太田資正 道 第七話
資正の努力もあり北関東の領主は反北条連合を組み、一丸となって北条家に抵抗する。これにより関東の戦乱はさらに激化してくのであった。だが別の場所で起きる激動が関東にも影響を及ぼしていく。
北条家は結城家への攻撃を続けるが反北条連合は頑強に抵抗する。一方で佐竹義重は下野で北条家に味方する壬生家への攻撃を始めた。天正六年(一五七八)四月のことである。
この出陣に資正も同行した。そしてその途上で驚くべき知らせを聞く。
「謙信殿が死んだだと!? 」
「はい。間違いありません」
それは上杉謙信死去の報だった。驚愕する資正。しかしすぐに落ち着いてこの情報を義重に伝えた。
資正から話を聞いた義重は資正同様に驚く。しかしすぐさま重臣たちを招聘し今後の動向を話し合うことにする。
招聘された重臣たちも話を聞き驚いた。だがすぐに今後の対応を話し合う。
「上杉家のことなら我々も無関係ではない」
「いかにも。しかし確か謙信殿は妻帯しておらなかったはずだ。後継者は誰になるのだ」
「そう言えば北条家から養子が入っていたはずだ。太田殿、間違いないな」
重臣の一人が資正に尋ねる。それに資正は頷いた。
「越相同盟の折に北条氏政の弟が養子に入っています。今は景虎と名乗っています。あと一人謙信殿の甥の景勝殿も養子となっていますが」
それを聞いた重臣たちの顔が曇る。
「もしその景虎とやらが上杉家の当主になれば上杉と北条は手を組むな」
「もしそうなればかつての同盟より厄介なことになりかねん」
重臣たちの言葉に資正と義重もうなずいた。一同の間に重苦しい空気が漂う。
するとそこに身軽な身なりの男が駆け込んできた。不審な来訪者に重臣たちの緊張が高まる。だが資正がそれを制した。
「一同ご心配なされるな。この者は我が手の物にございます」
駆け込んできた男は資正の密偵の一人だった。この男は越後での諜報を担当している。
男は相当急いできたようだった。
「も、申し上げます。い、急ぎお知らせしたいことが…… 」
「わかった。だがまずは息を落ち着かせるのだ。誰か水を」
資正はまず男を落ち着かせることにした。このタイミングで越後の密偵が駆け込んでくるのは上杉家で何か重大なことが起きたという事である。
男は差し出された水を一気に飲み干す。そして深呼吸をして落ち着くと話し始めた。
「上杉謙信様の養子の景勝殿が春日山城に入城した模様。同じく養子の景虎殿と争い始めております」
「なんと! 」
資正も重臣も驚く。密偵が伝えた報告は上杉家内部で家督争いが起きたというものだった。資正は密偵に尋ねる。
「養子が二人いるのは知っていた。だがなぜそのような事態に」
「どうやら謙信さまは跡継ぎを決めずに亡くなられたようです。ゆえに双方自らが後継者と主張しこのような事態に」
「なるほど。それでどちらが優勢だ」
「まだそこまでは…… 申し訳ありませぬ」
「いや、気にするな。越後からはるばる疲れたであろう。下がって休め」
「はい。失礼します」
そう言って使者は去っていった。しかし陣中はまだ報告の衝撃で静まり返っている。だがそれまで黙って報告を聞いていた義重が口を開いた。
「我々は変わらず壬生攻めを行う」
その義重の言葉に重臣たちはざわめいた。資正も驚くが義重の意図を察して代弁する。
「北条をこちらに引きつけ上杉家の騒動に関われなくするのですね」
「そうだ」
資正の言葉にうなずく義重。そこで重臣たちも義重の考えを察した。
もしこの騒動で景勝が勝てば上杉家は氏政にとっては弟の仇になる。そうなればもう和睦などありえないだろう。そうなれば佐竹家や反北条連合にとっては有利だ。
義重の考えを資正は理解した。だが懸念もある。
「しかし今の状況ではどちらが勝つとも言えません。それに北条は武田家に援軍を頼むかもしれません」
「それは理解している。ゆえに逐一情報を手に入れたい。頼めるか」
義重は強い瞳で資正を見た。それに対し資正は強くうなずく。資正の反応に満足した義重は立ち上がった。
「この戦いは我らの今後に覆いに関わる。皆、力を尽くしてくれ」
「「ははっ! 」」
義重の宣言に資正と重臣たちは力強く答える。
「資正は連合の皆に援軍の要請をしてくれ」
「かしこまりました」
「では、本日はこれまで」
こうしてこの日の軍議は終わった。
佐竹軍は予定通りに壬生家への攻撃に向かう。これに対し北条家も壬生家援護のために出陣した。そして五月には下総結城の小河の原で両軍は対峙した。
北条家が率いるのはおよそ五千の兵。それに対する佐竹家は反北条連合の兵を動員しおよそ七千の兵を集める。この対陣を見た結城周辺の僧侶は「関東だけではなく他の地域にも影響を及ぼすだろう」といったまさしく関東の命運をかけた対陣である。
両軍は鬼怒川を挟んでにらみ合っていた。しかし両軍決め手に欠けるのかなかなか具体的な行動には出られない。結局七月の始めには佐竹軍が壬生家攻撃に戻り北条家も撤退した。
