木曽義昌 一所懸命 第八章
義昌の企みは森長可には通じずむしろ嫡男を危険にさらしてしまった。せっかく手に入れた領土も奪われ義昌は失意に沈むかと思われた。だが義昌は奮い立つ。そして失地回復に挑んでいくが、それが正しい道なのかはわからない。
本能寺の変の結果信濃や甲斐は大混乱に陥った。だが本当の混乱はここからである。織田家の支配が及ばなくなった甲信は周囲を囲む大名たちの草刈り場となったのだ。
上杉家が北から来襲し勢力を伸ばしてきたことは先に記したとおりである。小笠原貞種を擁立し深志城を奪還したほか北信濃にも勢力を伸ばそうとしていた。これに対して駿河、遠江、三河の三国を支配する徳川家も甲斐と南信濃に隣接しているということもあってかこれらの地域への野心を隠していない。さらに関東で巨大な領土を持つ北条家も甲信への進出を企図していた。
この動乱を抑える力は織田家にはない。すでに明智光秀は討たれたが、本能寺の変で織田家の後継ぎである信忠は亡くなっている。織田家の今後の運営は重臣たちにかかっているのだが彼らは二派に分かれて反目していたので甲信の混乱に関われるような状況ではなかった。そのため織田家に従っていた領主たちは自分たちの道を自分たちで選ばなければならない。無論その中に義昌も含まれる。
「お家を守るためにはどうするか。だれに付けばいいか」
一見悩んでいるようにも見える義昌。だがこの時点で味方につける勢力は実は限られていた。
「徳川家は織田家の同盟者。小笠原家を支援するかもしれん。上杉家は深志城を奪ったのだから論外だ」
義昌はこの時点でも筑摩、安曇の二群をあきらめていない。そうなると味方する勢力は北条家しかなかった。
「北条家は徳川や上杉に勝るとも劣らない大勢力。力は申し分ない。だが」
北条家は関東の雄である。従って影響力の及ぼせる地域は信濃では主に東部であった。信濃の西端にある木曽谷とは反対側である。そこが義昌としては懸念点であった。
「いざというときの援軍は難しかろう。そもそも向こうも我々をそこまで当てにしているとも重要だとも思っていないだろう。所詮我らも北条家もひとまずの関係だ。あくまでひとまずの」
あくまでひとまず。それが義昌の考えであったし、実際その通りのことになる。
甲信地方をねらう各勢力。その中で特に激しく争ったのが徳川家と北条家であった。上杉家はひとまず北信濃の四郡を確保してそれ以上の動きは見せない。一方で徳川家は織田家の了承を取って甲斐の確保に動いた。しかし北条家も甲斐を手に入れるべく進出してくる。それは信濃でも同じで必然的に激しい抗争に陥った。
こうした情勢下で木曽家は比較的平穏である。隣接している美濃は領主同士で争っているので木曽家にちょっかいはかけてこない。後進の混乱も北信濃と甲斐が主であり木曽谷のある西信濃は特に動きがなかった。
尤もこの動きがないというのが義昌としては困ることでもある。
「特に動きがなければ我らも動けん。案の定我らに援軍など遅れるような関係ではない。とはいえ北信濃の情勢に関わっってくれなければ我らの目指すところも果たせない」
改めて木曽家にとって北条家は頼みとするにはいささか遠すぎる勢力であることを思い知る。これでは小笠原家と対決し筑摩、安曇の二群を取り戻すことも難しかった。
そこを考えると義昌としては鞍替えも考えていきたい。だが先にも記した通り徳川と上杉のどちらにも与するのは義昌としては難しかった。そもそも義昌をわざわざ迎え入れて支援する利点が両家とも薄い。
「さてどうするか。ひとまず北条家に徳川家より優位に立ってもらわないと話が進まない」
悩む義昌であったが事態は急変した。北条家が徳川家の抑えている甲斐の黒駒に攻め入るが敗退してしまったのだという。これで北条家の甲信進出の勢いはそがれてしまった。だがここで思いがけない動きが起こる。内部の抗争がひと段落した織田家が動き徳川家と北条家の和睦を斡旋し始めたのだ。これを知った義昌は慌てる。
