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戦国塵芥武将伝  作者: 高部和尚
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伊東義祐 変貌 第二章

 紆余曲折あって伊東家の家督を継いだ義祐。当主となった以上やるべきは伊東家の繁栄。それだけである。そしてまずは伊東家の悲願を果たすべく動き始めるのであった。

 長倉祐省の反乱を鎮圧した義祐は因縁の島津豊州家との戦いに臨む。その主な軍事目標は豊州家の本拠地の飫肥城である。日向の南部にあるこの城は長きにわたり伊東家と豊州家との戦いの舞台となっていた。この城を手に入れることで豊州家、ひいては島津家の影響力を断つことになり日向一国を手に入れるという目標に大きく近づく。

「飫肥城を手に入れるは伊東家の悲願。必ずや成し遂げる」

 そうした決意を固める義祐だが一方で別の動きもしていた。一つは官位の獲得である。義祐は多額の金銭を朝廷に献上することで高い官位を獲得していった。これには義祐なりの思惑もある。

「まずは格の上で島津を越えなければ」

 義祐としては伊東家が日向全域を支配するにふさわしい格式を得ようとしていたのである。そうすることで日向の領主たちを越える存在であり、島津家より日向を支配するにふさわしい存在であると周囲にアピールしようとしていたのだ。

 一方で義祐は寺社仏閣の造営に並々ならぬ力を注いだ。大和(現奈良県)から仏師を読んで大仏を建立したり京の金閣寺を模した金柏寺という寺を建立したりした。むろんこちらにも多額の金銭が費やされている。

 こうした動きに祐安も苦言を呈する。

「官位のことはともかく仏事に金子をかけすぎでは」

 しかし義祐は聞き入れない。

「私は仏の教えに救われてきた。その恩義を返すのには寺社仏閣を建立するしかない」

 また、こうした義祐の考えを肯定する家臣もいた。

「さすが義祐様。素晴らしいお心です」

 こう言うのは伊東一族の伊東祐松である。祐松は義祐の当主就任に尽力した人物であり義祐の信頼も厚かった。一方でその性格から家中では嫌われている。

 結局義祐は寺社仏閣の建立をやめなかった。このことが伊東家の行く末に影を落とすことになる。


 義祐は仏事への傾倒をやめなかった。だが伊東家の悲願である日向の制覇をやめたわけではない。むしろ強い意志をもってこれを成し遂げようとしていた。その証の一つが金柏寺に寄進した大鐘に刻まれた文言からもわかる。大鐘には義祐のことを『三州太守』記してあった。これは本来日向、薩摩、大隅の三国の守護を務める島津家のことを指す言葉である。だが義祐自身がこれを自称することで強い島津家への対抗意識を示したのであった。

