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戦国塵芥武将伝  作者: 高部和尚
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関一政 道の果て 第八章

 関ヶ原の戦いをうまく潜り抜け勝者となった一政。戦国の乱世も終焉に近づきつつある中で、一政はどうなるのか。そして一政の人生と言う道の果てにあるものはいかに。

 関ヶ原での戦いは徳川家康率いる東軍の勝利で終る。西軍に属していた大名は大半が領地を失い浪々の身に転落した。一部は領地が残ったものの大幅に減らされて家臣を路頭に迷わせることになる。もっともそんなことは一政にとってどうでもいいことであった。

「とりあえず私と関家の安泰は確たるものになった。やはりあの時の判断は間違い委ではなかったのだ」

 自信を深めている一政。しかしこの結果は貞泰の誘いがあってこそで、一政の判断で何か成し遂げたわけではない。もっとも一政はそこには触れぬようにしているのだが。

 ともかく一政は安泰を確信していた。だがここで思いもよらぬ幸運が舞い訪れる。

「亀山に転封?! しかも三万石のままで?! なんという幸運か! 」

 一政に訪れた幸運と言うのは旧領である亀山への復帰であった。しかも石高は現状と変わらぬ三万石である。

 なぜこんな幸運が訪れたのかと言うと実は単純な話である。このころの亀山の城主は岡本良勝と言う人物であった。この良勝が西軍に味方したため改易されたのである。そして空白地になった亀山に誰を入れるかと言うことで一政の名前が挙がったようだった。

「亀山は関家の旧領。だれでもいいがちょうどいいやもしれん」

 家康は特に考えもせず決めた。このころの伊勢は大半が徳川の譜代の本多家と外様であるが家康の信頼の厚い藤堂高虎の領地になっていた。亀山に関してはそこまで重要な地域ではなかったので一政でよいとされたのである。ともかく思いもよらぬ幸運で一政は旧領の亀山に復帰することができたのであった。


 亀山に帰還した一政は有頂天であった。

「この乱世を潜り抜けて一度は失った故郷に帰れた。これもすべて我が深謀遠慮のなせる業。我らながら驚くな」

 自画自賛の嵐である。それほど亀山への復帰はうれしいものであった。そして関家の家臣たちもこれに関しては同様である。

「一政様に付いていき会津に行ったときはもう戻れることはないと思っていた。だがこうなるとは嬉しい限りだ」

「左様。これよりは故郷の地にとどまり関家を盛り立てようではないか」

 そう口々に言って喜んでいる。またかつて会津についていかなかった家臣達も岡本家と辞し関家に仕えることを選んだ。

「これよりは一政様を主君として奉りまする」

 一政は快くこれを迎え入れた。正直以前から家臣の少なさは感じていたので調度いい。

「これより関家はさらに飛躍していく。皆にも期待しているぞ」

 有頂天の一政はこんなことを言った。家臣たちもそれに快く応えるのである。

 さて一政の亀山復帰のおよそ一年後、驚くべき一報が届いた。それは蒲生秀行が会津に復帰したということである。上杉家が没収された領地のうち会津を含む六十万石を与えられた。これは先だっての戦で功があったことに加えて秀行が家康の娘婿であることも理由であるらしい。

「あの秀行殿と蒲生家の家臣団で六十万石が治まるとも思えんな」

 鼻で笑う一政。実際蒲生家はこの後も家臣団の内紛に悩まされることになる。もっともそんなことはどうでもいいと考えている一政であった。一政は己の人生の道の果てまで安泰だと信じている。だが現実はそう簡単にうまく行かないものであった。


 亀山に戻ってきたからの一政はつつがなく平穏な日々を送っていた。しいて上げれば子がいなかったのが問題であるが、妻との関係も良好だし弟の子を養子にもらうことでその問題はクリアしている。領内の統治もうまく行き家臣団もここの考えは在れど一丸となって一政を支えていた。そして徳川家康は幕府を開き豊臣政権から独立して天下を治めるつもりらしい。そうなると家康に味方した一政を含む大名たちの将来も安泰である。

「もはや何の仔細もない平穏さだ。天下も家康様の下に治まるだろう。戦もなくなって命をかける必要はなくなる。こうも万事うまく行くとはな」

 そう言って平穏な日々をかみしめる一政。実際に家康は幕府を開き天下の諸侯たちは家康に従うようになる。そして皆領地を保証されて幕府の支配で生きていくようになった。

 こうして徳川幕府の体制が出来上がった。それから数年した慶長十六年(一六一一)一政に驚くべき命令が下る。

「亀山を離れて伯耆(現鳥取県)に移れと?! 」

 それは亀山から遠く離れた伯耆黒坂への転封の命令であった。この予期せぬ、取って湧いた命令に一政は驚愕するしかない。

 なぜこんなことが起こったかと言うとまず伯耆に中村一忠と言う大名がいた。中村家は伯耆のうち一七万石の地を領有する大名である。しかし当主の一忠が若くして病死し後継者がいなかったので改易となったのだ。

