金森長近 のっそり長近 第四章
斎藤家の刺客の襲撃を退けた可近達。上洛は無事に終わり信長たちは尾張に戻る。そして新たな戦いが始まるのであった。
信長は上洛し将軍足利義輝に拝謁した。その際に連れていったのは僅かな家臣だけである。可近を含む同行しなかった家臣達は皆京やその周辺に散り様々な情報を集めるように命じられた。
頼隆も情報収集を命じられた一人である。ある日頼隆は宿所で可近に尋ねた。
「こういうことをするということは、信長様は本気で京を目指すつもりなのか」
「おそらくそうなのでしょう。信長様は大器過ぎて我らとはまるで違うものが見えているのかもしれませんなぁ」
「それは何となくわかる。信長様のお考えはさっぱりわからん」
信長は拝謁が終わると京を見物することなく足早に帰国の途についた。その速さは上洛した時よりも早い。おそらくは斎藤家の再度の襲撃を警戒したのだろう。結局帰り道は何の障害もなく帰還できた。
帰国した信長は迅速に動いた。すぐに軍勢をまとめ出陣し伊勢守織田家の居城である岩倉城を包囲したのである。先年の戦いで大損害を受けていた伊勢守家は勢力を立て直すこともできなかったらしい。満足な抵抗もできず数か月で降伏した。上洛したのと同年中のことである。ともかくこれで信長は尾張の大半を手中に収めることが出来た。
「次は美濃か、はたまた三河(現愛知県南部)か。上洛するつもりなら美濃だろうが」
可近は信長の次の目標をそう見た。ところが織田家は翌年それどころではない大変な事態になってしまう。
永禄三年(一五六〇)駿河、遠江(ともに現静岡県)三河を支配下におさめている大大名の今川義元が終わりに向けて出陣した。織田家はこれに対応しなければならないのだがいかんせん兵力が違いすぎる。信長は尾張の大半を手中に収めているが今川家は三ヶ国を支配する大大名なのだ。
今川家は織田家の砦を次々に攻めかかっている。兵力差もあり攻め落とされるのも時間の問題かと思われた。
可近は清州城で待機している。信長の命令があればすぐに動ける準備は進めていたが、党の信長からは何の命令もなかった。これには可近も内心慌てている。
「この状況で何もせぬとは。信長様の考えはいったい…… 」
そんなことを考えているとにわかに城内が騒がしくなった。なんでも信長が一人で城を飛び出したという。
「なんということだ。ともかく我らも追おう」
可近は同じく待機していた旗本たちに呼びかけて急いで信長の後を追いかける。同じように信長を追って飛び出す家臣たちが続出した。やがては一軍を形成する。このころになると激しい雨が降り出し見通しが大分に悪くなっていた。
「我に続け」
信長はそういや再び駆け出す。可近達は必死で追いかけた。やがて雨の向こうに見慣れぬ集団が見えてくる。
誰かが言った。
「あれは今川の旗印」
可近、いや織田家の家臣たち全員が目の前に現れたのが敵だと理解した。そして我先にと敵に襲い掛かる。今川家の将兵は豪雨の中から現れた敵に動揺した。
また誰かが言った。
「目指すは大将首のみ」
その声に導かれるままに可近達は戦場をかける。このころには今川家の将兵の動揺も収まり必死の反撃を仕掛けてきた。だがそれでも織田家の勢いは止まらない。さらなら乱戦となりどこに誰がいるのかもわからなかった。
可近はその巨体を振り回して暴れる。普段ののっそりとした様子からは信じられないほどの躍動ぶりであった。当の可近はただただ必死に暴れているだけである。必死で戦い敵の雑兵を討ち取っていった。
やがて雨を切り裂くような叫び声戦場に響く。
「敵総大将! 今川義元殿! 討ち取ったり! 」
その叫び声が響いた瞬間敵も味方も手を止めた。そして響き渡る織田家の将兵の歓声。今川家の将兵は蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
こうして織田家は今川家との戦いに勝利した。ここから織田信長の更なる飛躍が始まるのである。
今川義元を討ち取り今川家の大軍を撃退した織田家。すさまじい大勝利ではあるがあくまで迎撃である。尾張への今川家の影響力は衰えたが領土が増えたわけでもない。織田家の勢力は相変わらずである。
