伊東祐兵 伊東家再興記 第二章
一度は栄華を極めた伊東家だがそれもあっという間に崩れ去っていった。祐兵は家臣に促され城から脱出する。「いつか戻る」そう決意する祐兵だがその先にはまだ過酷な運命が待っていた。
佑兵は僅かな供を連れて佐土原城に帰還した。だが城内の空気は重苦しい。
「(やはり戦はうまくいっていないのだな)」
城内にいる者たちはみな死人のような目をしている。負傷している者も多かった。帰還した佑兵を見てため息をつくものもいる始末である。尤もこれも仕方なしと佑兵は考えたが。
「(逃げてきたのだ。仕方あるまい)」
佑兵は改めて自分のふがいなさを嘆く。だが自分まで意気消沈しては仕様がなかった。ゆえにあえて堂々と城を進んでいく。城の者に聞くと軍議が開かれているらしいからだ。軍議の場に意気消沈した姿で顔を出すわけにはいかない。
「(そこで何とか父上やほかの者たちと話し事態を打開せねば)」
やがて佑兵は軍議が開かれている場所にたどり着いた。そしてその光景を見て愕然とする。そこには義祐をはじめとして主要な家臣達が肩を落とし意気消沈した姿があったからだ。皆生気もなく佑兵にも気づいていないようである。これには佑兵も言葉もない。
やがて佑兵がいることに重臣の一人である長倉佑政が気付いた。
「す、祐兵様! ご、ご無事でしたか」
「…… ええ。城の者に逃がされ生き恥を忍んでまいりました」
佑兵がそういうと義祐は泣きだしながら抱き着いて来た。
「よくぞ…… よくぞ無事であった」
「父上。泣いている場合ではありませぬ」
「ああ…… そうだな。だがもう…… いかぬよ。ほとんどの者が島津に寝返っておる」
そう言ってから義祐は現状を話し始めた。飫肥城が包囲されてからさらに寝返る者が続出したらしい。最早まともに島津家と戦えるような状況ではない。そしてそれを悟った義祐と家臣たちはすでに決断していた。
「我らは佐土原を捨て豊後(現大分県)の大友宗麟殿を頼る。お前も共に来るのだ」
「父上…… それは家臣たちを見捨てるという事ですか! 」
怒る佑兵。沈黙する義祐と重臣たち。だが佑兵も状況を理解していた。
「…… 声を荒げて申し訳ありません。急ぎ準備をいたしましょう」
こうして佑兵は飫肥城だけでなく日向からも逃れることになったのである。
日向を脱出するにあたってもちろん多くは連れていけない。それに幼い慶龍丸やその弟、さらに義祐や祐兵の才女を含む女子供も連れていかなければならないのだ。大変な道中であった。それでも豊後まで逃げ延びなければ伊東家そのものが終わりである。
「ともかく今は生き延びることのみを考えるしかないか」
祐兵としては祖父の河崎祐長のことが気がかりであった。祐長は佐土原にはおらず別の城に籠って抵抗している。何とか脱出してもらいたかったが、現状を伝えることすらできない状態であった。
「お爺様には何とか生き延びてもらいたい」
そう考えた佑兵は信頼できる家臣にこのことを祐長に伝えるように命じ、祐長の下に向かわせた。
さて日向を脱出するべく佐土原を出た義祐達一行にさっそく苦難が降りかかる。脱出ルートにある財部城の城主の落合兼朝が裏切ったのだ。重臣でもある兼朝の離反に愕然とする義祐。だが原因は義祐にあった。実は義祐の寵臣が兼朝の嫡男を陥れて殺害していたのである。義祐はこの件を兼朝の嫡男に問題があったと聞いていた。実際はそれが間違いであることを今知ったのである。
「ああ、なんと愚かなことをしたのだ。最早生きていても仕様がない。儂は腹を切る」
自分の不明を知った義祐は嘆き悲しんでこんなことを言いだした。しかし今更な話である。祐兵は義祐を諫めた。
「今腹を切ったところで落合殿の怒りは収まりません。もう今は逃れることだけを考えましょう」
「しかし祐兵よ…… 」
「真に不明を恥じるのなら生き延びて落合殿の前で詫び、そのうえで腹を切るべきです」
まだ二十にもなっていない青年の祐兵にこう諭される義祐。しかし祐兵の言いたいことは分かったのか落ち着きを取り戻した。
「そうだな…… ここで腹を切るのならば兼朝のところに行って首をはねられるべきであるな。だがまだ死ぬわけにはいかぬのだ」
そう言って義祐は幼い孫たちを見た。少なくともこの子等を安全なところに連れていくことが今の義祐の為すべきことである。
「行くぞ祐兵。私はどうでもいいが伊東の家を残さねばならぬ」
「勿論です。それに家臣たちの為にいずれ日向を取り戻すためにも」
そう言って歩きだす伊東親子であった。
