伊東義祐 変貌 第一章
日向(現宮崎県)の武将、伊東義祐の話。
高い志を持っていた人がある日から人を苦しめるようになる。悪事を働いた人が善行を成すようになる。人は不変のものではなく変わるものである。伊東義祐の人生はその証左ともいえる。
伊東の家の歴史は古い。そもそもは鎌倉時代に源頼朝に従った工藤祐経の子の祐時が伊東の名字を名乗ったのが始まりと言われる。そしてこの祐時の諸子が日向(現宮崎県)に下向し日向伊東家が成り立った。
日向伊東家の悲願は日向一国を支配することにある。がその前に立ちはだかる巨大な存在がいた。それは日向、大隅(現鹿児島県西部)、薩摩(現鹿児島県東部)の守護を務める家である島津家である。伊東家は島津家の分家であり日向の飫肥城に本拠を置く島津豊州家と果てしない戦いを繰り広げていた。
伊東家の当代は伊東祐充。当主になったときは十代でまだ若年である。そのため祖父の福永祐炳が実権を握っていた。むろんこの状況を面白く思わないものも多い。祐充のおじである伊東祐武もその一人である。
「福永のようなものをのさばらせては伊東家の行く末は危うい」
実際に祐炳は自分のやり方に反発する勢力を反逆者として打ち倒し、家中においては将来有望な若い家臣たちを自分に逆らうからと言って処断していたのである。そういうわけだから祐武に共感するものも多い。
「祐充様は福永の言うままになっている」
「その通りだ。福永は先代がご存命の折は身の程をわきまえていたというのに。祐充様は気弱すぎる。祐武様の気骨があれば…… 」
一応祐充も伊東家の勢力拡大に尽力している。だが家臣たちにとっては祐炳の言うに従っている様の方が目に入っているようだった。
このように伊東家は内部に不満を抱えながら進んでいく。そしてそれを憂い憤る男がいた。名は伊東義祐。祐充の弟である。
「兄上は病弱、福永は好き放題。まったくこれも父上が好き放題したからだ」
祐充と義祐を生んだ母はもともと別の人物に嫁いでいた。これを尹祐が無理やり奪い自分の妻にしてしまったのである。さらに生まれた子、祐充に家督を継がせるために反発する家臣を討ち取っていた。こうした経緯もあって家中では祐充と祐炳への不満が膨れ上がっていたのである。尹祐は勇猛な英傑であったのは事実で伊東家を大きくしたがそれとは別に暴君の側面も持っていたのだ。
「私はそうはならない。仏の教えを守り生きていく」
父親の暴虐な姿を見ていたからか義祐は幼いころから仏教の教えに傾倒していた。ゆくゆくは僧になってもいいとも考えている。当主の座とは無縁だと思っていた。ところがこの後で起きる混乱が義祐の運命を激動へといざなっていく。
天文二年(一五三三)義祐は齢二一歳。この年祐充が二三歳の若さでこの世を去った。不穏な家中の状況への心労が祟ったのか急に亡くなったらしい。これには義祐も驚くばかりである。
「兄上が亡くなったのか…… しかしそうなると私が家を継ぐのか? 」
義祐はそう思った。これは傲慢でも何でもない。祐充には子がいない。そうなればすぐ下の弟である義祐が継ぐのが道理である。
むろんこれは伊東家家中の人間にとっても当然の道理である。また福永祐炳も孫である義祐が家を継ぐのを望んでいた。そうすることで自分の権力は維持されるからだ。
だが事態はそう動かなかった。祐充がなくなることで祐炳への不満が爆発したのである。その先陣を切ったのが祐武であった。
「もはやこの機を逃すわけにはいかない。福永たちを討ち伊東家を元通りにする」
祐武は当主急死の混乱の最中自分に同調する家臣たちとともに祐炳やその子らの城を攻め立てた。思いもよらぬ攻撃を受けて祐炳とその子たちは簡単に追い詰められ自害する。そして祐武はこう宣言した。
「これよりは儂が伊東家の当主だ」
だがこの宣言に伊東家の家臣たちは動揺する。そもそも祐炳への不満こそ共有した感情であったが、祐武を当主として仰ぐというのは考えていなかった。ゆえに家臣たちの間でこのまま祐武を当主にするか、それとも従わないか意見が割れたのである。
一方この時義祐は身の危険を感じていた。
「叔父上が当主になる気なら一番邪魔なのは私だな。祐吉も危ない」
祐武は伊東家の居城である都於郡城を占拠していた。一刻の猶予もならない。義祐は自分に近しい家臣をと連れ弟の祐吉を保護すると都於郡城から脱した。しかし祐武の追手がかかるのも時間の問題である。ともかく日向に居ては危うい
「京に向かおう。伊東家に縁のある公家の方もいるはずだ」
かすかな望みであるがそれに賭けるしかない。義祐はわずかな供と弟を連れて港に向かうのであった。
