丸目長恵 タイ捨流流祖 第七章
新陰流の更なる高みを目指す長恵は疋田豊五郎、神後宗治、奥山公重の三人の高弟の指導を受けて成長していく。師と兄弟子からの厳しくもある慈愛の下で長恵は剣客としてさらに成長していった。
長恵が新陰流に入門してから時が流れて永禄五年(一五六二)になった。この間に長恵の腕前は高弟たちと並ぶほどになっている。そもそも強かったのもあるが長恵が信綱や高弟たちの教えを素直に受け取り成長してきたのも大きい。
長恵も二二歳になった。この年になると顔立ちから幼さは抜けている。だが素直さを表すような愛嬌は残っていた。長恵は威厳を出すために髭を生やしたかったが、豊五郎から
「貴殿には似合わんよ」
と言われたので生やしていない。
その日長恵は上機嫌であった。朝の食事を共にする玄静和尚は厳つい顔をほころばせて長恵に尋ねる。
「何か良いことがありましたのかな? 」
「いや、そういうことではありませぬ。ただ久々にお師匠様と高弟の皆様方がそろうので。それがうれしくて」
「ほう、それは珍しい」
このころは信綱の名声もいよいよ高まり出稽古先も増えていた。高弟たちも方々に散り長恵もいくつか出稽古先を任されている。
「皆で久しぶりに集まれるのだからうれしくてうれしくて」
山盛りの飯をかきこみながら笑顔で言う長恵。それを玄静は微笑ましく見守っていた。
この日も長恵は誰よりも早く道場にやってきた。長恵はまず道場の床を清めるのを日課としていたが、最近はほかの門弟たちもやってきてともに床の掃除を行う。
「皆がする必要はないのだぞ。これは俺が勝手にやっていることだ」
「これを行わなければ稽古が始められませぬ」
「左様。我々も勝手にやっているのですよ」
「そうか。それならば仕方ないな」
長恵は苦笑しながら言った。このころになるとかつて疑心を抱いていたものも含めて皆長恵を認めていた。それは信綱が認めていたからということ以上に長恵が己の態度で示し続けていたということである。
やがて床の掃除も終わると道場での稽古が始まった。最近の長恵は門弟たちへの指導を行うようにもなっている。それだけ長恵が新陰流をよく習得しているということであった。それからしばらくして公重が姿を現す。この日は出稽古がなかったので早めに顔を出したのだ。長恵はせっかくだから公重に立ち合いを申し出る。
「公重殿。手合わせをできませんか」
すると公重は首を傾げた。
「貴殿は聞いていないのですか。いや、あのときいた豊五郎殿と拙者だけが聞いていたのか」
「何のことですか? 」
「いや、拙者も詳しいことは分かりませぬ。だがこの日集まった貴殿と拙者、豊五郎殿と宗治殿は手合わせをせぬようにとお師匠から命じられたのです」
「そうなのですか? しかしなぜ」
「ううむ。実は拙者もそれがわからぬのだ。まあお師匠は何かお考えなのでしょう。気にすることはありませぬ」
そう言って公重は稽古を始めていた。それからしばらくして豊五郎と宗治が連れ立ってやってくる。長恵は先ほどの公重から聞いたことを二人に尋ねた。
「某も疋田に聞いたばかりだ」
「拙者もお師匠様から聞いた以上のことは知っておらぬよ」
二人も困惑しているようだった。だが信綱が言い出したことなので気にしないことにする。なんにせよ信綱は来るはずなのでそこで聞けばいい。長恵も素直に稽古に戻っていった。
高弟の四人がそろったところで信綱が現れる。信綱は高弟たちにこう言った。
「これより二人ずつで新陰流の組太刀を披露するのだ。すべての組み合わせで、全員打太刀と仕太刀を務めること」
組太刀は二人で行う方稽古のことである。仕太刀が相手を倒す方で打太刀が技を受けて倒される。
「では始めよ」
信綱の号令で高弟たちは二人ずつ組太刀を披露していった。長恵たち高弟たちは真剣を使うような緊張感で組太刀を行っていく。信綱はそれをじっくりと見ていた。
ほかの門弟たちは緊張の面持ちで眺め、終わると安堵したかのように息を吐く。そしてまた始まると緊張の面持ちで組太刀を見た。一方の信綱は汗一つ書かずじっくりと組太刀を眺めている。
一方の高弟たちはただ自分が習得してきた新陰流の型を披露することにのみ集中した。もはや信綱の存在を忘れるほどである。そして仕太刀際には己の剣を受ける打太刀の技に感銘している。本来打太刀というのは仕太刀に比べて上級者が行うものであった。打太刀はいかに技を引き出すかという難しい技量が要求されるからである。
長恵はただひたすらに仕太刀と打太刀を務める。そして打太刀を務める三人な感嘆した。そして三人は感動している。この二年ほどで長恵がここまでの水準に至ったことを。ただ素直に感動していた。
その日の稽古も終わり皆が帰っていく中で長恵たち高弟四人は信綱に呼び出された。
「皆に話さなければならないことがある」
