太田資正 道 第八話
織田信長の登場で終わったかに見えた関東の戦国。しかし誰も予想だにしなかった事態が起き、関東はふたたび戦乱に戻る。資正の戦いはまだ終わらない。
天正十年の六月二日。京の本能寺で織田信長が家臣の明智光秀に討たれた。いわゆる本能寺の変である。
信長横死の報はあっという間に関東にも届いた。そして信長の死を確認した北条家は上野に出陣し滝川一益軍と合戦に及ぶ。のちに神流川の戦いと呼ばれるこの戦いの結果、一益は関東を追われ織田家による関東支配はあっという間に終わるのであった。
この混乱に際し資正は情報の収取に努めた。また一度は織田家家臣になっていた資正だが改めて義重にもとに復帰する。もとより片野城にいたので別に何か特別な変化があった訳ではないのだが。
義重はこの事態の激変を受けて早速重臣たちを集め協議を始めた。もはや織田家の権威が無意味になった以上、北条家との戦いが再開するのは目に見えている。
「さてどうするか」
佐竹家、そして反北条連合としては北条家に単独で対抗するのではなく、北条家と敵対する同盟者が欲しいところであった。そうした戦略の有効性は武田家との同盟で確認済みである。義重は資正に尋ねた。
「京の状況はどうなっている? 」
「先ほど手に入れた情報によると信長殿を討った明智光秀はもう討ち取られたようです」
「なんと! それで誰が打ち取ったのだ」
「織田家臣、羽柴秀吉殿という御仁だそうです。他のことはわかりません」
「わかった。それで北条家の動きは? 」
「滝川殿を打ち破った後は上野を制圧。さらに信濃や甲斐を手中に収めようとしています。ですが」
資正はそこで一度言葉を区切った。義重たちは資正の次の言葉を緊張して待つ。
「徳川家康殿も甲斐、信濃の平定を目指して兵を進めている模様です」
それを聞いた義重や佐竹家家臣は資正の考えを理解した。そして義重は家臣に向けて言い放つ。
「徳川殿に使者を出せ! それと宇都宮、結城にもこれを知らせるのだ」
「「ははっ! 」」
義重の号令と共に資正と重臣たちは動きだした。
反北条連合は多少の差はあれど殆ど同じタイミングで徳川家と交信しはじめた。そして反北条連合と徳川家は同盟して協調して北条家に対抗する。
北条家と徳川家は八月ごろに甲斐で対峙する。この対陣は二ヶ月ほど続き、義重は家康の後方支援のために北条家を攻撃したりした。しかし最終的には北条家と徳川家は和睦し甲斐、信濃をめぐる抗争は幕を閉じる。
この時近畿では羽柴秀吉がその勢力を伸ばし始めていた。この北条、徳川の和睦は秀吉への家康の対策の一環といえる。だが資正たちには関係のない話であった。
後日、反北条連合に向けて家康から使者がやってきた。内容は北条家との和睦の提案である。だが義重をはじめとした諸将はこれを跳ねのけた。
「受け入れられるものか」
「左様です」
徳川の領地は大きかったが織田家ほどではない。そしてかつての織田家に比肩する勢力もない。この時点で関東の騒乱を終わらせることのできるものなどいなかった。
「(私の道はまだ終わらん)」
資正は新たな決意を胸に反北条の戦いに身を投じる。
こうして気持ちも新たに反北条の戦いを始める資正と反北条連合。しかしこの時期連合に所属する勢力同士の対立が始まっている。
例えば宇都宮家傘下の益子家と宇都宮一族の流れをくむ笠間家が対立していた。他にも下野の領主たちを中心に反目や確執などが表面化してきている。
もともとこれらの要素は内在していたのだが、北条家という共通の敵を前に団結していた。だが近年の混乱や北条家と互角に戦えているという実績が油断を生み問題を表面化させつつあった。
これらの問題には義重も一族を派遣して収拾に努めている。そのうちに時が流れて天正十一年(一五八三)になった。
「ままならぬものだな」
義重は疲れ切った表情で言った。そんな義重を資正は慰める。
「仕方ありません。こうした問題は早々解決できるものではありません」
「だが北条の脅威はまだ消えていないというのにこれでは」
「なまじ北条と戦えたということが災いしたのかもしれません。とにかく今は問題を収取し北条の動きに対抗しなければ…… 」
資正も義重も焦っていた。北条家は徳川家との同盟以降上野に積極的に進出している。そして徐々に勢力を拡大していった。これらの北条家の攻勢に反北条連合は有効な手を打てないでいる。この現状を資正も義重も重く見ていた。
「資正。何か策はあるか? 」
資正は考え込んだ。そして
「羽柴殿と誼をつないでみては」
