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戦国塵芥武将伝  作者: 高部和尚
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木曽義昌 一所懸命 第十章

 小笠原家と徳川家の攻撃という危機を乗り越えた義昌。だが政情はまだ不安定である。そんな不安な状況の中で木曽家の行く末はどうなるのか。

 天正十二年(一五八四)の十一月に羽柴家と織田家の間で講和が結ばれた。講和と言っても条件は羽柴家に織田家の所領を割譲するというものだから実質的な降伏である。信雄もこれ以上の抵抗は不可能だと判断したのだろう。一方で徳川家は羽柴家と織田家の講和を見てこれ以上の戦いは不可能だと判断する。そして自分の領地に帰っていった。

 義昌は小笠原家や徳川家からの攻撃をしのいだが特に得るものもなかった。さらに徳川家と羽柴家が講和したわけではないので木曽家がまた攻撃されるかもしれない。そうした意味で心労は消えていない。

「もはや筑摩、安曇の二群はあきらめるしかないか」

 悔やむ義昌であるが事実どうしようもない状況である。羽柴家からの援軍は期待できないし単独で戦える戦力はない。というか秀吉は信濃の情勢に介入することに何も積極的ではなかった。

「いったいこれからどうなるのか」

 もはや野心どころではなくこれからのことの心配しか頭にない義昌であった。


 天正十三年(一五八五)に驚くべきことが起きた。小笠原貞慶が徳川家を離反し羽柴家に従ったのである。なおこの年に羽柴秀吉は関白に就任し豊臣姓を賜った。そのためここからは羽柴家を豊臣家呼ぶことにする。

 さて小笠原貞慶の離反は上司である石川数正の離反に伴ってのことである。数正は預かっていた貞慶の嫡男ごと豊臣家に逃げ込んだので、貞慶も豊臣家の傘下に入らざる負えなかった。そう言うわけで要するに巻き込まれたわけである。

 小笠原家をそのまま豊臣家が受け入れた以上、義昌の筑摩安曇の二群を取り戻すことはもはや不可能になったといっていい。

「もうどうすることもできないか。しかしこうなれば木曽谷が攻め入られるようなこともないだろうしなぁ」

 信濃においては当面の敵であった小笠原家は同じ陣営に入った。徳川家は豊臣家と戦えるような状態ではない。それを考えればともかく平和になったということは事実であろう。

「もともとこの地を守れればよかったのだ。それを、妙な野心を持ってしまったがゆえに無駄な苦労をすることになった。本当に私は馬鹿だった」

 ここで義昌はついに野心を捨てることができたのであった。そして翌天正十四年(一五八六)徳川家康は豊臣家への臣従を決意した。これと同時に信濃での騒乱は終わる。木曽家のそのままの領地で生き残ることができたのであった。


 徳川家は豊臣家に臣従した。これで信濃や近隣地域での戦いの火種は完全に消えたといえる。だがここで義昌にとっては心配な事態が起こった。

「信濃の諸将は皆徳川殿の下に入り差配を受けよということか。これは、大丈夫なのか? 」

 秀吉は信濃を家康の領地として認め、信濃にいる領主たちを徳川家の支配下に入れた。その中には木曽家や小笠原家も含まれる。これに義昌は不安を覚えた。

「我々は一度徳川家を裏切った身。それをどう思われるか」

 徳川家は義昌たちに対する領地の差配の権利も得ていた。つまりは家康の一存で義昌たちの領地をどうにかできたのである。

「いったいどうなるか。小笠原殿も不安を抱えているようだしな」

 この時貞慶と贄川又兵衛の処遇など争っていたころの処理に関する行っていた。その中で貞慶から徳川家の支配下に入ったことによる不安を相談されていたのである。もっとも義昌も不安であったので答えようはなかったが。

「いきなり所領を奪うようなことはされぬはず。はずだ」

 不安を感じる義昌たちであったが後日家康からの招集があった。そして家康の居城である浜松城で謁見し、今後のことを伝えられる。

「信濃の皆の領地はそのままとする。過去の遺恨は忘れて今後は私に力を貸してほしい」

 家康からの所領安堵の宣言であった。これにほっと胸をなでおろす義昌。

「これで木曽家も安寧か。よかった」

 この時は安堵する義昌であった。


 辛くも滅亡の危機を逃れた木曽家であった。領内の統治も安定し何の問題もない。だがこのころから義昌は病気がちになっていた。

「もう年を考えれば無理もないか」

 この時の義昌はもう四十の半場を過ぎている。当時としては老齢と言って問題ないくらいであった。また武田家滅亡と信長の死という大事件の中で義昌はめまぐるしく動いた。それは野心故の精力的な活動であったが、その野心が結果として義昌を若くしていたといえる。逆に野心がなくなった今はかなり老け込み始めたし体も衰えてきた。

