上杉朝良 転換点 第十一章
扇谷家の降伏で長かった長享の乱は終わった。朝良も、誰もが関東の動乱の終結を感じ始める。しかし戦国の世にはあちこちに動乱の種が埋まっている。そしてそれはあっさりと芽吹いてしまうのである。
両上杉の戦いは終わった。それは扇谷家の敗北という形であったが、朝良はむしろすがすがしい気分でいる。
「山内家と戦い続けても消耗するばかり。扇谷家を守るためならばどこかであきらめなければならなかったのだ」
この朝良の判断は家臣達には受け入れられた。家臣たちも長く続く戦いに疲れ切っていたのである。だが納得しないものいた。朝良の実父の朝昌である。
「兄上の悲願であった山内家の打倒をあきらめるというのか。また伊勢家や今川家とともに戦いを挑めばいいのではないか」
こう訴える父親に朝良はこう反論した。
「そもそもの地力が違いすぎます。我らは伊勢家や今川家の援軍を得て山内家とやっと互角。そこに古河公方様や越後上杉の援軍が来られたらどうしようもありませぬ」
「ならば古河公方様を再び味方につければいいではないか」
「古河公方様は伊勢殿を嫌っておいでです。どちらかしか選べぬということは勝てぬということと同義なのですよ」
こう言われては朝昌も黙った。その理屈がわからぬほど馬鹿ではないのである。こうして朝昌は不承不承納得し扇谷家は降伏を受け入れるのである。
戦いが終われば戦後処理というものがある。その中には敗者への処遇もあるわけであるがすべてが勝者の思惑通りに行くわけではない。
勝者であり戦後処理を差配する立場である山内顕定は頭を抱えていた。それは扇谷家への処遇である。
「お家の取り潰しはせぬ。それは約束通りだ。だが朝良には責を取ってもらわなければならん。腹を切ってもらう」
顕定は朝良の切腹をもって長享の乱の終焉ということにしようと考えていた。上杉本家の立場からしみてれば内紛を起こした一族の当主に切腹という形で責任を取らせるというのは当然のことだと考えている。また、勝利したという確たる証として朝良の命を望んだということもある。そしてこれを朝良は受け入れるつもりでいた。
「乱を起こしたのは養父上だ。しかし養父上がいない今は私が責任を取らねばならぬ」
朝良はそのつもりで降伏の条件に自分の命を外したのである。このうえでの責任の取り方は腹を切るぐらいしか思い浮かばなかったのだ。
そう言うわけで両上杉家の当主の思惑は一致していたのである。だがこれに頑強に反対したのが扇谷家臣達であった。
「そもそも戦を起こしたのは定正様。朝良様はその非を認めて降伏したのだから腹を切るのはあんまりだ」
「朝良様は今後山内家のために働くと言っている。それを蔑ろにして腹を切らせるというのは武門の名家のすることではない」
扇谷家臣たちの反対は強く、朝良も抑えられぬほどであった。家臣の中には朝良が腹を切るのならば、もう一戦山内家と戦をして討ち死にして後を追うというものがいるほどである。こうした反応に朝良は戸惑った。
「何故戦も終わったというのに。私のようなもののために」
朝良は正直自分が当主として不適格な人物であったと考えている。実際問題当初の扇谷家の家臣達もそうであった。だが立河原の戦いの前後で当主としての器量をみせ、降伏することで家名と一族郎党を守った朝良を家臣たちは当主として認めたのである。ゆえに今回のような行動に出たのだ。
顕定は扇谷家臣たちの反発の強さに怒った。
「我が温情で生き永らえたというのに。朝良も抑えられんとは。こうなったら我らの手で攻め滅ぼしてくれる」
そう考えた顕定は古河公方に援軍を要請して扇谷家を滅ぼそうと考えた。だが古河公方の政氏はこの要請を拒否する。
「降伏している者をなぜわざわざ攻め滅ぼそうとするのだ。ようやっと内紛がおさまるのだから多少の我儘ぐらいは聞いてやれ」
政氏は両上杉の争いを自分が関わったおかげで終結したように見せたかった。それは何度も援軍を派遣していたことからも分かる。長享の乱は自分が不在の時に決着がついてしまったのである。しかもその時の古河公方は直近の戦で負けているのだから面目は丸つぶれであった。政氏は結果的にそういう方向に向かわせた顕定に不信を持っていいたのである。それに加えてこれ以上延々と上杉家の内紛を見せられるのは不満であったということもった。
「朝良は殺すな。別の方法をとれ」
拒否の返事にそう添えて政氏は顕定の使者を突き返した。こうなると顕定も要求を飲まざる負えない。その結果考え付いたのが
