太田資正 道 第三話
長尾景虎改め上杉政虎の出陣により息を吹き返した資正は、改めて反北条の戦いを始める。しかし北条家は体勢を立て直し逆襲を始めるのであった。そして資正に悲劇が訪れる。
政虎は越後に帰った後で武田信玄との決戦に臨んだ。その間に資正は北条家の逆襲を阻むべく行動を始める。目指すのはいろいろ思い入れのある松山城の攻略であった。
松山城には資正を裏切り北条家に着いた上田朝直が城主を務めている。資正にとっては感情的な理由に加え、武蔵における北条家の拠点を減らしておきたいという理由もあった。さらに松山城を抑えれば越後から上野、そして武蔵までの侵攻ルートの拠点を確保できる。その意味でも松山城は重要な拠点であった。
「機を逃さず迅速に行動する」
その通り資正の行動は迅速であった。今だ戦いの爪痕が残る永禄四年のうちに出陣し、松山城を包囲した。松山城の上田朝直は反撃もままならず降伏する。そして資正の陣に出頭してきた。
久々に顔を合わせる両名。だが、言葉はない。気まずい沈黙が陣中に流れる。
やがて資正が口を開いた。
「久しいな」
資正はそうつぶやいた。それを聞いた朝直は資正から目をそらさず言う。
「ええ。お久しぶりです」
「ご健勝で何よりだ」
「そちらこそ」
二人は何気なさそうなやり取りをする。だがどちらにも笑顔はない。やがて話が終わると朝直は連れていかれた。
陣中から連れ出される朝直の背中に資正は言った。
「これが貴殿の道か」
それに朝直は足を止め振り返らず答えた。
「その通りだ」
そして朝直は連れていかれた。残された資正は瞑目する。
「(上田殿は己と家を生き残らせる道を選んだのだ。それを責められん)」
正直資正の心の内には朝直への怒りはある。だが北条家の傘下に下り生き残ろうとした考え方も家の長として否定しきれなかった。
「(私の生き方はつまらぬ意地なのかもしれんな)」
資正はそんなことを考える。だがここで生き方を変えるつもりもなかった。
朝直は殺されず北条家に返された。そしてこの後も北条家に仕え朝直の子たちも同様に北条家に仕え続けた。そして北条家の滅亡とともに上田家は歴史から姿を消す。
だがそれはまだ未来の話である。
松山城の奪取を成し遂げた資正は、同城に扇谷上杉一族の憲勝という人物を据えた。この人物についてはよくわかっていない。
ともかく資正は岩付・松山の二城を確保した。だがここから積極的に打って出ることはしないでいた。これは資正の勢力だけでできることは限られる以上仕方のない話である。
「しかしどこまで持ちこたえられるか…… 」
現状不安を抱える資正。それも当然のことで周りは敵だらけであった。実は政虎が越後に帰った後で関東諸将の一部は再び北条家の傘下に入っている。その中には成田長泰もいた。
長泰が政虎の態度に怒ったからか、はたまた別の理由かはわからないが兎も角、武蔵における明確な上杉方は資正ぐらいになっている。もし岩付・松山の両城が落城すれば武蔵のほとんどは北条家の手に落ちてしまう。それだけは避けなければならなかった。
「いかなることが起ころうとも守り抜くぞ! 」
資正はそう気合を入れた。だが政虎の軍勢は上野まで進軍するのがせいぜいで、武蔵までで張ってきたことがあったがその時は北条軍に敗れてしまった。
資正が必死で領地を守っているうちに一年がたった。時は永禄五年(一五六二)に入り、政虎は将軍足利義輝から一字もらい名を輝虎と変える。そして関東の状況は悪い方に変わっていく。
この一年で北条家は勢力をだいぶ回復させた。また武田家が上野に侵攻し、その一部を手中に収める。これにより武田家の脅威が関東に迫るようになった。そしてその脅威を資正は直に受けることになる。
永禄五年十月北条氏康と息子の氏政は松山城攻略のために出陣する。さらに武田家に援軍を要請し当主の武田信玄自らが出陣してきた。この北条・武田の連合軍は圧倒的に太田家の兵力を上回っている。当然、資正たち太田家だけで対抗できる数ではない。
「輝虎殿に急ぎ出陣を要請するのだ! 」
資正は急いで輝虎に書状を送った。現状できる対抗策はこれぐらいしかない。資正も岩付の周囲にも敵が配置されていて自由に動けなかった。
一方の輝虎は数少ない武蔵の拠点の危機ということで迅速に動いた。急ぎ準備をして出陣。上野に着陣したのは十二月である。しかしこの後がうまくいかない。