 義昌自身はこうした自分の変化を仕方のないものと感じている。しかし家臣たちにとってはそうも言っていられない事情があった。そしてそれを山村良候が義昌に伝える。

「岩松丸様のことでお話があります」

「岩松丸のことで? どうかしたか」

 岩松丸は義昌の嫡男である。以前義昌が森長可に攻撃された際にさらわれ人質とされたこともあった。そうした事情や真理への思いから義昌は岩松丸を大事に大事に育ててきたのである。だが、それがある問題を生じさせていた。

「このところの岩松丸様はわがままが過ぎると奥の者たちが言っております」

「そうなのか? 私の前では素直なのだが」

「はい。それに家臣の子などに無体なふるまいをすることもあると聞き及んでおります」

 義昌は話半分に聞いていた。正直自分に言ってくるようなことではないと感じたからである。だが良候の様子に何かを感じ取ったのか改めて訪ねた。

「それは本当のことか」

「はい。実は義豊様もそれを気にしておられて」

「何だと…… 」

 後で確認を取ったら義昌の弟の上松義豊も岩松丸のわがままに手を焼いていた。

「兄上に大事に育てられたからかわがままが過ぎる。下のもの人とも思っていないようなふるまいばかりだ」

 最近義昌が病気がちなことも手伝って岩松丸のふるまいが悪化しているらしい。

「岩松丸はまだ幼い。これから変われるはずだ」

 そう言って義昌は良候や義豊を説得した。二人も義昌の言い分に納得したようである。だが岩松丸のわがままはあまり変わらなかったようであった。義昌は致し方なしと放っておいたが、これが後に木曽家にとっての禍根となる。

 

 天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉は天下統一の仕上げとして北条家の征伐を行った。これに徳川家や西国の大名たちを含む多数の大名や武将、領主が参加している。まさに天下統一の総決算というべき戦いであった。しかしこの戦いに義昌は参加できなかった。病に倒れていたからである。

「この大事に病におかされるとは我ながら情けない。だが木曽家から誰も出さぬというのはあってはならん。このうえは義利を名代として向かわせよう」

 義利というのは元服した岩松丸のことである。正直、元服には少し早い年齢であったが近年義昌が病がちということもあって元服させておいたのだ。

 とはいえまだ幼い少年ではある。そこで義昌は弟の上松義豊を同行させた。

「正直綿は後どれほど長く生きられるかはわからない。もしもの時はお前が義利を育ててくれ」

「承知しました兄上。義利も兄上の名代としての務めを果たせば心構えも変わるでしょう」

「そうだな。それだといいが」

 義利は岩松丸の頃と変わらずわがままな質らしい。義昌も心配なところであるが、元服や今回の任を果たせば立派に成長してくれるだろうと信じることにした。

 そして北条家の征伐は無事に終わり義利も義豊も無事に帰ってきた。義利は義昌に顔合わせるや否やこう言った。

「まったく楽なものでした。しかし我々が出向くようなことでもないのに行く必要があったのでしょうか」

 あっけらかんという義利。これに義昌は絶句する。すると義豊はこう言った。

「義利よ。我らが参陣することで豊臣家への忠義を果たせる。それがお家の安泰につながるのだぞ」

 この義豊の物言いは正論である。義利もそれは何となく理解できたのか反論しなかった。しかし腹は立ったのか義豊を睨みつけるとそのままその場を去る。

 義昌は去っていく義利の後姿を見送ってこう言った。

「まさかあのように思慮もなく傲慢とは。あれでは家を任せられん」

「申し訳ありません、兄上」

「こうなったら病に倒れている場合ではない。一日でも長く生きて義利をまともにしなければ」

 ため息交じりに言う義昌。だがここ直ぐ後にとてつもない不幸に襲われることとなる。


 北条家が滅亡したことで関東は空白地となった。秀吉はここに徳川家康を転封させる。これは家康を警戒した秀吉が近畿から遠ざけようとしたことが理由だともいわれた。ともかく家康は関東に転封となるのだがむろん家臣もついていくことになる。それは当然のことだ。だが家康に従って関東に向かうものは徳川家の家臣だけでなかった。徳川家の支配下にはいっていた信濃の領主たちも同じく関東に転封となったのである。唯一の例外は大名格の真田家だけであった。