 改易になった中村家の領地は分けられて何人かの大名が入封されることとなった。一政もその一人である。領地は二万石増えた五万石とされた。ちなみに何の因果か犬山城で行動を共にした加藤貞泰も加増の上で移ってくるようである。

 一政は愕然とした。確かに石高は増えたもののせっかく戻れた故郷からまた出ていく羽目になったのである。

「なぜこんなことに。我々が何をしたというのだ」

 悲嘆にくれる一政であるが逆らうことなど出来ない。幕府の決定に逆らえば今の領地だって失いかねない。一政は泣く泣く移封の準備を進める。ところが家臣たちの中から不満が噴出した。

「せっかく戻れた亀山の地から何故また出ていかなくてはいけないのだ」

「そうだそうだ。それに黒坂など度と言う知らぬ地で生きていくことなど出来ようか」

 一政としては家臣達の言っていることはもっともである。共感もできた。しかし逆らえば関家が存続の危機に陥る以上、黒坂に移る以外の選択肢はないのである。

「残りたいものは残るがいい。だが新たに移ってきた武家に仕えられるかどうかは分からぬぞ。それでもいいなら残れ」

 この一政の言葉を受けて家臣たちは各々判断を下した。その結果家臣の三分の一ほどが残留の判断をする。そして一政は残りの家臣たちを連れて黒坂に向かうのであった。


 黒坂に移った一政たち関家の一同であるが一つ問題が生じた。

「わかっていたことだが家臣の数がまるで足らん」

 石高は三万石から二万石増えて五万石になった。当然それに伴って領地も大きくなっている。一方で亀山に残留した家臣もいたので人手がまるで足りなかった。

「まあ石高が増えたのだから家臣も増やせる。この地の者や中村家に仕えていた者たちなどを登用すれば問題なかろう」

 一政は旧中村家家臣を中心に黒坂に居住している領主などを取り立てていった。その結果、関家に少なくない数の新参家臣たちが増える。彼らは外様の衆と呼ばれ、その多くは一度主家を失い浪々の身になった者たちであったから関家から見放されぬように必死で働いた。特に新しい領地に移ったばかりの一政を助けよく献策をする。一政もそれらを取り入れて統治に生かした。

「さすがはこの地をよく知る者たちだ。迎え入れて正解であったな」

 一政も外様の衆の働きを称賛し重用した。これに伴い外様の衆の関家での発言力は増して行く。むろんこれは譜代の家臣たちにとっては全く面白くない話であった。

「外様の衆は殿の機嫌を取るようなことばかり。あんなものは真の臣ではない」

「まったくだ。それに領地の民に嫌われるようなことは我らに任せて自分たちはいい顔をしている。本当にこざかしい奴らよ」

 こうした不満が譜代の家臣達から上がり始めた。一方の外様の衆たちは今だ重要な役職を独占している譜代の家臣たちに不満を募らせる。

「今関家のお役に立っているのは我々だ。譜代の者どもは何もしていない。ただ昔から仕えているということだけで偉そうにしている」

「譜代の者殿も中には殿に無礼な口を利くものも居る。ああしたおごり高ぶっている者を我らの手で引きずり落さなければ」

 こうして徐々に関家の内部に剣呑は雰囲気が漂い始めていた。ところが一政はこれを気にしていない。

「譜代も外様も鎬を削りあっていけばわが家臣団は精鋭ばかりになるというもの。あえて争いを止めぬのも主君の役目のうちよ」

 自信満々に言う一政。一政は家臣達を操れると確信している。だがそれは思い上がりで関家内部での暗闘はますます激しくなっていった。だがそれを一政は気づいていない。


 慶長十九年(一六一四)徳川家康は大阪の豊臣秀頼を攻撃した。この時期の豊臣氏はもはや一大名と言っていい立場であったがその存在感は徳川の天下を乱しかねない存在である。家康はここでついに討伐を決意し、これを迎え撃つ豊臣方との合戦となった。

