太田資正 道 第九話
北条の攻勢を受け劣勢に立たされる反北条連合と資正。一方で天下統一の波が関東に押し寄せる。そして資正最後の戦いが始まり、これまで歩んできた長い道がついに終わる。
激化をたどる関東の情勢。その中で劣勢に立たされていく資正と反北条連合。一方でそれらと結ぶ羽柴秀吉は順調に天下統一への道を歩んでいた。
秀吉は小牧長久手の合戦の翌年、天正十三年に関白に就任した。これにより朝廷の権威を背景に各地の勢力への圧力を強めていく。さらに翌年には豊臣の姓を賜り徳川家康を従属させた。そして天正十五年には島津家を攻略して西日本を支配下に置く。これにより秀吉は本格的に関東の動乱に干渉することになった。
資正は秀吉の干渉を歓迎する立場で行動していた。それもそのはずで近年悪くなる一方の戦況を何としても打破したいという気持ちがある。
「この上は殿下(関白への敬称。ここでは秀吉の事)のいち早いご出陣を。主君、義重と共に心よりお待ちしております」
もはや頼みの綱は秀吉の存在しかなかった。それだけ資正も反北条連合も追い詰められていたのである。
一方で北条家も豊臣家、ひいては秀吉の存在を強く感じるようになっていた。特に同盟関係にある徳川家康が臣従したのが北条家に大きな衝撃を与えている。
北条家は徳川家の豊臣家への臣従の前後から支配下の城の普請を始めている。さらに領内から兵士を総動員できる体制を整え始めた。豊臣家との戦になったときのためだ。
他方では北条家は豊臣家との和睦も視野に入れて行動していた。和睦交渉は天正十六年(一五八八)の正月から始められ、結果北条氏政の弟氏規の上洛で交渉はまとまる。北条家はこの上洛をもって豊臣家に従属することになったのであった。
資正は氏規の上洛に秀吉からの通達を受けた。内容は北条家が従属したので領土の確定や種々の問題の解決に臨むというものである。
この秀吉からの通達は資正だけではなく反北条連合の領主たちにも届けられた。資正は通達を受けた後に義重に呼び出された。
このところ資正も義重も様々な対応に追われ会えないでいた。そのため資正は久々に義重と顔を合わせる。
「(お疲れのようだな…… )」
久々に見た義重の表情には疲労の色が強く出ていた。もっともそれは資正も変わらない。資正は疲れを出さないように努めつつ口を開く。
「この度の殿下の書状はご覧になれましたか? 」
「ああ。見た」
「これで関東の動乱も終わりそうですね」
資正は明るい口調で言った。しかし義重の表情は暗い。
「何か気がかりでも? 」
義重は資正の問いかけにうなずいた。
「奥州の方がきな臭くなってきてな」
このころ奥州では天正一四年に締結された講和がまだ機能していた。またその時期に義重の息子の義広が蘆名家の当主になっている。また天正十五年には秀吉の停戦命令が奥州にも届いていて蘆名家も佐竹家も伊達家もそれに従う動きを見せていた。
しかし天正十六年には佐竹、蘆名連合軍と伊達軍が戦闘行為に至っている。この前後から伊達家は調略や攻勢を強めていた。
「伊達家は殿下に従わぬつもりなのでしょうか? 」
「わからぬ。だが伊達は北条とも結んでいる。殿下の決定が降りる前に力づくで決着をつけようとしているのかもしれん」
「力づくですか。しかしそれは殿下の停戦命令に背くのでは? 」
「ああ、おそらくそうだ。それがどういうことか伊達は理解しているのか…… 」
義重は悩ましげにつぶやいた。しかし資正にはどうすることもできない。そして義重の不安は的中した。
天正十七年(一五八九)六月。伊達家と佐竹家は磐梯山麓の摺上原にて合戦になった。摺上原の戦いと呼ばれる合戦は伊達家、佐竹家、蘆名家が関わる南奥州の戦国を総決算となる戦いになる。佐竹家は蘆名家と共に伊達家に立ち向かうも敗北。蘆名家の居城黒川城は伊達家に占拠され、蘆名家当主義広は実父である義重の常陸に逃れた。この結果蘆名家は滅亡し南奥州は伊達家の支配下に置かれる。
この敗北を受けて義重は隠居し家督を嫡男の義宜に譲った。とは言え実権は握ったままであり、それは義宜を含む佐竹家家中皆が理解している。
義重が形式上の隠居をしたのちに資正は挨拶に行った。挨拶に来た資正に義重は笑って言う。
「これで同じく隠居だな」
「ひとまずはお疲れ様です」
「そうだな。正直、身軽になったのも事実だ」
隠居した義重はどこか晴れやかに言った。確かに当主であるうちはいろいろなことの矢面に立たされるものである。資正もそれはよくわかった。
「しかしまだやるべきことはあります。隠居しても忙しいことには変わりありません」
「それはわかっているさ。この命が続く限り佐竹の家は守って見せる」