この対陣で北条家は何も得ることはできなかった。一方で佐竹家をはじめとする反北条連合は一気に北関東を制圧せんとする北条家の勢いを削ぐことに成功る。これにより反北条連合は北条家に対抗できる姿を見せつけた。
この成果に資正も義重も満足であった。
「苦労したかいがありました」
「その通りだ。ひとまず上出来と言えよう」
「はい」
資正は満足げにうなずいた。義重も笑う、とそこで思い出したように言った。
「それより越後の方面はどうなっている? 」
「どうも景虎方が劣勢のようです」
「なるほど。此度の対陣が効いたか」
「それもあるようですが、武田家が予想外の動きをしたようです」
小河の原で両軍が対峙しはじめた頃、越後では上杉景勝が春日山城を制圧。上杉景虎は前関東管領上杉憲政が住む越後府内の御館に移り景勝に対抗した。これにより上杉領は景勝派と景虎派に分かれ対立することになる。
北条家は血縁である景虎を支援するために援軍を送ろうとした。しかしそれができる状態ではないのはこれまでの経過で明らかである。そこで北条家は同盟関係にある武田家に景虎派支援を要請した。そして武田家は要請を受けて越後に向けて出陣する。ここまでが小河の原の対陣の最中に起きたことであった。
その後景勝は先手を打って武田家に接触、武田家に有利な条件を提示し和睦を提案した。武田家の当主勝頼はこれを承諾し和睦は成立。武田家は景勝、景虎両派も一時和睦させるがこれはすぐに破断する。
北条家はすぐに援軍を派遣するも武田家の妨害や降雪などに阻まれてしまう。そして景虎は天正七年(一五七九)の三月に自害。上杉家の当主は景勝になるのであった。
結果反北条連合の存在が北条家の動きを制限し、景虎派の敗北につながったといっても過言ではない。
資正は景虎自害の報告を居城で聞いた。そしてほくそ笑む。
「これは我らの追い風となろう」
後に御館の乱と呼ばれる戦いは北条家にとって大きな痛手となった。そして資正をはじめとする反北条の勢力はこの機を生かし積極的な行動に出る。
北条家は景虎を滅ぼした上杉景勝の上杉家、上杉家と同盟を結んだ武田勝頼の武田家への攻撃を始めた。目標は両家が治めている上野である。一方で反北条連合はこの好機に攻勢に出た。
まず景虎が自害した天正七年三月に結城家が下野の小山を攻撃。その後十月には佐竹家と結城家が下総の古河などを共同で攻撃した。
この前後資正はこれらの戦闘には参加しなかった。その代りに外交に専念している。
資正が交渉していた勢力の一つは武田家であった。武田家とは越相同盟の頃よりつながりがある。御館の乱後の情勢の変化を受けて佐竹家をはじめとする反北条連合との連携を勝頼は模索していた。もとより資正も義重も武田家との同盟は望むところであり交渉は順調に進んだ。
この同盟ができれば北条家は敵対勢力に完全に包囲されることになる。これは北条家にとって最大の危機といえた。
この北条包囲網の成立は佐竹家にとって大きな助けとなる。その成立に尽力する資正を義重はねぎらった。
「このところ苦労を掛ける。すまんな」
義重は資正をいたわる。一方の資正は眉間にしわを寄せ何か考えあぐねているようだった。それに気づいた義重は資正に尋ねる。
「どうしたのだ? 」
「確かに上杉、武田と結べば北条を追い詰めることができます。しかし油断はできません」
「ほう」
緊張した面持ちの資正に義重の顔も引き締まる。
資正は続けていった。
「現状、越後の景勝殿は領内の対応に精一杯であり援軍は期待できません」
「らしいな」
「勝頼殿に関しても気がかりなことが」
「ほう。なんだ」
「武田家は先年織田家と徳川家との合戦で敗れています。今でも両家と激しく争っているようです」
緊張した面持ちで話す資正。しかし義重は首をかしげる。
「その織田と徳川というのは何者だ」
「徳川家は三河、遠江を治めている家です。武田家とは駿河をめぐって争っています」
「なるほど」
「どうも北条がこの徳川家と結ぼうと画策しているようです」
「そうか。わからない話ではないな」
義重は頷いた。共通の敵を持つ者同士が結ぶというのは良くある話だ。現に反北条連合がそうだし武田、上杉との同盟もそういう流れである。
「それで織田家というのは何者だ。小田の者どもとかかわりがあるのか」
「そこは関係ないようなのです。しかしこの織田家は小田の者どもとは比べ物になりません」
「どういうことだ? 」
「この織田家の当主は信長殿というのですが、すでに京を抑え室町殿にとって代わろうとしています」
それを聞いて義重は驚いた。
「新たな幕府を開こうというのか? 」
「いえ、そこまではわかりません。しかしながらこの日の本のすべてを治めようとしているとか。もしそれが本意なら我々も無視できません」
強い口調で言い切る資正。その姿に義重もうなずいた。
「こちらからも使者を出すか。資正、取次ぎを頼めるか」
