村井貞勝 都の総督 第七章
馬揃えは成功に終わり織田家の威光は天下にとどろいた。天下が信長の手で統一されようとする中で貞勝は隠居を決意する。もはや老齢であった。しかし思いもよらぬ事態が起き、貞勝には最後の大仕事を果たすことになる。
天正十年(一五八二)四月末、武家伝奏(朝廷における武家の取次役)の勧修寺晴豊が貞勝の屋敷を訪ねた。要件は信長の官位についてである。信長は四年前に官位を辞した後は何の官位にもついていなかった。
「信長殿は先月武田家を滅ぼして関東を平定なされた。正しく天下に号令をかける方にござる。しかしそんな方が無位無官でいるのはいかがなものかと」
織田家は先月に武田家を滅ぼし関東の雄である北条家を傘下に加えている。東北の諸将も織田家に従う動きを見せており東国は制圧したも同然であった。つまりは織田家にかなう相手はもういない状態であり、信長は実質的に天下人といえる。しかしそこが朝廷にとっての不安な点であった。
「(官位についていれば形の上は朝廷の下における。しかし無位無官であればそれすらもない。そうなれば朝廷がないがしろにされるのではないかと不安なのだろうな)」
貞勝は晴豊の意向をそう受け取った。実際こうした話し合いはこれで二度目である。前回は一年前でその際は左大臣への就任を求められていた。これに対して信長は正親町天皇の譲位を条件としたが、譲位は成されずこの話は流れてしまっている。
京都所司代として朝廷との交渉を受け持つ貞勝としてはこの問題に信長の明確な返答が欲しかった。しかし信長はこれに関して何の指示も貞勝にしていない。そうした状況である以上は貞勝としても何とも言えなかった。
「この件に関しては追って信長様のご意向を伝えます」
そう言う貞勝であったが晴豊は月をまたぎ五月になっても貞勝の屋敷を訪ねた。しかし貞勝としても何の返答もできない。結局肩を落として帰る晴豊を見送るしかできなかった。
晴豊の貞勝邸訪問の数日後、信長が上洛してきた。信長は本能寺に入り、同じく上洛してきた信長嫡男の信忠は明覚寺に入る。取り立てて緊急の用事があったわけではないらしく
「茶会を開くだけのことよ」
と、信長から貞勝には伝えられていた。実際安土から京に名物の茶器が運び込まれている。
「中国方面も片が付きそうだというからその前祝いという事なのでしょう」
「そうだな。恐らくそうだろう。羽柴殿が援軍を呼んでいるという事だがそれも信長様に花を持っていただこうという心遣いだろうしな」
村井親子はそう考えていた。
六月に入り本能寺で茶会が開かれた。貞勝は晴豊ら公家衆に茶会のことを伝えている。これで少しは信長への不安がぬぐえればいいとの考えであった。信長がその場で官位についての話をするとは思えないが何もしないよりはましであろう。貞勝は茶会に参加せず屋敷にいたが、そこに信忠が訪ねてきた。
「茶会の後に宴席を設けるから来いと父上から。村井殿も連れてこいとの仰せですのでお迎えに上がりました」
信忠は信長とは正反対の品行方正な人柄である。一方で武将として、大名として恥じないくらいの力量と勇猛さも持ち合わせていた。貞勝も信忠が跡を継ぐなら織田家も安泰だろうと考えるほどである。
「承知しました。すぐに準備いたします」
貞勝は信忠に従い本能寺に向かう。すでに宴席は始まっており信長を含む皆が上機嫌であった。
「お久しぶりです。信長様」
「貞勝か。よく来たな。まずは一杯飲め」
差し出された杯を貞勝は一気に飲み干した。それを見て信長は笑う。
「まだまだ若いではないか。その癖に隠居などと言い出しおって」
「いえいえ。滅相もございませぬ。殿から差し出された杯を突き返しては家臣の名折れ。ただ少しばかり無理をさせていただきましたが」
「そうかそうか。まあいい。すでに毛利は落ちたも同然だ。そうなれば日本は殆ど我のもの。そうなったらお前もゆっくり隠居するといい。お前はよく働いた」
「それは…… ありがたき幸せにございます」
まさかこんなことろでねぎらいの言葉が出るとは思わなかった貞勝は感激した。思わず泣きそうになるがそこは宴席であるのでぐっと我慢する。するとそこに信忠がやって来た。
「父上。私の盃も受けては頂けませんか」
「ほう、構わん。だがお前は余の盃を受けられるか」
そう言って信長親子は酒を酌み交わした。貞勝は親子の時間を邪魔してはいけないと静かにその場を離れる。