「羽柴、とは確か織田家の旧臣であったな」
「はい。今や織田家当主を差し置き信長殿の後継ともいわれているそうです」
「なるほどな。徳川殿との関係は? 」
「よくもあり悪くもあり、といったところでしょうか。いささか緊張した関係のようです」
「そうか、それはいい話だな」
義重にやりと笑った。資正もこれにうなずいた。
こうして反北条連合は秀吉との連携を模索し始めた。天正十一年の秀吉は反目する柴田勝家と合戦し滅ぼしている。反北条連合はこの直後への秀吉との音信をし、秀吉もこれを歓迎した。秀吉は信長の後継者として天下統一を目指しており、これにつながるであろう反北条連合との友好は好ましいものだった。
こうして反北条連合は秀吉との連携を確認し北条家との戦いに挑むことになる。
北条家との全面対決に進む反北条連合は天正十一年の十一月ごろから行動を開始する。目標は上野と下野の北条家に従う勢力であった。これに対し北条家も北条氏照、氏邦の兄弟が中心となって反撃する。
下野の戦いの中で反北条連合の攻撃目標になったのは小山家である。当主の小山秀綱はかつて反北条連合に加わっていた。だが周知のとおり織田家の調停以来北条家に属していて、今度も北条家側である。
「皮肉としか言いようが無いな」
資正はため息をつく。かつて資正は北条家に城を追われた小山秀綱の帰城の支援をしていた。結局は織田家の調停で帰城できてその結果北条家の傘下に属している。そして攻め寄せる反北条連合に立ち向かうつもりのようだった。
「これも一つの道か」
もし秀綱が資正や反北条連合に恩義を感じていても自分や自家の保全には代えられない。そういう生きる道を多くの領主たちは選んできた。それを理解せず否定する資正ではない。資正に出来るのは反北条連合の一員として全力で行動することである。
また上野では由良成繁と長尾顕長が反北条連合に着いた。これは両者が北条家に屈するのを良しとしないという考えで行動したのであろう。これもまた道の一つではある。
さて北条家と反北条連合の戦いが激化しつつあるとき、別の所でも大きな動きがあった。
天正十二年(一五八四)三月羽柴秀吉と徳川家康、織田信雄が対立し合戦に及んだ。小牧・長久手の合戦である。この戦いに際し秀吉は反北条連合と、家康は北条氏直と連絡を取っている。家康は北条家の援軍を期待し、秀吉は反北条連合に北条家の牽制を望んでいた。これらの要請を背景に北条家と反北条連合は戦線を拡大していく。そして天正十二年五月下野の沼尻で両軍は激突した。
この沼尻での合戦は熾烈を極めた。双方は一進一退の攻防を繰り広げ決着はなかなかつかない。だが戦況は北条家有利に推移して行く。さらに資正の息子の梶原政景が北条方に寝返るという事態が発生した。この事実を知った資正は呆然とする。
「何を考えているのか…… 政景は…… 」
結局のところ政景も北条家の脅威に屈してしまったという事だった。当時反北条連合はそれほどに不利な状況にあったのである。
そして反北条連合方の岩船山城の落城をきっかけに七月半ばにやっと講和が成立して決着がついた。また政景は義重に討伐されそうになるが資正の歎願でおとがめなしとなる。これは資正の功績を鑑みての温情措置であった。
さて、この講和の条件で由良・長尾の両家は北条家の傘下に入らなかった。しかしそれが不服だったのか講和の翌月には北条家は由良・長尾両家に攻撃を仕掛ける。そして小牧・長久手の合戦がひと段落した十二月には両家は北条家に屈して城を明け渡した。
この一件に義重は激怒した。
「前代未聞の暴挙だ! 許せん! 」
一方で資正は冷静であった。
「殿。落ち着かれよ」
「しかし資正よ」
「こんどのこと、許せない気持ちはわかります。しかしこのような暴挙を許してしまうほど我々の現状は厳しいのです」
資正にそう諭されて義重は黙った。確かに資正の言う通り佐竹家および反北条連合の現状は厳しかった。
北条家は徳川家と結び後攻の憂いなく関東に攻め入っている。上杉家はもう関東の戦いに積極的に関わるつもりはないようだった。そして頼みの綱の羽柴家との同盟もその地理的な遠さから効力は薄い。だがそれでもこの同盟は佐竹家の命綱であった。
「(しかし羽柴殿を頼るより我らに手はない。羽柴殿が真に織田殿の後継者になればその影響力は北条も無視は出来まい)」
これまでに羽柴秀吉は家康を介して関東の紛争を調停しようとしていた。これは小牧・長久手の戦いの後も同様である。しかし現段階の羽柴家に関東の戦いを終わらせる影響力はない。それゆえに北条家は積極的に進軍し関東を制覇しようとしている。
