伊東祐兵 伊東家再興記 第一章
日向(現宮崎県)の武将、伊藤祐兵の物語
戦国時代日向の地は守護である島津家と有力な領主である伊東家が激しい争いを繰り広げていた。その戦いで生まれたのが伊東虎熊丸。後に伊東祐兵と名乗り伊東家中興の祖とたたえられる人物である。
日向(現宮崎県)の伊東家の歴史は鎌倉時代までさかのぼる。鎌倉幕府から日向の地頭職を与えられ下向したのがその始まりであった。従って相応に由緒のある家ともいえる。
室町時代を経て戦国時代に入ると伊東家も日向でそれなりの勢力を持つ家になっていた。とは言え室町幕府が認めた正式な日向の守護は島津家である。室町幕府の下の伊東家は特に役職も与えられていない一領主といった感じであった。むろんこれが伊東家には面白くない。
「いつか島津家から日向の守護を奪い取り我らが日向の主となるのだ」
そんな悲願を胸に生きてきた。
さて伊東家十一代当主の伊東義祐もその悲願を胸に秘めている。
「今の島津は内々でもめている。これを逃す気はない」
義祐は英明な人物で将としての素養も高かった。そんな義祐の指揮の下で伊東家は島津家で日向の統治を担っている分家の豊州家との戦いに明け暮れる。
そんな闘いの日々の中で生まれたのが虎熊丸である。虎熊丸は永禄二年(一五五九)の生まれで義祐の次男であった。母は伊東家の譜代の重臣河崎祐長の娘。そして十歳以上年の離れた兄の義益がいた。
虎熊丸の誕生の翌年義祐は家督を義益に譲る。尤も実権は握っており島津家との戦いに集中するためというのが主な理由であった。義益も英明であったため家中はうまくまとまり義祐の戦いも順調に進む。やがて義祐は豊州家にとの戦いも優位に進めていった。
虎熊丸は物心ついた時からそんな父の活躍を見ていた。
「いつか私も父上や兄上のお役に立ちたい」
そんなことを言う虎熊丸に祖父である祐長は優しく言った。
「ならば文武ともに身につけましょう。虎熊丸様が立派な侍になれば皆が幸せになります」
「分かりました。お爺様」
こうして祖父の後見の下で成長して行く虎熊丸。
やがて永禄十一年(一五六八)に義祐は豊州家が治める飫肥城を攻めこむ。飫肥城は元々伊東家の城であったが豊州家に奪われていたものである。それゆえに奪還に賭ける義祐をはじめとした伊東家の人々の思いは強かった。
「必ずや飫肥城を取り戻す。それこそが伊東家が日向に覇を唱えたことの証となるのだ」
義祐の号令の下攻め込む伊東家の将兵たち。豊州家も必死で抵抗する。こうして両軍総力を挙げた戦いが行われた。戦いは飫肥城奪還を目指す伊東家の将兵の奮戦により伊東家の勝利に終わる。そしてついに飫肥城を奪還したのであった。
飫肥城を奪還した義祐は何と城主を虎熊丸にした。
「おまえも伊東家の侍としてこの城を守っていくのだぞ」
「はい。父上」
当時虎熊丸は九歳である。だがそれでも義祐が虎熊丸を城主にしたのはいずれ伊東家を背負って立つ存在になってほしいという事なのだろう。実際虎熊丸は伊東家を背負って立つ存在になる。だがそれは虎熊丸、ひいては伊東家が過酷な運命に立ち向かうことになるという事でもあった。
飫肥城を手に入れた伊東家は日向に四八もの城を構えた。後に伊東四八城と呼ばれたこの城は伊東家の繁栄を内外に示すものであった。
この伊東家の繁栄に誰よりも上機嫌なのは隠居の義祐であった。
「あとのことは義益に任せればいい。隠居の儂は今までできなかったことをしようか」
そう考えた義祐は自分の城である佐土原城や城下町に京の文化をどんどん取り入れていく。自身もそうした文化を学んでいった。
「大殿もご苦労成されてきたのだ。隠居されたのだから少しは羽目を外しても良かろう」
最初は伊東家の家臣たちもそう考えていた。だが義祐はどんどん今日の文化に傾倒していき、それに従って佐土原城の将兵たちから覇気が失われて生活は奢多になっていく。こうした状況に家臣たちは早くも危惧を抱いていった。一方で家督を継いだ義益は変わらぬ英明さで伊東家を運営している。そのため
「義祐様はもうだめだ。だが義益さまがおられれば大丈夫だろう」
「ああ。あの方なら伊東家をさらに大きくさせることができるはず」
と言い出した。
こうした状況下に危機感を募らせているのが河崎祐長であった。祐長は義祐から家臣たちの心が離れつつあることを知り、義祐に諫言する。
「多少の芸事は構いませぬ。しかし侍の本分を忘れてはいけませぬぞ」
だが義祐には届かなかった。
「もう家のことは義益に任せている。儂が何をしようと関係あるまい」
「義益さまはまだお若い。義祐様がお助けにならねばならぬ時もありましょう。それをお忘れになってはいけませぬ」