日向を脱出するために港に向かう義祐。それに付き従う弟の祐吉は元服したばかりの少年である。不安そうな面持ちであった。
「兄上。無事に逃れられるでしょうか」
「心配するな。日向を出れば叔父上も追いかけてはこないだろう」
義祐たちはうまく身を隠して港にたどり着いた。ここから海を渡り九州を出る。とりあえず四国にわたるつもりであった。しかし港には伊東家の家臣が大勢待ち構えていた。これを見て義祐は覚悟する。
「叔父上の手がここまで回ってきていたか…… もはや逃れられまい」
ゆっくりと向かってくる家臣たち。数は完全に負けている。もはや祐吉を逃すこともできなさそうであった。
やがて家臣たちは義祐から数歩離れたところで止まった。これを不審に思う義祐。すると家臣たちはみな義祐に平伏した。そしてそのうちの一人、荒武藤兵衛が進み出てくる。
「お助けに向かえず申し訳ありません。ですが日向を出るために港に向かうと思い、ここでお待ちしておりました。ここにいるものは皆義祐様に従うものです」
こう言われて義祐は瞠目する。そして藤兵衛はさらにこう続けた。
「この場にいる者のほかにも義祐様を主君と仰ぐものが大勢います。皆祐武様には従えないと申しているのです。このうえはどうか我らの上に立ちください」
荒武家は伊東家が日向に下向した時からの家臣である。藤兵衛は尹祐の信頼も厚く、文武両道に優れ家中の信頼も厚かった。そんな藤兵衛が平伏してこういっているのだから言っていることは事実なのだろう。
義祐は藤兵衛の発言を聞いて体が熱くなるのを感じた。そして俄然やる気になる。
「よし。みなが望むなら是非はない。これよりみなとともに謀反を起こした叔父上を討ち取って見せよう。そして伊東家をさらに発展させて見せる」
この義祐の発言に家臣一同勇躍した。そして義祐を擁立した一行は直ぐに軍備を整えて祐武との戦いに備えるのである。
都於郡城を占拠していた祐武は、部下からの報告で義祐の挙兵を知った。これを聞いて祐武は覚悟を決める。
「儂が伊東家の当主を名乗った以上はこうなることは当然だ。それに義祐たちが挙兵しなくても討たねば我が立場は固まらん。このうえは義祐を討ち儂の家が伊東家の本家となる」
祐武は自分に味方する勢力を糾合し兵を集めた。この時点では双方そこまで兵力に差はない。多くの家臣や伊東家に従う領主たちは日和見をしている。優勢がはっきりしたら動くつもりのようだった。
「つまりは初めの一戦がすべてか」
義祐はそう状況を理解した。初めの一戦で勝ち優位に立てば日和見をしている面々も味方するはずである。藤兵衛も同意見であった。
「初めの一戦に多少は無理をしてでも勝たなければなりませぬ。多少痛手をこうむってもほかの方々が味方すればこちらの優位に転じましょう」
「そうだな。まずはこの一戦にすべてをかける。これで伊東家の命運も決まるのだ」
義祐は自ら陣頭に立って出陣する。祐武も自ら出陣して義祐を迎え撃った。
こうして合戦が始まった。双方死力を尽くして戦い義祐も何度か危機に陥る。
だがそれでも引き下がらずに戦った。
「我らこそ真の伊東の主である! 」
そう叫び奮戦する義祐の前に祐武方の戦意も鈍った。この隙を逃す荒武藤兵衛ではない。
「敵の意気は衰えておる! 一気に攻めかかるのだ! 」
藤兵衛の叫びに呼応した義祐の軍勢は一気に攻めかかった。祐武の軍勢はこれに耐えられず敗走していく。祐武も都於郡城まで逃げるがすぐに義祐たちの軍勢に包囲された。
「もはやここまでか。だが義祐がここまでやれるのならば伊東家も心配はいるまい」
敗北を悟った祐武は自害した。そして義祐は都於郡城に復帰する。
「これからは私が伊東家を守る」
そう決意する義祐であるがまだ騒動は収まらなかった。
祐武は死に伊東家の混乱にも一応の決着がつくかに思えた。だが混乱はむしろ加速していく。祐武が祐炳を討ったのは一応家臣たちにも支持はされている。祐武の家督相続を認めるかはともかく今後については祐武に家中の主導権を任せたいという気持ちあったのだ。むろん祐炳のような専横などは許すつもりはないのだろうが。
義祐が祐炳と争ったのはしょうがない。しかし討ってしまうとなれば別問題だ。そう考える者がいたのである。その一人が長倉祐省だ。
「祐武様が福永を討ったのは家のためを思ってのこと。野心故にではない。それを討ってしまうとは…… 義祐様はいささか血気にはやりすぎる」
実際祐武は自刃したのだから厳密には義祐が討ったというわけではない。それに祐武の子は許されて義祐に仕えている。だからこの祐省の懸念はいささか見当違いと言えるものであった。しかし傍から見れば義祐が祐武を追いつめて自害させたようにしか見えないのも事実である。実際そう受け取る伊東家臣はそれなりにいた。そしてそうした人々は往々にして義祐の果断に富んだ行動を恐れたのである。
