北条氏邦 北条の夢 第三章
武田家の駿河侵攻に始まる三国同盟の破綻。そして武田家との対立。北条家はこの事態に対応すべく仇敵上杉家との同盟を選んだ。これは氏邦の努力もあり越相同盟の成立に至る。しかしこれで万事うまくいかないのがこの時代の理である。
越相同盟の締結後事態は一気に動いた。永禄十二年(一五六九)の八月、武田信玄が自ら出陣して北条家の領国に侵攻したのである。進軍ルートは上野を経由し南下して北条家の本拠地である小田原城に向かうと考えられた。この侵攻は駿河方面での戦闘を優位に進めるため北条家に打撃を与えようという考えである。
この動きにたいして氏邦と氏照はそれぞれの本拠地の防備を固める。
「小田原に攻め入ったのちに後詰をすればいい。それが北条の必勝の一手だ」
後詰とは籠城軍への援軍のことである。小田原城は天下の堅城であり上杉謙信も攻め落とすことは出来なかった。氏邦や氏照はあえて小田原城を責めさせて疲労させたところに攻めかかろうと考えたのである。
この時氏邦は氏康とも氏政とも氏照とも連絡を取っていない。だがこういう時どう考えるかはお互い理解している。
「必勝の策は整っている。それにこんな隙を見せれば上杉家も黙っていないだろう」
信玄は自ら大軍を率いてくるという。それはつまり武田家の領国に大きな隙ができるという事だ。そして北条家は上杉家と同盟を結んでいる。これらの要因を考えればむしろ有利なのは北条家であった。
「いっそここで痛手を与えて決着をつけてしまおう」
そう息まく氏邦。だが事態は予想外の方向に進んでいくことになる。
甲斐を出た武田家の軍勢は上野を経由してから南下してきた。そして小田原に向かう道中で北条家の城に攻撃を仕掛けていく。その中には氏邦の鉢形城もあった。
「この城を落すことが目的ではあるまい。何とか耐え凌げばすぐに退くはずだ」
そう考える氏邦。これは実際その通りであったのだが武田家の攻撃は激しく氏邦たちも相応の被害を被った。少なくともすぐに出陣できる状態ではない。
「武田家の目的はこれか。ともかく急いで立て直さなければ」
氏邦は迅速に軍事、内政両面の立て直しを図る。一方南下していった武田家の軍勢は途中氏照の本拠地である滝山城にも攻め入り痛手を与えていった。これも鉢形城に攻め入ったことと同じ理由であろう。
幸い氏照は無事のようであった。しかし損耗も大きくまだ動けないらしい。
「今は兎も角小田原の父上と氏政兄上を信じよう。しかし上杉家の連中は何をしているのだ。武田家が留守のうちに信濃(現長野県)に攻め入ればいいものを」
氏邦は上杉家がこのタイミングに動くものと期待していた。しかしそうした情報は入っていない。これに苛立つ氏邦であった。
実はこの頃上杉家は越中(現富山県)に出陣していた。その為に武田家の領地に侵攻することができなかったのである。また時の将軍の足利義昭が上杉家と武田家に講和を求めていたため、旧来の秩序を重んじる謙信としてはこれを無視できなかった。結局これらの事情もあり越相同盟に早くもほころびが生じていたのである。
南下していった武田家の軍勢は小田原城を包囲した。しかし堅城である小田原城を無理に攻めずむしろ挑発して野戦を誘おうとする。尤もこれは氏康たちにはお見通しであった。結局武田信玄は小田原城を攻め落とすことを諦めて撤退を始める。
一方これより少し前、体勢を立て直した氏邦は氏照と合流し小田原城の後詰に向かおうとしていた。
「武田家が城を囲んでいる間に着かなければ意味はない。急ぐぞ、氏邦」
「分かったぜ兄上。ここで何としででも武田家に痛手を与えなければ。そうしなきゃあ駿河の方も難しくなる」
焦る二人だが一方で余裕たっぷりの男がいた。叔父の北条綱成である。
「戦は焦ってやるもんじゃない。聞いた敵の数じゃあ小田原は落とせんだろう。むしろあきらめてとっとと引き上げる可能性もある。どこかで網を張った方がいいかもな」
綱成は氏康と同年で義弟にあたる人物である。北条家歴戦の強者であり北条家の誰もから尊敬される武将であった。そんな綱成の言葉であるが若い二人には届かなかったようである。
「しかし叔父貴。これを機に武田をどうにかせんと北条家の夢もますます遠くなるぞ」
この時ばかりは氏邦も叔父に生意気な口をきいてしまうのであった。
兎も角三人は軍勢を率いて急ぎ小田原に向かった。だがここで武田家が包囲を解き撤退を始めたという報せが入る。そして氏政からの指令も伝えられた。
「これから我らも出陣して追撃する。武田勢は三増峠に向かうだろうからそこで待受けてくれ。峠で挟み撃ちにすれば大損害を与えられるはず。頼んだぞ」
氏政からの簡潔な指示に綱成は喜んだ。
「松千代丸もやるようになったな。これは良い手だ」
甥で次期当主のしっかりとした指示を綱成は喜んだのである。それはゆくゆくの北条家のことを思っての発言でもあった。
