伊東義祐 変貌 第七章
己の不徳から家をつぶし多くのものを失った義祐。それでも家の再興をかけて豊後の大友宗麟の下に向かう。老境に差し掛かり苦難の連続を味わった男はどのような道をたどるのか。
苦難の果てに義祐たちは無事に豊後についた。しかしこれで終わりではない。
「何とか宗麟様に謁見しなければ」
義祐たちの目的は大大名である大友宗麟の庇護を受けることである。それができなければここまで逃れてきた意味もない。そうなればもはや義祐も伊東家も存続することすらできないだろう。義祐は一縷の望みと大きな不安を抱えながら大友家の本拠地である臼杵に向かった。皆疲労困憊であったが最後の力を振り絞っての道行きである。
「私が必ずや宗麟様を説得する。それまで耐えてくれ」
この義祐の言葉には心がこもっていた。同行してきた人々もそれがわかったので最後の力を振り絞る。
やがて一行は臼杵についた。そして臼杵城下町の光景を見て義祐は驚嘆する。
「見たこともない…… これがうわさに聞くキリシタンとやらか」
大友宗麟はキリスト教に帰依していて自身の領内での布教を援助していた。臼杵城下町にはキリスト教の教会がいくつも作られている。一行はそんな城下町の光景に驚嘆した。一方で義祐は複雑な思いを抱く。
「宗麟様は仏の教えを信じられていないのか」
何とも言えない不安を抱く義祐であった。しかし気を取り直して宗麟のいる臼杵城に向かうと、驚くほど簡単に迎え入れられた。そしていざ宗麟と面会するとあっさりとこう告げる。
「貴殿らの安全は保障しよう。ゆくゆくは日向に攻め入り島津を追い払い貴殿らをかえしてやろう」
これを聞いた義祐は畳に額をこすりつけて平伏した。
「あ、ありがたき幸せにございます」
号泣する義祐。それに対して鷹揚に笑う宗麟。ともかくここまで苦労して脱出してきた甲斐はこの時はあったである。
天正六年(一五七八)伊東祐松がこの世を去った。義祐が豊後に逃れてからは大分に冷遇されていたらしい。大友家の庇護下でも屋敷こそ与えられたがあまり誰も寄り付かなかった。そして孤独のまま死んだのである。
義祐は祐松の葬儀をしっかりと執り行った。当初これに同行してきた家臣である長倉祐政は反対している。
「祐松殿はお家の行き先を間違わせた御仁。それを手厚く葬るのはどうかと」
だが義祐はこれを聞いたうえで祐松の葬儀を執り行った。
「家をつぶしたのは私の責だ。祐松がどのようなことをしたかはわかっている。だから今は遠ざけていたのだ。しかしここまでついてきたのも事実。私の首を取って島津に降ることもできたのだからな」
こう言われては祐政も黙らざる負えない。祐松の葬儀はしめやかに行われた。
祐松の死のしばらく後でいよいよ大友家による日向への侵攻が行われることになった。その兵力はおよそ四万。島津家の兵力を上回っている。また祐政は日向に残っている伊東家家臣の調略を行った。これは意外なほど成功し、何人かは島津家に抵抗している。また祐政も山田宗昌ら同行してきた家臣を連れて日向に向った。こうして伊東家の残存部隊と大友家による共同作戦が行われることになったのである。
「宗麟様がここまで力を傾けてくださるとは。ありがたい」
大友家の本気ぶりを見て喜ぶ義祐。一方で祐兵はどこか浮かない顔であった。それに気づいた義祐が尋ねる。
「どうしたのだ? 祐兵」
「はい。実は御爺様がおっしゃられていたことが気になって」
この御爺様というのは祐兵の母の父、つまりは義祐の舅にあたる川崎祐長である。祐長は自分の城で島津家に抵抗してきたが落城すると脱出し豊後で義祐たちと合流していた。その立場や年齢的なものもあり今は家臣団のまとめ役となっている。そんな祐長が懸念を持っているというのならば義祐も気になった。
「一体どういうことだ? 」
「いえ。御爺様は父上のお耳にいれるほどのことでもないと」
「いや、言ってくれ」
「わかりました。じつは」
その話の内容は大友家の将兵の士気のことだった。なんでもどこか皆やる気がなく士気が低いように見受けられたのである。さらに
「宗麟様は日向にキリシタンの国を作るつもりだと」
といった。これに義祐は狼狽する。
「な、何を馬鹿なことを」
否定する義祐であるが臼杵のキリスト教で彩られた街並みを思い出し、黙り込んでしまうのであった。
大友家の日向侵攻は順調に進んだ。まず長倉祐政や山田宗昌らが日向で挙兵しこれに旧伊東家家臣たちも呼応して島津家に抵抗する。さらにここで大友家の軍勢も加わり、手始めとばかりに土持家を滅ぼした。
この時大友家の軍勢は土持家領内の神社仏閣をことごとく破壊している。さらに宗麟はキリスト教の宣教師を連れて日向に入った。これらの報告を聞いて義祐は悲嘆する。
「宗麟様は本当に日向をキリシタンの国にするつもりらしい。そうなれば私が佐土原や領内で築いた仏閣もことごとく破壊されるだろう。だが、私にそれを止められるはずもない」
