小笠原貞慶 小笠原貞慶の半世紀 第五章
日本全土に影響した本能寺の変。そこから巻き起こる混乱の中で貞慶は無事に旧領復帰を成し遂げた。しかし貞慶の人生はこれでめでたしめでたしとはならなかったのである。
無事に小笠原家を再興した貞慶は蘆名家に連絡を取って長時を引き取ろうとした。だが長時はこれを拒否している。
「もはや儂は隠居の身。小笠原家のことはお前に任せたのだから気兼ねするな。何よりおまえは家を再興させたのだ。宿願を果たしたおまえの力にはなれそうにない」
という返事が返って来た。こうなっては貞慶としても長時の感情を優先することにする。尤もせめて一度は帰ってきては欲しいと思ったが。
「父上も気が向いたら顔を出してくれるだろう」
そう考えた貞慶だが長時は天正十一年(一五八三)にこの世を去ってしまった。葬儀は会津で行われ後に遺骨と遺髪が貞慶のもとに届けられる。届けに来た長時の家臣によると去年の時点で病気であったらしい。
「長時様は骨か髪だけでも故郷に戻れるならそれでいいとおっしゃられておりました」
「そうか。よくやってくれた。ありがとう」
貞慶は遺骨と遺髪を持ってきた家臣を取り立てることにするのであった。そして長時の弔いを丁寧に行う。
「父上。ようやく我らの故郷に戻れましたね」
そう言いながら葬儀を進める貞慶。そこには貞政の姿があった。
「お爺様の葬儀の間なら戻っても良いと石川様から」
この時貞政は人質として徳川家の重臣の石川数正のもとに預けられていた。つまり数正は貞慶にとっての上司にあたる。
「石川様は万事物事の道理を知っておられる方。信頼するに値する御仁だ。お前も石川様の下でよく学ぶがいい」
「はい。父上」
だがこの石川数正が貞慶の人生に大きくかかわる事態を引き起こすのである。
徳川家の支配下に入った貞慶は深志城の名を松本城と改めている。そして信濃の支配を目指す上杉家と戦った。また天正十二年(一五八四)木曾義昌を攻撃したりしている。この時徳川家康は羽柴秀吉と対立していた。秀吉は信長の死後に発生した織田家の内部抗争で勝ち抜き、信長の天下統一事業の後継者としての立場を固めていたのである。しかしそれに信長次男の信雄が反発し家康もそれに同調して戦となっていたのであった。
義昌は家康が貞慶の深志城復帰を認めたことを不服として秀吉に味方した。
「ここは我らの城。それを自力で取り戻したのだ。文句など言われる筋合いはない」
貞慶としてもせっかく復帰できた旧領を手放すつもりなどない。家康に従い秀吉に味方した義昌を攻撃していたのである。しかし義昌は手ごわく貞慶も苦戦を強いられるのであった。そうしているうちに信雄が秀吉と講和してしまい家康も戦いの大義を失ってしまう。貞慶も義昌への攻撃を中止した。別に木曾家の領土がほしかったわけではないので当然のことである。
こうして徳川家と羽柴家の戦いは小康状態に入った。とは言え上杉家は羽柴家に従っているというから貞慶としては予断の許されない状況である。だが、その折に妙な噂を耳にし始めた。それは徳川家内部の対立に関する噂である。その噂によると貞慶の上司である石川数正は羽柴家との融和を推進しているのだが、それに対して同じく重臣である酒井忠次らが反発していて一種即発の事態になっているらしい。
「こうした危機でこそ一致団結をしてこそだと思うのだがな」
そう疑問に思う貞慶。とは言え陪臣といえる自分では関われない問題である。正直そこまでの関心はなかった。
「何があろうとも家康様や徳川家に尽くし、小笠原家を守るのみ」
それが貞慶の考えである。だがここでとんでもない事態が起きてしまう。
天正十五年(一五八五)羽柴秀吉は関白宣下を受けて豊臣姓に改姓した。これにより秀吉は天下に号令をかける名分を得たといえる。そうなると秀吉と敵対している家康の立場はだいぶ悪くなった。当然貞慶も危機感を覚えるようになる。
「何時戦が始まるかわからん。下手をすると木曾家と上杉家を相手にしなければならんのか。ああ、そうなっては終わりだ」
嘆く貞慶。だがここで信じがたい報せが届いた。何と石川数正が徳川家を離反し豊臣家の家臣になってしまったのである。しかも数正が預かっていた人質たちを伴ってであった。無論そこに貞政も含まれている。
「石川様は何を考えているのか。しかしこれは大変な事態であるな…… 」
益々頭を抱える貞政。そんな貞政のもとに数正から書状が届いた。内容は
「ほかの重臣たちは豊臣家と戦をするつもりだった。しかしもはや勝てまい。私は何とか徳川家を存続させようと豊臣家と和解しようとしていたが家康様は聞き入れてくれなかった。その上私の命を狙うものもいるという。こうなっては仕様がないと思い豊臣家に仕えることにしたのだ。幸い秀吉様も快く迎え入れてくれた。秀吉様は心の広い方だから貴殿も仕えるとよい。所領は安堵してくれるそうだ。私も尽力しよう。よい返答を待つ」
