長宗我部国親 野の虎 第六章
一条家の急速な代替わり、そして本山家の躍進。こうした情勢の変化の中で国親は長宗我部家を大きくした。そして本山家との婚姻に伴う諸々を利用した国親はさらなる躍進を目指して行く。
紆余曲折あったが長宗我部家と本山家の婚儀は無事に終わった。建前上長宗我部家と本山家との同盟は成され対立は解消されたかに見えるが、実際のところは両家の対立は終わっていない。本山家は依然、長宗我部家を警戒している。
「妙な真似をしたらすぐに攻め込んでくれるわ。一条家のメンツなど知ったことではない」
本山茂宗はたびたびそう口にしていた。そうした剣呑な雰囲気を国親も理解している。そして本山家との本格的な対立にはまだ時間がかかりそうであった。
「まだ国力に差はある。力をつけつつ手近な敵を滅ぼして勢力を広げるとしようか」
国親がまず目指したのは岡豊城より南方にある長岡郡の制圧である。ここはまだ本山家の影響力も及んでおらず比較的領主たちの独立性が強い地域でもあった。そのため個々の領主たちが独自に方針を決めて行動している。つまり攻撃しても領主同士の連携がとられる心配は薄かった。
「この長岡を抑えれば海が見える。海を手に入れれば長宗我部の勢いもさらに増すことだろう」
「左様にございます。それにかの地を抑えれば本山家は南に進むことしかできません。西にいるのは一条家。やすやすと領地を奪えるような方々ではありませぬ」
「その通りだ孝頼。着実に家を大きくしていずれ来る戦に備えよう」
野の虎はさらなる飛躍を目指して歩を進めていくのである。
天文十六年(一五四七)の四月に国親は長岡郡への侵攻を始めた。国親は長岡郡を次々に制圧していく。そして手に入った領地を家臣に与えていった。この時国親は在地の領主たちを従えるのではなく打倒してその領地を手に入れるという方針を取っている。まずは長宗我部家そのものを大きくしていきたいという考えであった。そのために長宗我部家の直臣たちの領地を増しているのである。
「長岡を我らの地とすればゆるぎなき力となろう。ゆくゆくの事にも役立つはず」
国親はいつか来るであろう本山家との決戦に備えて色々と手を打っておきたかった。無論今回手に入れた領地でも一領具足の制度は取り入れる。そしてまた攻め取った領地でも一領具足の制度を導入する。そうすることで生産性と軍事力を同時に増強しておこうと考えていたのだ。なんにせよそのためにはまず土地がいる。そのための今回の軍事行動である。
「在地の領主や侍たちは今後一領具足として働いてもらう。それを受け入れれば田畑と侍の身分は保証しよう」
国親は倒した領主達やその家臣を一領具足として取り込んでいった。彼らも土地を追われるよりかは良いし半農半士という立場であるから一応は侍でもある。逆らって死ぬよりかははるかにましだと受け入れていった。
こうして国親の軍事行動は万事順調に進み五月には長岡郡で比較的大きい領主である天竺家の大津城に攻め込んだ。大きいといっても長宗我部家との軍事力の差は明白である。
「これはいかん。こうなってしまってはどうしようもない」
天竺家はあっという間に城を攻め落とされ滅亡してしまった。こうして国親は長岡郡に拠点を一つ手に入れることができたのである。大きな一歩であった。
天竺氏を滅ぼした国親はさらに勢力を広げるために軍勢を南下させる。国親は孝頼と具体的な今後の目標を話し合う。
「差し当たっては介良城の横山殿でしょうか」
「ああ、まずはそうだな。だが本命は下田城だ」
介良城は大津城の南にあり、下田城はさらにその南にある。介良城を治めるのは横山家で下田城は下田家が治めていた。この二つの城を落せば土佐湾を目前にすることができる。そこまで行けば今回の軍事行動もひとまずの成功といえた。とは言え容易い話ではない。
「横山は兎も角、下田の駿河守は厄介だな。奴の名はこのあたりに鳴り響いているし実際勇猛らしいからな」
国親が警戒しているのは下田家の下田駿河守のことであった。駿河守は近隣に名を轟かせるほどの勇士であり他家が容易に下田家に手が出せない最大の要因である。
「勝つだけならば容易い。しかしのちのことを考えればあまり手はかけたくないものだ」
現状長宗我部家と下田家の兵力には相当の差がある。力攻めを行なえば下田城を落城させることは可能であろう。しかしその場合は相当の損害が予想される。ゆくゆくのことを考えればあまり損害は出したくないし、痛手を負ったことが知られれば国親や長宗我部家の実力に対する疑いの目も出てくるだろう。特に最近手に入れた土地で不信感が広がるのはまずい。そう考えると何が何でも圧勝したいところである。