「もうよい。帰れ」
この後も義祐は変わらなかった。むしろ以前よりますます京文化に傾倒し始める。
そんな中で思いもよらぬ悲劇が伊東家を襲った。飫肥城を攻め落とした翌年の永禄十二年(一五六九)当主の義益が急病でこの世を去ったのである。これが伊東家の崩壊の序曲になるのだが、幼い虎熊丸はまだそれに気づいていない。
義益には子がいた。しかしまだ二歳である。とてもではないが当主の務めを果たせるはずもない。さらに義益の兄弟は虎熊丸ぐらいでまだ十歳であった。こちらも当主としては幼すぎる。従って隠居していた義祐が再び当主の座に就き義益の嫡男の慶龍丸の成長を待つこととなった。
伊東家家中では義祐への不安が渦巻いている。
「今の覇気をなくされた義祐様で大丈夫なのか」
「義祐様にかつての器量は無い。そんな有様で大丈夫なのだろか」
こうした不安を知ってか知らずか義祐は当主の座に復帰する。
「私が戻った以上、伊東家は安泰である」
自信満々に言う義祐。だが事態は切迫し始めた。勢力を回復した島津家の宗家が日向を手に入れるべく攻勢を仕掛けてきたのである。
むろん義祐はこれに対応するも昔日の勢いはなかった。何とか領地を守るのが精いっぱいである。こうした義祐の姿を見て伊東家や日向の領主たちの義祐への不安がますます強くなっていった。
こうした情勢下で虎熊丸は家臣に支えられて飫肥城をよく守った。虎熊丸は義益に劣らず利発であり、祖父の祐長が厳しくも暖かく指導したので伊東家の一門としても一条の主としてもふさわしい器量を備えつつあった。尤もまだまだ幼く独自に何かできるような状態ではない。
「早く父上や慶龍丸を助けられるようになりたいな。そのためには文武どちらも必要だ」
自分なりに先を見据えて考える虎熊丸。だが伊東家の状況は虎熊丸が成長できる時間を持てるほどよくなかった。そして元亀三年(一五七二)義祐は島津家のとの戦いで大敗を喫する。しかも相手は十分の一の兵力であった。この敗戦をきっかけに伊東家の崩壊が始まるのである。
伊東家が大敗した後に虎熊丸の元服の儀式が行われた。沈んだ戦意を何とか浮上させようという事である。尤も祐兵自身はこのタイミングでの元服に困惑しているようだった。
「お家の大事がかかった時期に、このようなことをして良いのだろうか」
佑兵なりにこの状況を心配してのことである。だがこれを祖父の河崎祐長は優しく諭した。
「むしろこれを機に佑兵様が伊東家の一翼を担ってもらおうという事なのでしょう」
「そうか。ならば私も努力せねばならないな」
そう誓っても祐兵はまだ十代前半の少年である。家臣に支えられて飫肥城を維持するのが精いっぱいであった。だがその間にもどんどん伊東家の勢力は衰えていく。義祐は大敗したにもかかわらず変わらず奢多で惰弱な生活を送っていた。こうした義祐の姿に家臣の心はどんどん離れていく。そうした義祐に失望した家臣の一人に米良矩重がいた。矩重は先だっての大敗で兄を失っている。その際に兄の遺領を継承するが以前まで治めていた領地は没収されてしまった。これに不満を思っていたのである。
「以前の義祐様ならこれも致し方なしと承知しよう。だが今の義祐様のなされることなど信じられん」
こうした不満はほかの家臣にも蔓延していった。そうした状況を義祐は特に気にせずお気に入りの家臣ばかり手元に置いている。祐兵は家臣に守られているばかりでどうすることもできなかった。それでも何とか領国を維持できていたが天正四年(一五七六)島津家三万の大軍が伊東家の高原城を攻撃する。この城の城主を務めるのが長倉佑政であった。佑政は義祐からの信頼も篤い篤実な人物である。そんな佑政の危機にさすがの義祐も動いた。
「何としてでも佑政は助けなければならん」
そう言って義祐は自ら軍勢を率いて出陣する。だがいざ高原城を包囲する三万の軍勢を目の前にするととんでもないことを言いだした。
「これでは勝てん。戦っても無駄に死ぬだけだ」
そう言って撤退してしまったのである。佑政は何とか城を守りきろうとするが包囲され水の手も断たれてしまったので降伏し、佐土原に退去した。
義祐の醜態を知った矩重はいよいよ決断する。
「もはや義祐様を頼ることは出来ない。この上は米良の家を守るために島津家に降ろう」
矩重は島津家に降伏し領地を安堵された。この動きはほかの家臣達にも波及しさらに多くの家臣達が降伏する。だがこうした事態にもかかわらず義祐は相変わらずの生活をつづけた。この状況に祐兵は歯がゆさを覚えるばかりである。
「お家の大事の時に私は何もできないのか」