「さすがに織田家が介入してくるのなら我らも従わざる負えないな」
木曽家が筑摩、安曇の領有権の根拠は織田家の出した安堵状である。ゆえに織田家の決定によっては撤回されるし別の事柄に書き換えられるかもしれない。
気をもむ義昌であったが、結果徳川北条の両家は和睦し同盟を結んだ。そしてこの条件のうちに甲斐、信濃は徳川家の切り取り次第というものがある。これを知った義昌は焦った。
「こうなれば徳川家に従うしかないではないか」
義昌はすぐに徳川家に臣従する。そうすることでとりあえず急場をしのぐのであった。
徳川家に従った義昌であるが先行きは不透明であった。家康からは旧領の安堵を約束されていて、安曇筑摩の二群も含まれている。しかし義昌がこの二群を奪還することに関しては取り立てて何か支援するということはなかった。
「自力で奪い返せということか。しかし相手には上杉家の後ろ盾があるのだぞ」
不安に駆られる義昌。だがここで驚くべき情報が入る。なんと徳川家が小笠原貞慶の旧領復帰を支援し始めたというのだ。むろん義昌は驚いた。
「我らに領地を安堵しておいてどういうことだ。家康様はなにを考えている」
困惑する義昌をよそに事態は急速に動いた。そもそも小笠原長時は深志城を奪還したものの実権は上杉家がどうこうさせた家臣に奪われている。そのため小笠原家の支配を望んでいた深志周辺の人々からは反発を受けていた。
そんな中で嫡流と言える貞慶が深志城への復帰を目指したのである。これを知った深志周辺の人々はこぞって貞慶に味方した。さらに長時も自身の現状を理解し決断する。
「そもそも兄上の子である貞慶が嫡流なのだ。貞慶が城に入ればいい」
そう言って上杉家の人々を追い出して貞慶を迎え入れたのである。こうして小笠原貞慶の旧領復帰は成し遂げられた。
この流れに義昌は怒った。
「こうなれば徳川家の手は借りん。己の力で取り返してやる」
こうして義昌は筑摩、安曇の二群の奪還に挑むのであった。
年が明けて天正十一（一五八三）年になった。小笠原貞慶はこの間に筑摩、安曇の二群の支配を安定させていく。一方で義昌もこれに対抗すべく動いていた。
「確かに小笠原家は代々あの地を治めてきた。しかし小笠原家がいなくなったことで恩恵を受けていた者もいるはず。そうした連中を動かせば我らの味方になるはずだ」
義昌は筑摩安曇にいる小笠原家に反発している人々に対して所領安堵の書状を送った。この段階ではどう考えても空手形であるが現在義昌にできる手はこれぐらいである。本来であれば上杉家と手を結んでおきたかったが、上杉家は北信濃の確保にしか興味がないらしく本格的に徳川家と敵対するつもりもなさそうである。そんな状況で上杉家と手を結んでも徳川家から攻撃されるに決まっていた。
「家康様は信濃の領主同士の争いのそこまでかかわるつもりはないらしい。おそらく小笠原家か我らのどちらが勝ってもどうでもいいと思っている。要は勝った方を認めればいいだけの話だからな」
正直腹の立つ話である。しかし一方で好都合な話でもあった。木曽家と小笠原家の争いに関しては肩入れをしないと言っているようなものであるわけであるから、あとは両家の実力の問題である。そしてそう考えると木曽家にとって有利な点があった。
「上杉家は今でも小笠原家の領地をねらっている。つまり小笠原家は上杉家と戦いながら我らに対処しなければならない。それに対して今の我らの周りに敵対している者はいない。これは大いに有利なことである」
別方面に敵を抱えれば戦力も分散させざる負えなくなる。それを考えれば周りに敵がいない木曽家は有利と言えた。
これらの要素を踏まえて義昌は重臣の山村良候に今後の展望を述べた。