勝利で湧く織田家の中で可近は比較的冷静であった。
「窮地は去ったが敵を前後に抱えているのに変わりはない。信長様はどうなされるのか」
そんなことを考える可近。だが事態は思わぬ形で好転していく。
尾張の南に隣接しているのは三河である。ここは今川家が支配していたが、そもそもは松平家の領地であった。松平家は今川家に従うことで領地を維持していたが、義元の戦死という緊急事態を受けて方針を一気に転換する。今川家からの独立を果たしたのだ。
むろんこの方針を今川家が認めるわけはない。そのため今川家と松平家は敵対関係になる。一方松平家は織田家とも敵対していた。要は織田家と同じく前後に敵を抱えているということになる。
松平家の当主、松平家康は決断する。
「勢いに乗る織田家より義元様を失って衰える今川家と戦った方に勝機がある。織田家と同盟を組もう」
この考えは信長も同様であった。家康はかつて織田家の人質だった時期がある。その際に信長と知り合っていたようで家同氏はともかく個人同士では友好的な間柄であった。
「竹千代(家康の幼名)はこちらと組むつもりか。よかろう」
話はうまい具合に進み両者の同盟は締結された。信長の居城である清州城で結ばれたというこの盟約は後の世に清州同盟を呼ばれるようになった。この先長く続く盟約である。こうして織田家は後攻の憂いを断ち思う存分斎藤家との戦いに邁進していく。
清州同盟が結ばれた年と同年に斎藤家の当主である斎藤義龍がこの世を去った。まだ三十三歳の若さである。跡を継いだのは嫡男の龍興で当時十四歳。まだまだ若いうえに祖父や父と比べて凡庸であるという風評がある。むろん斎藤家は動揺した。そしてこの隙をねらわぬ信長ではない。義龍が亡くなったと知るや迅速に出陣して迎撃に出てきた斎藤家に痛手を与えたのである。さらに翌年にも出陣して斎藤家に勝利した。
しかし美濃での織田家の影響力は一向に強まらない。また戦では圧倒しているとはいえ何度も清洲城から出陣し引き返すというのでは労力も大きい。そこで信長はあることを行った。城の移転である。
城の移転は織田家家中にあまり歓迎されなかった。
「代々住んでいる清州の地から別の場所に移るとは考えられぬ」
「清州で何の不便もないではないか。ここより北に移るというがそれにどれほどの意味があるのか」
主に古くから仕えている家臣達から不満が上っている。一方可近はあまり気にしてはいない。
「信長様は美濃により近い位置に移ろうと考えているのだろう。しかし皆と一緒に大移動するのは確かに大変ではあるなぁ」
可近はもとより信長のやろうとしていることに逆らうつもりなどない。またそれを行う合理性も理解しているので従うつもりであった。とはいえ移転を行うことで生じる不満や苦労も一応は理解しているのである。
さて城の移転に関する計画は信長の意を受けた一部の人々で極秘に進められている。
したがって可近などほかの家臣の耳に入るのは北の方に移転するという噂だけである。その噂をもとに不満はどんどん高まっていった。
そうした中で信長から正式に城の移転の発表があった。移転先は尾張の二ノ宮山であるという。場所は尾張と美濃のあたりである。当然というべきか反対の声が噴出した。
「そのような遠方に向かうのは大変すぎます。いくら殿の御命令でも承服しかねます」
「我らがその身一つで向かうのは良いのですが一族郎党引き連れては難しいかと」
こうした不満の声を信長は黙って聞いていた。それからしばらくは不満の声が相次いでいる。だがこうした状況を可近は不思議に感じていた。
「信長様のお人柄なら強引にでも進めそうなものであるのだが」
可近の知る信長は即断即決で周りに相談せず物事を決める人物である。しかもその考えは周りには碌に知らせない。
そう考えた可近はある一つの考えに行きついた。
「信長様には何か考えがあるのだな。私たちの知らない本当のお考えが」
これは正解であった。後日信長は家臣を集めてこう宣言したのである。
「先だっての城の移転の話。皆の意見をよく聞いた。皆の不満はもっともである。二ノ宮山はさすがに遠い。したがって城は小牧山に移すことにする」