「朝良は当主の座を退き甥の朝興に家督を譲ること。その際に河越城から出ること」
という条件であった。扇谷家臣はこれを了承して受け入れる。ただその際河越城を出た朝良の居所が問題となった。
顕定は自分の手元に置くと反発が出るので古河公方の管轄下である菅谷に移そうと考えた。だがこれにも扇谷家臣が反発した結果扇谷領内である江戸城に朝良は入ることとなる。
江戸城は定正が謀殺した太田道灌の居城であった城である。
「なんというか数奇としか言えぬな。まあこれからは隠居の身。ひっそりと生きるとするか」
思いもがけぬ形で生き残った朝良。これよりのちは隠遁して生きるつもりであった。しかしそれが許されるほど関東は平穏ではないのである。
朝良が降伏した翌年に朝昌がこの世を去った。兄定正と共に夢見た打倒山内家の悲願は果たされず、その悲願に終止符を打ったのは実の息子である。
この衝撃がよほど大きかったのか朝良の処遇が決まらないうちに老け込んだうえ病に倒れた。
「もう扇谷家は終わりだ。何もかも終わりだ」
そう譫言を何度も漏らしていたようだ。そして朝良の処遇が決まってからしばらく後にこの世を去った。あまりにもさみしい晩年である。
「せめて葬儀ぐらいは立派にしなければ」
朝良は亡き父のために葬儀を行った。これに扇谷家の家臣たちも多く参列する。これには朝良も戸惑うばかりであった。
「もはや私は扇谷家の主ではないというのに。こんなことをして山内家に目を付けられたらどうするのだ」
そう心配する朝良であるが、家臣たちは
「今のご当主はまだまだ幼い。朝良様に出てもらわなければどうしようもありませぬ」
と言ってのける。これには朝良は頭を抱えるしかない。
「そのようなことをすれば山内家は怒るぞ。結局滅ぼされてしまうのではないか」
そんなことを考えるがそれは杞憂に終わった。山内家は朝良が実質的に扇谷家を運営することを黙認したのである。
「私ならば逆らわないと考えているということか。まあ間違ってはいないが」
この朝良の読みは半分当たっている。顕定は自ら降伏しその後も従順であった朝良を敵とは思っていなかった。ある意味屈辱的であるが朝良としては願ったりなので気にしてはいない。だがもう半分の理由は朝良にとっても深刻なものである。その半分は何であったかというと、古河公方の内紛であった。
「政氏様と嫡男の高基様の仲はたいそう悪いらしいな。上杉の争いが収まったというのに関東の主たる古河公方様がこれでは」
朝良はまたも頭を抱える。だがそれをどうにかする方法などない。
朝昌の葬儀があった同年中に古河公方の内紛が始まった。古河公方足利政氏の嫡男高基は古河公方の御所を出奔し妻の実家である宇都宮家を頼った。そして父の方針を公然と批判し主に北関東の諸氏の賛同を集めようとしたのである。
朝良にしてみればこの動きはさっぱり意味の分からないものであった。
「政氏様は上杉家と共同して関東の統治にあたろうとしている。それをことさら否定する意味はあるのだろうか。その道以外にないだろうに」
上杉家の内紛が続いているのならばそのどちらかに与して父に対抗すればいい。だがその内紛がおさまったからのこの行動は朝良の理解の及ばない行為である。だがなんにせよ関東を収める家である古河公方家が分裂したままであるというのは問題であった。
とはいえ朝良は動かない。というか動いたとて何かできることがあるわけでもない。
「顕定殿は仲裁に動いているようだしなぁ。私はせいぜい内内の問題が起きないように動くだけか」
現在扇谷家は内紛などなく外敵の気配も感じなかった。領地を接しているのは山内家のほかには伊勢家と武田家である。武田家は山内家と同盟を結んでいたので扇谷家と敵対する理由はない。もともと扇谷家と手を結んでいた伊勢家は立河原の戦い以降はおとなしく沈黙を守っていた。
「取り立ててできることもないのだから大人しくしていよう。顕定殿の仲裁もうまく行くだろうし。変なことをして睨まれてもしようがない」
実際その通り古河公方家の内紛は高基が御所に帰還することで終った。高基は全く支持を得られずすごすごと引き下がったのである。しかし高本はまだあきらめておらず翌年にはまた内紛が始まった。
「まあまた顕定殿が収めるだろう」
そんな風に考える朝良。だがこの年に大事件が起きて関東に再び戦乱の嵐が起きる。その事件は顕定の故郷の越後で起きたのであった。