そう語り始めた信綱。いつもより若干重い口ぶりである。長恵は身構えたがほかの三人は気にしていないようである。何があっても受け止めるといった雰囲気であった。長恵はそれを察して心中で感心する。
「(さすが皆様方は動じないな。俺などはまだまだだ)」
長恵が感心していると信綱が口を開いた。
「此度公方様より兵法の上覧を求められので承知した」
この信綱の言葉に平静を保っていた長恵の兄弟子たちも驚いたようだった。それもそのはずで武家の棟梁たる室町幕府将軍から兵法の上覧を求められたということは、すなわち前国の武家の長が新陰流を学びたいと言っているようなものである。それは新陰流とそれを作り上げた上泉信綱という人物が天下に認められたということと同様であった。
四人ともその意味をよく理解している。特に長恵は大喜びであった。
「おめでとうございます! これで新陰流は天下の剣法となったのですね」
思わず喜びを口にする長恵。それを師匠と兄弟子たちは微笑ましげに見ている。と、ここで信綱の表情が引き締まった。
「上覧の際には組太刀も披露することとなっている」
これを聞いて今度は全員の表情が引き締まった。組み太刀をするということはもう一人誰か上覧の場に出ることとなるからである。この場に呼ばれたということは全員が後方であった。だが内心長恵はこう考えていた。
「(おそらくは一番古くからの弟子である宗治殿。もしくは年少の時から手ほどきを受けていた豊五郎殿だろう。だが公重殿の自在の剣ならむしろ組太刀に向いているのか)」
そんなことを考えていた。だがここで信綱は長恵の予想もつかないことを言う。
「組太刀の仕太刀は私が勤める。打太刀は長恵が務めよ」
「は……? 」
固まる長恵。すると兄弟子たちはあっさりと認めた。
「某もそれがよいと思います」
「まあ適任でしょうな。今の長恵殿なら大丈夫でしょう」
「いやはやうらやましい。まあこれで拙者も安心でしますな」
「ふむ。皆も納得してくれたようだ。ならばこれまで」
そう言って信綱はその場を去ってしまった。高弟たちもそそくさと立ち去る。その場には呆然とした長恵だけが取り残された。
長恵は疑問を抱えながら帰途についた。
「(なぜお師匠様は俺を打太刀に選んだのか。それにお三方も何故俺が選ばれたことに何も思わんのか)」
疑問は尽きないが答えは出ない。上流寺に帰ると小坊主が心配そうに長恵の顔を覗き込んだ。
「どこかお体の具合が悪いのですか? 」
そこで長恵は自分が険しい顔をしていることに気づく。そしてそんな自分に苦笑しながら言った。
「心配いらん。ただ考え事をしていただけだ」
そういうと長恵は夕食まで自室にこもっていろいろと考えていた。だが答えは出ない。長恵はこうなってはということで思い切って玄静に尋ねてみた。
「一体どういうことなのでしょう。何故俺は選ばれて誰も疑問に思わないのか」
長恵は事のあらましから自分の疑問まですべて素直に話した。玄静は何も言わず聞いていたが、長恵の話が終わるとゆっくりと口を開く。
「何故長恵殿は疑問を抱くのです? 」
まさか質問をかえされると思っていなかった長恵は面食らう。だがすぐに気を取り直してこう答えた。
「何故もというか、そもそも俺がすべてにおいて不相応だからです」
「上泉様も高弟の方々もそう思っていないのにですか? 」
こう言われて確かにそうだと長恵は感じた。信綱は長恵が打太刀にふさわしいと考えていた高弟たちも問題ないと考えていたから何も言わなかった。だがそれでも長恵は釈然としない。すると玄静は長恵の心を見透かしたかのようにこう言った。
「今長恵殿のお力を認めておられないのは長恵殿のみなのですよ」
「俺が俺の力を認めていない? 」
「一度折れた骨はつながるのに時間がかかる。しかし再びつながった骨は強くなるといいます」
そう言われて長恵は少し考えこんだ。そしておずおずと切り出す。
「俺は強くなれましたかな」
玄静はこう答えた。
「その答えは己の心の中に」
そう言って黙る玄静。長恵はため息を吐くと食事に戻った。
長恵が剣術上覧の打太刀に選ばれた翌日、朝早くから型稽古に臨む長恵の姿があった。その姿には一切の迷いはない。
あれから一晩中長恵は考えた。だが答えは出ない。すると長恵は考えるのをやめた。
「よくよく俺が考えてもどうしようもないことだ。お師匠様は俺を選んだ。お三方は俺を認めてくれた。俺にできるのはお師匠やお三方の期待を裏切らぬ姿を見せることだ。そのために準備をして務めを果たすのみ」
要するに開き直ったということである。しかしながら今長恵の考えていることは心理もであった。選ばれた以上は全身全霊をかけて務めを果たす。それだけである。
そんな稽古に励む長恵の姿を高弟たち三人はこっそり見守っていた。
「あれでよかろう」
