金森長近 のっそり長近 第九章
越前一向一揆鎮圧の功績もありいよいよ大名となった長近。この時点で長近は五十を超えている。当時としては老境と言っていい。しかし金森長近の人生はここから更なる激動に巻き込まれていく。
大野を拝領した長近は自らが焼き払った土地の再興に挑むことになる。
「本願寺の坊官たちが嫌われていたとはいえ我らが好かれているわけでもない。ともかく慎重に挑まなければな」
まず長近が行ったのは税や賦役の軽減であった。そもそも一揆がおきたのは桂田長俊の圧政が原因である。同じ轍を踏むわけにはいかない。そしてもう一つ行ったのが大野の在地の侍たちの登用であった。
「我が家も大きくなった。今までの者たちを頼るのは当然であるがさすがに人手が足りん。それに土地のものであるならばいろいろとよく知っていよう」
長近は在地の侍の中でも土地の事情によく通じた者たちを登用した。そして彼らから得た情報をもとに荒廃した農村の復興に臨む。農民たちも敵であった長近に不信は抱いていたが生きていくには従うしかない。幸いにもある程度協力的に動いてくれた。そのため長長近の統治は順調に進む。
「これは僥倖。このままいけばうまく行くだろう」
領民たちは初め長近を警戒していたもののその当地の穏やかさに安心したのか徐々に心を開いていった。長近が登用した在地の者たちの存在もよい影響を与えているようである。
こうして領地の統治は順調に進んだ。しかし織田家家臣としての長近の仕事はそれだけでない。長近は柴田勝家の旗下に入り主に北陸での戦いに参加した。信長は各地に方面軍を創設し有力な家臣に地方の攻略を任せたのである。勝家は北陸方面の担当である。
「信長様の覇道もいよいよ大詰めになってきた感もあるな。さて拙者が生きているうちにどこまでのことが見られるのか」
この時長恵は五一歳。はっきり言って当時としては老人と言っていい。人生の終わりも見えてくる頃であった。それは長近自身そう考えているのである。
大野の統治は順調に進み長近も各地の戦いで活躍していた。長近の信長からの覚えもよく金森家も安泰である。
「あとは忠二郎が健やかに育ってくれれば問題ないか」
忠二郎は長近と妻福の間に生まれた一人息子である。長近が四十の時に生まれた子であった。当時としてはかなり遅い。
「忠二郎よ。我等金森家は織田家あってのこと。それを忘れずまた真摯におのれの務めに励むのだぞ」
「はい。父上」
父長近に似て穏やかな気性の少年である忠二郎。将来を不安に思う声もあったが成長していくにしたがって体格も立派になりしっかりとした人柄に育っていく。天正七年(一五七九)には元服して長則と名乗るようになった。長則は元服した年に信長である嫡男信忠の近侍として召し出されている。時期当主のそば仕えに召し出されるという事は将来を嘱望されているという事であった。
「これは名誉なことだ。信長様の下で多くを学び立派になるのだぞ」
「承知しました父上。織田家のため、金森家のためにしっかりと務めを果たしてきます」
こうして旅立った長則。しかしこうなると子が長則以外いない長近は少し寂しい。そんなときに長近に養子を迎え入れないかと言う話が持ち上がった。子が一人では何かあった時金森家の存続が危うい。そうした事情を信長含む周囲が危惧したようだ。
これに長近も苦笑した。
「長則が元服したばかりだというのに」
とはいえ周囲の懸念も理解できた。そういうわけで長近は養子を迎え入れることにする。天正八年(一五八〇)美濃垂井城の城主長屋景重の息子の喜三郎。養子に入るにあたって名を可重と改めた。「可」の字は長近の前の名前である可近からとったものである。
可重と初めて顔を合わせた長近は思わず笑ってしまった。なぜなら自分と同じく大柄で恰幅の良い体格をしていたからである。
「不思議なものよ。血のつながりがないというのにここまで似るとは」
「いやぁ。それは拙者も同じくでございます。ですがそのおかげで安心しました」
性格も似たり寄ったりであった。二人はすぐに打ち解けて、可重は長近を支えていくことになる。
天正十年(一五八二)の二月、武田家の一門でもある木曽義昌が織田家に寝返った。これを好機と見た信長は同じ月のうちに武田家を滅ぼすべく武田領への侵攻を決定した。
この侵攻作戦に長近も出陣することになった。長近は飛騨(現岐阜県北部)方面から信濃(現長野県)への侵攻である。主力ではないが武田家を西側から追い立てていく重要な役割であった。こうした陰に隠れた重大な仕事は長近によく任される仕事である。