二人は引き締まった顔で新たに決意を誓った。そしてその決意に導かれるように資正に最後の仕事がやってくるのである。
秀吉は関東の戦いを終わらせるために各家の領地の確定作業を行っている。そのなかの一つに上野・沼田領もあった。沼田領は北条家と真田家が永い間争っていた地域である。結局領地の三分の二を北条家、三分の一を真田家の領地とした。さらに秀吉は北条氏政か氏直の上洛も合わせて要請している。この現当主か隠居の呼び出しに北条家は不満を抱くも了承した。
この間も北条家と反北条連合の抗争は継続していた。だが戦況は北条家の優位で進み、佐竹家は北条家と伊達家とに追い詰められ窮地に陥っている。資正は秀吉の関東出陣を求め続けるがなかなか実現しなかった。
そんな中、天正十七年の十月に北条家家臣が真田領の城を奪取するという事件が起きる。北条家はこれを秀吉に弁明するが聞き入れられなかった。そして北条、豊臣の両家は決裂し秀吉は支配下に置く大名たちを動員して北条征伐軍を作り上げる。
この事態の急変を資正は驚いた。
「北条も馬鹿なことを…… やはり北条の道をあきらめきれなかったか? 」
北条の道は関東の制覇。しかしこの時点ではその道は足かせにしかならない。
「(それでもあきらめきれぬから道、か)」
資正は自分の人生を振りかえりそう思った。自分も北条との戦いの道をずっと歩いている。資正の道と北条の道の相違点があるならば、資正の道は資正一人の物だが北条の道は北条歴代の歩いてきた道だった。
「簡単に捨てられるものではないという事か」
そんなことを考えながら資正は出陣の準備を急いだ。何はともかく自分で求め続けた秀吉の関東出陣である。文句があるはずもない。
「この一戦ですべてが終わる。北条の道も…… 私の道も」
今回の北条家の言い分を一切認めない姿勢と事件後の迅速な行動。これらのすべてが豊臣家、ひいては豊臣秀吉が北条家を何としてでも滅亡させようという意思を感じさせた。そして北条家の滅亡は資正の歩んできた道の終わりである。
自身の道の終わりを感じながら資正はふと考えた。
「(岩付は今どうなっているのだろうか)」
なんとなく故郷のことが思い起こされた。思えば城を追われて二十数年経っている。その間いろいろありすぎて岩付のことを思い出したりしていなかった。
「(この戦が終わってから尋ねればいいか。もしできるなら岩付の片隅でひっそりと暮らそう)」
そう考えるとなんだか心が軽くなった。
こうして資正は軽やかな気持ちで出陣する。そしてこれが太田資正人生最後の戦いとなるのであった。
天正十八年(一五九〇)の三月。豊臣秀吉は徳川家康を先鋒に伊豆の方面から関東に侵攻した。またこれとは別に上杉家が前田家、真田家と合流して信濃から上野を狙う。上杉家にとっては久方ぶりの関東となるが以前とは出陣の目的も何もかも違った。
秀吉率いる本隊は四月の初旬には小田原城の包囲を完了させていた。そしてこの包囲軍の余剰兵力を率いて浅野長政が下総の方面の攻略を始める。佐竹家は宇都宮家や結城家と共にこの軍勢に参加した。しかし資正の姿はこの軍勢の中にない。資正は小田原の秀吉のもとに向かっていた。
小田原に向かう前に資正は義重に尋ねた。
「私は必要ありませんか? 」
おどけて言う資正に義重は笑った。
「必要ないな。もっとも我々も必要ないのだろうが…… 」
実際の所豊臣軍は猛烈な勢いで北条家の領地を攻め落としている。今更佐竹家らが加わろうともあまり関係はないかもしれない。
「まあ、ここで従う姿を見せておけば後々いいこともあるでしょう」
「その通りだ。だから資正は一足早く殿下のもとに向かうと良い。そこで覚えがめでたければ岩付に帰れるかもしれん」
「そうですね…… 」
資正はしみじみつぶやいた。そして義重に改めて頭を下げる。
「浪々の身の私を拾っていいただき、さらに重用していただいたこと感謝します」
「気にするな。むしろ私の方がいろいろ助けられた。ありがとう」
義重は笑って頭を下げる。義重が家督を継ぎ資正を迎え入れてから二十数年。それから様々な戦いを共に潜り抜けてきた。二人の間には強い絆が出来上がっている。
「さて、そろそろ私は行きます」
「ああ。あとで義宜も行く」
そう言って資正は小田原に出発した。義重は出陣せず息子の義宜が軍勢を率いて出陣する。
この後佐竹軍は浅野軍と合流、北条家の城を攻略していった。その後小田原にも向かい義宜は資正と共に秀吉に拝謁する。そして領地を安堵されて無事に佐竹家を存続させることができた。
所領を安堵された佐竹家は常陸の敵対勢力を滅ぼし完全に領地を掌握した。これにより五十四万石を治める大名となる。しかし慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いでは義重と義宜の意見が対立、あいまいな態度をとってしまう。そして戦後それを理由に出羽に転封、減封されてしまった。
