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戦国塵芥武将伝  作者: 高部和尚
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金森長近 のっそり長近 第十章

 大名になり順風満帆な生活を送っていた長近。しかし主君の信長が突然死に息子にも先立たれてしまう。新たな混沌の時代を迎え、長近はいったいどうするのか。

 明智光秀が討たれたことでひとまず混乱は収まった。そしてすぐ後に織田家の重臣たちが集まって今後のことを協議しようという話が出てくる。

 この重臣たちの会議に勿論、長近は呼ばれていない。そういう立場ではないのは明白である。長近としても会議の決定に従うつもりだったのでそこに異論はない。またこの時長近はやっておきたいことがあったのでちょうどよかった。

「私は信長様と長則の弔いをやっておきたいと考えています。私も頭を剃り僧になるつもりです」

 長近は可重や重臣たちを集めてこう宣言した。若干のどよめきが起きる。長近はそれが収まってからこう告げる。

「私の立場は変わりません」

 これを聞いて可重含む皆が安堵する。要するに僧にはなるが金森家の当主としての仕事は続けるという事であった。こういうことは戦国大名にはよくあることである。

 この宣言の翌日長近は頭を剃り僧となった。法号は兵部卿法印素玄。当時は呼ばれるようになったわけであるがややこしいのでこの話では長近のままである。

 さて僧になった長近はやりたいことがあった。長近は信長と長則の死を伝えてくれた大徳寺の僧にこう頼んだ。

「私は亡き主君と息子の弔いのために大徳寺に塔頭を建立したい。手伝ってくださるか」

「それは良い心がけにございます。お任せください」

 長則と親しかった僧にとっては願ってもない話である。すぐに大徳寺に話は通されて塔頭も建立された。長則の葬儀もしめやかに行われひとまずこれで長近のやりたいことは済んだのである。


 信長死後の織田家の体制に関しては信忠嫡男の三法師を新たな当主として擁立するという事でまとまった。とはいえ三法師はまだ三歳。これを叔父である信長次男の信雄と信長三男の信孝で後見するという事になった。だがこの二人は不仲でありすぐに反目しあってしまう。さらに重臣間でも今まで筆頭的な立ち位置であった柴田勝家と信長の仇を討ち存在感を強めた羽柴秀吉との間での対立が起きた。

 こうなってくると織田家は実質的に統制が取れない状態になる。秀吉は信雄に勝家は信孝と手を組んでほかの家臣たちも巻き込んでの対立となった。

「我らはどうします? 養父上」

「さてなあ。世話になった勝家殿に味方したいが勢いは羽柴殿にあるかな」

やはりというべきか信長の仇を討った秀吉の名声は大きい。勝家も織田家の重鎮としての立場は維持している。さらに今回の会議で信長の妹のお市を娶ることにもなった。こうしてみると織田家における双方の影響力は伯仲しているようにも見える。

こうした状況下で長近を含む織田家臣たちはどちらにつくべきかを考えていたのである。全員織田家への忠誠と言うよりは自分たちの生き残りをかけた様子見であった。

そんな中で大徳寺の僧から長近に驚くべき知らせが届いた。

「なに? 羽柴殿が大徳寺で信長様の葬儀を?! 」

 大徳寺からの報せによれば秀吉が自分の養子で信長四男の羽柴秀勝を喪主として信長の葬儀を行ったらしい。無論長近には知らされていない。おそらくは勝家も知らないだろう。しかし葬儀には織田家の家臣である丹羽長秀や池田恒興も参列したらしい。おそらくはこの三人で謀ったことか、秀吉の意向に二人が従ったという事だろう。

「これが羽柴殿のやり方か。しかしこれを皆どう見るのか」

この行い勝家は激怒している。だがほかの者たちがどう見るか。それによって今後の動きは大きく変わるだろう。そう考える長近であった。

 

秀吉は大徳寺で信長の葬儀を執り行った。これに加えて信長の仇を討ったことも重なり秀吉を実質的な信長の後継者と目され始める。勝家も味方を増やそうと必死であるがうまく行っていなかった。