最短ルートを諦めた義祐たちは山中を通り豊後に向かった。むろん危険かつ厳しい道のりである。しかし島津の追撃を逃れるためにはこの道しかない。当然この道中で多くの脱落者が出た。豊後の大友宗麟の下に到着したときには佐土原を出た時の半分ぐらいの数になってしまっている。
それでも何とか目的地にたどり着き宗麟との面会にも成功した。義祐は必死で頼み込む。
「もはや我らは宗麟さまのお力に縋るしかありません。どうか島津を打ち払い日向を取り戻してくださいませ」
悲壮感に満ち溢れた姿で平伏する義祐。祐兵も平伏し頼み込む。
「日向には我らの家臣が多く残っております。皆を助けるためにもどうかお力添えを」
もはや伊東家には宗麟に縋るしかない。ここで追い返されれば終わりである。二人の必死の歎願に対し宗麟はこう答える。
「よろしい。お主らの願い聞き届けよう」
これを聞いた瞬間義祐は泣き崩れた。最早礼もできないようである。代わりに祐兵が例を言った。
「宗麟様のご温情、ありがたく思います」
これに対して宗麟は答えなかった。その表情はどこか尊大な雰囲気を感じる。祐兵は違和感を覚えるも何も言わず改めて平伏するのであった。
ともかくこうして伊東家は命脈をとりとめるのである。
義祐は豊後にわずかではあるが領地を与えられる。そこに祐兵ら一門や同行してきた長倉佑政などの家臣も暮らすことになった。また義祐の後を追い日向から脱出してきた家臣たちも合流する。
「お爺様。よく御無事でした…… 」
祐兵がそう言って迎えたのは祖父の河崎祐長であった。祐長はうまく海路を使って日向を脱出してきたのである。祐長の息子らも無事であった。そして脱出してきたのは佐長だけではない。祐長に続いて姿を現したのは色黒の快活な笑顔を見せる偉丈夫であった。
「祐兵様、ご無事で何よりです。これでまだまだ暴れられますな」
「宗昌も来たのか。よく来てくれた。日向奪還の戦の折にはお前も暴れてくれ」
「お任せを。この山田宗昌は薩摩の芋侍共に遅れなど取りませぬよ」
この剛毅な男、山田宗昌は伊東家家中随一の猛将である。今回も良く城を守り幾度となく島津家の攻め手を追い払っていた。
「二人ともよく来てくれた。父上も喜ぶはずだ」
「それはありがたき事。して大殿はどちらに」
この宗昌の言葉に祐兵は顔を曇らせる。これに気づいた祐長がすかさず訊ねた。
「大殿はまさかご病気に? 」
「いや、そうではないのだ」
祐兵はため息まじりにそういう。そしてため息まじりに話し始めた。
「宗麟様は日向に出兵し我らを助けることをお約束なされた。それは確かにありがたい。しかし妙なことを言い始めているらしい」
「妙なこと、とは? 」
「日向を切支丹の国にするとか…… 」
「何ですかい、そりゃあ」
訳が分からないといった顔をする宗昌。一方の祐長はあきれたような面持ちである。
「宗麟様が切支丹に大層傾倒されているという噂は聞いていました。しかしまさかそのようなことを考えておられるとは。しかし我らを日向に戻す事は約されているのですね」
「それはご承知されている。だがそのうえで日向に切支丹の僧侶を入れて寺を各地に立てると言っておられたそうだ。しかももともとあった仏門の寺は残らず壊して僧侶は追い出すらしい」
「それは…… 義祐様が気落ちなされるのもわかりますな」
「まああれだけ金をかけた寺を壊すと言われたんだからなぁ」
実は義祐は非常に仏教に傾倒していた。奢多な生活をしているときも日々念仏は欠かさなかったほどである。尤もその期間に寺の建立などにだいぶ金をかけていた。
「それと宗麟様は慶龍丸を気に入られたようで。切支丹の説法を聞かせているそうです。まあ、これは父上も佑政も伊東家の覚えがめでたくなるから仕方なしとしているようですが」
そう言って祐兵は再びため息ついた。はたから見ても気苦労がよくわかる。そんな若き主筋に思わず同情してしまう二人であった。
祐長と宗昌が合流してから数日後、年が明けて天正六年(一五七八)いよいよ大友家は日向への出陣の準備を始めた。これにあたり宗昌と佑政が先行して日向に入ることとなった。
少し前までふさぎ込んでいた義祐も意気揚々と言う。
「まだ島津家に抵抗している者がおるかもしれん。そうした者たちと共に島津の後方を脅かすのだ」
これに祐兵も同調した
「大友家の来訪を知れば勝機を感じてみな奮戦するだろう。それに島津に下った者たちの中から離反するものも出てくるかもしれん。そうなれば日向の島津家はおのずと敗れることになるだろう。そのためにはお前たちの戦ぶりが重要となる。頼むぞ」
今回の出陣に伊東親子は参戦しなかった。宗麟から不要と言われたわけであるが正直不服ではある。