この宣言を聞いた家臣たちは無言で頷いた。中には不満そうな顔のものも居るが少数派である。あれだけ不満や反対を言っていた者たちの大半が移転を了承したのだ。
可近はなるほどと納得した。
「(人間自分たちの考えが認められた、いや認められたと感じれば不満はおのずと消えるということか。信長様はそこをついてきたということか)」
小牧山は確かに二ノ宮山より清州に近い。ただ位置関係でいくと二ノ宮山の手前にあるのが小牧山なのだからそれほどの距離の違いはなかった。だというのに皆了承してしまったのだから何とも言えない話である。とはいえこれで小牧山への移転は無事に進み、永禄六年(一五六三)には城もできて家臣たちの移住も順調に進んでいった。
小牧山城に本拠地を移した信長がまず攻略を目指したのが犬山城である。犬山城は尾張のうちでまだ信長の勢力圏ではない。ここは信長と同族の織田信清が城主であった。信清ははじめ信長に力を貸していたが近年は不和となり斎藤家と懇意にしている。斎藤家からの後援も強く信長も容易には手を出せなかった。
だが永禄七年(一五六四)斎藤家家臣の竹中重治と安藤守就が斎藤家の居城である稲葉山城を占拠するという大事件が起きる。これは主君龍興の不行状を改めさせる意図で行われたものであったので半年ほどのちに稲葉山城は龍興に返還された。しかし龍興の行状は改まらず稲葉山城占拠の件もあって斎藤家に疑念を持つ家臣や領主たちも現れ始める。結果斎藤家の結束は乱れて思うように動けなくなったのだ。そうなると当然犬山城への支援も以前のようには行えなくなる。
「この隙に犬山城を攻め落とすのだ」
信長は自ら指揮を執って犬山城の攻略に臨む。一方一部の家臣たちに命じて美濃東部の領主たちの調略も進められた。
この調略で主に活躍したのが丹羽長秀と木下秀吉である。長秀は信長と付き合いの長い家臣で温厚篤実であるが抜け目のない人物であった。一方秀吉は尾張の農民の出であるが頭の回転が速く巧みな話術を得意とするひょうきん者である。長秀の誠実な説得と秀吉の話術で戦わずして城を落とそうという考えであった。
可近はこの二人の補佐をすることとなった。
「拙者も多少ならば美濃のことにも詳しい。それにこの前の上洛の際に美濃のことに詳しいものを金森から連れてきた。役に立つはずです」
「それは重畳。ご助力ありがたく思います」
「いやぁのっそり殿はなかなかに先を見通しておりますなぁ。いやはや感心しまする」
長秀と秀吉に褒められて可近としてもまんざらではない。
さて長秀と秀吉による美濃の調略は驚くほどスムーズに進んだ。長秀と秀吉の説得が巧みであったのも事実であるが、それ以上に斎藤家への失望が大分に広まっていたのである。犬山城も落城し戦いの趨勢は織田家に傾きつつあった。
そんな中で斎藤家に味方する姿勢を崩していない城主がいた。名を岸信周と言う。堂洞城の城主であり斎藤家でも豪勇で知られた人物でもある。この信周には長秀と秀吉の説得も受け入れられなかった。あくまで斎藤家を離反するつもりはないらしい。
そんな信周の説得を可近は任されることになった。驚いた可近に秀吉はこう告げる。
「何でも貴殿の御父上と岸殿は友であったそうだ。その縁で何とか説き伏せてはくれい」
ひょうきんな笑みを見せて言う秀吉。可近も断る理由もないので頷く。ただ
「うまく行くかは保証しかねます」
とだけ言った。
こうして説得に赴くことになった可近。そして可近はある戦国武将親子のすさまじい覚悟と生き様をその目で見ることになる。
織田信長の人生のターニングポイントと言えば桶狭間の戦いでしょう。戦国時代で最も有名なジャイアントキリングで多くの作品で取り上げられています。そんな有名な戦いですがいまだ実態については謎が多く議論も行われています。ただまあ何にせよ信長が大差を覆したことはゆるぎなさそうではありますが。
さて次の話はある戦国武将親子の壮絶な話が中心となります。その親子の生きざまを見て可近は何を思うのか。お楽しみに。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では