「われらは島津家に負けない家である。ゆえにこれからも後れを取ることはあり得ない」

 こうした意識は伊東家中においても好意的に受け止められていた。特に祐松にならぶ側近と目された落合兼朝もその一人である。

「義祐様は伊東家の累代の方々も及ばぬほどの名将だ。伊東家の悲願も必ずや成し遂げてくれましょう」

 この言葉に祐安もうなずく。この時祐安は義祐の仏事への傾倒を、兼朝に諫めてもらおうと相談に来たのだ。ゆえにうなずきながらもこう言う。

「名将なのは私もわかっている。ゆえに仏事に費えを出しすぎていることが不安なのだ」

「それは拙者も同じく。しかしああいったことで義祐様や民の心が安んじられればそれでよいではないか。なに、もしやりすぎたとなれば拙者も貴殿とともに諫める」

「そうですか…… それならよいのです」

 祐安は少し安心した。しかし言い知れぬ不安があるのも事実であった。


 義祐は家臣たちにいろいろと思惑があるのは承知している。それでも仏事への傾倒をやめなかったのは理由がある。

「仏の教えは己の心を鎮めるのに役立つ。私自身そうだった。大事に挑むのだから心を鎮めるのは必要なことである」

 これが義祐の考えている理由である。この意図が家臣や領民たちに伝わったかは不明であるが義祐の心は鎮まった。そして心置きなく大事、飫肥攻めに力を注げるのである。

 義祐の時代の飫肥への侵攻は長祐省の討伐後に程なくして行われた。祐省が豊州家の支援を受けていたことが理由である。

「ほかにも豊州家の援けで馬鹿なことをしでかしかねないものがいるかも知れないからな」

 この軍事行動で豊州家の出鼻は挫かれる。以後は基本的に伊東家の攻勢が続いた。しかしなかなか事態は好転しない。基本的に一進一退の攻防が続いた。

「やはり島津は手ごわいな…… やすやすとはいかんな」

「まったくもって。祐梁も祐基も苦戦しております」

 義祐の言葉に同意する祐松。ちなみに祐梁と祐基は祐松の子である。双方飫肥攻めの前線で将として戦っていた。特に祐梁は永禄元年(一五五八)に起きた板敷の戦いで島津本家の援軍を多数討ち取った大活躍をしている。

 こうした情勢を祐安はこう読んでいた。

「豊州家だけではここまで苦戦しますまい。島津の本家の者共が大分肩入れしているようです。しかしそれこそ豊州家が追い込まれている証ともいえます。そう考えると何か別の手を打ってくるのではないでしょうか」

 実際豊州家自体は追い込まれていた。ゆえに島津本家の強力な支援が続けられているのである。むろん島津本家の飫肥の確保のために全力で豊州家を支援していた。

 こうした情勢の中で祐安の読み通り豊州家は別の手を打ってきた。永禄三年(一五六〇)、豊州家は島津本家を通じて当時健在であった室町幕府に講和の斡旋を依頼したのである。

 やがて伊東家に室町幕府から講和の命令が届いた。これにざわめく伊東家中。すると兼朝が義祐に尋ねた。

「いったいどうなされますか」

 これに対して義祐より先に祐松が答えた。

「よ、義祐様。幕府の御威光を無視しては大変なことになるかと」

 顔を青くして言う祐松。一方の義祐は顔色一つ変えずこう言った。

「何も案ずることはない。戦は続ける」

 この言葉にその場はどよめいた。最もこうした話が浮上してくるということは豊州家も島津本家も苦しいというわけである。

「むしろ我らの勝ちは見えてきた。そうだろう祐安、兼朝」

「その通りでございます」

「伊東家の悲願もほどなく果たせましょう」

 二人の返答に満足げにうなずく義祐。一人祐松だけが青い顔をしているのであった。


 伊東家と豊州家の和平は成立せずに終わる。すると幕府は飫肥を幕府の直轄領とすることで不可侵地帯にしようとした。

 こうした動きの中で義祐はある意外な行動に出た。家督を息子の義益に譲ったのである。

「これよりはお前が伊東家の当主。しっかりと務めるのだぞ」

「はい父上。精進いたします」

 こう返答する義益は元服したばかりのまだ十四歳の少年である。利発であると知られていたがさすがに若い。もっとも実権は義祐が握ったままである。この家督の移譲も表面的なものであった。そしてなぜそんなことをしたかというと飫肥への侵攻を続けるためである。飫肥侵攻の指揮をとっているのは義祐であり伊東家の当主ではない。そういう表面上の面目のためであった。実際講和交渉の翌年の永禄四年(一五六一)に再び飫肥に侵攻している。

 こうして勢いを増す伊東家の攻勢に豊州家も島津本家も苦戦を強いられていった。永禄四年に伊東家は飫肥の一部を割譲させている。そしてついに永禄五年(一五六二)に伊東家は飫肥城を攻め落とし飫肥一帯を手に入れたのであった。

「これで先祖代々の一つの目標が達せられた。皆、よくやった」

 義祐のねぎらいの言葉に感涙する家臣たち。しかしこの喜びも一時のものであった。確かにこの時飫肥城を攻め落とすことはできたが損害も甚大なものであったのである。そして飫肥城を攻略してから半年後には、島津本家の援軍を得た豊州家の攻撃によって飫肥城を奪還されてしまうのであった。

「そうやすやすとはいかないのか」

 いつになく落胆する義祐。しかしそれでもあきらめるつもりなどまったくなかった。


 一度は飫肥を手に入れたものの再び奪われてしまった義祐。しかしその理由にも気づいていた。

「城を攻め落としたはいいがそこで余力が尽きてしまったのだ。奪ったところで維持できなければどうしようもない。それに豊州家を倒しても島津本家を返り討ちにしなければしようがない」