義重は転封後義宜に完全に権限を委譲した。そして慶長十七年(一六一二)に死去する。享年六十六歳。戦いに生きた人生であった。
資正は義重に先立ち小田原に参陣。遅れてきた義宜と共に秀吉に拝謁した。そこで秀吉は資正にねぎらいの言葉をかける。
「今までご苦労であったな」
「はっ」
「だがその苦労もすぐに終わる。これを見よ」
秀吉と資正たちがいるのは小田原を一望できる山城であった。そこから秀吉が見せたのは完全に包囲された小田原城の姿である。
小田原城は秀吉が率いてきた各大名の軍勢に包囲されている。しかも陸だけでなく水上も秀吉の水軍が配置されていた。蟻のはい出る隙間もない完全な包囲である。
「あとは北条の者どもが降伏するのを待つだけよ」
秀吉は自身満々に話す。その言葉に義宜を始め諸将は頷いた。しかし資正は一歩進み出ると秀吉に話しかける。
「殿下、恐れながら」
「なんだ? 」
「北条は幾度となく城を囲まれましたが、そのたび打ち勝ってきました。優勢なれど油断は禁物です」
心配そうに言う資正。資正の話を聞いた秀吉は少し呆気にとられていたが、すぐに笑い出した。そして
「さすがは片野の三楽。見事な助言だ」
そう言った。その言葉には嘲笑が含まれている。資正にはそれが分かった。しかし特に何も言わず引き下がる。
「(もはや時代が違うと言いたげだな。いや、その通りなのだろう)」
この後北条家はろくな反撃もできずに降伏した。そして豊臣家に反抗的であった隠居の氏政は弟の氏照ともども切腹し当主の氏直は高野山に追放される。ここに関東に覇を唱えんとした戦国北条家は滅亡するのであった。
「あっけないものだったな」
戦いが終わり片野に戻った資正はそうつぶやいた。自分があれだけ苦戦した北条家がこんな簡単に滅びる。そこには歓喜もなくただ虚しさだけが残った。
北条家が滅亡したのちも資正は片野城にいた。岩付は新たに関東を治めることになった徳川家康の物となる。その家康からは何の音信もない。
「まあそうだろうな」
今更土地を治めていた一族を呼び戻してもどうしようもない。第一少し前までは太田家へ養子に入った北条一門が治めていたのだ。もはや資正と岩付の縁はほとんどなくなっている。
このところ資正は急激に自分が衰えているのを感じていた。まるで北条家の滅亡とともに自分の体力も失ったかのように感じている。この頃は横になっていることが多い。
「実際そうなのだろうな」
これまでの資正の人生は打倒北条の道を歩むことに費やされてきた。そしてその道は終わり、前には何も見えないでいる。
これまで歩んできた道の中で様々なことがあった。養父の死と主家の滅亡。仇敵への服従とそこからの再起、そして奮闘。そこからの大敗し息子に城を追い出された。
「普通ならそこで終わっているな」
追い出され浪々の身となるが新たな主君に拾われる。そしてそこからの再起。そこに降りかかる世の中の激動。そして浮き沈みを味わい窮地に陥るも最後は命拾いして北条家の最後を見届けた。
「本当に、本当にいろいろあった」
資正はあまり動かなくなった体を横たえて、これまでを思い返す。この頃はそんな日々送っていた。
やがて北条家の滅亡から一年と二月経った天正十九年(一五九一)九月。太田資正は片野城で死んだ。享年七十歳。
「岩付はどうなっているかな」
死に瀕した資正そんなことを良くつぶやいた。しかし結局故郷には帰ることはできなかった。
これにて資正の歩んだ人生という道は終わる。長く険しい道であった。
資正の死の二ヶ月後高野山にいた北条氏直が死んだ。まるで示し合わせたかのような終わりである。
これで太田資正の話は終わりとなります。資正は本当に密度の濃い人生を歩んできました。その密度は有名な戦国武将たちに劣らないものだと思います。
資正の人生はある意味関東の戦国時代そのものといえるでしょう。北条や上杉などの巨大な勢力への対応。北条に立ち向かうか刃向かうかの選択。これらは関東の多くの領主たちに言えることです。そして関東の戦国は北条の滅亡とともに終り新たな時代が訪れます。もっともその新しい時代を資正は知らずに息を引き取るのですが。同年北条氏直が息を引き取るのも相まって運命的なものを感じさせますね。
さて長い資正の話は終わり次回からは新しい人物の話となります。今度の人物は西国の人物です年代的には織田信長が飛躍しはじめた頃に生まれた人物です。お楽しみに。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡ください。では
 