 むろん木曽家の転封する領主に含まれる。皮肉なことに領地を争った小笠原家も同様であった。両家ともに己の本領を守るために戦い続け豊臣家に従ったのにあんまりと言える処置であった。

 上松義豊や山村良候などは当然この決定に不服である。

「兄上は木曽谷を守りぬくために豊臣家に従ったのだ。そして豊臣家に忠義も尽くしている。この処遇はあんまりだ」

「義豊様のおっしゃられる通りです。なんとかこのまま木曽谷に残してもらえないのでしょうか」

 憤慨する二人。一方義昌はすっかりあきらめてしまっている。それには理由があった。

「木曽の木々は良質だ。それを自分の手元に置いておきたいと考えたのだろう」

「それはつまり」

「秀吉様は我々の手から取り上げてしまおうと考えたのだ。秀吉様がそう決めたのなら逆らいようがない」

 義昌も本心は不服である。だがもはや受け入れるしかなかった。

「天下も治まりもはや戦もする必要もない。木曽家も安泰だと思ったのだが。もはやどうしようもない」

 手段を択ばず幾度となく家と木曽谷を守り抜いてきた義昌であるが、言う通りもはやどうしようもない。素直に従うしかなかった。出なければ家も滅びかねないのである。

 戦国乱世も終わりつつある中で、義昌は守り抜いてきた木曽谷を捨て去る羽目になるのであった。


 家康の関東転封に伴って木曽家も下総阿知戸(現千葉県北部)に入封された。山地であった木曽谷とは全く違う海沿いの地域である。

「これからどうなるのか。我々の代々の土地である木曽谷とはまるで違う」

 転封され絶望する義豊。だが義昌は違った。

「もはやここで生きるほかない。ならばこの地を栄えさせ新たな木曽家の本領とするのだ。そしてここで家をつないでいこう」

 義昌の覚悟は決まっていた。転封が避けられない以上その先の地で一所懸命に生きていこうと考えたのである。これには義豊だけでなく一緒についてきた家臣たちも感激した。

「殿はもう覚悟を決めておられる。ならば私たちも覚悟を決めなければ」

 木曽家は一丸となって阿知戸を栄えさせることを決めた。そして城下町を整備し一を開くなど阿知戸の発展に尽くす。

「阿知戸には椿海(近くにある湖)がある。あれを干拓すれば米もよく取れるはずだ。そうなれば木曽家の台所を支えるものになるだろう」

 そう考えていた義昌であるが無理をしすぎたのか徐々に病がちになっていった。さらに息子の義利は転封が不服であったのか政務に興味を示さず放蕩三昧である。

 やがて義昌の病は回復が見込めないほどになった。義昌は最後にこう義豊に言い残した。

「義利を、木曽家を頼む」

 そう言い残し文禄四年(一五九五)にこの世を去る。享年五五歳。その遺骸は椿海に埋葬された。

 木曽家の家督は義利が継いだ。義豊はこれを補佐したがそれが頭に来たらしい。義利はいわれのない疑いを義豊にかけて殺害してしまった。だがこれが家康の怒りを買い木曽家は取り潰しとなる。木曽家は義利の代でつぶれてしまった。義利のその後は要と知れない。

 取り潰しの後山村良勝ら木曽家の家臣達は慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いにおいて活躍し木曽に領地を与えられた。そののちに家康の息子が起こした尾張徳川家に仕え木曽谷もその中に含まれる。旧木曽家家臣は尾張徳川家の家臣となり木曽の管理を任されるようになった。

 阿知戸は幕府の直轄領となり、江戸時代になると椿海の干拓が行われ広大な田園になった。義昌の遺骸も改めて埋葬され墓も作られている。のちの世に木曽義昌公史跡公園が建てられそこに義昌の銅像がある。後世に義昌の功績は認められたのである。


 義昌の人生の最期は代々守り続けた木曽谷ではなく別の場所でした。しかしそこで腐らず新たなお領地を栄えさせようとしたのは本当に立派だと思います。不幸なのは息子がその遺志を継げなかったことでしょう。ですが家臣たちが木曽谷に戻り後世まで守り続けられたのはある意味で救いであったのでないかとも思います。

 さて次に話は九州のある大名の話です。この人物も乱世に巻き込まれた人物と言えるでしょう。お楽しみに。

 最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では

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