太田資正 道 第六話
関東の領主たちに衝撃を与えた越相同盟。この事態の急変に資正と佐竹家は独自の道を進むことを選ぶ。そして再び事態は急変し資正と佐竹家にも危機が迫りくるのであった。
越相同盟は一応、双方の利害の一致ということで締結された。しかしだからといってうまくいくとは限らないのがこの世の常である。
結局越相同盟は締結から二年後の元亀二年(一五七一)に決裂した。この間、上杉輝虎は出家し謙信と名乗るようになる。また決裂の少し前には北条氏康が死去した。資正にとっては宿敵が死んだということになる。
「思えば気の毒な男だ」
資正は少しだけ氏康に同情した。これまで戦い続けその軌跡を見てきたがなるほど傑物といっても過言でない男である。もしかしたら関東をその手で収めていたかもしれない、それほどの男であった。しかし最後は歴史の激動に翻弄され、志半ばで力尽きる。その人生は関東の統一という北条の道にささげた人生であった。
心の中で氏康に哀悼の意をささげる資正。しかしすぐに気を取り直す。
「まだ私の道は続いている」
そう改めて決意すると現状を確認した。
現在北条家の当主は嫡男の北条氏政となった。氏政には氏照、氏邦などの兄弟がいて非常に仲がいい。器量では氏康に負けているかもしれないが、この兄弟の強い絆が氏政の最大の武器であった。
氏政は上杉家との同盟決裂後、すぐに武田家と再同盟した。そして早速上杉家との戦いを再開する。
「手の速いことだ」
この情報を聞いた資正は舌を巻く。この速さは明らかに越相同盟の末期から準備していたという事だろう。武田家も武田家で早いうちから北条家との再同盟をもくろんでいたに違いない。武田と北条は利害関係での対立が少ないのも再同盟の利点ではある。
資正にとって悩ましいのは武田家と里見家が同盟を結んでいるという事だった。里見家は北条家と武田家の再同盟の影響で北条家と停戦している。資正にとっては対北条家の強い味方が減ったことになる。
上杉家は相変わらず健在である。しかし以前のように積極的に関東へ出兵しようという気配はない。これは上杉家が織田家と対立した足利将軍家より上洛を要請されているからであった。もっとも関東に関心が無くなったというわけではない。その証拠が資正の手元にはある。
「佐竹家との取次ぎの依頼か…… 」
資正のもとに届いたのは上杉家、佐竹家の仲を取り持つようにという依頼の書状であった。資正はすぐに義重のもとにこの書状を持っていく。そして訊ねた。
「いかがしますか」
「ふむ…… 」
義重は少し思案した。そして
「しばらく考える時間をくれと伝えてくれ」
「よろしいのですか」
「何、あくまでそう見せるだけでいい。この前のようなことが無いように釘をさすだけだ」
「かしこまりました」
結局のところ味方として期待できそうなのは現状上杉家しかいない。とは言えむやみに下出に出れば越相同盟の時のような事態になりかねない。資正にしろ義重にしろ謙信からの要請を受けてという形での再同盟と行きたかった。
佐竹家は独力で対応できるだけの力はある。あとは上杉家との根競べになるであろう。
「しかしどうなるかな」
「心配はいりません。もはや関東で上杉家に味方しそうなのは我々ぐらいでしょう」
「そうだな。これで再同盟となればこちらも主導権を握れる」
「然り」
「今後も交渉を続けてくれ。あと武田家や織田家とのつながりも維持しておいてくれ」
「かしこまりました」
資正は恭しくうなずいた。
未だ資正と武田家のつながりは途切れていない。実際に利害が対立しない間柄だからこそきることである。またこのころ織田家とのつながりも出来上がっていた。
「(このところは信長殿の武名も高まってきたようだ)」
資正は近畿での動静を詳細に聞き及んでいた。ついでに織田家との接触にも成功し通交している。こうしたことにも力を入れることが後々にも役に立つ。資正はそう信じている。
越相同盟の決裂前後、常陸で頑強に佐竹家に抵抗していた小田家は風前の灯となっていた。この段階で小田家は上杉家と同盟を結び佐竹家に抵抗していたが、越相同盟の決裂後主要な城を落とされてしまう。小田家当主の氏治は家臣の管谷氏のもとに逃げ込むのが精一杯であった。
「これで小田家もおとなしくなるだろう」
これで資正の対小田家の戦いもひと段落といったところだった。しかしこのころになると北条家の北関東への攻勢がいよいよ強まってくる。資正も佐竹家の一員として対北条の戦いに加わり一進一退の攻防を繰り広げた。
そんな中で北条家は下総の要所、関宿城への攻撃を始めた。また元亀四年(天正元年、一五七三)七月のことである。また、同時期に上杉方の武蔵最後の拠点である羽生城への攻撃も始めている。