と、満足げに宗治は言う。公重も同意した。
「昨日は悩んでおられたようだったがあれならば問題ないでしょうね。しかしながら一晩で答えを出せるとは見事」
公重の言葉を受けて豊五郎はこう言った。
「今の長恵殿は心身ともに完璧に近い。あとはそれを完璧に近づけるだけ。我々はそれを助けるのみ」
豊五郎の言葉に二人はうなずいた。三人は長恵に声をかけてそれぞれ仕太刀を務める。長恵も兄弟子たちの思いに応えるべく全身全霊で打太刀を務めた。こうして兄弟子たちの助けもあり長恵は万全の状態で上覧の場に臨む。
いよいよ兵法上覧の日となった。長恵は信綱と共に門弟たちに見送られて道場を出る。もはや何の躊躇いも恐れもなかった。ただ上覧の場で習得した新陰流の技を披露するだけである。
剣術の上覧は室町幕府の御所で行われる。当時の将軍は足利義輝。武芸を好む人物であり自身も鹿島新當流を習得する剣士であった。
新當流は信綱と並ぶ剣客と呼ばれる塚原卜伝が創設した剣術である。長恵もあったことはないが名前は聞いていた。
「お師匠様にならぶ剣客がいるとは。世の中は広い」
このころの長恵はそうしたことを素直に受け入れられるだけの度量が備わってきている。
さて御所に入った長恵は信綱とともに待機していた。これまでに信綱は何も長恵に語り掛けてはいない。しかし長恵に不安はなかった。
「(何も言わぬということは俺を信頼されているのだ。俺ができるのはそれに全力で答えること。それだけだ)」
やがてその時が来た。長恵と信綱は呼び出され共に義輝に拝謁する。
「面を上げよ」
平伏していた長恵は信綱とともに顔を上げた。そして初めて武家の棟梁たる征夷大将軍の姿を見る。
義輝の顔立ちには気品があった。それでいて体格は良さそうで確かにひとかどの剣士であることがわかる。義輝は信綱に親しげに語りかけた。
「この日を待ちわびておった。わが師と並ぶ天下の剣。見せてもらおう」
「承知いたしました。必ずやご期待に応えます」
「そうかそれはいい。それよりも」
そう言って義輝は長恵を見た。その表情には疑問が浮かんでいる。
「この者は? 」
「私の高弟の丸目長恵でございます」
長恵は再び平伏する。一方の義輝は長恵に懸念の視線を向けた。
「ここにいるということは組太刀の相手を務めるのだろう。大丈夫か? 」
その疑問が意図するところは長恵の技量への疑問視である。この時まだ長恵の名はあまり知られていなかった。何より若い。ゆえに非礼ともいえる質問が出たのである。
義輝の質問に長恵は答えない。信綱は一言だけ言った。
「それはこれからご覧になれます」
そう言って信綱と長恵は立ち上がる。この時信綱は長恵を見た。そして安心する。
「(これは大丈夫)」
長恵の目に迷いはない。信綱も安心して準備に移った。
二人が準備を整えると双方距離を取って立つ。そしてゆっくりと近づき組太刀が始まった。この時義輝を含むその場にいた人間からどよめきが起こる。それもそのはずで師である信綱が仕太刀を務め、弟子の長恵が打太刀を務めていたからである。
「どういうことだ…… 」
義輝は理解できずにつぶやいた。しかし組太刀が進むにしたがって疑問も氷解する。どよめきもなくなった。なぜなら長恵は完璧に打太刀を務めていたからである。それは新陰流を理解し習得しているという証であった。
「(この短い間にここまでに至るとは。見事)」
信綱は仕太刀を務めながら長恵の成長に感動していた。この二年間で長恵は新陰流の深いところまで理解していたのである。信綱はそこを見越して長恵を打太刀に選んだのだが想像以上の姿であった。
一方の長恵はただ無心である。無心で打太刀の役目を務めあげた。そして新陰流のすべての型を終えた時長恵はやっと正気に戻った。そして自分に一礼する信綱に送れて一礼する。そこで義輝の声がかかった。
「見事である。あっぱれだ! 」
義輝は子供の用に喜んでいた。一方の長恵は何とか自分の役目を果たせて安堵するのであった。
こうして長恵は見事役目を果たした。そしてこれをきっかけに長恵の名も知られるようになるのである。
仕太刀と打太刀の役割は劇中で記した通りです。本来なら打太刀は師匠が務めるものなのですが義輝の前での上覧の際には弟子である長恵が打太刀を務めました。その理由は不明ですがなんにせよ長恵の力量が認められていなければ打太刀を任せられません。この時点で長恵は間違いのない技量とそれほどの信頼を得ていたといえるでしょう。弟子入りしてからわずか数年でここまで至れるのは本当にすごいことだと思います。
さて見事打太刀の務めを果たした長恵。ですが次の話では思いもがけぬことが起きます。いったい何が起きるのか。お楽しみに。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では
 




