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戦国塵芥武将伝  作者: 高部和尚
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木曽義昌 一所懸命 第四章

 武田勝頼の栄光と挫折。それは武田家の衰退の始まりであった。義昌は衰え始めた武田家についに見切りをつける。そして生き残る方法を模索するがその中で悲しい別れを味わうことになる。

 高天神城が落城した少し後に義昌のもとにある書状が届いた。それは苗木城の城主の遠山友忠からのものである。幾度も矛を交えた積年のからの書状の内容はこうだった。

「織田信長様は武田家の征伐を決め出陣の用意を成されている。先鋒はご嫡男の信忠様。おそらくは相当の大軍での出陣となるだろう。武田家など鎧袖一触であるはずだ。義昌殿もその点をよくよくお考えの上でお家のことを考えるとよろしかろう」

 これを見て義昌は驚かなかったし恐怖心も抱かなかった。それよりも友忠への感謝の気持ちがわいてくる。

「我々らを調略できれば手柄となるし我らに恩も売れる。ゆえにこのような書状を送ったのだろう。だがありがたい」

 この時点で義昌は武田家からの離反を決めていた。そして織田家に降るつもりだったのだが、そこがなかなかうまく行っていなかったのである。理由はいろいろあるが一つは武田家の目が厳しいということだった。もっともそれは当然のことで武田家からしてみれば木曽谷は織田家が東から侵攻してくる際の第一の防衛線である。織田家への降伏もままならず戦いを覚悟しなければならない武田家にしてみれば最重要拠点であると言えた。

 また理由の一つに木曽家と織田家の間に碌なつながりがないことである。これでは武田家の目を盗んで織田家に寝返りを告げることもできない。しかし友忠からの書状でこれらの問題は一気に解決した。

「急ぎ、そして武田家にわからぬように友忠殿に寝返りを伝えるのだ」

 義昌の行動は早かった。すぐさま織田家に寝返る旨を友忠に伝えたのである。そして結果的にこれが武田家の滅亡の始まりとなるのであった。


 木曽家の織田家への寝返りは秘密裏に行われた。義昌は友忠を経由して交渉を行い家中でも知るものはほとんどいない。そして交渉を知らない人間の中に真理も含まれている。

 真理は夫が自分の実家を裏切ろうとしていることを知っているわけではない。しかし夫が何か自分の秘密の行動をしていることには感づいていた。そして自分や自分に近しい人間に対して徹底的な情報の隠匿を行っていることを知るといよいよ確信し始める。

「(義昌様は武田家を裏切るおつもり。でもそんなことをすれば武田家に預けてある義母様たちになにが起こるかわかりのはず。それなのに裏切るおつもりなのでしょうか)」

 木曽家は武田家に人質として義昌の生母、側室、その子らを預かっている。むろん義昌が織田家に寝返ればこの人質たちがどうなるかはだれにとってもたやすく想像のつくことであった。真理も当然想像できる。ゆえに義昌が織田家に寝返ろうとしているということを確信しつつも信じたくなかった。

 真理は悩む。どうすれば夫を止められるかわからなかったのだ。

「義昌様は兄上を信じられないでいる。兄上も義昌様に不信を抱いているご様子。どうにか私がこの二人の間を取り持たなければ。ですがどうすれば」

 そもそも真理は芯の強い聡明な女である。しかし聡明であるがゆえに木曽家と武田家の間の溝の大きさにも気づいていた。何より義昌が真理を遠ざけつつある現状でできることがあまりにもないことにも気づいているのである。