「戦は近い。我等はどうするか」

 この長近の見立て通り秀吉と勝家の関係は決裂し戦となった。この時長近は勝家の味方という事になっている。もっとも領地の越前の大半を支配しているのは勝家なので味方にならざる負えないわけであるが。ただそれは表向きの話で早いうちから長近には秀吉からの内応の誘いがあった。

「戦に加わらないだけでいい。とはまあいい条件ですなぁ」

 長近は秀吉の要請に従い出陣するも戦わず撤退した。ほかにも前田利家が同様の行動をとりこれにより柴田勝家の敗北は決定的になる。

 勝家は居城の北ノ庄城に逃れたが包囲され、最後は自害した。武人らしい同等としたものであったらしい。さらに裏切った者たちへの恨み言もなかったそうだ。

「武人かくあるべき。と言うことなのでしょう」

 長近はしみじみと罪悪感を感じながらそうつぶやくのであった。


 秀吉は降伏した長近を快く迎え入れた。

「今後は儂のために尽くしてくれよ」

 この発言の意味を長近は深く考えていない。もはや目の前にいるのはかつての同僚ではなく今の主君である。

「これよりは秀吉様の御ために戦いまする」

「おお。そうかそうか。それは良い」

 老将の言葉に満足げにうなずく秀吉。その言葉に裏はないと理解しているしそうするしかないという事も理解していた。それは長近も同じである。

 勝家を破った秀吉はさらに躍進し織田家の勢力を越えるほどになった。むろんこれに警戒感を抱くものも居る。織田家次男の信雄と織田家の同盟者であった徳川家康だ。特に信雄は勝家に味方した信孝が死んだことで織田家は自分の手中に入ると考えていた。ところが織田家は秀吉の思うままになってしまう。これに怒った信雄は天正十二年(一五八四)家康と手を組んで秀吉に戦いを挑む。そしてこの戦いに長近も参戦することになった。

「時流は秀吉様に流れている。もはやどうしようもないだろうに」

 この秀吉と家康、信雄連合軍の戦いは局地戦で連合軍が健闘を見せた。特に家康は秀吉の軍勢に痛打を与えている。しかし自力で上回る秀吉が最終的な勝利をおさめ信雄は秀吉の軍門に下った。家康も秀吉と和睦を結んだがその条件は秀吉側の有利なものである。戦略的には秀吉の勝利と言えた。

 だが秀吉に痛打を与えた家康の名声は高まっている。

「秀吉様はこれで天下に近づいた。しかし家康殿の名も高まった。さて家康殿はどうするか。早々に降るしかないだろうが」

 何となくにつぶやく長近。そんなときに驚くべき報せが入った。なんと越中を支配している佐々成政が徳川家康に戦闘の続行を依頼しに行ったという。これなのが驚くべきかと言うと、徳川家康の本拠地は遠江の浜松にある。ここに向けて越中の富山から佐々成政が自ら交渉に言ったというのだ。越中富山から遠江浜松に向かうにはいろいろと道はある。ところがその内の安全な道を治めているのは秀吉方の大名であった。むろんこの道を通ることはできない。

「まさか成政殿は山道を通っていったのか。この冬になんという無謀な」

 この時の長近は知る由もなかったが、成政は本当に峠と山脈を越えて浜松に向かったようである。雪の積もる峠に自ら向かい一命を賭して越えていったのだ。長近はかつて美濃から越前大野に峠を越えて攻め入ったがそれをはるかに超える難行である。

「成政殿はそれほどまでに秀吉様を憎んでいたのか。いや、なんにせよそうでなければここまではできないだろう」

 長近はこの成政の偉業とも無謀とも言える行いに感心しながらもあきれ果てた。道中で命を落としたらどうするつもりだったのか。正直理解不能である。

 結局成政の説得は失敗し家康は再挙しなかった。成政は富山に帰ったそうであるがおそらくは帰り道も峠越えであろう。途中で命を落としたとかそういう風説はないのでおそらくは生還したはずである。

