丸目長恵 タイ捨流流祖 第五章
長恵と信綱の立ち合いは長恵の完敗で終った。これまでに積み上げてきた自身も何もかも打ち砕かれた長恵はいったいどうするのか。
長恵は暖かい感触に気づいて目を覚ました。見知らぬ部屋である。そして自分が布団で寝ていることに気づいて驚いた。
「誰がこんなことを」
寝たままでつぶやく長恵。もっともすぐに信綱の門弟のだれかだろうと思いつく。
「(道場に置いたままにしておけんだろうしな)」
実際長恵を運んだのは信綱その人である。とはいえこれだけの道場を持っている男が道場やぶりにこんな手厚いことはしないだろう。それが普通であるから長恵もそこに思い至らない。
この時の長恵は起き上がることができなかった。体はそこまで痛めつけられていない。だが心の方が折れてしまっている。
「(負けた上にここまでされて。本当に情けないし師匠や皆に申し訳ない)」
立ち合いで負けた上にここまで労わられては心身ともに敗北した気分である。これまで積み上げてきたものが何もかも崩れ去ってしまった。長恵はそうひしひしと感じている。
「(京にたどり着いてこのありさま。これよりどうするか)」
今の長恵には具体的な目標が無くなってしまっている。京を目指すのはひとまずの目標であったが、本来の目的は修業と見聞を広めるのが目的であった。道中それができていたかと思ったがこのありさまである。
長恵は天井を見上げながら今後のことを考える。だがそこには一筋の光すらも見えなかった。
長恵は起き上がることもできず天井を見上げている。そしていろいろなことを考えるが今回のことが衝撃的すぎて敗北感しか浮かばない。
「(いったいここからどうすれば)」
考えのまとまらない長恵は天井を見上げることしかできない。そしてその事実に気づき自己嫌悪に襲われる。もはやどうしようもないくらい長恵の感情は後ろ向きであった。
「(ああ、皆に期待されて送り出されてこのありさま。調子に乗った自分が憎らしい。ああ、
もう死んでしまいたいくらいだ)」
いよいよそんなことを考え始めた長恵。すると襖が開き大柄な男が入ってきた。疋田豊五郎である。
「お加減はどうか」
そう尋ねられた長恵は気力を振り絞って布団から出る。そして平伏してこう言った。
「いえ、問題はありません。俺のようなものにここまでしていただきありがとうございます」
「何の。運んだのも布団を敷いたのもお師匠です。拙者はお礼を言われるほどのことはしておりませんよ」
長恵は絶句した。まさか信綱が自分を運んでくれたのだとは思いもよらなかったからである。そして改めて自分のふがいなさに落胆した。
豊五郎は肩を落とす長恵を見て無言で立ち上がる。そして部屋を出ようとするがその時にこんなことを言った。
「敗北は糧にござる。拙者も何度敗れたことか。しかし命ある限り道はあるとお師匠はおっしゃられている。拙者もそう思う」
そう言って立ち去る豊五郎。残された長恵は豊五郎の言葉を反芻した。そしてある決意を固める。その時の長恵に先ほどまでの弱気な姿は微塵もなかった。
長恵が信綱の道場を訪ねたのは昼前くらいである。長恵が目を覚ましたのは昼過ぎぐらいで、道場で稽古をする門弟たちも十数人くらいに増えていた。信綱は見所で稽古を見守っていて豊五郎が門弟たちに指導をしている。活気はますます増えていて気合の掛け声が道場に響いていた。
見所で稽古を見守っていた信綱が唐突に口を開いた。
「お入りなさい」
いったいなんだと動揺する門弟たち。信綱は穏やかな表情で道場に入り口を見つめている。その見つめる先には長恵の姿があった。
長恵は一礼するとゆっくりと道場に入ってくる。立ち合いを見ていた門弟たちは様々な反応を見せる。
「いったい何しに来たのだ」
「まさかまたお師匠様に立ち合いを挑むつもりか。力の差は思い知ったはずであろう」
「もしやすると負けを認めて謝りに来たのか。それならばよい心がけだが」
不快に思う者。侮蔑の表情を見せる者。不安を感じる者。黙って見届けている者。反応はさまざまである。だが信綱と豊五郎は穏やかに微笑んで長恵を見つめていた。
長恵は道場の中央まで進むとその場に正座した。そして信綱に頭を下げる。
「非礼を働いたのに介抱していただきありがとうございます」
「そうですか。怪我はないようですね」
「はい。強い体に生んでくれた母に感謝しております」
「そうですか。それは良かった」
