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戦国塵芥武将伝  作者: 高部和尚
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伊東祐兵 伊東家再興記 第四章

 予想外の幸運もあり祐兵は羽柴秀吉に仕えることができた。天下統一を目指す織田信長の重臣に仕えることができたことで祐兵の道も開けたかに見えた。

 天正十年(一五八二)、祐兵は二三歳になった。羽柴秀吉による中国攻めもいよいよ大詰めを迎え、中国地方で最大の勢力である毛利家を降伏一歩手前まで追い詰めている。

「これが終わればいよいよ九州に攻め入るのだろうな」

 秀吉の言葉を信じるなら中国地方を制覇した後は九州に攻め入るはずである。その時は道案内だけでなく先陣も名乗り出るつもりの祐兵であった。

「何か功がなければ日向に返り咲きもできんからな」

 これには祐長もうなずく。

「左様でございますな。まあその時は山田殿にも働いてもらいましょう」

「その通り。しかし宗昌からの連絡だと大友家は相当苦しいようですね」

 豊後に残った宗昌とは絶えず連絡を取り合っている。織田家は大友家と繋がっているので情報収集の一環として許可されていた。だがもたらされる情報は大友家の衰退と島津家の躍進である。どうにかしたいが祐兵にできることはほとんどなかった。

「秀吉様の下で奮戦することが唯一の道か」

 そう考える祐兵。ところがこの天正十年に大事件が起こる。京で大殿である織田信長が重臣の明智光秀に討たれてしまったのだ。後に言う本能寺の変である。

 この事態に秀吉は軍師の黒田官兵衛の進言を受けて早急に中国地方からの撤退を決めた。むろん祐兵もどうこうする。

「ああ…… 九州が遠ざかる」

 色々な意味がこもった言葉であった。


 羽柴秀吉は中国地方から迅速に撤退すると体勢を立て直して明智光秀との合戦に及んだ。むろん祐兵も秀吉の直属の侍として戦いに参加する。合戦の直前に秀吉から

「伊東家は鎌倉の頃より続く名門。その名にふさわしい功をあげて見せよ」

と、檄を飛ばした。祐兵としては断る理由もない。

「敵将の首を取ってまいりましょう」

 そう言って合戦が始まると敵陣に一目散に駆けていった。ここで武功をあげれば秀吉の覚えもめでたくなる。そうなれば一応羽柴家中での扱いも良くなるはずである。日向への帰還が遠のいた今は現状の意地を目指すのが最優先であった。

「何が何でも敵将の首をあげる。皆ついてまいれ! 」

「「応! 」」

 祐兵は家臣を引き連れて敵陣に切り込み見事敵将の首を挙げた。これには秀吉も喜ぶ。

「流石は名だたる侍の血を継ぐもの。見事じゃ」

 そう言って名工の作る槍を渡した。この頃主君から武具を拝領するというのは名誉なことである。祐兵としても満足のいく結果であった。とは言え本来の目的である日向への帰還が遠のいたのも事実である。合戦が秀吉の勝利で終わった後もそれを思い出して肩を落とすのであった。

「織田家がこうなってしまっては九州に攻め入るどころの話ではない。一体この先どうなるか」

 勝利に沸き立つ中で一人気落ちする祐兵。そんな祐兵に声をかける人物が現れた。

「そう気落ち為されるな、伊東殿」

「これは…… 黒田様」

 声をかけてきたのは秀吉の軍師である黒田官兵衛であった。同じ家臣とは言えあまりにも地位の違う人物に声をかけられて祐兵は驚く。そんな祐兵に官兵衛は驚くべきことを言った。

「秀吉様は信長様の跡を継ぎ天下を治められる。ゆくゆくは九州にも攻め入られる」

「そ、それは本当ですか」

 祐兵は半信半疑で言った。これに対して官兵衛ははっきりと答える。

「必ずや。そしてその時は祐兵殿がお役に立つはず。それまで辛抱なされよ」

 そう言って官兵衛は去っていく。祐兵は官兵衛の言葉が自分でも驚くほど信じられた。

「(信じがたい話なのに信じられる。これも官兵衛殿の神算鬼謀の一つなのだろうか)」

 ともかく祐兵は官兵衛の言葉を信じていつかの機会を待つことにした。


 明智光秀を打ち破った後、織田家重臣が集まり今後の織田家の方針についての話し合いが始まった。祐兵としては新たな織田家の主の下で従来道理の路線、つまりは天下統一を目標に進んでほしいと思っている。だが信長が死亡したのと時を同じくして嫡男の信忠も光秀に討たれていた。正統な後継者不在の大名家がこれまで通りの一致した動きを取れるとは思えない。