「義祐様は己の意を通そうとするお方。そのような方が主君では苦労するのは我々だ」
結局祐省や似たような考えを持つ家臣からしてみれば、できるだけおとなしく家臣の言いうとおりに従う主君の方がいいのである。
さてこうした家中の思惑は露知らず、義祐はいまだ蠢動を続ける反乱分子の平定に臨んでいた。この間の戦いで当主としての義祐は自信を深め家臣たちを自らけん引する主君になっていく。そうした姿は藤兵衛からしてみればうれしいものである。
「義祐様は立派になられた。もはやそれについていくのみ。そして伊東家の栄達を見届けるのだ」
こうして喜ぶ藤兵衛であるが、それはかなわなかった。反乱分子との戦いであえなく戦死してしまうのである。これには義祐も嘆いた。
「これからではないか藤兵衛。お前のようなものはほかにいないというに」
実際藤兵衛は伊東家臣の中で並ぶ者がいないほどの人物であった。そうした人物が義祐を支持しているから皆がついてきたという側面もある。ゆえに藤兵衛の死によって事態は急変した。長倉祐省が義祐の弟の祐吉を当主の座につけようとしたのである。実はこの時点で義祐は制式に家督を継ぐ表明をしていなかった。まずは家中の安定を優先したのだがそれがあだとなったのである。
「長倉め…… 馬鹿なことを」
怒る義祐であるが祐省の根回しは見事なものであり家臣たちは祐吉の家督相続を認める方向で動いていた。これを知った義祐は観念する。
「ここで私が動いてもむしろ混乱を起こすばかりだ。こうなっては仕方ない」
義祐は剃髪し仏門に入ることにした。これで祐吉への家督相続はスムーズに進み混乱も収まったのである。だがこれが義祐の心に暗い影を落とすのであった。
伊東家の家督は祐吉が継ぎ義祐は仏門に入った。これで混乱も収まり万々歳と皆思う。ところがそれから三年後の天文五年(一五三六)祐吉が二〇歳の若さで病死してしまう。祐吉は妻帯していなかったのでむろん子供はいない。となると新たに伊東家の当主になれるのは一人しかいなかった。
「義祐様。お願いします。伊東家をお継ぎになってください」
そう言ったのは祐武の息子の祐安であった。そんな祐安に義祐はこう言い放つ。
「私は仏門に入った。一門のものならお前がおろう」
「私ではみな納得しませぬ。義祐様に許されてここにいる身なのですから」
祐安の言うこともわかる。しかし自分を取り除いておいて都合が悪くなったら呼び戻すというやり方に納得しないのも事実であった。祐安もそれをわかっている。だがもう義祐以外に当主にふさわしいものはいなかった。
「重ねて、お願い申し上げます」
平伏する祐安。義祐ももはや選択肢はないと理解していた。
「仕方あるまい」
義祐は還俗し伊東家の当主になった。となると肩身の狭くなる男がいる。長倉祐省だ。
「まさかこんなことになるとは。ともかく何とか取りいらないと」
そう考える祐省で在るがむろん義祐には相手にされない。そうなると家中での発言権もどんどんなくなり居場所はなくなっていった。しかし義祐は祐省に対して何かするわけでもなく放置している。これには祐安も不思議に思った。
「長倉を除かなくてよいのですか」
「構わん。もはやどうでもいい」
祐省は捨て置かれた。むしろそれが祐省にとっては苦痛だったようである。そしてついに限界が訪れた。義祐の家督継承の五年後の天文十年(一五四一)長倉祐省は伊東家と敵対する島津豊州家の支援を受けて謀反を起こした。
「ふん。動いたか」
義祐は慌てなかった。まるで初めから知っていたかのような反応である。むしろこうなることを予期していたのかもしれない。祐省は先手必勝とばかりに義祐の居城に軍勢を差し向けた。しかし義祐はこれをあっさりと撃退。祐省もこの戦いで戦死した。
こうして紆余曲折あったが伊東義祐は伊東家の当主となった。しかしまだ伊東家の激動は続く。
あけましておめでとうございます。本年も戦国塵芥武将伝をよろしくお願いします。
さて今回の話の主人公は伊東義祐です。以前に取り上げた伊藤佑兵の父ですがよくよく考えてみると、その話の中で義祐の顛末も描かれています。つまり以前描いた部分を別角度から描写するというわけでありますのでなかなかに緊張します。しかしそれでも楽しんでいただけるよう努力しますのでお楽しみに。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では