伊東祐兵 伊東家再興記 第五章
豊臣秀吉の家臣として九州征伐に参加した祐兵。日向への帰還という悲願達成の為に奮闘し武功も挙げた。果たして祐兵は日向に戻ることができるのか。
根城坂の戦いの後、島津家の当主である島津義久はこれ以上の戦いは家の存亡にもかかわるとして降伏を決断した。義久の弟たちや家臣は当初従わない姿勢を見せる。しかし義久の説得を受けて降伏していった。この降伏を以て島津家の討伐は終了する。
戦が終れば戦後処理がある。ここが祐兵にとって一番気になるところではあった。
「果たして日向に戻れるか」
むろん先導の役割を果たし戦場でも武功を挙げた。領地を与えられるだけのことはしてきたつもりではある。しかしすべては秀吉の考え次第であった。事の次第によっては日向以外の地を与えられるというのも考えられる。
「少なくても良い。付き従ってくれてきた家臣たちを養えるだけの領地を日向にて与えてもらえないだろうか」
祐兵の望むところはこれであり祐長等家臣たちも同じくである。
そしてついに祐兵に沙汰が下る。秀吉の前に平伏した祐兵の頭上に小姓の声がおりてきた。
「この度は先導の役目大義である。また戦場での働きも見事なものであった。よって飫肥、清武、曾井の三郡を与える」
そう言って小姓は領地の安堵状を祐兵に渡す。そして秀吉はこう祐兵に言った。
「長年の悲願無事に果たしたは見事。これよりは民と家臣を慈しみ、所領を見事栄えさせるのだぞ」
「はは! 」
秀吉の言葉に祐兵はそう答えるしかなかった。何故なら感激のあまり涙が止まらず言葉が続かないほどであったからである。こうして祐兵は見事日向への帰還を果たすのであった。
飫肥城及び周辺地を安堵された祐兵。むろんそのほかの地は他家の物となった。具体的には島津家と同盟していた秋月家や、島津一族である島津豊久などである。
伊東家の家臣の中には日向に島津家が遺ったことに不満を漏らすものもいる。しかし祐兵は受け入れた。
「島津家は秀吉様に降ったのだから一応領地は与えられるもの。それに日向本来の守護は島津家。少々の領地が分け与えられるのは致し方のないことだ。これからのことを考えれば遺恨は忘れ豊臣の臣として生きるべきであろう」
祐兵としては日向に帰還できただけでも御の字である。正直島津家への報復というのは考えていなかった。多少の恨みはあったが根白坂の戦いの大勝でそれらも全て割り切ることができている。
「せっかく日向に戻れたのだ。これよりは大名として領地を栄えさせ、守るのが我らの使命」
そう考えた祐兵はさっそく家臣団の再編に取り組んだ。差し当たって自分を支え続けてくれた祐長には要所である清武城を与える。一方で豊後に残り続けた宗昌には家老職を打診した。
「宗昌ほどの武辺者がそばで仕えてくれれば私としても有り難い」
しかしこれを宗昌は固辞する。
「俺のような荒武者が家老では見てくれが悪い。代わりのどこぞの城をいただければ戦の折には兵を率いて暴れまわりましょう」
とのことだった。祐兵はこれを承知して酒谷城の城主とした。自身の周辺には比較的文知に優れたものを置き領地の統治と発展を重視することとする。
こうして祐兵は新しい伊東家を作り上げていった。そんな中でなんとかつて島津家に降伏しその家臣となっていた米良矩重が城下に現れる。何でも祐兵との面会を希望しているらしい。
「矩重が? 今は島津の家臣になっているはずだが」
なんでも刀一つも持たず門兵に自分を捕らえるように言ったらしい。明らかに尋常な様子ではない。祐兵は牢に入っている矩重に会いに行った。
矩重は祐兵を一目見るとこう言った。
「拙者は義祐様を裏切り島津家に従いました。しかしこの度祐兵様が旧領に復帰したと聞き、黙って飛び出してまいりました」
何と島津家を出奔してきたらしい。驚きながら祐兵は尋ねた。
「いったいなぜそのようなことを。今までの功があれば島津家でも禄は食めよう」
「拙者はあの時のことは後悔しておりませぬ。しかし不忠の振る舞いであったのも事実。そこに祐兵様が戻られた以上は罰を受けるべきかと思い参上しました。先年の振舞申し訳ありませぬ」
そう言って矩重は深々と頭を下げた。そして顔をあげるとこう言い放つ。
「どうか拙者に切腹を申し付け下さい。この不忠者が腹を切れば先年寝返ったほかの者たちも皆悔い改めましょう」
祐兵は静かに矩重の言い分を聞くとこう言った。
「そもそもは父上が家臣を軽んじたことが寝返りの元。それを考えればお主たちを責められぬ。むしろお主のようなまっすぐなものが帰参してくれたことは私にとっては喜ばしいことだ。ならばここは恥を忍んで私を支えてほしい」
そう言って祐兵は矩重を見つめた。すると矩重は号泣する。