「命を賭した説得も不発。成政殿はいったいどうするのか。この徒労を思えばもう降伏した方がいいと思うが」

 そう考えた長近はひそかに成政に使者を送った。だがすぐに突き返されてくる。これには長近もため息を吐くしかなかった。


 秀吉は家康との和睦後にまず自分に敵対する勢力の各個撃破に動いた。まず天正十三年(一五八五)の三月に紀伊(現和歌山県)に侵攻している。紀伊は大名のような大きな勢力こそいないものの雑賀党をはじめとする在地の勢力が居り彼らは独自の高い軍事力を備えていた。これを秀吉は圧倒的な軍勢で駆逐する。続いて五月には敵対的な態度をとる四国の長曾我部元親に狙いを定めた。秀吉は紀州征伐の時を越えるさらなる大軍を四国に送り二か月後には長曾我部元親も降伏する。

 この秀吉の戦い方に長森は驚嘆した。

「信長様も大軍を投入していたがそれ以上だ。四国の時は毛利家の方々も出陣している。あれほどの大大名を従えるほどに秀吉様の権力は大変なものになっているのだ。もはや信長様を完全に超えてしまっているなぁ」

 この時点の秀吉は旧織田家家臣と言う立場から脱している。名実ともに天下人となりつつあった。長森にとってはかつての同僚がかつての主君の覇業を引き継ぎ越えていく様を見ているのだからもう驚くしかない。

「あれだけの御仁とかつては肩を並べていたのだからある意味で果報者であるのかもしれんな」

 そんなことを可重につぶやくほどである。可重も

「秀吉様はたいそう出世が早かったとお聞きしています。而して誰がこれほどの方になろうと思ったのでしょうかねぇ」

と感嘆していた。


 さて秀吉は長宗我部家との戦いの最中、朝廷から関白への就任が打診された。秀吉はこれを快く受け入れて関白に就任する。これには朝廷内での様々な問題が複雑に絡み合った末の事態であったが、秀吉はこれを利用し自身の天下統一や全国支配のための体制づくりに利用していく。つまりは秀吉が関白として朝廷の官職につき、傘下の大名たちには官位や官職を与え序列を作ったのである。この目論見はうまく行き秀吉は豊臣の姓を賜って全国統一政権を発足させた。この時点ではまだ傘下に降っていない大名も多くいたがすでに秀吉の権力と軍事力は誰にもかなわない状態にあったのである。

 長近もむろんこの新しい体制に組み込まれたわけである。自分から降伏した身であるから不満などない。むしろ長く続いた戦国の世が終わりに近づいたことを喜んでいるほどであった。

「もう戦もこりごりではあるな。私も年であるし隠居したいところだが」

 この時の長近は六一歳。もう老人と言っていい年であった。普通なら隠居していてもおかしくない。跡取りに関しては可重に譲るつもりである。

「可重は私に仕えてよく頑張ってくれた。あとを継がせて問題ないだろう」

 可重は養子に入ってからも信長死後の混乱期も長近をよく支えてくれた。後継者としては申し分ない。

 そういうわけでこの旨を可重に話すと意外な答えが返ってきた。

「申し訳ありません。大きい声では言えないのですがどうも私が跡を継ぐことを面白くない方がいるようで」

 これには長近も驚いた。そこで重臣たちに話を聞くとどうも少なくない数の家臣が可重を後継ぎにする流れに反発しているらしい。

「可重殿は確かに金森家に尽くしてくれた。しかしそれは家臣としての功。我等の主君にするというのはいささか納得いきませぬ」

 これが反対派の意見らしい。長近には僧になっている弟がいるからそれを環俗させて跡を継がせるか、金森家の一族を養子にして後継ぎにしてほしいという事だった。

 長森としては寝耳に水であったが無理は押し通したくない。幸いと言っていいかわからないが可重も乗り気でないのもちょうどよかった。

「致し方ない。まだしばらく隠居はあきらめるとしようか」

 老いても大きな体をのっそりとゆすりながら長近はため息を吐くのであった。

 長近には直接的にあまり関係のない話ですが今回の話で秀吉が関白に就任しました。この関白就任までの流れは調べてみるとかなり複雑な経緯でそれを秀吉が強引に終わらせたような話ではあります。そこに関しては改めて知ったわけですがそれだけで一つ話ができるような展開でした。気になる方は調べてみるのもよいかもしれませんね。

 さて無事に秀吉に降ることが出来た長近。次の話ではある重大な任務を任されます。お楽しみに。

 最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では

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