嘆く祐兵。だがここから事態はさらに悪化する。
天正五年(一五七七)伊東家の南の守りの要である櫛間城島津家に攻め落とされた。流石にこの事態には危機感を覚えたのか、義祐は祐兵に櫛間城の奪還を命令する。
「やっとお家の危機に役立てる時が来たのだ。必ずや櫛間城を取り戻して見せる」
意気軒高の祐兵であるが部下の将兵たちは内心不安であった。
「攻められている城を助けるのではなく攻め落とされた城を取り戻せとは。しかも我らだけで」
「正直勝ち目は薄かろう。何とか佑兵様だけでも守らなければ」
皆勝ち目は薄いと考えている。だが佑兵を守ろうという気概だけは本物であった。
佑兵に率いられて出陣した軍勢は櫛間城に向かうだが途中で迎撃の為に出てきた軍勢と鉢合わせした。兵力は島津家の方が上で勝ち目は薄い。すかさず家臣の一人が佑兵に進言した。
「敵の数が大うございます。ここは退き飫肥城に籠るべきです」
「何を言うか。ここで阻まねば島津はますます勢いづいて伊東家の城を攻め落としていくぞ。そうなれば我らもお家も助からぬ」
「ですが我らの手勢だけではどうしようもありませぬ! 」
そう強く言われて佑兵は黙った。そしてほかの家臣を見ると同様の考えのようである。ここで佑兵はあることを思い出した。
実は出陣に先立って祖父の祐長から手紙をもらっていたのである。そこにはこう書かれていた。
「佑兵様はまだ戦慣れしておられませぬ。ゆえにまずは家臣の言に耳を傾けてください。その上で己の為したいことがあれば皆が納得できるように、かつ落ち着いて伝えるようにすること。これこそが将たるものの行いです」
佑兵は祐長の手紙に書かれたことを思い出して静かに言った。
「皆のいう事、よくわかった。だが一戦も交えぬとなれば敵が勢いづくのも必定。敵も城攻めの疲れが残てっているだろう。ここは一撃加えてすぐに城に退き、籠城するというのはどうだろうか」
思った以上にしっかりとした佑兵の物言いに家臣たちは驚く。するとさっき撤退を進めた家臣が出てきてこう言った。
「それはよい考えです。ですが佑兵様は後ろにおられてください。御身に何かあれば大殿に申し訳尽きませぬ」
「それは…… いや、いい。承知した」
大将が前に出ないのはどうなのだろうか。そう思ったが彼の言っていることはもっともだったので納得した。そして佑兵の軍勢は手はず通り島津家の軍勢に攻撃を仕掛けた。敵も激しく抵抗する。激しい戦闘になりかけるが頃合いを見て佑兵たちは撤退を始めた。すると敵は追いかけてこない。
「やはり先だっての城攻めの疲れが残っていたのか」
ここは祐兵の読み通りだった。すぐさま飫肥城に戻ると籠城を始める。
「父上に申し訳立たぬな」
気を落す佑兵だが誰も責めなかった。そもそもの原因が義祐の采配ミスという側面が強い。
それからしばらく佑兵は籠城を続けた。何とか持ちこたえていたが外から入ってくる情報は伊東家に不利なものばかりである。正直援軍も期待できない状態であった。こうなってくると佑兵も覚悟を決める。
「この上は私の首を差し出し城の者の助命を頼むとしよう」
こんなことを言いだされて黙っている佑兵の家臣ではない。彼らはみな佑兵を主君と仰ぎ慕っていたのである。
家臣たちは話し合ってこう決めた。
「何とか佑兵様にはこの城を脱してもらい佐土原に逃れてもらおう」
この家臣たちの考えに佑兵は反発する。
「お前たちを残して逃げられるか! 」
珍しく怒鳴りつける佑兵。だが家臣たちの決意は固い。
「ともかく佑兵様が生きてくだされば我らも満足なのです。どうかお逃げください。我らの為に」
家臣たちは必死で佑兵に頼み込んだ。こうなっては祐兵もどうすることもできない。
「分かった。皆の言う通りにする。本当に済まぬ…… 」
「お顔をあげてください。これが皆の意思なのですから」
「それでもだ。何と情けない城主か…… 」
嘆きながら佑兵は僅かな家臣と共に城を出た。
「必ずいつか戻ってくるぞ」
そう誓う佑兵。その誓いが果たされるのはいつか。
皆さんご無沙汰しておりました。一週間ぶりの投稿となります。今後もよろしくお願いいたします。
さて新章は九州の伊東家の出である伊東祐兵が主人公となります。九州は島津、大友、龍造寺の三勢力が著名で伊東家の知名度はそれほどではないと感じています。ですがそうした家にもものすごくドラマチックなストーリーがあることも多く、この祐兵はまさしく波乱万丈の人生をたどりますのでお楽しみに。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では