「父上か私が行けば士気も上がろうというに」
祐兵は不満であったが仕方なしと呑み込んだ。現状大友家の指示には従わざる負えない。
そんな祐兵の不満を感じたのか佑政はこう言った。
「何もご心配なさることはありません。義祐様も祐兵様も豊後でごゆるりとしていてください」
長倉家は代々伊東家に仕えてきた家である。今の当主の佑政も伊東家への忠誠心の厚い真面目な人物であった。
「私の力は如何ほどのものでもないでしょうが、山田殿がおられれば心配はいりませぬ」
「そんなことは無いぞ長倉殿。貴殿のようなしっかりした方がおられるから俺も暴れようがあるのだ」
豪気に笑って言う宗昌。佑政も落ち着いた様子である。これなら大丈夫と義祐も祐長も納得した。
「二人とも、頼むぞ」
「「承知! 」」
こうして豊後から伊東家臣団は出陣した。この時はまだこの先に起こることを誰も予想できないでいる。
天正六年三月に大友家は大軍を率いて日向に侵攻した。これに先んじて日向に入った佑政と宗昌は日向の石城に入り挙兵している。これに呼応し日向の各地で伊東家の家臣達が島津家への攻撃を始める。続いて大友家の軍勢も日向に入り島津家に制圧された城を開放していく。
一方で大友家の軍勢は宗麟の命を受けて侵攻した地域の寺社仏閣をことごとく破壊し焼き払っていった。全ては大友宗麟の目指すキリスト教国の誕生のためである。だがこれらの行動は仏教や神道を侵攻している大友家臣たちの士気を下げる結果にもつながっていた。尤もそれでも大友家の軍勢は圧倒的であり次々と日向を制圧していく。
石城に入った伊東家の将兵も奮戦していた。七月に島津家はおよそ七千の兵で石城を攻める。これを伊東家の六百の兵が迎え撃ちみごとに撃退した。この戦勝は豊後の祐兵たちの下にも届けられる。
「佑政と宗昌がやってくれたようです」
「ああ。本当に儂にはもったいないよき家臣だ」
義祐、祐兵親子は涙を流しながら喜んだ。憎き島津家を兵力で劣るにもかかわらず言激したというのはずいぶんと溜飲を下げられることでもある。
だがその後宗麟が日向に入ると大友家の軍勢の動きが止まった。佑兵はこれを知ると焦り始める。
「石城の戦勝もあるだろうに攻め込む機会ではないのか。島津家の援軍がいつ来るかもわからないというのに」
実際九月に入ると島津家は本国から援軍を送り戦力を増強した。そして今度は一万の大軍を以て石城に攻め入る。これに対し宗昌も佑政も奮闘するが兵力差もあり九月の終わりには講和を受けて開城した。城を出た伊東家の家臣たちは豊後に帰還する。祐兵はこれを温かく迎え入れた。義祐は敗戦の報を受けて引きこもってしまっている。
「よくやってくれた。戦は時の運。こればかりはどうしようもない」
祐兵の温かい言葉に涙ぐむ伊東家の家臣達。ここで祐兵はあることに気づいた。
「佑政がおらぬ。どうしたのだ」
まさか討たれてしまったのか。そう不安になる祐兵。そんな祐兵に宗昌はこう答えた。
「長倉殿は開城の責は自分にあると。こうなれば戦で挽回すると言って大友家の軍勢に合流しました。責は俺や皆にもあると言ったのですが」
「そうか…… それにしても大友家からの援軍は来なかったのか」
「はい。七月の時すぐに援軍を呼んだんですが」
それを聞いて不安になる祐兵。そしてこの不安は的中する。十一月、島津家の高城を包囲していた大友家の軍勢が島津家の軍勢と合戦に及んだ。この戦いで大友家は大敗し、日向から徹底する。
大友家が豊後に撤退した後で祐兵は佑政の消息を知った。ある大友家の家臣曰く、
「高城の戦いに参加されていました。ですが負けを悟るとその場で腹を召されたそうです」
とのことらしい。祐兵は返す言葉もなかった。
今回の戦いで大友家は多くの家臣を失い勢力を衰えさせた。そして伊東家の日向回復運動もここで頓挫してしまうのである。
今回の大友家と島津家の戦いは現在耳川の戦いと呼ばれています。戦国時代に詳しい方ならご存じでしょうがこれをきっかけに島津家は九州の制覇に向けて飛躍していきます。ですがその裏には伊東家の日向復帰の望みが絶たれた戦いでもありました。そして大友家から見れば多くの家臣を失った戦いであります。一つの戦いにも様々な立場がありそれぞれのドラマがある。これこそが戦国時代の面白さともいえるかもしれませんね。
さて大友家の敗戦により今後の先行きさえ見えなくなった祐兵たち。ですがこの後思いもよらぬ運命をたどります。一体何が起こるのか。お楽しみに。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では