これに関しては孝頼も同様の考えであった。そこである策を国親に提案する。
「ここは横山殿を利用しましょう。うまく手なずけて先鋒とするのです」
「確かにそうなればこちらの兵はあまり使わずに済むな。しかしうまくいくか? 」
「その点に関してはご心配なく。すでに手は打っております」
「流石に手早いな」
感心する国親。素直な賛辞に孝頼も少し照れくさそうな顔をする。
さてこの時孝頼が打っていた手というのは離間の策であった。横山家と下田家の中を引き裂いていたのである。元よりこの二家はそこまで親しい間柄ではなかった。そこに孝頼はこううわさを流したのである。下田家には
「横山家は長宗我部家に従い下田家の領地を奪おうとしているらしい」
と言い、横山家には
「下田家は長宗我部家に従い横山家の領地を奪おうとしているらしい」
というものであった。これはあくまで噂で真実ではない。だがこうしたうわさが流れる中で下田家の中ではこんなことを言うものが現れ始めた。
「もういっそ先に横山家を攻め落として力をつけて長宗我部家にあたるべきだ」
駿河守の勇猛さを背景にそんなことを言いだしたのである。一方の横山家は動揺した。そして
「下田家に攻められればどうしようもない。こうなったら本当に長宗我部家に下って家を守ってもらおう」
という決断を下すのであった。これらは全て孝頼の思い描いた通りである。長宗我部家は横山家を戦わずに支配下に置くことができた。さらにこう命ずる。
「まず先んじて下田家を攻めるのだ。それができれば横山家の立場は保証しよう。我らもそれに続いて向かう」
最早傘下に入った以上しようがない。横山家は下田家に攻め込む。しかし駿河守の勇猛さの前に敗北するのであった。しかし横山家は死に物狂いで戦い下田家を大きく消耗させる。そこに長宗我部家の本隊がやって来た。いくら勇猛な駿河守でもどうしようもない。下田城は落城し駿河守も討ち死にした。横山家は家こそ保ったものの大きく消耗し長宗我部家に組み込まれる。こうして南下作戦は成功しさらに長宗我部家は大きくなった。
下田城を手に入れ土佐湾への進出も可能となった長宗我部家。この勢力の拡大は周囲の領主たちの考えを変えた。
「長宗我部家の勢いはすさまじい。もしやすると本山家を越える勢力になるかもしれん」
「そうだな。なんにせよ土佐七雄も半分以下になってしまった。勢いのあるどれかに従うしかないぞ」
この時土佐七雄のうち確固とした勢力を保っているのは長宗我部家、本山家、安芸家の三つであった。吉良家は本山家に敗れその傘下に入っている。津野家と大平家は一条家に敗れてその家臣になった。香宗我部家はかろうじて独立しているが安芸家との戦いの劣勢から長宗我部家の傘下に入る姿勢を見せている。
かつて土佐東部の小領主たちは七雄それぞれと時に同盟をし、時に敵対をしながらその家名を守って来た。これは七雄が基本的に拮抗していたことが主な要因である。しかし三家の勢力が大きくなることでそうした生き残りの方法も難しくなってきた。最早取れる道は三家のうちどれかに従うことである。
そんな中で長岡郡の栗山城の城主である細川定輔が長宗我部家への降伏を決めた。定輔の家系は管領細川家に連なる一族である。そんな立場の人間が戦わずして降伏を決めたというのは長岡郡の領主たちに衝撃を与える。尤も定輔はちゃんと計算したうえでの行動である。
「敵対して滅ぼされるよりいち早く従うことが家名を保つことになる。幸いわが家の家格と領地ならそれなりの待遇も得られよう。尤も国親様もそれをわかっておられようが」
実際その通りでそうした計算は見抜かれている。しかし国親は気にしなかった。
「細川家の本家は土佐の国主。その家に連なる一族が下るとなればそれだけでも利があるというものだ」
国親は定輔を重臣の待遇で迎えた。定輔の計算通りといえるが国親にも利があるので問題ない。そしてこの定輔の行動と十分すぎる結果は、長岡郡の領主たちの長宗我部家への従属を促した。これには国親も孝頼も喜ぶ。
「労せず家が大きくなったな。定輔のおかげか」
「まさしくその通りで。あれだけの慧眼の方なら長宗我部家の為にも大いに働いてくれるでしょう」
喜ぶ二人であるがすべての長岡郡の領主が従ったわけではなかった。特に池城の池頼定は反抗の姿勢を見せている。実はこの頼定は定輔の次男であった。