伊東家は大友家の世話になり庇護を受けている状態である。その立場で宗麟のやり方に異議を唱えられるはずもなかった。しかし佐土原の仏閣は破壊されずに済む。それはなぜかというと大友家が大敗したからであった。実は神社仏閣を破壊したことでそれらを侵攻する大友家家臣の士気は著しく低下。さらに大きな反発も買ったのである。
「宗麟様はキリスト教に入れ込んで神仏をないがしろにしている」
「我らの信じるものを信じない殿に仕えていて大丈夫なのか」
反発は連携の乱れを生み大友軍の内部では不協和音が生じ始めていた。そして島津家との合戦に及ぶのだが、島津家はお家のためにと一団結して事に当たっている。この違いが勝敗を大きく分けた。大友家は大敗を喫しすさまじい被害を出して日向から撤退したのである。そして大友家とともに戦った伊東家家臣にも戦死者が出た。
義祐は命からがら帰還してきた山田宗昌からその報告を聞いた。
「長倉祐政は大友家の方々とともに討ち死にされました」
「な、なんということだ」
祐政は島津家の日向侵攻で最初に攻め落とされた高原城の城主であった。この時義祐は救援に出ていながらも戦わずに引き返すという醜態を見せている。しかし祐政は義祐を裏切らず豊後までの厳しい道中をともに乗り越えた。そんな忠臣の死であるから義祐の嘆きもすさまじいものである。
「祐政よ、お前のようなものが死に私のようなものが生き残ってはいかんではないか。なぜ私は生き残ってしまっているのだ」
嘆きに嘆く義祐。しかし伊東家の苦境はこれで終わりではなかった。
大友家は日向における戦いで多くの重臣を含む多大な犠牲を出した。ただその敗戦の責任は実際に戦った指揮官にあり、さらに言えば個人的な信仰心で神社仏閣を破壊し将兵の士気を下げた宗麟にもある。しかし大友家に所属する多くの人々の認識は違った。
「何もかも日向に攻め入ったことがそもそもの始まり。伊東家など助けるからだ」
「敗れて逃れてきたものを拾い上げても何の得もない。挙句我らを無用な戦いに巻き込んだのだ。あ奴らこそ疫病神だ」
今回の責任は伊東家にある。そう多くの人々が考えていた。これに対して義祐たちは反論できない。確かに日向に大友家が進出するきっかけにはなっているのだから。だが伊東家を庇護することも日向に侵攻することも判断したのは宗麟である。そう考えれば大友家に責任があるといえるのだが。
こうした風当たりの強くなる中で義祐は悩んだ。
「もはや大友家の助けを借りることはできまい。しかしいったいどうすればいいのか」
頼みの綱の大友家が破れてしまってはもはや取れる手はない。万が一余力があったとしても今の大友家が伊東家を助けるような考えになることはないだろう。状況はかなり絶望的である。しかもとんでもないうわさも飛びこんできた。それを伝えたのが川崎祐長である。
「殿。信じられぬ話ですが、義統様が阿虎様を奪おうとしているという噂が」
「な、なんだと。そんなことありえぬ」
義統というのは宗麟の嫡男で、阿虎は祐兵の妻である。つまり世話をしている家の息子が世話されている家の息子の妻を奪おうとしていることであった。
義祐は信じられないという顔をする。しかし祐長は重々しくこう言った。
「祐兵様も私も見ましたが、義統様のそばに仕えていた御仁が我らの屋敷の周りを見張っているそうです」
これを聞いて義祐は唖然とするしかなかった。しかしすぐに気を取り直して決断する。
「もはや大友家には居れん。どこか別の家の厄介になろう」
「承知しました。でしたら何とかほかの家に頼み込んでみます」
その後祐長の奮闘もあり伊予(現愛媛県)の河野家が伊東家を引き取ると言い出した。大友家も早く伊東家にいなくなってほしかったので二つ返事で了承する。だが一つだけ宗麟からの条件があった。
「義賢と祐勝は我が手元においておけ」
宗麟は義賢と弟の祐勝をことのほか気に入りキリスト教を教え込んでいた。二人ともそれを素直に受け入れている。
義祐はこれを了承した。
「(宗麟様に気に入られている以上はここにいる方が安全だ。どうなるかわからん我と一緒よりいいだろう)」
義祐なりに孫のことを考えてのことである。こうして伊東家は海を渡り河野家の厄介になることになった。
伊予についた義祐たちは河野家家臣の大内栄運に迎えられた。栄運は温厚篤実な人物で義祐たちを温かく迎え入れてくれる。
「日向から逃れてご苦労なさったでしょう。もう安心です」
確かにここまでくれば島津家は追ってこないだろう。そこは確かに安心である。しかし大友家の時と違い義祐たちに与えられた扶持はわずかなものであった。それゆえに困窮甚だしい生活に陥る。家臣たちは何とか義祐たちの生活が成り立つように奮闘した。河崎祐長などは酒造りを行ったほどである。こうなってくると義祐の自己嫌悪もすさまじいものになった。
「私が志ある者の話を聞かずにいたことがすべての始まり。ただただ情けない。本当に情けない」