「義祐様が堺の地で亡くなられてと聞いております。旧来の地を追われ果てたのは拙者の咎であります。そんなものが仕えるべきではありませぬ」
「いやだからこそ仕えてほしいのだ。私は父の過ちを繰り返さぬ。その為にお主のようなものが必要なのだ」
「祐兵様…… 」
「すぐに答えを出せとは言わない。だが己の命を軽んじるようなことだけはしないでくれ」
そう言って祐兵は去っていった。その後ろ姿を見送って矩重は再び涙するのであった。
この後、米良矩重は伊東家の家臣に復帰することになる。誰よりも熱心に仕えたという。
伊東家が日向に復帰してから五年ほど経った文禄元年(一五九二)、すでに日本を統一していた豊臣秀吉は新たな目標として明の攻略を目論んだ。そしてその第一歩として朝鮮半島の李氏朝鮮を服属させるために朝鮮半島への出兵を始める。
主に渡海するのは中国地方や四国、そして九州の大名たちであった。もちろん祐兵も含まれる。祐兵は日向に領地を持つほかの領主たちとともに四番隊の所属となった。四番隊の指揮を執るのは秀吉の古参の家臣で豊前に領地を持つ毛利勝信。さらに四番隊には島津義弘も加わることとなっていた。
「あの義弘殿か。あの御仁が味方に加わるのはありがたい限りだな」
祐兵は少しばかり恐ろしく思いつつも喜んだ。良弘は猛将で知られ伊東家が衰退するきっかけになった木崎原の戦いでは三百の兵で義祐率いる三千の兵を打ち破っている。他にも耳川の戦いでも大いに武功をあげていたので伊東家の天敵ともいえる人物であった。
「こちらとしては遺恨もない。しかし向こうはどう思っているか」
さすがにそこは不安である。だが日向佐土原城主で義弘の甥である島津豊久によると
「叔父貴は細かいことを気にする人じゃない。薩摩隼人は皆そうだ。俺も先だっての戦は気にしていない。共に戦う以上は互いに武功を競い合おうじゃないか。今回は負けんぞ」
と快活に言った。その明るい様子に嘘は感じられなかったのでとりあえず安堵する祐兵であった。
さて出陣するにあたってともに渡海する家臣を決めねばならない。しかし後方の支援も任せなければならないので、こちらにも能力のあるものを残さねばならなかった。尤もどちらも適任がいたのであまり悩まなかったが。
「宗昌は私と共に朝鮮に渡ってほしい。戦ならばお主の力が必要だ」
「お任せくだされ。久々に大暴れするとしましょうか」
「お爺様は残って家中をまとめてくだされ」
「承知しました。祐兵様もご無理をなさらずに」
ここはあっさりと決まった。だがここで思わぬ人物が同行を申し出る。
「叔父上。我々もご同行します」
「私も兄上と同じく同行します」
そう言ったのは祐兵の甥の義賢、そしてその弟の祐勝であった。二人は祐兵が九州から出ている間は大友家に預けられていた。特に宗麟に可愛がられていたのは既出のとおりである。だが伊東家が再興したことと宗麟が島津征伐のすぐ後に亡くなったこともあって伊東家に戻ってきていた。どちらもすでに立派な大人である。
祐兵はこの申し出に難色を示した。厳密に言うと弟の祐勝だけなら問題ない。
「二人同時というのはどうだろうか。何かあったとき一門でしっかりした者が居なければ色々と面倒なことになる」
この時祐兵の長男はまだ四歳であった。万が一祐兵が出兵中に何かあれば家督を継ぐのはこの幼子である。だが一門である義賢か祐勝が居れば一時家督を任せることができる。そもそも義祐の直系はこの二人なのであるからそちらに戻すというのも一つの考えであった。
祐兵は何とか説得しようとするが二人は受け入れない。何でも理由があるという。
「先年の伊東家再興の戦の折に我らは参加できませんでした。ここで武功を挙げなければ亡き父に申し訳ありませぬ」
「伊東家一門の者が武功を挙げれば秀吉様の覚えもめでたくなるはず。どうかお許しを」
熱心に頼み込む二人。遂に祐兵が折れた。
「ともかく無茶だけはしないように」
こうして伊東家は海の向こうの朝鮮に渡ることになったのである。
祐兵はほかの四番隊の諸将と共に海を渡った。しかしその中に島津義弘がいないことに気づく。気になったので豊久に尋ねると不満そうに答えた。
「何でも一揆が起きて兵が集められなかったらしい」
実は九州の各地で秀吉による領地の再配分後断続的に一揆がおきていた。今回は島津家の領内で発生したのでその対応に手間取り兵が集められなかったのだという。
「これでは戦もできぬ、と叔父貴は嘆いておられたよ」
「確かにその通りですね。こうなれば我らもより一層の奮戦をしなければ」
「確かにそうだな。ならば此度はこの豊久の名を朝鮮に轟かせて見せようか」
そう言って豊久は快活に笑うのであった。
それから朝鮮に渡海した祐兵たち四番隊は毛利勝信の指揮のもと豊臣軍の一員として戦った。豊臣軍は緒戦で勝利を重ねあっという間に李氏朝鮮の首都である漢城を攻め落とす。そしてここから各部隊が分散して担当地域の制圧に向かう事となった。