一方で氏照は冷静に言った。
「では軍勢を三増峠に向かわせましょう。そこで兄上の到着を待ち挟撃します」
この戦の総大将は氏照である。努めて冷静に判断しようとしていたのであった。氏政の策は成立すれば必勝の策である。ゆえに何が何でも成功させなければならない。
そんな二人に対して氏邦はかなり血の気が多かった。
「ここで武田家の連中を必ず叩き潰す。絶対にやってやる」
氏邦にしてみれば初めての規模の戦いであった。少し前の薩田峠の時はにらみ合いで終わった。だが今回は確実に合戦となる。
そんな氏邦に綱成は言った。
「いい気合いだ。だが焦るのはいかんぞ。叫んでいいのは勝った時だ」
「ああ。わかっているさ叔父貴」
そういう氏邦であるが、綱成から見ればどこか気がせいているようにも見える。実はその点に関しては氏照にも感じていた。
「(藤菊丸も素知らぬ顔に見えるが相当緊張しているな。敵が敵だけにという事もあるだろう。俺が支えてやらねばな)」
この群勢の大半は氏照と氏邦の兵である。綱成の手勢は少ない。若い大将二人に対して敵は老獪な練達の大将である武田信玄。綱成は一抹の不安を感じながら共に進んでいくのであった。
武田家の軍勢は氏政の想定通りに三増峠に現れた。これを氏照たちが待ち受けていたわけである。武田家の軍勢は氏照たちが待ち受けていることを察知したのか距離を取り対陣した。そして両軍は睨み合うも動かない。
この状態に氏邦は苛立った。
「このまま睨み合っていても仕様がないじゃないか。早く攻めかからんと」
氏邦は対峙している武田家の軍勢が鉢形城を攻めた時とそれほど変わらない事実に苛立った。要するにあれから特に損害を受けていないという事である。その健在な姿を見てどこか馬鹿にされているような感じを受けたのだ。その苛立ちが焦りとなって表れていたのである。
一方で綱成は余裕しゃくしゃくに構えている。
「まあ、そう焦るな。もうしばらくしたら松千代丸が武田の後ろからやってくる。そうなればあいつらは嫌でもこっちに向かわざる負えん。だがそうなればもう袋のネズミになっているという事さ。そうなれば何者であろうが容易く勝てる」
そうこともなげに言う綱成。だが実はある懸念を抱えている。それは言うまいと思っていたのだが、氏邦はそれに気づいていた。
「氏政兄上の策がなれば勝てるというのは俺も分かっている。だが敵の数は俺たちより上だ。武田の連中だって馬鹿じゃない。後ろから追手が来ているのには気付いているだろ。だったら数で可っているうちに攻めかかろうと思うんじゃないか」
氏邦の発言はまさしく綱成の懸念そのものであった。現状それが一番の懸念である。武田家の軍勢は遠征である程度疲労しているだろうが健在である。ならば数の有利を生かして攻めかかり一気に峠を突破してしまおうと考えても不思議ではなかった。
綱成は氏政を待ち挟撃するのが最良の手だと考えている。そのため氏照と氏邦にその利を解き懸念については黙っていようと考えていた。しかし皮肉にも氏邦は綱成の思った以上に将としての才能を持っている。これは氏照も同じであった。
「叔父上。私も氏邦と同じことを考えていました。兄上や叔父上のお考えが最上の策というのは承知。しかしここはあえて動くのも手かと存じます」
「兄上の言う通りだ。叔父貴だって俺の考えていたようなことは気付いていたんだろ。だが俺たちが先走らないように黙ってた。違うか? 」
まさしく氏邦の指摘の通りだった。綱成は唸る。唸って唸って大きなため息をついた。
「本当は睨み合っているのが一番いい状態なんだがな。攻めかかられても動かず。押しとどめておくのがこの場合一番いいんだよ」
頭を抱え、あきらめまじりに言う綱成。最早二人を説得することは無理だと考えたのである。そしてこう言った。
「機先を制して攻めかかる。相手に痛手を与えたら無理をしない。あくまで挟撃が本命だという事を忘れるなよ? 」
「それは承知しています。お任せを」
「ああ。氏政兄上の仕事をやりやすくしておこう、ってことだろう」
綱成はうなずいた。これに氏照と氏邦の兄弟は素直に喜ぶ。こうして北条家の軍勢による先制攻撃が決まった。
氏邦たちは武田家の軍勢に奇襲を仕掛けるべく行動を開始した。これは無論隠密裏の行動である。しかしこの動きは武田軍に察知されてしまっていた。別に北条軍の動きがあからさまだったわけではない。だが戦場に現れた若干の変化に気づいたものが居たのである。それは武田信玄その人であった。
「北条の者どもが動いたか。機先を制して攻めかかるようだな」
別にそれを見たわけではない。だが甲斐の虎と言われ幾多の戦場を駆け抜けてきた武田信玄の直感はその動きを見過ごしたりはしなかったのである。そして気付いたのは信玄だけではない。