「万が一の時、私が選ぶべきは」

 この「万が一の時」がすぐ近くまで来ていることに真理は気づいている。


 義昌の行動は迅速で秘密裏に行われていた。しかしどうやっても隠し通すことができないこともある。

 遠山友忠を間に立てての織田家への寝返りの準備は滞りなく進んでいた。だがここで一つ問題が浮上する。それは織田家からの人質の要求であった。

「当然の要求だな。しかし誰を送るか」

 寝返りをする以上は担保として人質を要求されるのは当然のことである。そして送られる人質にはそれ相応の立場が求められた。それはできる限り家の当主に近い人物であること。今木曽家においてその条件に該当しそうな人物は二人しかいない。一人は義昌の嫡男で五歳の岩松丸。もう一人が弟の上松義豊であった。そして義昌は義豊を人質になってもらうことにする。岩松丸にするならば真理にも話さなければならない。そうなれば武田家に寝返りのことが確実にバレるだろう。義昌はそのことを義豊に伝えた。

「織田家の信を得るにはお前に人質に行ってもらわなければならない」

「ええ、そのようです。ですがこれも木曽家の安泰のため。喜んで引き受けましょう」

 義豊はあっさりと了承した。これが木曽家に必要なことだということは理解できたしそのために命をかけることも辞さない覚悟である。

「他家に養子に行っていた私なら姿が見えなくなってもおかしくはないでしょう」

「ああ。わかってくれるか。そういうことだ」

 義昌は友忠に人質の用意ができたと連絡し、義豊もそれを追うようにして友忠のもとに向かった。この時点で武田家に寝返りの情報は伝わっていない。とはいえいずれはすべて露見する話である。

「あとは時間との勝負か」

 友忠に送った書状の中で義昌は織田家の素早い出陣を求めた。織田家に寝返ったとしても武田家に攻撃されれば持ちこたえることは難しい。義昌はただただ祈るだけであった。


 あくる日、義昌は真理にこう尋ねられた。

「先だって義豊殿がいらっしゃったようでしたがいったいどのようなご用向きでしたのですか? 」

 一瞬ぎくりとしたが真理はいつもと変わらぬ様子であった。義豊が織田家に人質に行ったことなど気づいていないようである。義昌は内心安堵しつつもうまく取り繕いながら答えた。だが後ろめたいのか顔を背けて言う。

「何でもない。久しぶりに顔を見に来ただけだと言っていた。急ぎの用事が出来てお前には挨拶できなかったようだが」

「そうですか。ですがまだ上松のお家には戻られてはいないようです」

 義昌は固まった。そして振り向いて見た真理の表情を見て驚く。怒っているわけでも悲しんでいるわけでもない。冷淡な無表情であった。今まで見たこともない表情である。

 真理は固まっている義昌を見て確信したようだった。

「義豊殿を織田家に差し出したのですね」

「…… ああ、そうだ。義豊には織田家の人質になってもらった」

 義昌も冷淡な無表情で答えた。そこにかつての仲睦まじい夫婦の姿はない。二人は無表情のまましばしにらみ合っていた。やがて先に口を開いたのは真理であった。

「一度は敵対した木曽家を許し一門に加えた武田の家を裏切るということですか」

 この問いに義昌は答えない。無表情で真理を睨みつけたままである。真理はさらにこう続けた。

「お家のためなら自分の母や妻、子を切り捨てるのもやむなしと考えておられるのですね」

 真理は怒りを込めた目で義昌を睨みつけた。すると義昌はこう答える。

「織田家は近いうちに攻めてくる。そうなれば武田家は滅びるだろう。そうなったら人質だけでなく我らも死ぬ」

「だからと言って」

「私は木曽の家を守らねばならない。人質に行った母たちももしもの時はどうなるか覚悟の上だ。それをどうこう言うのは武家の人間ではない」

 義昌は突き放すように言うと真理に背を向けた。そしてそのまま去ろうとする。その背中に真理はこういった。

「ならば私も私の家のためのことをいたしましょう」

 そう言って去る真理。義昌は背を向けたままでこう言った。

「好きにするがよい」


 真理は義昌に言われたとおりに好きにした。まずは義昌が武田家を裏切ろうとしていることを手紙にしたためえると勝頼に送る。真理からの手紙を受け取った勝頼は当然であるが怒った。

