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戦国塵芥武将伝  作者: 高部和尚
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金森長近 のっそり長近 第十二章

 首尾よく飛騨の制圧を遂げた長近。秀吉の天下といつも進みすべてが順調に見える。果たして長近はこのまま穏やかな人生を送れるのか。

 天正十三年、佐々成政を降伏させるとついに徳川家康の討伐が発表された。大国を現状豊臣方の方が多くの兵力を抱えている。しかし徳川家も大国なので相当の戦いになるだろう。長近を含む多くの武将がそう思った。だが天正十三年の十一月末に起きた天正地震のせいで豊臣家の領国やそれに従う大名たちの領地も被害を受ける。飛騨でも内ケ島家の居城である帰雲城が山崩れで埋没し内ケ島家も一族郎党滅亡するという悲劇が起きた。ともかくこれで徳川家の征伐どころではなくなった。

 そんな大地震の被害も残る天正十四年(一五八六)、飛騨一国は金森長近に与えられた。これがもともと秀吉の考えていたことなのかそれとも姉小路家の討伐と一揆鎮圧の功績によってのことなのかは分からない。ともかく長近は飛騨一国を預かる大名となったわけである。もっとも石高としては三万八千石程度なので大名とても規模の小さきものであるが。

「まあ私にはこれくらいがちょうどよかろう。むしろ多いくらいか」

 長近は納得している。越前大野より大きな領地になったのだから当然であろう。美濃の領地も回収されたが気にするほどのものではない。長近は何の不満もなく大野を後にして飛騨の鍋山城に入った。

 鍋山城で長近は戦いと地震の被害の復興に臨んでいた。そんなときに徳川家康が豊臣家に臣従したという情報が入る。

「ついに徳川殿も秀吉様の下に降ったのか。しかし領地はそのままとは驚いた」

 家康は一度秀吉と敵対し苦しめた存在である。そんな存在をそのまま自分の下に置いた秀吉はある意味大器と言えた。しかしそれは内に大きな脅威を抱えたことにもなる。

「徳川殿の力は衰えぬまま。これが豊臣の禍になれねばいいのだがな」

 長近は何か予感めいたものを感じそんなことをつぶやくのであった。


 長近は自分の領地となった飛騨の復興と振興に取り組んだ。当初は鍋山城を中心に飛騨を発展させようと考えたが、残念なことに鍋山城はいささか狭い。この問題点を長近はひしひしと感じていた。

「こうなれば鍋山城に代わる新たな城を作るしかないな」

 政務と並行して長近は新たな城の候補地を探した。そして目を付けたのが飛騨高山である。山が多い飛騨にあって高山には盆地があり発展性も期待できる土地であった。

「ここならば金森家の未来を切り開く意味でもよい場所だ」

 長近は高山にあった城跡を利用し築城を始める。そしてそれと並行して高山の街並みの整備を始めた。参考にしたのは京の街である。長近は京の街のように東山に寺院を集め侍屋敷や町人街を整備していく。京都から大工や漆工を招いて築城や城下町の整備に参加させた。こうした努力に飛騨の人々も理解を示したのか徐々に高山に移り住む人も増えていき城が出来上がる前から高山は発展していく。

 築城が始まったのは天正十八年(一五九〇)のことである。この年豊臣秀吉は関東の雄北条家を討伐してついに全国の大名家を従えた。ついに秀吉の天下統一が成し遂げられたのである。

「これより先は戦もない。あとはゆっくり飛騨を栄えさせるのが私の役目であろう。私も先は長くないだろうから、やり残しは可重に任せればいい」

 そんなことを考える長近。この時金森長近六六歳。すっかり老境であるが大柄な体ものっそりとした動きも変わらない。さすがに髪は大分白くなっているが。


 秀吉により天下が統一されて国内での大きな争いは無くなった。各大名は各々の領地の政務に力を入れ己が家の命脈を保つためにも努力する。

 長近も同じく飛騨の政務に力を入れた。幸いうまく行っている。また可重も主要な政務に参加するように金森家の中心になりつつあった。

「可重も改めて認められてきている。ならばそろそろ私も隠居したいものだが」

 前々から隠居を考えていた長近。しかし金森家内部からも主君である秀吉からも隠居を止められているのでその望みは果たせないでいた。一応実権は徐々に可重に移りつつある。現状長近の立場は半分隠居と言った状態であった。そういうわけで昔に比べて今の長近には大分時間がある。