 この合戦に関家も動員されている。一政は豊臣方の籠る大阪城の北側にある京橋口から攻め入ることになった。

 この京橋口での戦いで関家は良く戦って戦功をあげている。

「おそらくこれが最後の戦になるであろう。ここで戦功をあげて幕府の覚えをよくしておけば関家は安泰だ」

 そう考えた一政は家臣達を奮起させるためにこんなことを宣言した。

「この戦で一番の武功を挙げたものは末代まで我が関家の宿老の座を約束しよう」

 この宣言を聞いて譜代の家臣も外様の衆も一もにもなく奮起した。そして双方お互いの邪魔をしつつ多大な犠牲を払いながら戦火を上げる。そして競うように一政に自分たちの戦功を報告した。

「此度の戦は関家代々の譜代である我らの活躍あってこそ」

「我ら外様のものでありながら関家のために奮起しました。それをお褒めください」

 一政としては自分の考え通り家臣たちが奮起して武功を挙げた。そう見える光景である。しかし実際は手柄の奪い合いであり味方の損害も少なくないのである。だが一政はそれを見過ごしていた。

「戦なのだ。少しばかりの損害は仕方ない」

 本当は譜代と外様が争わなければ出なかった損害である。ともかくこの年の戦いは和睦が成立して終わった。しかし翌年ふたたび徳川家が豊臣氏に攻撃を仕掛ける。今度は豊臣氏を滅ぼすことに成功した。

 関家は先年と同じく譜代と外様が手柄を競い合った。そして同じく邪魔をしあい味方に甚大な被害を出して戦功をあげている。この様子に一政は満足げである。

「うまく家臣を躍らせてこその主君である」

 満足げに笑う一政であったが、この戦で譜代の家臣と外様の衆の関係は決定的に悪化した。そしてこれが一政の人生を決めることになる。


 豊臣氏は滅亡し徳川の世は盤石なものとなった。このころから一政は隠居を考え始めた。

「もう私も年だ。後継ぎの氏盛は幼いが家臣たちがよく支えるだろう」

 そう考えて隠居の準備を始める。後事は大阪での戦いで活躍した家臣たちに任せることにした。先の一政の宣言の結果外様の衆の者から宿老が出ている。黒坂のことに詳しいものであったので今後の政務についても問題はないと思ったからだ。むろんこの決定に譜代家臣達から不満が出たが一政は黙殺した。

「不満など言わず手柄を立てればよかったのだ」

 幸いと言っていいがこの一政の発言が譜代の家臣たちに伝わることはなかった。だが家臣団の軋轢は無視できないものになってきている。そしてそれは元和四年(一六一八)に最悪の形で発現した。譜代家臣の者たちが共謀し外様の衆の宿老を暗殺したのである。さらに幼い氏盛を擁して外様の衆の排除を訴え始めたのだ。これに対して外様の衆も反撃に出て譜代家臣の何人かを殺害する。そして双方兵を率いてにらみ合いを始めたのである。

 隠居を目前に控えていた一政はこの報せに仰天した。そして双方に矛を収めるように命じる。しかしどちらも己の主張を訴えるばかりで聞く耳を持たなかった。

「こんなことをしたら関家は終わりだぞ! 」

 そう怒る一政であるが家臣たちは誰も従わなかった。

 やがてこの事態を重く見た徳川幕府は事態に介入し争いを収める。そしてこの事態の責任を一政に求めた。

「この事態は家臣が起こしたもの。どうか穏便な処置を」

 老境の一政は平謝りをした。しかしその内容が家臣への責任転嫁なのだからどうしようもない。幕府はこの一政の弁明を聞き原因は一政が家中の統制に失敗したことだとした。まったくもってその通りであるが一政は嘆く。

「ああ。ここまで来てこんなことになるなんて。私は何を間違えたのだ」

 関家への処分は改易と決まった。こうして関家は領地を失い大名の座から転落する。しかし一政の武功が一部認められ関家そのものが取り潰されることは避けられた。関家は氏盛が跡を継ぎ旗本として存続されることを許されたのである。

 旗本にも領地はある。関家に与えられた領地は何の因果か近江の蒲生であった。その名の通り蒲生家にゆかりのある土地である。

「これも因果か。だがならば攻めて亀山に戻りたかった」

 むろんそんな願いは許されるはずもない。改易から七年後、関一政は六一歳でこの世を去った。その晩年は悲嘆にくれたものだったらしい。


 大阪の陣の後でかなりの数の大名が改易の憂き目にあっています。一政の関家もその一つですが大半が家臣同士の諍いなどが原因です。乱世が終わり平穏な世に向かいつつある中で大名たちに求められたのは安定を維持する力なんだろうと思います。そしてそれがないと思われたものは容赦なく領地を失います。乱世を潜り抜けたのにこの末路なのは少し気の毒ではありますが致し方のないことの名のだろうとも思います。

 さて次の主人公は織田家家臣のある人物です。いったい誰なのか。お楽しみに。

 最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では

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