「小笠原家は上杉との戦いも抱えている。ゆえにわれらとの戦いに全力を出せない。戦ではこちらが勝つだろう。そののちに小笠原家を滅ぼすまで行かなくとも筑摩安曇の両郡で我らの影響力が増せば徳川家も我らに肩入れするだろう。そうなればあの両軍は我らの手に戻る」
自信満々の義昌。しかし良候の表情は思わしくなかった。義昌もそれが気になったので良候に尋ねる。
「何か不安でもあるのか」
「ええ、はい。確かに殿のおっしゃられる通り小笠原家は上杉との戦いに注力しています戦では勝てるかもしれませんが。しかし…… 」
そこで良候は黙った。不思議に思った義昌はその続きを促す。すると良候は重々しく口を動かし始めた。
「いざ戦を始めたらさすがに家康様もお怒りになられるのではないでしょうか。今我らと小笠原の諍いを放っておかれるのは戦までに及んではいないからではないかと」
これを聞いて義昌は顔を青くした。確かに兵を動かしたら上杉家と戦う小笠原家の背後をつくことになる。それは裏切りととらえかねない。よくよく考えれば当たり前であるがこの時の義昌は筑摩、安曇の二群を取り戻すために必死すぎてそこまで思い至っていなかったのである。
「うかつには動けんか。ならばあとは調略しか手がないか。しかし其れで上杉家の利になればいよいよ我らの立場も危ういか」
ますます顔を青くする義昌。そんな義昌に良候はこう懇願した。
「もう信長様から賜った二群はあきらめた方がよいかと思います。我らは先祖代々の木曽谷だけを守れればそれでよいのです」
「そ、それはいかん。信濃は、北信濃は我らが支配するのだ」
義昌は良候の嘆願を退けた。今の義昌には領土を拡張したいという欲が先行してしまっている。そのためかもともとの木曽家代々の宿願である木曽谷を守るということはどこかに行ってしまっていた。
領土拡張の野心に目がくらんだ報いなのか情勢は義昌の不利に転がっていく。まず筑摩、安曇の二群で行っていた調略は全くうまく行かず、それどころか着々と小笠原家の支配が浸透していった。また小笠原家は上杉家への対抗のために徳川家との連携を緊密にしていく。徳川家も上杉家への対抗に小笠原家は必要であったので望むところであった。そのため小笠原家の支配を積極的に承認していく。
小笠原、徳川の両家の関係が緊密になっていくにしたがって木曽家の立場はないがしろにされていった。
「このままでは我らの存在感は消えていく。どうにかせねば」
そう考えるが何もできることはなかった。また木曽家の家臣達もあまり縁のない筑摩、安曇の確保に関しては積極的ではない。彼らもあくまで自分たちの領土を守るのが第一なのである。そのうえで今後のことを考えるなら木曽谷の安堵だけをもらい徳川家に従っているというのがベストな選択であった。
だが義昌にとってはそうではない。義昌は筑摩、安曇の二群をなんとしてでも手に入れたいと躍起であった。それは自分の行動が正しかったことの証があの二群であり、それを手にしていることが自分への自身の証明になったからである。あとは意地であった。
「このうえでとるべき手は。そうだ、いい考えがある」
天正十二年（一五八四）義昌はある決断をする。それは武田家を裏切った時以来の大勝負であった。
今回はいわゆる天正壬午の乱と呼ばれる騒乱の時の話です。この乱は主に甲斐や北信濃での動乱で木曽谷のある信濃の西部にはあまり影響がありませんでした。それゆえか義昌は放っておかれた形になります。それが義昌の野心にとってはいいことではないことは確かですが、領地を守りたかったほかの領主にはその方がよかったのではないかとも思います。
さて次の話は義昌二度目の決断とその後の話です。いったい義昌はどのような決断をするのか。お楽しみに。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では