「この際風流の道に努めるのも面白かろう」

 そういうわけで長近はこのところ様々な文化的な諸芸に勤しんでいた。特に力を入れているのは茶道である。もともと茶道には熱心であったがこのところはさらに力をを入れていた。師事していたのは当代随一の茶人と言われる千利休である。利休は有名な大名たちにも茶道を教えており多くの大名から慕われていた。

 そんな利休だがかなりの大男である。背丈は大柄な長近を凌駕しているが体は太くない。そんな利休と長近が同じ茶室に入れば何とも狭苦しく見えた。

「あのお二人と茶の湯をするとなんとも狭苦しくありますなぁ」

ある大名はそんなことをこぼしたという。而して当人たちは茶の湯に没頭しそんなことを気にしていない。長近は利休の茶の湯の静かなふるまいに敬服しており何とか自分もその域に近づきたいと必死であったからである。また利休もそんな長近に好感を抱いていた。

ところが天正十九年(一五九一)利休は秀吉の手によって蟄居させられてしまう。これには長近も驚きうろたえる。

「秀吉様は何を考えておられるのだ。あれほどのお方が罰せられる理由などないはず」

 長近はほかの利休門下の大名たちと共に利休の赦免に奔走した。しかしそれはかなわず利休は切腹させられてしまう。

「ああ、なんということだ。しかしこうなれば利休師の御子息たちを守らねば」

 秀吉が利休を罰した理由は不明である。それゆえに利休の家族が理不尽な目に合わないとも限らなかった。そこで長近は利休の息子の千道安を飛騨にかくまうことにする。もう一人の息子の千少庵は利休高弟で大名の蒲生氏郷に預けられた。秀吉もこれを咎めるようなことはしなかったが両家には暗に利休の子らを領地から出さぬようにと暗に命じている。

 飛騨高山に入った道安は長近にこんなことを言った。

「父上は最近の秀吉様の振る舞いが恐ろしいと申されていた」

「恐ろしい、と? 」

「左様。天下を治めるだけには飽き足らずさらに多くのものを求めようとしていると。その際限ない欲はさらなる乱世を呼ぶのではと申していたのだ」

「そうですか」

 長近は不安になった。秀吉が天下を統一してすべてが収まると考えていたからだ。だが今回のことと道安の言葉でそれに疑念がわいてくる。実際それは的中してしまうのであった。


 千利休切腹からほどなくして秀吉はこんなことを言い出した。

「来春には唐入りを行う。諸国の大名たちはそれに向けて準備を怠らぬように」

 この発言は正式な命令として各地の大名たちに発令された。しかし大半の大名たちは半信半疑である。唐とは中国大陸のことを指しつまりは中国大陸の王朝である明を打破して征服しようという構想であった。大名たちはまさかそんな大それたことはしないだろうと当初は思ったのである。

 ところが秀吉は肥前(現佐賀、長崎県)の名護屋に築城を始めた。唐入りの前線基地だと秀吉は言っているらしい。これを受けて各国の大名たちも急いで準備を進める。

 無論長近もその一人であるがさすがにこれには疑念を抱いた。

「せっかく天下が収まったというのに。わざわざ海を越えてまでこんなことをしようとは」

 そこまでして何を求めるのかと長近は思った。そして道安の言っていた利休の懸念の通り際限ない欲が新たな動乱を呼び起こそうとしていることに戦慄する。しかし長近もまた豊臣政権の傘下の大名だ。秀吉の命令を拒否することなど出来ない。

「我らが海を渡るようなことはないと思いたいが」

 翌年の文禄元年(一五九二)秀吉は宣言通り唐入りを決行した。まずは朝鮮半島の制圧を目指し李氏朝鮮の領国に侵攻する。緒戦では日本の軍勢が勝利を重ねるが李氏朝鮮の援軍に明の軍勢がやってきてから戦局は膠着状態に陥った。結局文禄二年(一五九三)明との間で講和交渉が行われることになる。

 秀吉はこの講和交渉を明の事実上の降伏へのプロセスとみて上機嫌であった。同年には待望の男子である秀頼も生まれている。これもまた秀吉を上機嫌にさせていた。その上機嫌は翌年も持続していたのか、利休の息子たちが赦免されている。そしてこの年長近は秀吉の御伽衆に任命された。御伽衆は主君のそばに仕えて諸芸を披露したり自身の戦いに関する体験談を話したりするなどの務めを果たす役目である。長近はその歴戦の戦いぶりと一流の茶人であるところが採用された理由であった。