関宿城の城主梁田晴助は古河公方に仕える身であると同時に上杉方に協力していた。そのため謙信は義重に出陣を要請している。しかしこの事態に義重は動かなかった。理由はいろいろある。一つは北条家との戦いと並行して行っていた奥州南部への対処。もう一つは上杉謙信への不信感である。
義重は逆に謙信に対し早く出陣するように伝えた。この状態で佐竹家だけが出陣してもいささか厳しい。結局、謙信が出陣したのはよく天正二年(一五七四)の正月になった。
この出陣に際して資正は息子の政景と共に謙信のもとに参陣した。勿論義重の許可は受けている。
「いま、上杉殿がどのような顔をしているのかしっかり見てきてくれ」
義重はそう言って資正を見送った。
「さて。どのような顔で出迎えるのか」
資正は義重の言葉をかみしめながら謙信に拝謁する。実に一四年ぶりの再会であった。
「久しいな。太田資正。いや、今は三楽斎か」
「はい」
謙信は景虎の時より少しだけ親しげに資正に話しかけた。資正はそれを意外に思う。しかし
「(変わらぬな…… )」
相変わらずの威風堂々とした雰囲気で尊大であった。容姿こそ一〇年の年月は隠しようもないがその眼も体も力強い。
「此度も大儀である」
「はい」
結局のところ謙信は何も変わっていないという事らしい。それに資正は少しだけ笑いそうになった。
さて謙信は資正やほかの諸将の参陣を受け羽生城への救援に向かう。それに対し北条氏政も兵を派遣し利根川を挟んで対峙した。ところがこの時期、利根川は増水していたため両軍が激突することは無かった。
結局謙信は羽生城を救援することができず五月には撤退した。去り際に謙信は羽生城将への手紙に記したことを資正たちに言った。
「次の秋にまた来る」
それだけを残して謙信は越後に帰還した。資正も謙信を見送ってから常陸に帰る。
常陸に帰った資正に義重は尋ねた。
「どうだった」
その質問に資正は苦笑いして応える。
「変わっていませんでした」
「そうか。変わらずか」
「はい」
その答えに義重も思わず苦笑いした。
謙信は宣言通り秋になってから関東にやってきた。しかし北条家の関宿城、羽生城の攻撃はいよいよ大詰めを迎えている。今度は利根川を渡ることができた謙信率いる上杉勢も思うようにいかなかった。
この状況に際して佐竹家は激化していた奥州南部での対応に追われていた。このころ越相同盟の余波で起きていた政変が佐竹家を苦しめている。そのため関東での行動は制限されてしまっていた。
「ままならぬものだな」
義重はため息をつくがどうしようもない。謙信の要請もあり宇都宮まで軍勢を派遣し関宿への救援に向かう。だが先年依頼のわだかまりもあり佐竹家と上杉家の連携はうまくいかなかった。
これには資正も困った。
「義重さま。ここは矛を収めてもらえませぬか」
「うむ…… だがもう関宿は持つまい」
「それは…… 」
それは資正もよくわかっている。もはや関宿城の落城は目前で、羽生城も限界であった。
「ここは和睦し損害を減らすべきだろう」
「…… わかりました」
資正は仕方なしにうなずいた。この状況では最善といえる対応である。
結局佐竹家と北条家は関宿城の引き渡しを条件にして和睦することになった。これは佐竹上杉双方の不信が生んだ結果といえなくもない。羽生城も破却され上杉家は武蔵における拠点を失った。
「(もはや過去のいざこざを気にしている場合ではないな)」
資正はこれを機に佐竹家と上杉家の関係修復に全力を注いだ。また里見家とも連絡を取り佐竹、上杉同盟への参加を求める。
里見家は武田家と同盟を結び、その流れで北条家と和睦していた。しかし元亀四年(天正元年)に武田信玄が死に息子の勝頼が後を継ぐ。この家督継承はいささかイレギュラーなものであり、武田家自身が信玄の死を秘匿していた。もっとも一部の界隈では信玄死去の情報を得ていたし資正も知っていた。
この時期の混乱を受け、里見家は和睦を破り北条家との戦いを再開していた。だが、里見家の治める上総を睨む関宿城の陥落は里見家にとって大きな脅威となる。ここでの打開策としての上杉家との関係改善は選択肢に入るものだった。
資正はこの三家の関係改善、および再同盟に全力を注ぐ。しかし事態はさらに悪化していった。
北条家は関宿城を陥落させた勢いをそのままに下野の小山家への攻撃を開始する。年が明けて天正三年(一五七五)のことだった。この事態に佐竹家と上杉家は連携して対処に当たる。
しかし北条家の攻撃は熾烈を極めた。上杉家は救援に向かうも羽生城落城の影響か上野から出ることができない。さらに同時期に里見家も北条家の攻撃を受けていた。この攻撃も激しく里見家は守りに徹するので精一杯である。
この状況で援軍に行けるのは佐竹家だけであった。
「小山家を何としてでも救うのだ」
小山家は佐竹家の助けを受け何とか天正三年のうちはしのぐことができた。しかし翌年再び来襲した北条家の猛攻にさらされる。この激しい攻撃に小山家はついに敗れ、当主秀綱は息子と共に佐竹家に逃げ延びた。