「養父上は信長様に信頼されているという事ですなぁ」
留守を任された可重は呑気な口調でこう言った。こういうところもどこか長近に似ている。そういうわけで長近も似たような感じで返答した。
「こうした仕事をよく任される。まあ年の功のようなものであるなぁ」
そう言って長近はのっそりと出陣していった。
長近は飛騨方面から信濃に浸出する。しかし敵の抵抗はあまりにも少ない。初めから戦意もそうしているようだった。
「もはや武田家のために戦おうという気もないのか。あの武田家がここまで衰えるとは」
武田家は戦国最強とも言われた大大名である。信長も長篠の戦の勝利の後でも警戒をやめないほどその力を認めていた。しかし今はこのありさまである。
「しかしここまで抵抗しないのは何か別のことがあるのではないか? 」
長近は疑問に思った。だがそれはすぐに解決する。疑問を解決させたのは息子の長則からの書状であった。今回の武田攻めで先鋒を任されたのは信忠である。信忠は武田領をすさまじい勢いで侵攻し制圧していった。長則も近侍として付き従っており、長近への手紙はその状況を誇らしげに伝えるものである。
「信忠様も長則も若い。だが此度はそれが何よりの力となったか」
結局信忠のすさまじい侵攻で武田家は崩壊し滅亡した。あとに続いてやってきた信長は戦いらしい戦いに参加していない。とはいえ結果的に織田家の後継者がその武威を示せたのは僥倖と言えよう。
「織田家の将来もこれで安泰。ああ、これで私も近いうちに隠居できるだろうな」
今回碌に戦わずに済んだ長近は織田家の将来に安堵しながら帰国するのであった。
戦いを終え帰国した長近は今後のことを考え始める。
「私も年が年であるからなぁ。そろそろ隠居も考えねばならん」
隠居をするのならば家督を譲らなければならない。となればだれに譲るかという事になる。もっとも長近にとってそれが誰なのかはわかり切ったことであった。
「そろそろ長則に戻って来てもらおうか。信忠様の近侍としての働きも目覚ましい。ゆくゆくの織田家のことを考えれば信長様も分かっていただけるはずだ」
長近は長則に家督を譲ることを決め、それを周囲にも話した。そしてそれを第一に伝えたのが養子の可重である。
「可重。私はそろそろ家督を長則に譲ろうと思う。もちろんお前を粗略に扱うつもりはないし長則にも言い聞かせるつもりだ」
可重は長則より年長である。さらに養子に入ってからは長近をよく支え家中の覚えもめでたかった。そうした中で長則に家督を譲ればいかに正当な継承であってもなにがしかの不和が生じる可能性がある。そういうわけで可重にまず話したのであった。
可重は普段の呑気さとはまるで違う雰囲気で答えた。
「長則様に家督を譲るのは当然のことでしょう。そもそも拙者は後から入ってきたものです。そんな拙者がこれ以上のことを望んで家中の輪を乱しては本末転倒もいいところ。むしろ過分の気遣いは無用にございます」
「ああ、そう言ってくれるか。すまない」
長近は素直に頭を下げる。これに対して可重はこういった。
「そもそもは長屋の父がお家の安泰を図って拙者を送り込んだのです。まあそこを考えれば金森の家に問題がないのが一番でしょう」
あっけらかんという可重。その様子に長近も安堵するのであった。
こうして長近は可重を含む金森家の賛同を受けて隠居の準備に入る。それにはまず長則を呼び戻すことが必要であった。長近はその旨を長則に伝えるが思わぬ返答が帰ってくる。
「私はこれから信忠様に従い西国で羽柴殿の援軍に向かいます。それが終わるまでは帰ることが出来ませぬ。申し訳ありませぬが隠居はもう少しご辛抱ください」
長則からの書状にはそう書いてあった。これには長近も納得せざる負えない。
「やれやれ。茶の湯でも楽しみながら隠居を楽しもうかと思っていたのだが」
ため息を吐く長近。しかしこの後長則が帰ってきて家督を継いでくれることは疑ってもいない。しかしこの後で思わぬ事態が起き、長近の人生を大きく変えてしまうことになる。
その大事件は天正十年の六月に起きた。だがその事態を長近が知ったのは数日後のことである。事件が起きたのは京の街で長近の越前大野に情報が届くまではどうしても時間がかかるからだ。
京から長則に頼まれてやってきたという僧侶はこう言った。
「京の本能寺にて信長様が討たれました。討ったのは明智光秀殿であるとのこと」
簡潔かつとんでもない内容の報告であった。あまりの衝撃にさすがの長近も気を失いかけ可重に支えられる有様である。可重は動揺している長近に変わって侍に尋ねた。