「まずは家中の安定が第一となるだろう。しかし黒田様の言っておられた秀吉様が信長様の跡を継がれるとはどういう意味なのだ」

 秀吉が織田家の跡を継げるはずもない。尤もそういう意味ではないだろうというのは祐兵だってわかっている。

「あれは秀吉様が天下の統一を目指すという意味なのか? 」

 この疑問の答えはほどなく出た。秀吉は信長の仇を討った立場を生かして織田家の運営の主導権を握る。さらに信長の葬儀を主導して内外に天下統一事業の後継者であるという印象を植え付けた。

 むろんこうした動きに秀吉に反発する者もいた。天正十一年(一五八三)その筆頭である織田家重臣の柴田勝家と抗争に及びこれを制した。勝家に勝利したことにより秀吉はいよいよ信長のやり残した天下統一事業を引き継ぐものだという印象を植え付け田である。

「いよいよ黒田様の言う通りになって来た。となればいずれは九州にも…… 」

 祐兵にとってはついえたかもしれない希望が急に浮き上がって来たのである。まるでふさがっていた道が急に切り開かれたかのようだった。


 祐兵は秀吉が天下統一を成し遂げると信じることにした。義祐はその決意のほどを知ると祐兵にこう言う。

「もはや伊東家のことはすべてお前に託す。私はもう口は出さない」

 そう言って完全に隠居した。そして

「もはや気ままな身だ。この上は旅でもして皆の迷惑にならぬようにしよう」

と言って旅に出ようとした。だが祐兵としては流石に老齢の父に一人旅をさせるわけにはいかない。そこで家臣の黒木を同行させることにする。

「私は一人旅の方がいいのだが」

 少し不満げな義祐であったが祐兵が

「旅先で何かあっては私も家中の皆も悲しみます」

と言ったので了承した。

 その後天正十二年(一五八四)義祐は黒木と共に中国地方へ旅に出る。この頃秀吉は主筋である信長次男の信雄とそれと同盟している徳川家康と対立していた。すぐに合戦になるだろうという噂であったので祐兵も準備に取り掛かる。

「まあ父上のことは黒木もいるから大丈夫だろう」

 そう判断して気にしていなかった。

 やがて秀吉は信雄と家康と対立し合戦に及ぶ。だが戦上手の家康に翻弄され兵力では上回っていたが緒戦では敗北を繰り返した。祐兵も秀吉に同行して戦うが翻弄されてしまう。

「徳川家康という方は大層な御仁だ」

 感心する祐兵。結局秀吉と信雄、家康同盟との戦いは決着がつかず、信雄は兎も角家康に配慮するような形での講和となった。

 この頃伊東家でも大変な事態が起きる。何と義祐につけていた黒木が一人で帰って来たのだ。何でも周防(現山口県)で義祐に撒かれてしまったらしい。平伏して謝罪する黒木だがもはやどうしようもない。祐兵としては無事を祈るしかない。

 それから年が明けて天正十三年(一五八五)秀吉は紀伊(現和歌山県)や四国などを平定して天下統一を進める。七月には関白に就任して天下に号令する立場となった。そしてこの七月末についに義祐が見つかる。何と義祐は病み衰えた姿で祐兵の屋敷のある堺の砂浜に捨て置かれていたという。それをたまたま祐兵の家臣が知り保護したらしい。何でも堺に向かう船で病気にかかり面倒ごとを嫌った船頭に砂浜に捨て置かれたそうだ。

 祐兵は急いで義祐に会いに行く。幸いまだ生きていた。義祐は祐兵を見るとこう言った。

「最後まで面倒をかけた。済まぬ」

 そう言って伊東義祐は息を引き取った。一度は伊東家の最盛期を作り上げ、そして衰退させた男のなんとも切ない最期であった。享年七三歳。

「最期まで私たちを振り回して」

 祐兵は涙ぐみながら眠っているかのような父の亡骸に言うのであった。


 義祐が亡くなった翌年の天正十四年(一五八六)祐兵にとって待望の時が来た。この年豊臣姓を賜った秀吉は九州への出陣を表明する。名目は大友宗麟の救援と秀吉の調停を拒否した島津家であった。

