。
「ここまで粘るとは。しかし籠城など援軍が来なければ意味がない。毛利家の援軍は有岡城まで来られるのか」
この見通しは事実のようでこの一年近くの籠城の間に有岡城に毛利家の援軍が来ることはなかったのである。
事態が急変したのは天正七年の十月のことであった。なんと有岡城があっさりと落城したのである。友閑はその理由を落城後に知って混乱した。
「村重殿が茶器を持ち出して逃げた? だから簡単に落城したというのか」
なんと村重は自慢の茶器を抱えて落城の一か月前に有岡城から逃亡したというのだ。信長は有岡城を守っていた村重の家臣にこう言った。
「村重が逃げた尼崎城と花熊城を明け渡すのならば捕らえた村重の家族は殺さない。そう村重に伝えよ」
家臣は村重の下に急いで走ったという。そしてこれを村重に伝えた。しかし村重の返答は非情なものである。
「その条件をのむことはできない。それは味方への裏切りになる。もうこれ以上の裏切りを重ねるわけにはいかぬのだ」
村重は信長の要求を断った。結果村重の妻子は処刑される。しかし村重は尼崎城にとどまり織田家への抗戦を続けた。その後尼崎城が落城しても花熊城に籠り戦い続けたという。しかし天正八年(一五八〇)織田家の攻撃を受けて落城。この時すでに本願寺も降伏していたので生き残った村重は毛利家の領地に逃げたという。
「生き延びたのか生き延びてしまったのか。村重殿はどうなるのだろうか」
友閑の目には村重は何の目的もなくただ生きようとしているように見えた。それが本当かどうかは村重にしかわからない。
荒木村重と言う人物は何というか捉えどころのない人物であると感じます。前半生を見れば主家を追いつめ自らは栄達した下克上の見本のような人物。有岡城からの逃亡やそのあとの行動を見れば冷酷で臆病な卑怯者。しかして有岡城で一年以上戦い続けたことやその後も一貫して信長に敵対し続けたことを見るとただのどうしようもない人物とは思えません。ただまあ有岡城から出る際に茶器は持っていたことなどから自分勝手な人だと思われるのは仕様がないのかなとも思います。一応擁護しておくと茶器は毛利家に援軍を出させるための手土産と言う説もあります。
さて信長の覇道は大詰めを迎えつつあります。しかしいよいよあの大事件が起きて友閑の人生も大きく揺れ動きます。いったい友閑はどうなるのか。次章が最終章の予定です。お楽しみに。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では