そう言って信綱は微笑んだ。一方で長恵は押し黙って何やら決意を感じさせる表情をしている。
一瞬、道場が無音になった。門弟たちの間に緊張が走る。すると長恵は平伏して叫んだ。
「俺を信綱様の弟子にしてください! 」
道場内に響くような大音声であった。叫んだ長恵は道場の床に額付けたままでいる。そんな長恵に信綱はこう言った。
「勿論かまいません」
信綱の言葉に長恵は顔を輝かせる。
「ありがとうございます! 」
再び道場に長恵の大音声が響く。門弟たちはあっけに取られていたが豊五郎だけは笑っていた。ともかくこうして長恵は新陰流の門下になったのである。
長恵は無事に信綱に許されて新陰流の門下になった。この際に信綱は長恵にこんなことを言っている。
「天草伊豆殿から習ったことの上に新陰流の教えを重ねなさい。さすればあなたは新陰流を習得しその先を行くことになるでしょう」
伊豆に習ったことを否定されなかったのはうれしいことである。だが長恵にはわからないことがあった。
「その先とは何ですか? 」
「今はまだわからなくて構いません。ただ、あなたは新陰流の先を知ることができるものだと信じていますよ」
正直よくわからないままだがこう褒められると素直にうれしいものである。長恵は素直に喜んで修練に励んだ。
さて入門したての頃の長恵に対する視線は厳しかった。最初は道場やぶりのような形で現れたのだから当然である。また信綱に完膚なきまでに打ち倒されたのでその実力を侮るものも多かった。そして長恵がどこか信綱に気にかけられているようにも見えたのも長恵への視線を厳しくしている理由の一つである。
「そもそもあのような非礼を行ったのに。お師匠様は許されたかもしれんがあのような者を置いては新陰流の品格に関わる」
「体はでかいが大した腕ではないだろう。あのような田舎剣術を学んだだけの男が新陰流を修めるということなど出来るわけがなかろう」
「お師匠様はどこかあの者を目にかけているような気がする。入門を許したのはそれが理由であろう。しかしあのような男がなぜ」
こう言った感じである。もっともこうした視線を長恵は気にしなかった。長恵は自分が非礼な真似をしたということは自覚している。だがそれをあっさりと許して門人にしてくれた。さらに期待してくれた信綱に応えたいという気持ちが生まれたからである。
「今はただただ初心に帰って修練だ」
長恵は伊豆の下に弟子入りした時の気持ちを思いだしながら修練に励むのであった。
長恵は京で暮らす間は上流寺に寝泊まりさせてもらうことにした。玄静入門して帰ってきた長恵を見て一言こう言っている。
「鼻が折れましたかな」
こう言われて驚く長恵であったが怒りはしなかった。
「まったくその通りです。ご住職は見抜かれておいででしたのか? 」
「御仏に仕えていると何となくそんなことがわかるのですよ」
「だったら初めからそう言っていただければ」
「それではだめですからああしたのですよ。効果はてきめんでしたな」
そう言って笑う玄静。長恵も苦笑するしかなかった。だが玄静の明察に感服したのも事実である。そこでこう頼み込んだ。
「玄静様の下で過ごすのも修業になるかと思います。もうしばらくここに置いていてもらえないでしょうか」
「ああ。構いませぬよ」
玄静はあっさりと了承した。長恵も少し驚く。
「構いませんので? 」
「構いませんよ。何、京が栄えているとはいえ物騒なことも多い。腕の立つ方がおられたら拙僧も安心です」
「なるほど。ならばさらに修行をしなければならんですね」
そう真面目な顔で言う長恵。これを見て玄静は大笑いした。
「今の腕でも十分でしょう。ですがあなたの目指すところに行くにはもっと修業が必要でしょうね」
「それはもちろん。それを信綱様の下で学ぶのです」
胸を張って言う長恵。だがその姿にはおごりや勘違いはない。一つ長恵が成長したの見届け玄静は安心して見守るのであった。
新陰流の門下になった長恵は日々稽古に励む。道場には早くにやってきて床を掃除してほかの門下がやってきたらともに指導を受けて修練に励む。だがここで長恵にとっては思いもよらぬことがあった。
「信綱様が居られない日が意外と多いのだな。いったいどこに行っておられるのだ」
これに対して当座長恵の面倒を任せられた兄弟子がこう答えた。
「お師匠様や新陰流の名声は世に広まっている。その剣法を是非に伝授していただきたいとおっしゃられる方々が多いのだ」