「明智殿が信長様を討ったというのは本当なのか」
「はい。本能寺を囲む明智殿の軍勢の旗が見えたと申すものが多くいました。それは確かなことかと」
はっきりと言われるが長近も可重もにわかには信じられない。明智光秀は織田家の重臣であり信長からの信頼も厚い人物であった。そんな人物が主君である信長の謀反を起こしたというのはとてもではないが信じられない話である。だが目の前の僧侶の様子から本当だと信じるしかない。
「ともかく我らの手のものを京に送るのだ。それと柴田殿にこのことを伝えなければ。柴田殿へは私が書状を書こう。貴殿は先ず休むのだ」
「承知しました。すぐに準備します」
気を取り直した長近の指示を受けて可重は動いた。その最中にあることが頭をよぎるがそれを何とか抑えて書状を書ききる。そして可重の連れてきた男に書状を託し出発させた。とりあえずやらなければならないことが終わりひと段落する。だがそうなるとお抑えつけていた不安が長近の頭をよぎり始めた。長近はそれを確かめるべく伝令にやってきた僧侶に尋ねる。
「貴殿は長則に頼まれて来たと言っていた。貴殿と長則はいったいどういう関係なのか」
「はい。拙僧は大徳寺と言う寺の僧侶でして、先年信忠様が寺においでの際お世話をさせていただきました。その時長則殿と縁ができ仲良くさせていただきました」
「そうですか。それならば息子がお世話になりました。 ……それで長則からここに向かうようどこで頼まれましたのかな」
長近は努めて冷静に言った。これに対して僧侶はつらそうに目を伏せる。それで長近はすべての意味を理解したが、僧侶の答えを待った。
僧侶は沈痛な面持ちでこう言った。
「長則殿は信長様のおそばにいたようです。おそらく信長様と最期を共にしたのかと」
長近は「そうですか」と言おうとした。しかし声が出ない。予測はしていたとはいえあまりにも悲しい、衝撃的なことであったからである。
長近は何も言わず自分の部屋にこもった。そこで声を押し殺して泣き続けている。
長近はいち早く信長の死を知った。しかしだからと言って何かできるわけでもない。現状では信長や長則を含めた側仕えの人々の死ぐらいしか確定的な情報がなかったのである。
「誰が敵か味方かもわからぬ。まずは情報収集と柴田殿と合流することからか」
そう考えた長近であったが肝心の柴田勝家が動けるような状態ではない。勝家は越後(現新潟県)の上杉家の攻略を任されていた。だが信長横死の報を受け取りすぐさま帰還しようとしたらしい。しかし領国である越中(現富山県)で上杉家が一揆を扇動しこれの対処に追われているようだった。一揆はすぐに鎮圧できそうだが体制を整えて光秀と戦うにはおそらく時間がかかる。
「さてどうするべきか」
悩む長近。しかしこの悩みはあっという間に消滅する。なんと中国地方に出陣していた羽柴秀吉がすさまじい勢いで戻ってきて光秀を討ち取ってしまったのである。この時点で長近は勝家と共に出陣したところであったが秀吉から伝令を受けて絶句したものである。
「秀吉めがやったのか。本当に真なのだな」
勝家はこの報告を驚愕で震えながら聞いていた。勝家からしてみれば大恩ある殊勲の敵討に参加できなかったのはすさまじい屈辱であるし悲しくもある。
一方の長近も複雑ではあった。秀吉が信長の仇を討ったのは良い。しかし自分からしてみれば息子の仇でもあったのだから光秀との決戦には参加したかったのである。
「秀吉殿は…… 何ともすさまじい御仁であったのだなぁ…… 」
もはやそうつぶやくことしかできない。長近はかつての同僚のすさまじい活躍に長近も溜息しか漏れないのであった。
今回の話にもある通り長近の息子の長則は信長の嫡男の信忠の近侍でした。しかし本能寺の変の際には信長と共に戦死したという情報がありここら辺がどうなっているかは正直分かりません。ただ有名な森蘭丸は戦死した家臣の息子であったので信長は自分の手元に古い家臣の息子を置いていろいろと学ばせようとしていたのかもしれません。そしてゆくゆくは織田家の将来を担う主力に、そう考えていたのかも。そうだとすると信長が生き残り天下統一したら金森家ももっと大きな家になっていたかもしれませんね。
さて信長が死に時代は新たな段階に移ります。長近も新たな激動の中で活躍を見せますのでお楽しみに。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では
 