「馬鹿息子が。先が読めんのか。池家の力を生かせば長宗我部家でも十分な地位が得られように」
あきれる定輔。尤も頼定の行動には理由がある。池家の領地は土佐湾の東部にある。そして海運や水軍の運営に長けていた。これらは長宗我部家の求めるものである。だからこの強みを生かせば国親にも重用されるだろうにというのが定輔の考えであった。
一方国親は悩んだ。他の領主たちは降伏しているし何なら力攻めすればいい。しかしそうすれば池家に損害が出て肝心の技術力に打撃があるかもしれない。また定輔を重用している手前その息子を討つというのもはばかられた。
悩んだ国親は思い切った判断を下す。
「娘を嫁に出そう。池家にはそれだけの価値がある」
国親は縁談を条件に頼定に降伏を迫った。一方の頼定も思わぬ好条件に驚く。
「それほどまでに認めていただけるのならば従いましょう」
頼定は態度を一変し息子の頼和と国親の娘の縁組を条件に降伏した。こうして国親は土佐湾の海運技術と水軍を手に入れたのである。そして長岡郡南部の制圧にも成功したのであった。
国親の急速な勢力拡大は土佐東部の情勢を大きく変化させた。まず長宗我部家と領地を接する土佐郡の領主たちがこぞって長宗我部家に降伏し始めたのである。これは下田家の滅亡、そして細川家と池家の降伏が大きく影響していた。
「長宗我部家に逆らえば討ち滅ぼされる。しかし細川家のようにいち早く従えばその立場は守られるようだ」
「そうだな。この所は本山家の勢いも落ちてきている。長宗我部家に従った方がよいかもしれん。それが家のためだ」
そう考えた領主たちはこぞって長宗我部家に下っていったのである。
一方これが面白くないのは本山家、そして当主の茂宗である。
「我等との戦いを避けて己の領地を広げる算段か。しかしこうまでうまくいくとは」
茂宗は苦々しく長宗我部家の躍進を見つめていた。実際のところ縁談がまとまった時点で長宗我部家の勢力がある程度伸長することは予測している。だがこのところの急拡大は予想を超えていた。長宗我部家がいくら昔日を越える力をつけていたといっても周りの領主たちをこうまで圧倒するとは思っていなかったのである。
もとより茂宗とて長宗我部家の躍進を黙って見ていたわけではない。色々と理由をつけて長宗我部家の領地を侵そうと試みていた。しかし国親はそれをのらりくらりとかわしていたのである。争いが起きたとしてもせいぜい小競り合い程度で大きな戦には発展しなかった。そのため長宗我部家の力を削ぐ機会には恵まれなかったのである。
さらに痛手となったのが長岡郡南西部の制圧であった。これにより土佐東部の平野部の多くが長宗我部家のものとなってしまっている。本山家はそもそも山間部に領地を持っていたが大永年間(一五二一から一五二七)に南下して平野部を手にいれた。そして拠点である朝倉城を築きあげている。しかし朝倉城から見て東部は長宗我部家が制圧してしまった。さらにここから西進しようと思うと一条家が立ちふさがる。これはどちらも容易ならざる敵であった。
「我らの道はうまく閉ざされてしまった。いかにすべきか」
こうなった以上は長宗我部家か一条家のどちらかと和して片方と戦うしかない。茂宗としては土佐東部を支配して一条家に当たりたかった。そのためには一条家と和しなければいけないがあちらにその気はない。一方の長宗我部家は先にも記した通りまだ本山家と事を荒げる様子はなかった。従って現状本山家は国力で勝る一条家に戦いを挑まなければならなかったのである。
「これでは長宗我部と一条の思うつぼではないか」
嘆く茂宗であるがもはやどうしようもない状況であった。
一方の国親は現状に満足しつつ次を見据えている。
「だいぶ領地が増えたな。しばしは足場を固めるか。そのうえでさらに東に兵を進めるか。そののちはいよいよ雌雄を決することにもなろう」
野の虎はいずれ来る戦を見据え牙を研ぐのであった。
国親の主だった戦いは岡豊城への復帰からだいぶ時がたって行われています。それだけ長宗我部家の復興が大変であったという事なのでしょうが、ここからの数年は目覚ましい勢いで領土を広げていきます。そしてこの先再び大きな出来事が起きすのですが、その中で国親はどう動くのか。お楽しみに。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では