自身を情けなく思う義祐だが何かできることもない。ほかの大名家に助けてもらえる当てもなければ人脈もなかった。ただただ自室で念仏を唱えて伊東家の再興を願うという日々を送るだけである。そんな日々が三年ほど続いた。
義祐はもはや老人と言っていい年齢である。家のことは祐兵に完全に任せていた。そんな祐兵から驚くべき知らせを聞く。
「父上。仕官が叶いそうです」
「な、なんと! いったいどういうことだ」
祐兵はことの詳細を話した。まず祐兵は何とかこの状況を脱しようと様々な家に仕官を求めていた。そしてそれを手助けしていた者の一人に山伏の三部快永という人物がいる。その快永が播磨(現兵庫県)の姫路に赴いた際に
「貴殿は日向の出身というが本当か? 」
とたずねてきた男がいたらしい。これに対して快永は
「その通りです。私は日向の伊東家に世話になりましたが、島津に国を追われて浪人し伊予にいます。その窮地を助けるべくこうして諸国を回っているのです」
と答えた。すると男はこう尋ねた。
「イトウとは伊東か伊藤か? 」
「伊に東です」
快永がそう答えると男は笑ってこう言った。
「拙者も伊東の性を名乗っております」
その男は織田家の重臣である羽柴秀吉に仕える伊東祐時という男であった。そして祐時は伊東家の窮地を知るとこう提案してきた。
「我が殿はゆくゆく大殿の命で九州に攻め入るかもしれませぬ。日向の方ならその時位に役に立ちましょう。殿にそれを説けば仕官がかなうかもしれませぬ」
「なんと、よろしく頼みます」
そういうことで話は進み、羽柴秀吉も伊東家の仕官を認めるということになった。
これを聞いた義祐は感涙した。
「この乱世にそこまでのことをしてくれる御仁がいるとは。本当にありがたい」
「では、羽柴様にお仕えするということで」
「ああ。それでいい」
こうして一転、義祐たちは窮地から逃れることができたのであった。
義祐たち伊東家主従は羽柴秀吉に仕えることになった。そしてこの時伊東家の当主として扱われたのは祐兵である。
「もう私にできることなど何もない。そもそもできることなどなかったのだ」
そう言って義祐は家督を祐兵に譲った。
その後祐兵は羽柴秀吉の家臣として活躍し手柄を立てていった。義祐は完全に隠居の体で静かに過ごしている。どこか憑き物の落ちた感じであった。
天正十二年(一五八四)義祐はこんなことを言い出した。
「古い知り合いが周防(現山口県)にいるらしい。そこを訪ねるついでに旅をしたい」
これに困ったのは祐兵である。旅をするのはいいが義祐はもう七〇を超える老体であった。道中で万が一のことがあるかもしれない。
「でしたら父上。家臣を供に付けます。いいですね」
「私は気ままに一人で旅したいのだがなぁ」
そういう義祐だが祐兵が強く勧めたので家臣の黒木というものを連れて旅に出た。だが
「(どこかで撒いてしまおう)」
と考えていた。実際周防の知り合いを訪ねた際、予定よりも一人で先に出て黒木を撒いてしまう。そしてそのまま気ままに一人旅をしていた。だがさすがに祐兵が心配していると思ったので屋敷のある堺に船で帰ることにする。
その道中で義祐は病にかかった。何とか堺まではたどり着いたが年のせいもあり動けないほど衰弱してしまう。すると船頭はこんなことを言い出した。
「面倒ごとはごめんだ。こんな弱った爺さんを担げるかよ」
そう言って義祐を砂浜に捨て置いてしまったのだ。だが、これに義祐は不思議と絶望しなかった。
「(私の愚行のせいで大勢死んだ。生き残っている者でも私を恨んでいる者も多いだろう。このままここで野垂れ死ぬのが私にはお似合いだ)」
そう考えて義祐は目を閉じる。そして次に目を開けると堺の祐兵の屋敷だった。偶然にもこれを知った祐兵の家臣がすぐに駆け付けて屋敷に運び込んだのである。そして医者を呼んで必死で看病したのだ。
「私にはもったいないな」
ろくに口もきけないほど弱っていた義祐であるがその一言だけははっきりと言った。そしてそれからしばらくして伊東義祐はこの世を去る。享年七三歳。戦国の世としてはかなりの長命であった。幸せな人生であったかは分からないが。
伊東義祐の人生の激動の始まりは叔父の謀反からでした。この時は日向から出ようとしたところを家臣に引き留められて戻っています。そして紆余曲折を経て当主として返り咲きました。ですが人生の最終盤でそれを失い日向から遠く離れたところまで逃げ、その果てで病死します。波乱万丈、数奇としか言えません。たとえ成功してもそれを維持することを怠れば破滅するという見本と言えましょう。成果を上げるよりもそれを維持することの方が難しいことの証左にもなっているかもしれませんね。
さて次の主人公はある有名武将に一時深く関わった人物です。いったい誰か? お楽しみに。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では