そもそも信綱は幕府の将軍である足利義輝から幕府の旗本への新陰流の伝授などを依頼されている。ほかにも近隣の大名や領主から招かれて新陰流の伝授を行うこともあった。そういうわけで多忙であり道場にいない日も多い。
「そういうことか。伊豆様と違って領地を持っているわけではないのだから当然か」
かつて長恵が支持していた天草伊豆は剣客、兵法家であると同時に天草郡の領主であった。そのため弟子たちに稽古をつけるとともに領主としての政務も行わなければならない。領主としての伊豆には家臣たちがいて、その中にも門弟はいた。彼らも修業の傍ら伊豆を助けている姿を長恵は見たことがある。
一方信綱の道場では剣術の修業や兵法に関わる講義のみが行われていて、あくまでも剣術や兵法の修業の励むことができた。これに関しては長恵も軽い衝撃を受ける。
「剣術や兵法を学ぶのはいずれ侍として独り立ちした時の助けになると考えていた。だが信綱様のように剣術と兵法の伝授を主にする生き方もあるということか」
改めて認識を改める長恵。その上でこの先の自分の身の振り方も考える。
「修業を積んだら肥後に帰って家を継ぐものだと思っていた。だがそうでない生き方もあるのか」
そもそも信綱も長野家家臣からの全身から脱して一回の剣客なり今に至る。長恵もそうした生き方にあこがれはある。だが一方でかつて見た伊豆の姿にもあこがれはあった。
「伊豆様のように民のために剣術や兵法を生かす道もあるのではないか。結局俺はどちらが向いているのか」
自分の行く末について悩み始める長恵であった。
悩みは生まれた長恵だがそこについてに切り替えは早かった。
「結局今は新陰流を習得することしか道はないのだ。ともかく信綱様や兄弟子の皆様方に新陰流を習いこれを修めていくしかない」
そう考えて修行に励む長恵。なのだが少しばかり問題が生じ始めた。
「丸目はすでに強い。我らではとてもではないが稽古は付けられぬ」
そういうのは長恵の兄弟子たちである。当初入門したての長恵に幾人かの兄弟子たちが稽古がてらの立ち合いを求めたが皆長恵に敗れた。正直長恵を侮っていたものも居たのだが実際に立ち会ってみると敗北しその実力に驚くのである。
「あのような大敗をしたのはお師匠様が相手であったからなのだ。あの立ち合いを見て気づけぬ我らも未熟」
「左様。そうなると丸目の師であったという天草伊豆も相当な剣客であったのだろう」
こうなると素直に長恵の腕前を認めざる負えない。そして長恵の師匠であった伊豆の実力も同様である。これに加えて長恵が一心にひたむきに新陰流の稽古に励むのを兄弟子やほかの門弟たちも見ていたので、当初あった長恵への悪感情はほぼなくなっていた。
だがそれはそれとして長恵の実力の高さゆえに稽古がつけられなくなっているのも事実である。これには長恵も困った。
「俺は未熟者だから皆と共に鍛えるのがいいはずだ。まだ新陰流の基礎もできていないというのに」
長恵は強いがそれは新陰流を学んだからではない。だが長恵は新陰流を学び強くなりたい。しかし直近の兄弟子たちとは新陰流の妙技を教えることもできないほど腕前に差があったのである。さらに信綱がいるときはいいのだが最近はますます方々に出かけることが多く道場に居られる日も少なくなった。これは新陰流の名が広まったことが理由であるのが皮肉である。
「どうしたものか」
困る長恵。だがこの事態を信綱は予測していた。
「長恵も周りの者に認められてきた。ならば頃合いか」
道場で真剣に修練に励む長恵を見て信綱はそんなことをつぶやく。その長恵を見つめる視線には大きな期待が宿っていた。一方の長恵はそんなことを露知らず修練に励む。己を鍛え己の行く道を確かめるために。
剣術の道場というのは主に江戸時代からはやり始めたようで戦国時代当時はあまりなかったそうです。確かに剣客たちが大名などの下に剣術の伝授を行いに行くということはあったようでして、当時の剣客は道場経営よりそうしたことで身を立てていたようです。
さて長恵は完敗の衝撃からなんとな立ち直り新陰流の門下になりました。高弟たちとも出会いさらなる修業に邁進する長恵はいったいどうなるのか。お楽しみに。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では