というものであった。貞慶は事情を理解したが腹立たしいとも思う。
「石川家は徳川家の譜代の家ではないか。私のような新参ならともかくそんな家の者が裏切るなど。武門の恥ではないか」
怒る貞慶だが選択肢はないも同然である。現状徳川家が豊臣家に勝てる見込みがないというのも事実のようであった。よしんば徳川家が滅んで小笠原家が遺ったとしても独力ではどうしようもない。もし貞慶が死んでも貞政が継げば家は残るかもしれないがその貞政は数正と共に豊臣家の手の内にあるのである。
貞慶は泣く泣く決断した。
「小笠原家を守ることが第一。その為に大恩に背かなければならないとは…… 」
心苦しくはあるが小笠原家の存続が第一である。その為に人生を捧げてきたのだ。後ろめたくても貞慶に迷いはない。
「豊臣家に従おう。それが唯一の道だ」
貞慶は豊臣家への基準を決断した。豊臣家は貞慶を受け入れ所領も安堵してくれる。貞政も無事であった。何なら秀吉の一字をもらい受けて名を秀政と改められるぐらいである。尤もこれで完全に豊臣家に従ったともいえる。
「家康様、申し訳ありませぬ」
決断に後悔はない。しかし恩人を裏切ったことは正直心苦しい貞慶であった。
天正十四年(一五八六)徳川家康は豊臣秀吉に臣従した。重臣である石川数正の離反も理由の一つであるが、秀吉が妹を家康に嫁がせるなどの工作も理由ある。家康は家康で内心戦は不可能だと考えていたのか臣従を決意した。
これを受けて頭を抱えたのは貞慶である。
「家康様から見れば私は裏切り者。一体どうなることか」
不安を覚える貞慶であったが、結局何もなかった。これは貞慶がすでに豊臣政権に属する大名という立場であったことや、家康が言及しなかったという事もある。
兎も角何事もないとわかって貞慶は安堵した。
「ひとまずは安心か。しかし気まずいな」
どうにもならない思いを抱えているもどうすることもできない。貞慶は豊臣政権に属する大名の一人として生きていくしかないのである。
それから時が流れて天正十七年(一五六九)になった。この年貞慶は思い切ったことをする。その思い切ったことを秀政に告げた。
「家督をお前に譲ろうと思う」
「な、なぜです? 私は若輩者ですし父上もそんなお年ではないのに」
困惑する秀政。だが貞慶には考えがあった。
「これから秀吉様のもとで天下は動くだろう。おそらく世も変わる。そうなると私のようなものではうまくいかないかもしれん。だがお前は若い。それに秀吉様から一字もらっているのだから覚えも良かろう。私も影から手伝うとするからお前が当主となるのだ」
こう言われて秀政も納得した。
「承知しました。家のことはお任せください」
こうして秀政は小笠原家の当主となった。そして貞慶はあることを秀吉に願う。
「理由があったとはいえ私は家康様を裏切りました。その詫びをしたく思います。どうか秀吉様のお力添えを頂けないでしょうか」
貞慶の心には恩義ある家康を裏切った後悔が残っていた。どうにか家康に詫びたいと思っていたのである。そしてもしそこで手打ちにされても仕様がないと思っていた。だが家は絶やすわけにはいかないので秀政に家督を譲ったのだ。
秀吉はこの願いを聞き入れた。
「殊勝な話だ。いいだろう」
こうして秀吉の仲介で貞慶は家康に詫びることとなる。だが家康は大して気にしていなかった。
「気にすることは無い。むしろ数正が巻き込んでしまったようなものだ。だというのに気負わせて済まなんだ」
「いえ、大恩のある家康様を裏切ったのは事実です。本当に申し訳ございませぬ」
貞慶は平謝りした。家康は無論責める気などない。むしろこうした貞慶の姿勢を気に入ったほどであった。するとそんな家康の気持ちを理解した秀吉がこんなことを言った。
「家康よ。確か貴殿には孫娘が居たな。どうだ。孫娘を嫁がせたらどうだ。秀政に嫁はおらんだろう」
唐突な提案に驚く貞慶。するとそんな貞慶を尻目に家康は喜んだ。
「それはよいこと。武家の名門の小笠原家と縁戚になれるのならこちらとしても有り難い」
こうしてとんとん拍子で話は進んだ。秀政は家康の孫娘の登久姫を娶ることとなる。
「何という幸運。ああ、今までの苦労が報われているのだな」
そう考える貞慶。しかし思いもよらぬ落とし穴が貞慶を待ち受けていた。
尾藤知宣という武将がいる。彼は豊臣秀吉に早くから仕えていた武将であった。武功も挙げていたので秀吉のもとで出世していった。だが天正十五年(一五八七)九州での戦いでの不敵際で秀吉の怒りを買い所領を没収されてしまう。それから浪々の身となっていたのだが、ある日貞慶の前に姿を現す。そしてこう言った。
「拙者の祖父と父は小笠原家に仕えておられた。特に祖父は武田家との戦で討ち死にした。これは貞慶殿のお父上もご存じのことであった。今の拙者は浪々の身。わずかな縁に縋るしかできぬ。どうか少しの間でも置いて下さらぬか」
