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戦国塵芥武将伝  作者: 高部和尚
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稲葉貞通 軽妙か軽薄か 第七章

 豊臣秀吉の手で収まった天下はほかならぬ秀吉の手で崩壊に向かい始めた。その中で天下を手に入れんとするもの、豊臣の世を残そうとするもの。様々な人々の思惑が動く中で貞通はどのような道を選ぶのか。

 慶長三年(一五九八)豊臣秀吉がこの世を去った。これを機に朝鮮出兵は中止となり渡海していた武将たちも帰還する。豊臣氏の後は嫡男の秀頼が継いだがまだ六歳であった。

「三法師様が織田家の跡を継いだ時は三歳であった。それに比べればましか」

 一人そんな皮肉を言う貞通。尤もこの先の権力者たちの争いがさして変わらぬだろうという事はもちろん理解している。

 秀頼が当主になった後は徳川家康をはじめとする有力大名たちの五大老と、石田三成ら豊臣政権の実務を担っていた五奉行が協議して政権を担っていくことになった。だが朝鮮出兵や秀次の事件で内部に巨大な亀裂が生じていた豊臣政権がまともに活動するわけもない。徳川家康は権力の強化を図り独自の行動を始め石田三成らもそれに対抗すべく工作を始めるのであった。

 こういう状況になってくると色々と対応を迫られるのが貞通のような小大名である。彼らは独自に行動できるほどの勢力も持たない。だがよほどの縁がなければ積極的に勧誘されるという事もなかった。従って周囲の情勢を見極めて自分の道を選ばなければならない。

「本能寺の変の折の父上のようにはいかないかな」

 今は無き良通は本能寺の変の折に美濃への賢然たる影響力を持って独自の活動をしていた。しかし今の稲葉家にそんな力はない。貞通も無理だと分かっている。

「いかんともしがたいな。兎も角御家第一で生きていくしかないか」

 難しい状況に頭を悩ませる貞通であった。


 豊臣政権内部での徳川家康の権力の拡大は着々と進んだ。家康は大阪城に入りほかの大老の力を削ぎつつ、反発していた五奉行の石田三成を隠居させるなどして権力を確立していった。こうした動きは貞通にとってはありがたいものである。

「このまま徳川様が実権を握りその力で天下が治まっていくのならそれでいいのではないか。その方が戦も起きず安寧に過ごせるというものだ」

 もしかしたら当時の大名の多くはそう考えていたかもしれない。だがそうは思わないものもいる。特に五大老の上杉景勝は家康を警戒していた。だがそれは家康も同じである。そこで家康は景勝が領地で城の築城などを進めていることを合戦の準備として釈明のための上洛を要求した。一方景勝は家康への警戒心からこれを拒絶する。これを家康は豊臣氏への反逆として慶長五年(一六〇〇)上杉家の討伐を決定した。

 こうしたあわただしい動きに関して貞通は特にかかわりのない立場であった。しいて言えば三男の通孝が討伐軍に参加しているぐらいである。

「いよいよ上杉殿が討たれれば徳川様の天下か。この戦で通孝が武功をあげれば稲葉家の覚えもめでたくなるか」

 せいぜいそんなことを考えているぐらいであった。ところが家康が討伐軍を引き連れて江戸に入った数日後とんでもないことが起きる。何と隠居していた元五奉行の石田三成が挙兵したのだ。さらに五大老の毛利輝元が上洛し大阪城に入ると奉行たちは連名で家康を弾劾する檄文を各大名に配ったのである。

 この書状は貞通の下にも届いた。

「これは…… とんでもないことになるぞ」

 貞通は震えながら書状を読んだ。それは戦いへの恐怖からでも武者震いからでもない。余りにも思いもよらぬ重大な決断を突如迫られたからである。つまり

「どちらに着けば稲葉家を守れるか」

という事であった。


 三奉行による家康弾劾状は多くの大名の下に渡った。しかしすべての大名が輝元、三成に味方したわけでない。そもそも三奉行のうち増田長盛はひそかに家康と内通し、前田玄以は家康、輝元のどちらにも与せずあくまで秀頼の身辺の警護のみを受け持っている。三成に明確に味方しているのは長束正家だけであった。弾劾状を受け取った大名の中にも家康に与するものもいるし家を分けて両軍に味方する者もいる有様である。

 貞通としては一番穏当な道を選びたい。だが皮肉にも美濃の地は関東から畿内に入る直前の地である。こういう要所に領地をもつものが日和見や中立を保つのは難しかった。そんな中で家康の軍勢に従軍していた通孝が戻ってくる。

「家康様は江戸にとどまる御様子です」

「そうか。上杉殿がどう動くかわからぬものな」

 通孝の情報を信じるなら家康が早々と畿内にやってくる確率は低い。となると家康方、東軍より輝元、三成方、西軍の方が有利にも思えた。さらに岐阜城の織田秀信は西軍につく姿勢を見せている。美濃の中で最大の領地を誇る秀信が西軍に着くとなるともはや選択の余地はなかった。