 そこで義祐は豊州家への攻撃を続ける一方で島津本家への対策を講じ始めた。そしてその一環として家臣の米良重方に小林への築城を命じる。ここは島津本家の城である飯野城を睨む位置にあった。飯野城は島津本家が日向に入る際に使われる拠点の一つであり、ここをけん制することが小林に築城することの理由である。この城ができれば飯野城からの飫肥城への救援ルートは遮断できた。

「重方よ。この城ができれば島津の動きは大分抑えられる。この城ができるかどうかがわれらの悲願の成就を左右する。必ずや成し遂げるのだ」

「承知しました。必ずや成し遂げましょう」

 重方はすぐに築城の準備にかかる。しかし重方の弟の矩重は不安であった。

「あの地は島津の領地の目の前。あまりにも危険です」

「確かにそうだ。しかし義祐様の言われたことも確か。この任を成し遂げられれば伊東家の勝利は確実になる」

「そうなれば…… 城を築いた兄上の覚えもめでたくなる、と」

 矩重がそういうと重方は笑った。

「そうだな。ゆえにわれら米良家は命を懸けてこの任を果たさなければならない。それが我が家の安泰にもつながるからな」

 こうして重方は矩重を連れて築城に取り掛かった。当初築城は順調に進んだがむろんこれを見ているだけの島津本家ではない。

動いたのは島津本家の次男、猛将で知られる島津義弘であった。

「われらの目の前に城を築こうとするとはいいい度胸だ。だがこのまま城が出来上がるなどとは思うなよ」

 義弘は築城を阻むために出陣する。すると嫡男の義久と三男の歳久もやってきた。

「兄者、歳久。俺一人で問題なかろう。親父殿は何を心配しているのだ」

「別にお前を疑っているわけじゃない。だがあんなところに城を築かせるわけにはいかないのだ」

「それに徹底的にたたき伏せれば伊東家の勢いもそぎましょう。なんならその勢いで攻め込んでもよろしいとのことです」

「ほう、ならいいか。この際我ら兄弟の力を見せてやろう」

 そう言って出陣した島津家の軍勢はおよそ二万。その大軍が築城中の小林城に向かっていったのである。

 重方は慌てた。しかし幸いなことに義祐もこの情報をつかんでいたので援軍を送ってくれるという。

「とりあえずしのげるか」

 いったん安堵する重方だが島津家の進軍は予想以上の速さであった。そして援軍の到着前にやってきたのである。

「な、なんということだ。しかしただやられるわけにはいかない! 」

 重方は打って出てけん制しようとするが兵の数も質も向こうが上であった。それでも何とか損害を最小限にして撤退する。

「兄上。どうする」

「どうするもない。こうなったら城に立てこもるぞ」

 重方と矩重の兄弟は築城中の城に立てこもることにした。無謀にも見えるが島津家の進軍は早くほかに方法がない。実際重方たちが立てこもるとすぐに築城中の城は包囲された。

「何とか援軍が来るまでしのがなければ」

 重方は弟ともども奮戦し攻撃を退ける。この激闘で敵味方ともに大量の死者が出て堀が埋まるほどであった。しかし重方も矩重も生き残っている。島津家も想定以上の損害に攻めあぐねる結果となった。

「義弘よ。こうなっては城を焼き尽くしてしまおう。築城を阻めれば最低限の務めは果たせたことになる」

「うーむ。仕方ない。城主の米良というやつは大した男だ。焼き殺すのは忍びないが仕方あるまい」

 島津の兵たちは城に火を放ち始めた。この結果城は本丸を残して焼失してしまう。逃げ込んだ米良兄弟も将兵たちも万事休すであった。だがその時である。

 叫んだのは歳久であった。

「兄上たち! 伊東家の援軍です」

「「なんだと! 」」

 すでに伊東家の援軍は布陣を終え攻めかかってきているところであった。島津家はそれへの対処のために城への攻撃が鈍る。重方はそれを見逃さなかった。

「敵の攻撃が鈍った。おそらくは援軍が来られたのだろう。ここは一気に打って出る! 」

 重方は矩重や将兵を引き連れて打って出る。結果挟撃される形になった島津家の将兵はどんどん討ち取られていった。そして

「義久兄上大変です! 」

「どうした?! 」

「義弘兄上が討たれて大けがを! 」

「なんだと?! しかしこうなっては仕方ない。私は義弘を助けに行く。歳久よ、悪いがしんがりを頼む」

「承知しました。必ずやまた会いましょう」

「ああ。絶対位に死ぬな。私も義弘を死なせない」

義弘の負傷をきっかけに島津家は撤退していった。重方たちは城を守り切り、最大の危機を乗り切ったのである。


 小林での戦いの勝利は伊東家を大いに勢い付けた。そして小林城が完成すると義祐は飫肥城への補給路を少しずつ断ち切っていく。豊州家はこれにあらがうも島津本家が敗戦の痛手から立ち直れないこともあってなすすべもなかった。