 祐兵は宗昌から届く情報を逐一秀吉に伝えている。この時大友家はいよいよ本国である豊後を攻撃されていて、大友家臣の佐伯惟定に仕える宗昌も奮戦しているようだった。

「お爺様。宗昌は相変わらず暴れているようです」

「そのようですな。流石は伊東家随一の武辺者」

「しかし大友家全体ではだいぶ押し込められているようですね」

 宗昌からの手紙には自分は惟定と共に小勢で島津家を打ち破ったこと、一方でほかの戦線は劣勢で全体的には追い詰められているという事が書かれていた。

「宗昌は踏ん張っている。早く助けに行かなければ」

 そんな祐兵の心情を知ってか秀吉から命が下った。

「毛利や長宗我部たちを先陣として出陣させる。お主は軍鑑の黒田官兵衛に同行し先導役を務めよ」

 願ってもない命であった。

「行くぞ! 我らの領地を取り戻す! 」

 祐兵は勇躍して出陣の準備を進めるのであった。


 祐兵は少数であるが兵を連れて出陣した。尤も主力となるのは毛利家の軍勢である。祐兵に求められているのは主に道案内なのだから当然と言えるが。

 九州に向かう道中、祐兵は官兵衛を称賛した。

「官兵衛殿のおっしゃったとおりです秀吉様は信長様の跡を継ぎ天下に号令をかけようと為されている。本当にお見事な慧眼です」

「何、気にすることはありませんよ。私は少しばかり先が見えるというだけの事」

「いやいや。それが神算鬼謀のゆえんなのでしょうね」

 祐兵は心の底から言った。それを感じ取ったのか官兵衛もニコニコしている。だが祐兵のはやる気持ちも感じ取った官兵衛は、急に表情を引き締めていった。

「此度の先陣は毛利殿や長宗我部殿に十河殿の四国勢。豊臣の直属の物は少数です」

「それは確かに。しかし皆歴戦の強者。心配はいらないのでは」

「毛利殿は兎も角四国勢は豊臣家に降った者たちで戦意は低い。それに長宗我部と十河はかつて争っていたもの。急にまとまるとも思えませぬ。そして軍鑑の仙石殿は武辺者ではありますが…… いささか功に焦る方ではあります。敵方に付かれる隙はありましょう」

 厳しい表情で言う官兵衛。祐兵の顔つきも緊張感のあるものに変わる。そんな祐兵に官兵衛は言った。

「翌年には秀吉様自らが御出馬されます。我らはそれを迎え入れるための準備をすることが目的。まずは大友家の救援を成しましょう。それが我らの成すべき命」

 ここで祐兵は官兵衛の言おうとしていることに気づいた。

「日向に向かうのはまだ先。しかし日向を取り戻すためには今少し辛抱しようという事ですね。承知しました。ご助言ありがとうございます」

 今度は落ち着いた様子で祐兵は言った。これに官兵衛も満足な表情で微笑むのであった。


 やがて豊臣軍の先陣が九州に上陸した。祐兵と官兵衛を含む毛利家を主体とした軍勢は豊前(現福岡県)に上陸する。一方仙石秀久を軍鑑とする四国勢は豊後に上陸した。それぞれ当地の大友勢の救援を目的として軍事行動を開始する。

 豊前はいまだ島津家の影響力が浸透しておらず、豊臣家の来襲にあたっていくつかの領主が降伏していた。一方で島津家に従う領主もいたので官兵衛は毛利家の毛利輝元と話し合い各城を一つずつ確実に攻め落としていく方針に決める。

「秀吉様が参られるのは年明け。それまでには豊前を取り戻しておきましょう」

 毛利家は当主の輝元だけでなく両川と称される輝元の叔父の吉川元春、小早川隆景などの名将も参戦していた。官兵衛は主にこの両者に戦いをゆだねる。

「あのお二方なら心配はいらないという事ですか」

「それもあります。まあ後は私があれこれ言ってもむしろ動きを鈍くするだけでもありましょう。各家には各家の軍法というものがあります」

「なるほど。では私も戦場では吉川殿や小早川殿の指示に従いましょうか」

「それが良いかと」

 これは豊臣家の直臣としてのプライドを捨てているともいえる。尤も祐兵としては確実に功をあげることが先決であった。そのためには無駄な諍いやもめごとは避けるべきと考えたのである。官兵衛も同様の考えであった。

 こうして毛利家主体とした豊臣軍は島津方の各城を攻略していく。祐兵も手勢を率いて奮戦し、宇津留城攻めでは功績をあげるほどであった。その後も各城を確実に制圧し豊前の大半は豊臣家の支配下に入る。

「これでひとまずは良し。あとは秀吉様の来援を待ち、豊後から南下していくのだろうな」

 一息つく祐兵だがここで信じられない報せが届いた。豊後方面の軍勢が島津家に敗れ劣勢だという。

「何があったのですか」

「仙石殿が功を焦った様で。今は何とか立て直し大友家の方々と共に持ちこたえているようです」

 官兵衛はため息まじりに言った。祐兵もあきれるばかりである。


 豊前を制圧した豊臣軍はそのまま越年することとなった。祐兵としては豊後に救援に行きたかったが、勝手な行動などできるはずもないのでここはこらえる。

「年が明け秀吉様が御出陣なされれば状況も好転しよう」

 今できるのは秀吉の早期到着を待つことだけである。そして年が明けて天正十五年(一五八七)三月に待望の秀吉の軍勢が到着した。秀吉は軍勢を二手に分け一方の総大将を弟の秀長に任せる。そして官兵衛や毛利家の軍勢は秀長の指揮下に入り豊後に入ることとなった。この動きにたいして豊後に攻め入っていた島津家の軍勢は日向に撤退する。