「かしこまりました」
しばらくして佐竹家は織田家に使者を出した。幸い資正がかねてより織田家とつながりを持っていたのでここは順調に事が運んだ。一方で佐竹家の攻勢と時を同じくして佐竹、武田の同盟が成立する。これで北条家の周りはほぼ敵となった。この結果同盟締結の翌年の天正八年(一五八〇)には北条家に対して有利に立つ。
対する北条家は徳川家と結び武田家に対抗した。さらに徳川家の背後に存在する織田家にも連絡を取る。この結果劣勢に立っていた天正八年ごろには織田家との婚姻の約束を取り付け、織田家の傘下に入ることとなった。だが、これより前に佐竹家は織田家との関係を強化している。勿論主体となったのは資正であった。
「これよりどうなるか」
ついに北条、反北条の両派が天下統一を目指す織田信長に従う動きを見せ始めた。事態が自分の知らない領域に入るのを感じつつ資正は働くのであった。
関東での戦いは武田、反北条連合の優位で推移していく。しかし天正九年(一五八一)の三月に武田家が支配する遠江(静岡県)の高天神城が徳川家の攻撃で落城すると、武田家は織田、徳川軍に追い詰められていく。
そして天正十年(一五八二)二月、織田、徳川、北条軍が武田領に侵攻を開始した。そして三月には居城を落とされた武田勝頼は自害。武田家は滅亡した。
この情報を聞いた佐竹家はどよめいた。武田家といえばその精強さで知られたものである。その武田家がここまであっさりと滅びるなどとは誰も予想していなかったのである。それは資正も同じであった。
資正は諸々の情報の伝えに義重に謁見する。
「此度のことは驚きました」
「そうか。お主でもそうか」
今回の事態に驚いているのは義重も同じであった。
「かつて私の城は武田家に囲まれたことがあります。その時に見た武田家の堂々たる軍勢は今でも覚えています。それがこのようにあっさりと…… 時の流れとは恐ろしい」
資正は昔のことを思い出してしみじみとつぶやく。あの時は武田家が滅ぼされるなどとは思いもしなかった。
過去に思いをはせる資正。そんな資正に義重は問いかけた。
「この後はどうする? 」
「そこは難しくはありますね」
そう言って二人は悩んだ。現状北条家も反北条連合も織田家とは友好的な間柄である。それが関東の戦いにどう影響するかというのはまだわからなかった。
「しかしとにかく祝いの使者を送るとしましょう」
「そうだな。まずは其処からだ」
とにかく佐竹家がやるべきは織田家との友好の維持である。対北条のことは其処からでも遅くはない。というかそれぐらいしかやるべきことが分からない。それほどに今回の事態は衝撃的なものだった。
ともかく武田家は滅んだ。この武田家滅亡に際して北条家は上野や駿河の一部を占領している。しかし信長が武田家滅亡の論功行賞を行った際にこれらの土地は北条家の物にならなかった。
駿河は徳川家康に与えられ上野は織田家家臣滝川一益の物になる。滝川一益は織田家の有力な家臣の一人で関東の勢力の取次ぎを行っていた。その縁もあり一益は織田家の関東方面の司令官として赴任することになる。
資正はこれらの情報を聞いて安堵した。
「織田家としては関東を北条に任せないという事か」
織田家は重臣を送り込み、自分たちの手で関東の騒乱を治めようと考えているらしい。
「(おそらく北条は逆らえまい)」
今回の処遇に北条家は不満を持つだろうと資正は考えている。北条家としては自分たちの目標を果たすために服属したのにむしろ目標から遠ざかってしまったのだ。しかし北条家だって武田家を制した織田家との実力差は理解しているだろう。
「(これで関東も治まるか。しかし北条の道も私の道も中途半端に終わってしまうな)」
北条家の道の終わりは関東のすべてを治めることである。それに対し資正の道の終わりは北条家の滅亡だ。しかし織田家の介入でおそらく関東の争いは終わる。そうなれば北条家が関東を支配することも北条家が滅亡することも無い。
「ここが潮時なのだろう」
資正に悔しさはある。だがこれまでの人生で逆らえぬ世の流れというものをいやというほど味わった。ゆえにここで道が終わることも自然と受け入れられる。片野城の一室で資正はそう感じていた。
だが、世の流れは資正の思いもよらぬ道へ進む。そして資正の歩みにも終わりが近づいてくるのであった。
今回は御館の乱から武田滅亡までの話でした。どちらも資正が直接かかわることは無かったのですが、どちらの出来事も関東の情勢に影響を及ぼすことになります。
一応この影響で関東は安定への道を歩むかに見えます。しかしこの後起きる皆さんご存知の大事件で関東はまた混乱の時代に突入していきます。ですがそれは関東の戦国の終焉への助走でもあるというのが面白いですね。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡ください。では