資正は岩付で情報を集めていた。だが入る情報は輝虎への協力を多くの関東諸将が拒むという情報だけである。要するに上杉家と北条家を天秤にかけているわけだ。
「それだけ不利という事か」
結局のところ皆自分の家の保全を願って行動する。資正もそういうものだとはわかっていた。悲しくはあるがそれが現実である。
松山城は北条・武田連軍に完全に包囲されていた。いつぞやの河越城のような状況である。だがその時のようには持たなかった。輝虎が自分に味方する一部の関東諸将と共に援軍に向かう途中に開城してしまう。永禄六年(一五六三)の松山城に籠っていた資正の家臣たちは城から脱出し岩付城に帰ってきた。
岩付城に帰ってきた家臣たちはみな憔悴しきっていた。それを見た資正には責めることなどできない。
「皆、すまない」
「いえ、殿のせいではありません」
家臣たちも資正を責めなかった。しかしこんなことを言った。
「もう北条殿に刃向かうのは難しいかもしれません」
資正はそれに反論することができなかった。
松山城を失った資正だが翌永禄七年(一五六四)更なる苦難が襲った。今度は本拠地の岩付城が包囲される。この包囲により岩付城は兵糧の補給が不自由になった。
この危機に資正は里見家に救援を要請する。しかし
「難しいか…… 」
兵糧の補給はうまくいかず岩付城はさらに窮した。ここに至り資正は決意する。
「打って出るぞ! 」
資正は北条軍の隙をつき岩付城から出陣した。そして巧みに包囲を抜けると下総は市川国府台で里見軍と合流する。対する北条軍も氏康、そして猛将氏綱が下総に向けて出陣した。
永禄七年の正月、ここに両軍は激突する。これが後に国府台の合戦と呼ばれる戦いであった。
まず攻撃を仕掛けたのは北条軍の江戸城勢であった。実は江戸城将の一人が北条家を里見家に従っている。これに責任を感じた江戸城将の遠山綱景と富永直勝は責任を感じ突撃したのであった。
この北条軍の攻撃に太田、里見軍は冷静に対処した。
「なんと無謀な攻撃か」
その突撃を半場呆れながら資正は見ていた。責任を感じるのは立派なことである。しかしわざわざ死に行くような行動は論外である。
「その無謀さを後悔するがいい」
冷静に迎え撃った太田・里見軍は江戸城勢を殲滅した。そして遠山綱景とその息子隼人佑、そして富永直勝は戦死する。綱景、永勝の両者とも北条家に長い間仕えた重臣であった。
北条家の重臣二人を打ち取って意気をあげる太田、里見軍。その中で資正は複雑な思いを抱く。
「責任を感じるのならばむしろ生き残るべきではなかったのか。生きて主君のために働くべきではないのか」
二人の死は怒りとも憐れみとでもいえるような感情を資正の中に生んだ。だからと言って資正が戦いを止めるようなことは無いのだが。
さて北条家の重臣を打ち取った太田、里見軍の士気はかなり上がった。
「これは勝てるのではないか」
「ああ、北条など恐れる足らずだ」
こんな会話も聞こえてきた。実際の所、楽勝ムードが漂い始めているのも事実である。この状態を資正は危惧していた。とりあえず里見軍を率いる里見義尭に相談してみる。
「まだ敵の本隊が残っている。油断は禁物だ」
「それは承知の上だ。だがこの勢いも維持しなければならん」
「それはその通りだが…… 」
義尭の言い分も一理あった。資正もそれはわかったのでそれ以上何も言わない。しかしそれが災いした。
実際北条軍の本隊は健在であった。あくまで潰走したのは突出した江戸城勢のみである。ここで北条軍は一気に勝負に出た。
江戸城勢の壊滅の翌日、北条軍は太田、里見軍を強襲した。資正を含めこんなに早く反撃に出るとは思いもしない。太田、里見軍は混乱に陥る。
「皆落ち着け! 体制を立て直すのだ」
資正は状況を把握すると慌てる家臣たちに指示を出す。家臣たちもそれに応え体制を立て直した。また里見軍も混乱は収まらないながらも反撃しはじめる。
「(このままいけば五分に持ち込めるか)」
状況は依然厳しい。だが光も差してきた。資正は活路を開くべく奮戦する。だが
「大変です! 」
「どうした」
「土岐殿が寝返りました」
「なんだと…… 」
里見家重臣の土岐為頼の寝返りが起きる。北条家の強襲もこれを見越してのことだった。
里見家重臣の離反。これで勝敗は決したようなものだった。
「無念…… 」
資正は北条軍の追撃をかわし何とか戦場から離脱する。しかし岩付には帰還できず里見家と共に上総に落ちのびた。