 戦わずして豊後を解放した秀長の軍勢は島津家を追撃すべく日向に攻め入ることとした。むろん先導を務めるのは祐兵である。そしてこれに山田宗昌が世話になっていた佐伯惟定もどうこうすることとなった。ここで祐兵と宗昌も久々の再会となる。

「祐兵様! いやあこんな大軍を連れてこられるとは。やはり大したお方だ」

「私の力ではない。秀吉様のご威光のおかげだ」

 一方で祐兵は惟定にこれまでのことを感謝した。

「佐伯殿。宗昌だけでなく伊東家の旧臣に色々と目をかけていただいたそうで。本当にありがとうございます」

「いえいえ。むしろこの度の戦では宗昌殿たちに助けられてばかりでした。こちらこそお礼を申し上げたいくらいです」

 そう穏やかに言葉を交わすのであった。

 こうして合流した伊東主従は豊臣軍の先導を務める。そして日向の要所である高城を包囲すると根白坂に砦を築いた。根白坂は高城を救援する為に必ず通らなければならない要所である。つまりは救援に来るであろう島津家の軍勢をおびき出し壊滅させてしまおうというのが秀長の目論見であった。

 はたして秀長の目論見は当たった。島津家の軍勢は劣勢の挽回と高城の救援を企図し大軍で攻撃を仕掛けてきたのである。根城坂に籠る宮部継潤は兵力で上回る島津家の軍勢をうまくしのいだ。祐兵は官兵衛らと救援に向かおうとする。だが軍鑑の尾藤知宣は仙石秀久のような失態を恐れて根城坂砦への救援の中止を進言してしまう。そして秀長はこれを了承してしまった。

「兵力で上回っているのに御味方を見捨てるのか! 」

 憤る祐兵。だが納得していないのはほかの将も同じのようだった。そして秀長家臣の藤堂高虎は独断で出陣。これに宇喜多秀家家臣の戸川達安も同調し手勢を引き連れて出陣した。

 この動きを機敏に察知したのが黒田官兵衛と小早川隆景であった。

「手練れの宮部殿と藤堂殿なら島津の軍勢を翻弄できる。我らはそれを挟撃しましょう」

「承知した。この戦我らで終わらせて見せましょう」

 官兵衛と隆景は祐兵の先導で出陣した。いくら長い間は離れていたとは言え慣れ親しんだ生まれ故郷である。迅速な進軍ルートなど簡単に案内できた。さらに祐兵は合流した伊東家臣たちにこう檄を飛ばす。

「この戦で功を挙げれば我らの悲願、旧領復帰は必ずや成される。皆奮闘するのだ! 」

「「おう! 」」

 やがて軍勢は戦場に到着した。継潤と高虎、達安は兵力で劣るも奮戦し島津家の軍勢を翻弄していた。そこに二手に分かれた官兵衛、隆景の軍勢が挟撃を仕掛けたのである。予想外の攻撃を受けて島津家の軍勢は大混乱に陥った。

「今こそ旧来の仇を返す時! 皆敵をうちとれ! 」

 祐兵の号令と共に伊東家の家臣たちは討ち入った。これに官兵衛や隆景の旗下の兵たちも続く。混乱状態の中でまともに指揮もできなくなった島津家の軍勢は次々に討ちとられ武将も次々と落命した。

 やがて戦いが終わったころにはそこにあるのは島津家の将兵の遺体ばかりであった。豊臣軍の完勝である。

「我らの勝利だ! 我らは雪辱を果たしたのだ! 」

「「おおおおおおおおおおお! 」」

 祐兵の宣言に歓声を上げる伊東家の将兵たち。こうして祐兵一世一代の根白坂の戦いは幕を閉じた。この戦いをきっかけに島津家は降伏を選択し豊臣家の九州平定も無事に終わったのである。


 いつもならば五千字強ぐらいの文字数を目指しているのですが、今回はだいぶオーバーしてしまいました。また本当な九州征伐の戦後処理も描くべきでしたがそこまでやると長すぎるので根白坂の戦いまでとしました。

 さて今回の話でようやく祐兵は日向に帰還することができました。しかも天下人の家臣というおまけつきです。ついでに一時は世話になった大友家の救援も果たせたので御の字でしょう。しかしここから祐兵には様々な別の難題が待ち受けています。それらにどう立ち向かうのか。お楽しみに。

 最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では

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