四番隊は東部の江原道という地域の制圧を任された。祐兵も奮戦し麻田城、漣川城などの城を攻め落とした。これらの戦いで義賢も祐勝も活躍し生残る。
「これで我らも一人前の武士ですね」
「これよりはもっと手柄を立てて見せましょう」
祐兵は勇躍する二人を頼もしげに見ながらも不安も覚えるのであった。
それからしばらくして島津義弘も参戦し四番隊の任務は順調に進む。ところが明軍が朝鮮方の援軍として参戦し全体の戦況は膠着状態になった。これに伴い四番隊の任務も滞り伸び切った戦線のせいによる補給の遅延や長期の出兵の疲れなどで厭戦気分が蔓延し始めた。さらに一部では病に倒れる者もあらわれ義賢と祐勝も体調の不良を訴え始める。
祐兵はこれ以上の戦いの継続は難しいと考え始めていた。それは島津義弘と豊久も同様のようである。
「いささか勢いに乗って深入りすぎたという事なのでしょうな」
「ああその通りだ。人はなまじ調子がいいとつらいことは忘れる。だが元通りになれば色々と嫌なことにも気づくものだ」
義弘はしみじみといった。そこは猛将であるとともに名将でもある義弘である。人の機微にも詳しいらしい。
一方若い豊久は口惜しさをにじませていた。
「あと少しで江原道を攻め落とせたものを。悔しいなぁ」
それからしばらくして明と日本の講和が決まった。渡海している諸将は一部を残して日本に帰還することになる。祐兵は帰還組であった。
「日向に帰れば二人の病も良くなろう」
そう考える祐兵。だが帰国の途上で義賢と祐勝の病は悪化し二人とも船上で亡くなってしまった。
「せっかく戦で生き残ったというのに。このようなことになるとは」
この悲劇には祐兵も嘆くしかなかった。
帰国した祐兵は戦の後方支援で疲れ切った領地の再興に臨んでいた。この時に頭角を表し始めたのが稲津重政である。重政は若いころから小姓として祐兵に近習しており利発で才気のある青年であった。この所は内政に関して色々と仕事を任されていてその立場をしっかりとしたものにしつつある。しかし些か頭が固くさらに直言的なものの言い方をしてしまうことも多々あった。例えば
「山田殿は武辺者であるが政には向いていない」
とか
「河崎殿は主君の祖父であるにしても不敬なところがある」
といった風なことを言ってしまう。尤も祐兵への忠誠心や優秀さも本物である。そのため祐兵も多めに見ていたし宗昌や祐長もあまり気にしてはいなかった。尤も重政にしてみればそうした宗昌や祐長の態度は自分を軽んじているように感じるらしい。
「これからは代々の家臣だからというのは関係ない。才あるものが用いられるべきなのだ」
重政はそう言ってはばからなかった。そしてこれに賛同するものも多く居るという。これには祐兵も頭を抱えた。
「家臣同士での諍いは家を滅ぼすことにつながりかねん」
そう言って頭を悩ませるのであった。
慶長二年(一五九七)日本と明との講和が破談となった。秀吉は再び朝鮮への侵攻を始める。今回も祐兵は海を渡ることになった。宗昌も重政も同行している。
「ここでまた手柄を立てれば伊東家の覚えもめでたくなるかな」
宗昌がこう言うと重政は
「こう何度も遠くに出陣させられたら領地の民に無用の負担がかかりまする。そうなればたとえ秀吉様の覚えがめでたくなっても意味がありませぬ」
といった。これには祐兵も宗昌も苦笑するしかなかった。
さて再び朝鮮に渡った祐兵は再び奮戦し各地で武功を立てる。今回は無用に戦線を拡大せずに着実に進行したので補給線が間延びするようなことは無かった。
「これならばまあ戦える。しかし国元に無用の負担をかけるのは頂けないな」
祐兵はそうした点をうまくやりくりしながら戦い続けた。ところが翌年の慶長三年(一五九八)に秀吉がこの世を去ってしまう。
「何という事だ。しかしこののちどうするのか」
そもそも秀吉が明を征服する為に始めた戦いである。秀吉がいなくなれば必然的に戦う必要もなくなった。
日本軍は撤退を始める。祐兵ももちろん帰国の途に就く。しかし内心は不安であった。
「秀吉様が亡くなられて天下はどうなるのか」
祐兵はすでにこれから起きる激動の空気を感じ取っていた。
めでたく祐兵は日向に帰ることができました。しかも自分が城主を務めた飫肥城への復帰というおまけつきです。これには祐兵も感無量であったのではないでしょうか。米良矩重も戻り再出発した伊東家ですが早くも不穏な空気をまとい始めます。さらには秀吉の死により起こる混乱。果たしで祐兵はどうなるのか。お楽しみに。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では