「我が妹を娶っておきながら裏切るとは言語道断の所業である。絶対に許さん。このような馬鹿な真似をするとどうなるか見せつけてやらなければ」

 怒り心頭の勝頼であったが、怒り狂ったわけではなかった。頭の中ではこの裏切りからの事態の悪化への懸念がある。

「(国境の木曽が裏切れば織田家も動こう。その時は武田家のすべての力をとして立ち向かわなければならん。そのためにはさらなる寝返りだけは防がなければ)」

 勝頼が最も恐れたのは寝返りの波及である。国境の木曽家の裏切りに続いてさらなる寝返りが起きれば織田家を撃退するどころか戦うことすらままならない。

 さしあたって勝頼が行ったのは軍勢を編成して木曽谷に向かわせたことである。裏切りが明白な以上は木曽家を討伐して国境の守りを固めなければならなかった。そしてもう一つ行ったのが武田家で預かっていた木曽家の人質の処刑である。どちらも武田家に従う領主たちへの見せしめであった。そもそも人質を取るという行為は寝返りなどの事態を未然に防ぎ万が一の時は見せしめにするためというのが目的である。

 処刑されたのは義昌の母と側室、その子供たちである。義昌の母は何も言わず処刑された。彼女自身覚悟は決まっていたようである。子供たちは何もわからないまま処刑された。そして側室は木曽谷の義昌に向かってこう叫ぶ。

「そんなに家と領地が大事か」

 その叫びが届いたかどうかはわからない。だが自分を切り捨てた夫への怨嗟の声を叫びながらこの世を去ったのである。

 真理はこの一連の出来事を知るとわずかな供と義昌との間に生まれた三男を伴って城から出た。木曽の山中で隠遁するつもりらしい。義昌は顔を合わせず生きていくに困らないだけの金子を与えた。真理は義昌に何も言わず黙って城を出ていく。

 家臣は義昌に尋ねた。

「よいのですか」

 義昌は悲しみと、諦めと、情けなさのこもった表情で言う。

「ああ。仕方ない。真理は好きにしただけだ」

 そう言って大きなため息をつくのであった。


 真理が去ったことで木曽家と武田家は完全に断行となった。木曽家にいた武田家の家臣は真理についていくものと武田家に戻るものとで別れたが義昌はどちらも捨て置く。

「放っておいても問題はあるまい。どちらにせよ武田家の軍勢は向かってくる」

 そうした情報を入手したわけではないが武田家の現状や勝頼の考えを考えれば裏切り者を野放しにしておくわけはない。義昌としても迎え撃つつもりであった。

「何とか織田家から援軍をもらわなければ」

 武田家の軍勢を木曽家だけで迎撃できるわけはない。義昌は急ぎ織田家に援軍の要請をしようとした。だがその心配はすぐになくなる。すでに織田家は武田家征伐の軍勢を出陣させているようだった。そして程なくして先鋒が信濃に入るという。武田家の軍勢の到着には間に合いそうであった。

「我らを従えた時点で武田を討つつもりだったのか。なんにせよありがたい。あとは武田家の軍勢を追い払い生き残るだけだ」

 今回義昌は非常な選択をした。そして最愛の妻にも見限られている。だがそれでも家を守り一族郎党を生き残らせること、そして代々の領地である木曽谷とそこに住む人々を守るのが義昌のすべてである。

「必ず勝って見せる。それが私の果たすべき役目なのだ」

 義昌は改めてそう誓うと戦いの準備に臨むのであった。

戦国時代は人質にまつわる悲劇は少なくありません。今回の義昌の裏切りに伴う人質たちの処刑はその一つと言えましょう。現代的な感覚では義昌の行動は非情で残酷なものであります。しかし今とはまるで違う生きるか死ぬかの環境、しかも多くの人間の命を預かった立場の人間の考えは今の我々では思いもよらぬものだとも思います。

 さていよいよ武田家を裏切った義昌。果たして生き残ることができるのか。お楽しみに。

 最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では

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