「追手が追い付いてから攻めてくるものばかりと思っていましたが、意外にそうではないのですね」
気づいた一人が武田四天王の一人とも呼び声の高い山県昌景である。そして昌景の他にも気づいているものはいるようだった。
信玄は昌景に静かに命じる。
「これより軍勢を分ける。昌景よ。お主は峠を上り、機を待て」
「承知仕りました」
山県昌景は速やかに行動をして出陣していった。この動きを氏邦たちは気付いていない。
やがて合戦が始まった。氏邦は先陣に立ち指揮を執る。
「この戦が北条の行く末を決める! なんとしてでも勝利するのだ! 」
氏邦は自ら先陣を切り突撃していった。氏照は後方で指揮を執っている。綱成は武田軍の左翼に攻めかかる。
「鉄砲を撃て! 敵がひるんだら攻めかかる! 」
二人の勇将に従い北条軍は突撃していった。その勢いはすさまじく武田軍は瞬く間に劣勢に陥る。特に武田家の左翼を指揮していた浅利信種は綱成隊の攻撃の前に討ち死にした。
氏邦はこの勢いに乗りさらに突撃する。
「この上は兄上が来る前に敵を打ち払ってやる! 」
後方で指揮を執っていた氏照は自軍の有利を感じて全軍をさらに前進させた。
「我々の勝利は近い! このまま押し切るのだ! 」
北条家の全軍が勝利を信じ突撃していく。だがこの中で綱成だけが違和感を覚えていた。
「(おかしい。奴らの軍勢は俺たちよりも上。それがこんな簡単に押し切られるものか。何より戦い方が妙だ。我らを誘い込んでいるような)」
綱成の違和感に確証はない。これは綱成が拙いのではなく信玄の用兵が巧みなのである。信玄は巧みに氏邦たちを引き寄せた。昌景が攻めかかりやすい位置に。
戦いが見渡せる位置に到着していた昌景はその機を簡単に見極められた。
「敵はもはや前しか見えていない。横腹を突かれるなどとは思いもしまい」
そう不敵につぶやくと馬上から叫んだ。
「全軍突撃する! 」
昌景の号令と共に武田家の別動隊が北条家の軍勢に攻めかかった。この予期せぬ攻撃に北条家の将兵は動転する。氏邦もその一人であった。敵がいなくなったはずの後方で戦闘の音が聞こえてきたのである。
「何があった!? まさか…… 敵の伏兵か!? 」
それに気づいた時はもう遅かった。昌景の突撃と時を同じくして防戦していた目の前の敵が一気に攻勢に移ったのである。
「これでは…… 兄上を待つどころじゃない! 後退するぞ! 」
氏邦はそう叫ぶが目の前の敵がそれを許さない。すさまじい勢いで攻めかかってくるのである。
一方後方の氏照も苦戦していた。不幸中の幸いか氏照のいる位置は攻撃を避けられたが、目の前では次々と味方がやられている。氏照はその場にとどまりつつ後退する味方の援護に徹していた。
「これでは軍を維持的ない…… どうにか凌がねば」
苦戦する兄弟。すると前線の氏邦のもとに綱成が現れてこう言った。
「もう戦わず通してやれ。このままじゃやられるだけだ」
「しかしそれでは氏照兄上が」
「あっちには俺の使いを出した。もうそう動いている」
「ならば…… くそっ! 」
氏邦も馬鹿ではない。最早打てる手はそれしかなかった。武田家の目的はこの峠の突破である。それを許せば戦いは終わる。氏邦たちはその場での退避に全力を注ぐ。狭い峠でそれも難しかったが多数の犠牲を出して退避することができた。氏照も無事のようである。
「負けだ…… 俺たちの負けだ…… 」
何とか生き延びた氏邦。そこに綱成がこう告げる。
「松千代丸たちは引き上げたそうだ。お前たちも兵を休めたら城に戻るようにと」
「そうか…… 兄上はほかに何か言っていなかったか? 」
「お前も藤菊丸も無事でよかった、だとよ」
それを聞いた氏邦は泣き崩れた。己のふがいなさに、である。それを綱成は優しく黙って見守るのであった。
こうして北条家は武田家に大打撃を与える千載一遇の機を逃す。そしてこれが北条家にとって大きな傷となるのであった。
今回の話のメインは三増峠の戦いでした。結果は武田家の大勝であり北条家は千載一遇の機会を逃す結果となっています。とは言え武田家もそれなりの損害を受けていたし北条家の城を落すことは叶いませんでした。武田家の研究で用いられる史料の『甲陽軍鑑』というものがありますがこの中で小田原までの遠征については疑問を抱かれています。『甲陽軍鑑』が武田信玄の顕彰という側面もある史料だという事も考えると、武田家の上層部でも疑問符を抱く人が意外といたのかも知れません。まあ武田家にとってはいい結果につながる点も出てくるわけですが。それは次回に。
さて主人公の氏邦は今回の戦いで苦杯をなめさせられました。ですが苦境はまだ続きます。氏邦は、北条家はどうなるのか。お楽しみに。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では