こうして国府台の合戦は北条家の勝利で終わり、資正は大きな打撃を受ける。しかし資正を待つ苦難はこれで終わりではなかった。
上総に落ちのびた資正は里見家の支援を受けてやっと岩付城に帰れた。月日は流れもう五月になっている。
岩付城はまだ落城せずにいた。資正にとってはそれだけでも救いである。
「(まだ、戦うことはできるな…… )」
帰還した資正を息子の資房は迎え入れた。
「父上。この度は」
「いうな資房。いまは休みたい」
今資正はとにかく休みたかった。そして英気を養い今後の対策を考えるつもりである。しかし資房は引き下がらなかった。
「父上は今後どうするおつもりですか」
「どういうことだ? 」
「これからも北条家と争い続けるのですか」
資房はまっすぐな目で資正を見た。その眼には強い決意がにじんでいる。資正はそんな資房に驚きつつも答えた。
「当然だ」
「…… これ以上は無理でしょう」
資房から出たのは否定の言葉であった。資正は資房を怒鳴りつけようとするが何とか呑み込む。そして言った。
「ならばお前はどうするのだ」
「どう、とは」
「お前はどのような道を選び、何をするのだ」
「私は…… 家を守りたいと思っています」
強い決意のこもった言葉で資房は答えた。それに対し資正は微笑んだ。
「ならばそうするが良い」
それだけ言うと資正はその場を去る。残された資房は資正の背中を寂しげな表情で見送っていた。
資正の帰還から二ヶ月後その事件は起こった。
資正はその時、腹心たちと共に岩付城を留守にしていた。これは今後の北条家への対策を里見家と話し合うためである。そして資正が城を留守にした隙をつき資房は行動を起こした。
資房は弟の政景と母を軟禁し岩付城を掌握する。そしてそのまま城ごと北条家に降伏した。実質資房のクーデターである。
この事態を知った資正は急いで岩付城に帰った。しかし城の門は固く閉じられていて中には入れる気配はない。
「資房め。ここまでやるとはな」
資正は不思議と怒らなかった。これが資房の生きる道なのだと納得したのである。
「(ならば私は私の道を進み続ける。これより先は親子ではないぞ、資房)」
資正は城に背を向けると馬を走らせた。腹心たちもそれに続く。資正と資房の親子は顔も合わせず今生の別れをすることになった。
この後に資正は岩付城を奪還するために奮闘した。それは息子への怒りとかそういうのではなく打倒北条家のためには岩付城が必要だと思ったからである。
「これが私の生きる道だ、資房」
資房は名を氏資と変えた。氏の字は北条家からもらったものである。完全に北条家の傘下に入ったという意思表示なのだろう。今後氏資は北条家のために奮戦する。
資正の岩付城奪還計画は幾度となく行われそのたびに失敗した。だがそれでも資正の心は折れない。もう資正の心はそれだけ強靭になっていた。
「私は何度でも立ち上がる。そして何度でも挑むぞ」
しかし情勢は資正に不利な方に進んでいった。上杉輝虎の関東出兵はうまくいかずその影響力は減退していく。それに対し北条家の支配は浸透していった。やがて武蔵は完全に北条家の支配下にはいってしまう。
「この状況で岩付城を落としても仕様がないか」
資正はそう言って岩付城奪還をあきらめた。だが打倒北条家の悲願はあきらめていない。
「私はそう簡単には足を止めんぞ」
むしろこの状況で資正の意気は上がった。いまはただの資正として自分の道を進み切る所存である。そしてそんな資正に救いの手が差し伸べられた。それは資正の人生を大きく変える運命の出会いであった。
というわけで第三話でした。奮闘する資正ですが最終的には息子に城を追い出されるという悲劇に見舞われました。しかし資正の戦いはまだまだ続きます。
さて太田資正といえば日本で初めて軍用犬を運用したといわれています。丁度この話の時期のエピソードなのですが諸事情により割愛させていただきました。期待していた方々(いるのか?)申し訳ありません。
もう一つ、この話に国府台の戦いというのが出てきましたがこれは第二次国府台の戦いと呼ばれています。第一次は戦国塵芥武将伝の足利晴氏の話に出てきます。気になる方はそちらも読んでみてください。
さて、城を失った資正ですがこの後運命的な出会いを果たします。そして更なる関東の激動が資正を襲います。お楽しみに
最後に誤字脱字などがありましたらご連絡ください。では