「我らだけで秀信様を相手にはできん。他の方々も三成殿に味方するようだしな」

 貞通は西軍に加担することにした。とは言えまだまだ油断はできない。貞通は典通を呼び戻してこう言った。

「こういう時は何が起こるかわからん。特に秀吉様の時代に領地を失ったものは復活を目指して動くだろう。ここは協力して事に当たるぞ」

「承知しました」

 こうした貞通の読みは当たることになる。しかも稲葉家にとって厄介な形で。


 貞通の考えていた通りに失った旧領復活の為に参戦を決めた武将もいた。その一人に遠藤慶隆がいる。慶隆はかつて八幡城の城主であったが秀吉の不興を買い城と領地を没収されていた。そしてその後釜に入ったのが貞通である。八幡城やその周辺は遠藤家の代々の領地であった。そのため何としてでも旧領に復帰したいという思いが強い。

「何とかこれを機に稲葉殿から八幡城を取り戻したいものだ」

 そんな慶隆だが今回の騒動の折に織田秀信から西軍への参加を持ち掛けられた。

「我らが勝てば領地は思いのままであるぞ。旧領も取り戻せるかもしれない」

 秀信はこう言ったが慶隆は信じなかった。それもそのはずで慶隆は貞通が西軍に加担していることを知っている。もし貞通と共に戦ったとして、貞通がどこか別の領地にでも行かない限り八幡城を取り戻すことは出来ないのだ。さらに慶隆の耳にこんな情報が入る。

「稲葉殿は犬山城に入って進軍を阻む役割か。ならば八幡城は手薄なはず」

 ここで慶隆は東軍参加を決めた。おりしも婿で飛騨に領地を持つ金森可重も東軍につくつもりのようである。

「これを機に八幡城を取り戻す。そして遠藤の家を再興するのだ」

 このまたとない機会に意気をあげる慶隆。一方の貞通はまだ危機が迫っていることを知らない。


 遠藤慶隆は金森可重と共に八幡城向けて出陣した。一方の貞通は犬山城で福島正則からの密書を受け取っている。内容は東軍への参加を進めるものであった。

「福島殿は家康様に付くのか。これはいかんな」

 福島正則は秀吉の子飼いの家臣である。その正則が秀吉への忠義のためという大義の弾劾状を無視したという事は、あの弾劾状がそれほどの効力を持っていなかったという事でもあった。

「これは東軍に勢いがあるようだ。ここは正則殿の勧めに乗るとしようか」

 貞通は西軍を離反することを決めた。ところがここで八幡城に残っていた通孝から敵が迫っているという情報が届く。しかも東軍に加担している遠藤慶隆だという。これを聞いて貞通は焦った。

「慶隆殿の願いは旧領復帰に決まっている。慶隆殿が先に東軍に所属していたのだから城を落されれば奪われる」

 急ぎ貞通は八幡城に帰還することにした。犬山城の西軍の将たちには

「自分の城が東軍に攻撃されている。ここを落されれば後背が危ういので城に戻りたい」

と言った。諸将のこれに納得したので貞通は無事に犬山城を抜け出すことができた。

 そのころ八幡城は通孝が奮戦し何とか城を守っていた。しかし慶隆の軍勢の方が多いうえに旧領復帰に向けて意気も高い。だが慶隆の軍勢も少なくない犠牲を出していた。そこで慶隆は可重と相談して通孝と和睦することにした。

「ここは貞通殿が戻ってくる前に和睦してしまおう。この状況なら城を明け渡すかも知れない」

「そうですね。それがよろしいでしょう。通孝殿も思いのほか戦われる」

 二人は城の将兵の身の安全を条件に和睦を提案した。通孝もこれ以上の戦いは不可能と感じてこれを受ける。こうして和睦が成立した。

 ところがここで貞通が八幡城の近くまで帰還する。貞通には城が攻撃されていると追う情報しかない。そして慶隆の軍勢が控える愛宕山までは近かった。

「よくわからないが慶隆殿の軍勢の警戒は薄い。我らがここまで早く戻ってくるとは思っていなかったのだろう」

「これは好機です父上。ここで慶隆殿を討って通孝を助けましょう」

 典通も興奮気味に言う。貞通も気分が盛り上がっていた。それほどの好機であったのである。貞通たちは一気に愛宕山に攻め込んだ。

「何だ?! 何が起きたのだ?! 」

 慌てる慶隆。ここまで早く貞通が戻ってくるとは思っていなかったのである。兎も角思いがけぬ攻撃を受けた慶隆は命からがら可重の下に逃げ込んだ。

 一方奇襲を成功させた貞通は意気揚々と八幡城に入った。だがここで通孝から衝撃的な事を告げられる。

「申し訳ありませぬ父上。すでに先日遠藤殿と和睦し、城を明け渡すことになりました。それと家康様は八幡城一円を遠藤殿に安堵するとお伝えしたようです」

「な、何だと。これはいかん」

 貞通は慌てた。もしこのまま慶隆を追い払ったら東軍や家康に対する敵対行為になる。貞通は急いで慶隆に書状を出した。内容は和睦の提案お呼びお詫びである。

「今回の事、知らぬこととは言え申し訳ないことをした。仔細は通孝より聞いた。今は我らも家康様に味方する身。そのご指示を無視するわけにはいかない。よってすぐに城を明け渡し我らは出ていく。本当に申し訳ない」