「これで島津本家の邪魔は入らない。時は来た」

 永禄十一年(一五六八)義祐は伊東祐基自ら二万の軍勢を率いて出陣した。参加しているのは伊東祐安、祐梁、祐基ほかにここまでの飫肥攻めで活躍していた落合兼置、木脇祐守などである。

 豊州家はこの軍勢の進軍を阻むことはできず飫肥城はあっという間に包囲された。そして戦況を祐安が代表して義祐に伝える。

「義祐様。われらの手に入れた情報によると飫肥城には兵糧がほとんど残っていないようです」

「そうか。だが最後まであらがうつもりなのだろう」

「はい。それに酒谷城にまだ兵が残っているようです」

 酒谷城は飫肥城の支援のために作られた城である。そこにはまだ将兵が多く残っていると情報が入っていた。

「ならば攻めてこような。皆の者、後ろの守りを固めおけ」

 実際義祐の読み通りに酒谷城の豊州家の軍勢が攻めこんできた。これに対して祐安、兼置、祐守が迎撃に出る。そして小越で戦闘となった。祐安たちは機先を制して果敢に攻め込み豊州家の軍勢を追い込んでいく。ここで祐安は勝負に出た。そして祐守にこう告げる。

「我らで敵を引き付け囲んでしまいましょう。そこに落合殿に切り込んでいただくのです」

「それは良い策。そうしましょう。落合殿にも伝令を」

 祐安と祐守はわざと後退し敵を引き付けた。すると豊州家の軍勢の隊伍が乱れていく。それを見ていた兼置はほくそ笑んだ。

「まさに好機。ここで豊州家の者どもを打ち倒してくれる。行くぞ! 」

 兼置の号令とともに軍勢が切り込んでいく。さらに別の伊東家の将が横から攻め込むと戦況は決した。豊州家の将兵は次々と打たれていき壊走していく。祐安たちはこれを追撃するが敵が酒谷城に入るのを見ると撤退を決めた。あくまで目標は飫肥城であるからである。

 一方この勝利の報告を聞いた義祐は軍勢の一部を動かし飫肥城と島津本家の領国をつなぐ最後の道を封鎖した。これにより飫肥城は完全に孤立する。

「さて島津よ。どうするのか? 」

 島津本家の軍勢は酒谷城まで到着していた。しかし小越での戦いでの大敗を知るとすぐにこれを報告。報告を受けた島津家の当主の島津貴久は決断した。

「これ以上の戦いは被害を増やすばかり。もはや退くしかない」

 貴久は豊州家の救援と飫肥など日向の領地をあきらめた。そして豊州家の将兵の命と引き換えに飫肥城、酒谷城を引き渡す。豊州家の面々は日向から撤退していった。こうして飫肥をめぐる伊東家と豊州家の戦いは終結したのである。

 和睦が終わった後で義祐は主な家臣たちをねぎらった。

「お前たちのおかげで伊東家の悲願を成し遂げられた。皆、見事である」

 義祐のこの言葉に家臣一同皆落涙した。義祐も感極まって泣いている。そしてさらにこう言った。

「お前たちがいれば伊東家は安泰だ。これからも力を貸してくれ」

 そういう義祐の目にはこれからの伊東家の繁栄が見えていた。そう、この時は見えていたのである。

 飫肥という場所は伊東家にとって特別な場所です。義祐の数代前から手に入れようと画策してきた場所であり、のちには江戸時代に大名となった伊東家の本領でもあります。義祐にとっては代々の悲願を果たし宿敵の豊州家に勝利して勝ち取った地でありますからことさら特別な地でしょう。そう考えると飫肥を手に入れた時の義祐の喜びも相当なものだったと思いますね。

 さて飫肥を手に入れた義祐は日向統一ためにさらに活発に動きます。その結果どうなるのか。お楽しみに。

 最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では

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