逃げ延びてきた小山親子を佐竹家は迎え入れた。資正も城を追われた秀綱を励ます。
「貴殿らは立派に戦いその結果こうなったのだ。息子に城を追われた私よりははるかに立派だ」
「太田殿…… すまぬ」
「なに。気になさるな。私も貴殿が城を取り返せるよう力を尽くそう」
資正の言葉に秀綱は涙ぐんだ。秀綱の居城であった祇園城はいまや北条家の攻撃拠点として変わりつつあった。秀綱への同情だけではなく資正や佐竹家にも差し迫った事情がある。また資正は秀綱に期待していることがあった。
「それより小山殿には頼みたいことがある。義重さまも承知している」
「なんでしょう」
そう言うと資正はにやりと笑った。対する秀綱も引き締まった顔をする。
実はこの時、資正にある策があった。成功すれば北条家の勢いをそぐだけではなく勢力を盛り返せる。
資正は秀綱に言った。
「手紙を書いていただきたい」
秀綱は呆気にとられていたが資正に理由を説明され納得する。
「承知しました。すぐに取り掛かりましょう」
「頼みましたぞ」
資正は秀綱に祈るように頼み込んだ。この策が失敗すれば事態はさらに悪化してしまう。
「(頼みましたぞ)」
そう心の中で祈る資正であった。
この後、佐竹家は小山親子を支援し祇園城奪還を試みる。しかし北条家も必死で抵抗し奪還は出来なかった。一方里見家も北条家の猛攻を受け勢力を後退させる。上杉家ももはや関東での拠点は上野にわずかに残るほどで、その領地も武田家と争っている。
「もはや、この策を成功させるしか道はない」
資正が北条家打倒の道を進むには策を成功させることしかなかった。
資正の打倒北条家の策は結城家の勧誘だった。結城家は下総においてそれなりの規模の勢力であった。少なくとも他の勢力よりは抜きんでている。また、古河公方と深いつながりを持ち早くから親北条家の立場をとってきた勢力でもあった。
一方でこの時代の当主晴朝は小山秀綱の実弟でもあった。資正が秀綱に期待したのはここである。また、結城家は親北条家であるが近年の北条家の勢力の拡張には強い危機感を抱いていた。資正はこの点も理解していたためこのような策に出たのである。
資正と義重は北条家に対抗するには北関東の諸勢力が一丸となることが必要だと考えていた。そしてこれは上杉家などの外部の勢力の手ではなく自分たちの手でまとまらなければたやすく崩壊してしまう。資正も義重もこの連合実現のためにずっと奔走してきた。現在宇都宮家を始めとした下野の領主はすでに佐竹家と盟約を結んでいた。あとは結城家が加われば常陸、下野、下総の主な勢力が結集することになる。
「この策さえ成れば北条に抗しえるはずだ」
資正は身命を賭して策の成功のために奔走した。そしてその結果結城家は北条家からの離反を選択し佐竹家と同盟する。天正五年(一五七七)のことだった。
これに対して北条家は結城家領への侵攻を開始、それに対し佐竹家も結城家支援の兵を送った。さらに佐竹をはじめとする北関東の諸将はそれぞれ婚姻関係を結び関係を強化する。こうして佐竹家を中心とした反北条連合が誕生した。
この反北条連合の誕生を資正は誰よりも喜んだ。
「これで…… これで北条に対抗することができる」
あまりの感動に資正の目から涙が流れていた。河越城の敗戦からもう30年以上たっている。この長い月日をへて関東の勢力のみで北条家に対抗することができるようになったのであった。
「だがここで終わりではない」
資正は改めて自分たちの状況を確認する。現在里見家は北条家に追い詰められ、天正五年の終わりの頃には屈服した。上杉家は周辺諸国への対処に追われ頼れない。今だ状況は厳しい。
しかし資正の前には今まで見えなかった道ができていた。その道の先には北条家の打倒というゴールが見えている。
「ここからが本当の戦いだ」
太田資正五五歳。更なる戦いに向けて決意を固めるのであった。
以後、反北条連合は北条家との死闘を繰り広げていく。だが新たな時代への激動が、嫌が応にも関東に迫ってくるのであった。
この話では越相同盟決裂の余波が中心となりました。この同盟が関東の諸将、特に佐竹家や資正に植え付けた不信感は大きく北条家はその隙をついて攻勢に出ます。ですが次の話では越相同盟の忘れ形見による大騒動が起きます。予測もついている人もいるのでしょうがこの騒動の際に関東でもある大きな動きがあります。それは資正の悲願の結実ともいえるものです。
今後の話で関東はさらに激動の渦に巻き込まれます。そしてここから天下統一を目指す者たちの戦いも深くかかわるようになるのですがそれは次の話でしましょう。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡ください。では