 要するに重ね重ねの謝罪と降伏の提案である。これに可重は怒った。

「あのようなことをしでかしておいて何を言っているのだ。せめて腹でも切ればいいだろうに。何とばかげたことを」

 一方の慶隆は呆れこそすれ怒ってはいない。故に冷静な判断した。

「先だって稲葉殿が家康様に味方したという情報が入った。我らの攻撃を中止する命令も出ていたらしい。今から戦えばそれに背くことになる。それに先だっての戦いで我らも相当の痛手を受けた。向こうが城と領地を明け渡すというのならばそれを受けよう」

 慶隆の言っていることは正論である。可重も和睦を受け入れることにした。

 こうして和睦は成立し貞通たちは城を明け渡した。典通は貞通に尋ねる。

「これからどうするのですか」

「正則殿が一度長島城に入るようにと言われた。おそらくそこで家康様の裁定を待つのだろうな。ああ、しかし父上に会わす顔がないな」

 稲葉家一同は浮かない顔を長島城への道を急ぐのであった。


 長島城で待機していた貞通たちの下に東軍が関ヶ原で行われた決戦で勝利したという連絡が入った。これに典通は慌てる。

「戦が終ってしまえば挽回する機会が失われてしまう」

 一方の貞通は落ち着いていた。というか諦めている。

「(何とか典通か通孝に家督を継がせ稲葉家の家名だけでも残せないか)」

 もはや自分はどうなってもいいから息子たちと稲葉家だけは助からないかと考えている。すると家康からの命令が届いた。

「長束正家の籠る水口岡山城を攻め落とせ」

 この命令が届いたとたんに稲葉家の面々の意気は上がった。そしてすぐに出陣の準備を整え水口城に向かう。そしてほかの面々と合流した貞通たちは水口城を一気に攻め立てた。全ては家名存続のためである。

「長束殿には悪いがこれも戦国の世の習い。我らの功になってもらう」

 敗戦の痛手がまだ残る正家たちはほどなく降参し捕らえられた。そして切腹をしてこの世を去る。

 その後論功行賞が行われた。八幡城は当然のことながら慶隆に与えられる。むろんこれに異を唱える貞通ではない。

「遠藤殿は己の道を迷わず決めて結果を出したのだ。土壇場で選択を曲げた私がとやかくいう事ではない」

 堂々と言う貞通に姿を見た慶隆は

「なるほど。さすが武名の高い稲葉家の御仁だ」

と、恨みを忘れ称賛した。尤もこの時の貞通の内心は不安しかない。

「(稲葉家はどうなるのだ。息子たちはどうなるのだ)」

 この先への不安に乱れる心。今できるのはそれを何とか表に出さずにすまし顔でいることぐらいである。

 やがて貞通にも沙汰が下る。その内容は

「豊後(現大分県)の臼杵に加増の上転封とする」

であった。貞通は困惑した。そして思わず使者に聞き返す。

「加増、と聞こえたのですが」

「その通りです。先だっての城攻め、ご先代の良通殿の武名にも負けぬ見事なものであったと家康様の仰せです」

「そ、それはありがたき幸せ…… 」

 まさかの嬉しい事態に貞通は泣いた。遠方の地に行くことになるが家名も残り誰も処罰されずさらに加増なのである。もう喜ぶしかない。

「何とか父上に会わす顔は残った」

 貞通を含め稲葉家一同一安心して臼杵に向かうのであった。

 それから三年後の慶長八年(一六〇三)稲葉貞通は五七歳でこの世を去る。

「色々あったがうまくいった人生なのではないか」

 そんなことを言い残したらしい。家督は長男の典通が継いだ。そして稲葉家臼杵藩は幕末まで存続する。稲葉家も最期までうまくいったといえるのかもしれない。


 関ヶ原の戦いにおける貞通の行動は正直粗忽と言われても文句の言えないものでした。尤もほかには選択を誤り家を滅ぼした者もいるという事を鑑みれば、父祖の地から離れ遠方の地に移されたとは言いえ生き残った貞通はギリギリのところで難を逃れたともいえます。結果加増され家も明治維新まで残っていたのですから十分勝ち組といえるでしょう。これも戦国時代の面白さかもしれませんね。

 さて次週はお盆休みという事で休ませていただきます。その翌週から始まる新章は九州のある武将とその家臣の話になります。お楽しみに。

 最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では

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