 御伽衆になった長近に秀吉はこういった。

「もはや儂の意向は唐天竺まで届くほどだ。秀頼はいずれ唐の主になるだろうから其方は昔に儂とともに戦ったことなどを秀頼に話してやってくれ」

 そううれしげに語る秀吉の姿は好好爺然としていて穏やかなものである。だがその表情に浮かぶどこかよどんだ目に言い知れぬ恐怖を抱く長近であった。


 文禄四年(一五九五)秀吉の甥である豊臣秀次に謀反の疑いがかかった。秀次は甥ではあるが秀吉から関白の座を譲り受けている。実権こそ秀吉の下にあったが後継者候補として目されている人物であった。そんな秀次に突如として謀反の疑いがかけられたのである。

 長近は素直に疑念を抱いた。

「秀次様は秀吉様に従順であった。それに今の日本に秀吉様に逆らえるものがいるとは思えない。だれも手を貸さないだろう。本当に謀反を考えていたのだろうか? 」

 この疑念は長近だけでなく多くの人々が考えることであった。秀次はそもそも男子のいない秀吉の養子となり後継者となったのである。ところが先年秀吉には嫡男である秀頼が生まれた。その関係性を考えれば秀次が邪魔になったので秀吉が謀反の疑いをかけた、そう考えるのも不自然なことではない。

 秀次は高野山に流罪となった。この決定が下った直後長近は秀吉に呼び出されている。この時は緊張して登城した長近であったが、別に普段通りの御伽衆としての仕事であったので一安心であった。

「この前に心の曇ることがあった。今日は儂の心を晴らす話をしてしてくれぬか」

 そうにこやかに言う秀吉。その言葉に何の陰りもない。これを見て長近も

「(秀吉様が秀次様を陥れたのわけではなかったのか)」

と、考えた。だがそこに急使が駆け込んでくる。そしてその報告を聞いた秀吉の表情は一変した。まるで別人のような恐ろしいものになったのである。

「秀次様が高野山で切腹なさいました」

 短く簡潔でとんでもないことである。秀吉の表情が変わるのも無理はない。しかしそのあとで出た秀吉の言葉はあまりにも常軌を逸したものであった。

「高野山は聖地である。そこを血で汚すとはとんでもない愚行である! このうえは秀次の妻子も罰さなければ天下人たる儂の気が収まらぬわ! 」

 長近も秀吉の前半の言い分は分かる。だがそれを理由に秀次の家族まで命を奪おうというのはあり得ないことであった。だが秀吉はそれを命じて実際に実行されたのである。

「秀吉様は正気を失っておられるのか」

 秀吉の下を辞した長近は思わずつぶやいた。だれもいなかったのは幸運である。

 

 秀次の死の翌年、明との講和交渉が破綻した。その翌年である慶長二年(一五九七)秀吉は再び朝鮮に軍勢を送り込む。金森家は予備軍として名護屋に着陣した。長近は御伽衆としての務めもあるので総大将か可重である。

「我らも朝鮮に向かうことになるのでしょうか」

「さてな。せいぜいそうならぬように祈るしかないか」

 その祈りが通じたのか金森家が海を渡ることはなかった。慶長二年の出兵は一定の目的を達成したようで占領地の駐留軍以外は帰国し戦闘も一時停止となる。

 この間御伽衆として秀吉のそばにいた長近はその変化に気づいていた。

「(死相が出ているなぁ)」

 この頃の秀吉はやつれ切っている。もともと細身であったから傍から見れば皮と骨だけになっているようにも見えた。それでも目は爛々と輝いていたが、名護屋から一時京に戻った時はその光も消えている。もはや生命を感じられない姿であった。

 慶長三年(一五九八)五月、秀吉は病に倒れる。もはやだれもがすぐに死ぬと考えていたが、秀吉は簡単に死ななかった。自分の亡き後の豊臣政権の体制を急ピッチで整えて幼きわが子のことを有力な大名たちに頼んだのである。そして病に倒れてからおよそ三か月後にこの世を去った。

「これでこの世は再び乱世か」

 幼い主君に強力な力を持った大名たち。これで世が収まるわけがない。長近だけでなく誰もがそう感じていた。


 今回御伽衆と言う役職が出てきました。その務めは本編での通りで、当時の著名な戦国大名にも仕えていたそうです。ただ秀吉はその数がとても多かったようで、名家の出身の武士も多かったようです。これは秀吉の出自のコンプレックスによるものと言われています。天下人となったのちもそうした心の瘧はなかなか取れないのは何とも悲しい人のサガともいえますね。

 さて次はいよいよ最終話。戦国最後の動乱の中で長近はどう生きるのか。お楽しみに。

 最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では

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