永正四年(一五〇七)に越後で起きた大事件。それは越後守護の上杉房能が同族の上杉定実と守護代の長尾為景の謀反にあい戦死してしまったのである。
この大事件に朝良はもちろん関東の人々は衝撃を受けた。
「守護代が謀反を起こして主君を殺すなど。なんということだ。いったい何があったのだ」
衝撃を受けた朝良は必至で情報を集める。すると事のあらましが見えてきた。
房能を討った守護代の長尾為景は以前山内家の援軍にやってきて扇谷家を降伏させた長尾能景の息子である。長尾能景は前年に越中(現富山県)に出陣したがここでの戦いで戦死した。そして息子の為景が跡を継いだわけである。
だがこの能景の戦死には疑問を抱くものもいた。為景もその一人である。
「房能様は親父の際を妬んでいた。だから援軍の要請を握りつぶして親父を孤立させた。そのせいで親父は死んだのだ」
能景は山内家への援軍をはじめ輝かしい戦績を残している。しかしそれを主君の房能が妬んでしまった。そしてその結果房能は能景を見殺しにしたというのが為景の考えである。これについては確たる証拠はない。だが上杉家内に信じる者がある程度いたのも事実であるらしかった。その結果起きたのが今回の事態である。
房能は何とかなんの逃れて関東に逃げ延びようとしたらしい。だが結局追いつかれて討たれたそうだ。その話はむろん朝良も聞き及んでいる。
「私が知っているのだ。顕定殿が知らぬはずはない」
朝良が考えている通り顕定は今回の仔細を知っている。無論誰よりも衝撃を受け居ている立場の人間であった。
「定実も為景も絶対に許さん。しかし今は動けぬ」
このころ顕定は足場を固めることに専念している。例えば足利政氏の弟を養子に迎えたり、別の養子の妻に朝良の妹を迎えたりしていた。このように古河公方との関係強化や上杉家内での結びつきを確たるものにしようよしていたのである。それは裏を返せば関係強化が必要なほど周囲の環境が安定していないともいえた。そんな不安定な状況で越後にまでかかわれるはずはない。顕定はこの事態を歯噛みしながら静観するしかなかった
一方の朝良は主だった家臣を集めてこう言った。
「いずれ顕定殿は越後に攻め入るだろう。我らももしかするとそれに動員されるかもしれない」
「それはそうでしょう。顕定様の怒りは相当なものと聞いています」
「ですが殿。我らがそれほどまで信頼されているでしょうか。敵地に乗り込むのに信のおけないものを連れていきますかな」
「それはそうかもしれない。だが逆になればこそということもある。ともかくいろいろなことを考えておく必要はある。そして今後の扇谷家のことも」
朝良がそう言うと家臣たちは沈黙した。なんとなく言おうとしていることが理解できたのだ。
「もしかすると我らを先鋒に出して本心から従っているかを確かめるかもしれん。そうなれば私が出て顕定殿の信を勝ち取るしかない。だがそうなれば私のようなものは討たれてしまうかもしれぬのだ」
このころになると朝良はひとかどの武将として成長している。ただし武に関しては相変わらず不得手であった。
「私が死ねばその時は朝興が主君。皆で盛り立てて扇谷家を守ってほしい」
そう言って頭を下げる朝良。家臣たちは皆無言で頷く。それを見て朝良も安堵の表情を浮かべるのであった。
こうして扇谷家は今後起きるであろう混乱に一致団結して対応することを確認した。このころの扇谷家はそうしたことができるほどに主従の信頼関係は確たるものになっていたのである。だがこの後起きることは朝良や扇谷家の人々、それだけでなく関東で暮らす大勢の人々にとっても予想だにしない方向に向かう。そしてそれは朝良と扇谷家をあまりにも強大な苦難に導いていくことになる。
関東の戦国時代の前半は古河公方か上杉家の内乱の歴史でもあります。特に古河公方は親子での対決が頻繁に起きています。大体それらの理由は親子の路線対立であるわけですが、そうした対立が頻発するぐらい関東の情勢は激しく動いていたと言えます。また古河公方の内乱がなかったときは長享の乱があったわけでともかく関東を治める立場の人たちが争っていたのだなぁというのがわかります。そう考えるとこの先のこと当然の成り行きではありますね。
さて今回の話は大分不穏な形で終りました。実際この後でとんでもない事態が起き朝良はそれに巻き込まれます。果たしでどうなるのか。お楽しみに。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では