それに対し資正も佐竹家も反北条連合も有効な手を打てないでいる。その現実に資正は歯噛みするしかなかった。
沼尻の合戦以降は反北条連合及び佐竹家は徐々に劣勢に立たされていった。連合の主力である宇都宮家は北条家の激しい攻撃を受け領内に甚大な被害を受けている。また下野の領主の壬生家が北条家に従うようになった。さらに反北条連合から離れた下野の領主は壬生氏だけではなかった。
皆川城を拠点とする皆川家は宇都宮家と同様に北条家の激しい攻撃にさらされた。天正十三年(一五八五)の時は佐竹家の支援を受けて北条家を退けることができたが、翌年には佐竹家の隙をつき北条家の攻撃を受ける。そして北条家に屈してしまった。
また唐沢山城の佐野家は家中で反北条派と新北条派で分裂していた。そして天正十四年(一五八六)に反北条派の当主佐野宗綱が戦死してしまう。これにより佐野家の北条派は北条氏政の弟の氏忠を養子に迎え入れた。これにより佐野家の反北条派は居場所を失い宗綱の叔父房綱は京都に逃れる有様であった。
この結果天正十四年の終わりの頃には下野のほとんどの領主が北条家に属するようになり宇都宮家はさらに劣勢になった。
さらにこのころは佐竹家も苦境に立たされていた。
この日は佐竹家の重臣が集い会議を行っていた。勿論資正もの姿もある。
義重は資正に尋ねた。
「土岐家と岡見家の動きはどうだ? 」
土岐家と岡見家というのは常陸の小勢力だった。現在、佐竹家に反抗している。
「かなり活発になっています。北条もかなり力を入れて支援しているようですね。小田家の時とは大違いです」
「里見家は? 」
その質問に資正は苦い顔をする。
「もはや北条と争うつもりはないようです。もっともこちらに積極的に敵対しようというわけでもないようですが」
このころの里見家は内紛等の混乱もあり目立った行動はしていなかった。あくまでも里見家の安定を第一とし関東の争いと距離を置いている様子である。
「(殻に籠ろうという事なのだろう)」
資正は今でも里見家との交渉を担当している。だが帰ってくるのは曖昧な返事ばかりであった。もはやあてにはできない。
「そうか…… 奥州の方はどうだ」
義重は別の重臣に尋ねる。
「一応相馬殿の仲介で講和は実現しそうです。しかし楽観は出来ません」
このころ奥州で最大の勢力を誇る伊達家が積極的な動きを見せていた。天正十三年には佐竹家と同盟者の蘆名家の連合軍と伊達家の大規模な戦いが起きている。そしてこの戦いでは決着がつかずその後も抗争は続いた。その後、伊達家と佐竹家と領地を接する相馬家が仲介し講和が成り経とうとしている。天正十四年の事であった。
「楽観はできんか…… 」
義重は苦々しくつぶやいた。資正を含む重臣たちの表情も心なしか暗い。わかってはいたがかなり厳しい状況に置かれている。
皆が押し黙る中で資正は口を開いた。
「ともかく奥州方面は今回の講和を維持する方向で。土岐、岡見両家に対しては積極的に攻勢に出て北条家の出鼻をくじく。というのでどうでしょうか」
資正の出した案は変哲のないものだった。ともかくできることをしようという事である。
義重も重臣たちも資正の案にうなずく。そして今回の会議は終了となった。
「今は北条の勢いを削ぐことを考えよう」
資正はそう一人つぶやくと戦いの準備を始めた。
天正十五年(一五八七)佐竹家は岡見家の足高城を落とした。これに対し北条家はさらに戦力を増強させて佐竹家に攻勢をかける。戦国時代の終わりが近づく中で関東の争いは激化の一途をたどるのであった。しかしそれは蝋燭が燃え尽きる前の最後の燃焼なのかもしれない。
今回の話は本能寺の変とその余波といった内容です。本能寺の変が起きる直前まで織田家は関東をほとんど掌握していました。ですが本能寺の変が起きると一度は落ち着くかに見えた関東も再び戦乱に戻ります。以前と違うのは反北条連合が劣勢になったところだけでしょう。北条家はこの時代勢力を最大にします。
資正はこの時代秀吉の出陣を何度も求めています。しかし諸々の理由からなかなか秀吉は関東へ出陣しませんでした。その間にも資正も佐竹家も追い詰められていきます。もしかしたら資正にとっては最も苦しい時代だったかもしれませんね。
さて太田資正の話は次で最後となります。資正の道の果には何があるのか、どんな結末を迎えるのかをお楽しみください。
最後に誤字脱字などがありましたらご連絡ください。では