この知宣の話に貞慶は聞き覚えがあった。確か武田家との戦いで長時を守って討ち死にした武将に尾藤というものがいたという。貞慶は知宣の話を信じた。
「その話は拙者も聞き及んでおります。それに浪々の身の苦労はよく知っている身。私でよければお助けしましょう」
「ああ、ありがたい。正しく武家の名門の高き志にござる」
貞慶は知宣を客将として遇した。そして二年ほど滞在した後に
「これ以上厄介をかけるのが心苦しく思います」
と言って去っていった。
そして天正一八年(一五九〇)豊臣秀吉は天下統一の仕上げとして関東の大大名である北条家を攻め滅ぼす。これで天下統一は成し遂げられた。
「これからは秀吉様の時代か。それにしても此度の戦も生残れてよかったわ」
一安心する貞慶。また今回の戦いの戦功を賞されて讃岐(現香川県)の半国を与えられる。これで小笠原家も一角の大名になった。
貞慶は新領地を拝領する際にこんな話を聞いた。
「なんでも尾藤知宣殿が北条家に居たそうだ。戦の後帰参を申し出たが秀吉様の怒りを買って手打ちにされたらしい」
この話を聞いて貞慶は心底驚いた。いくら不手際があったとはいえ帰参を申し出た古い家臣を手打ちにするとは相当の怒りである。
「何やらとんでもない話だ。私の尾藤殿とのかかわりは黙っていた方がいいか…… 」
一人慄く貞慶。だがもはや手遅れであった。後日、松本に戻った貞慶のもとに秀吉からの使者が現れた。そしてこう述べる。
「小笠原貞慶殿。貴殿を改易に処す」
「な……なんですと!? 」
驚嘆する貞慶。そんな貞慶に使者は冷淡に告げた。
「貴殿は奉公構となっていた尾藤知宣を取り立てていた。さらにそれを黙っていたのは言語道断である。ゆえに改易とする、との秀吉様の仰せです」
貞慶は絶句した。奉公構というのは武士に対する刑罰の一つで、追放されたのちの士官を禁止するものである。そしてもし奉公構を受けている者を召し抱えたら追放しなければならなかった。
今回貞慶はそれを破ってしまったのである。知宣は自分が奉公構であることを貞慶には言わなかった。それはそれで問題があるが、知宣が奉公構となっていることを知らなかった貞慶にも落ち度があるという事である。
兎も角貞慶に言い逃れできる余地はなかった。ただ秀吉の決定を受け入れるしかない。すぐに松本を離れる準備し始めた。
「我が身の不徳…… 父上だけでなく小笠原家代々の方々に申し訳が立たぬ」
せっかく取り返した旧領を手放すことになった貞慶。己の不徳を嘆くがもはや手遅れであった。
再び浪々の身となった貞慶ら小笠原家の面々。無論これからどうしようという話になる。だが秀吉の怒りを買う形で領地を失った小笠原家に支援してくれそうな家などいるはずがない。貞慶はそう考えていた。
だがここで秀政はこう提案する。
「家康様のもとに向かうのはどうでしょうか。登久もお助けいただけるように頼むと申しております」
「ああ…… そうだな。最早再び家康様に縋るしかないな」
こうして貞慶達は家康のもとに向かった。この時家康は北条家が納めていた関東の広大な領地に転封されている。
家康はやって来た貞慶達を温かく迎え入れた。
「よく来てくれた。実は領地が大きくなって人手が足りんのだ。下総の古河(現茨城県)に領地を与えよう。よく治めてくれ」
「ありがたい…… ありがたい…… 」
貞慶は感涙した。一度裏切った自分にここまでの温情を与えてくれたのだから当然ともいえる。
古河の領地は三万石ほどで大名といえるほどである。だが貞慶はもう完全に隠居するつもりだった。
「私が何かしてはまた御家の大事に関わる」
もうすべてを秀政に任せるつもりである。秀政も失意のせいでめっきり老け込んだ父の姿に何も言えなかった。
それから五年後の文禄四年(一五九五)小笠原貞慶はこの世を去った。享年五十歳。正しく敦盛の人間五十年そのままであった。
その後秀政は家康の下で働きついには松本に大名として復帰する。その後転封はされたが小笠原家は幕末まで大名として存続した。
人生一寸先は闇。貞慶からしてみれば善意の行動が大きな悲劇を生みました。しかし貞慶の不注意という点も少なからずあります。付き合う相手のことはよく知っておくべきというのはどの時代も変わらぬ教訓なのかもしれませんね。しかし貞慶の場合息子が悲願を成し遂げてくれたのですから幸運な方でしょう。尤もそれを見届けられぬうちに死んでしまったのですから悲劇的ではあります。
さて話は変わって次からは新しい主人公です。新しい主人公は関東の著名な大大名の家に生まれた武将です。お楽しみに。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では