「(信長様とはまたいずれゆっくり話そう)」
そんなことを考える貞勝。しかしこの時の会話が貞勝と信長が交わした最後の会話となる。
屋敷に帰った貞勝は翌日の未明目を覚ました。
「何か妙に騒がしいな」
何やら妙に騒がしい。さらに日も昇りきっていないというのに妙に明るかった。
「本能寺の方だが…… 」
胸騒ぎを覚える貞勝。すると蒼い顔の貞成が駆け込んできた。そして衝撃的な事を叫ぶ。
「明智光秀さまご謀反! 本能寺に討ち入ったそうです! 」
「何だと! 」
信じがたい報せである。光秀は信長と同様に秀吉の援軍に向かう予定であった。だがその軍勢を率いて本能寺に討ち入ったらしい。
「信長様は無事なのか! 」
貞勝はそう聞いた。しかし貞成は黙る。もっとも貞勝も内心では理解していた。本能寺には禄に兵もいない。貞勝が改修するにあたって防御機能は施してあったが、戦力差を覆せるほどのものではなかった。信長が無事ではないという事など理解している。
「(信長様…… ご無念にございます)」
天下統一を間近にしてのこの惨劇。全く持って悲劇というほかない。だが貞勝はまだ生きている。貞勝は貞勝の出来ることをしなければならない。
「とりあえず屋敷の者は残っておれ。ここが攻め込まれるという事はあるまい」
「確かにそれは。しかし我らはどうします」
「ともかく信忠様の下に向かおう」
貞勝と貞成はすぐに準備し明覚寺に向かった。抵抗するに何にせよある程度の兵がいる信忠と合流しなければ話にならない。貞勝親子は明覚寺に向かう道中で信忠と合流した。信忠も本能寺の変を聞き信長の救援に向かっていたのである。
信忠は焦り冷静さを欠いていた。
「急がなければ父上が危うい。早く行かなければ」
貞勝は信忠に対して冷静に言った。
「もはや本能寺は焼け落ちています。何より四方を明智の軍勢に囲まれ中に入ることもできません。いま本能寺に行っても返り討ちに会うだけです」
「しかし父上が! 」
信忠は容易に聞き入れなかった。その気持ちは貞勝にもわかる。だがここで本能寺に向かっては無駄死にしかならない。貞勝は必死に冷静に説得した。
「如何かここは私の言葉をお聞き入れください。その上なら如何様にされても構いません。ですが今はご辛抱を…… 」
貞勝はそう言って平伏した。貞成も一緒である。これを見て信忠も冷静になった。
「分かった。いや、貞勝の言う通りだ。しかしこれからどうする。おそらく明智ほどのものだ。我らを京から逃すようなことはせぬはずだぞ」
信忠は、いやここにいた皆がそう考えていた。明智光秀は織田家の重臣でも最たる切れ者である。そんな男が謀反を起こす以上はあらゆる手を尽くしているに違いない。皆そう考えていた。しかし実際は突発的なものであり京は包囲などされていない。従ってもしかしたらここで撤退を選択していればもしかしたら成功していたかもしれなかったのである。
だが貞勝はそんなことを知らない。ゆえにこう提案した。
「二条新御所に籠りましょう。あそこならば頑強です。敵の攻撃をしのげるかもしれません」
「そうだな。あい分かった。二条の新御所に向かおう」
これに対して貞成はおずおずという。
「今の二条新御所には誠仁親王とそのご家族がおられます。それについてはいかがいたしましょうか」
「親王には逃げ延びてもらうように説得する。明智殿も親王を討つようなことはせぬはず」
「そうだな。貞勝の言う通りだ。その点に関しての交渉は貞勝に任せよう。敵も迫って来たな。急ごう」
こうして信忠と貞勝は兵を連れて二条新御所に向かった。これが貞勝たちの運命を決めることになる。
貞勝たちは二条新御所に向かう。そこには誠仁親王とその家族がいた。当然というべきかこの騒ぎで大わらわとなっている。貞勝は誠仁親王に現状をすべて話した。すると誠仁親王は重々しい口調でこう告げる。
「私も腹を切るべきなのだろうか」
これには貞勝も信忠も驚いた。しかし誠仁親王がこんなことを言いだすのには訳がある。二条新御所を譲られた件からもわかるように誠仁親王は信長と親しかった。信長が後ろ盾になっていたといってもいい。しかしその信長が討たれ、それを実行した者が京を制圧しつつある状況であっては誠仁親王としてももはやこれまでと思っても仕方なかった。
これに対し貞勝は必死で説得した。
「謀反を起こしたのは明智殿。此度に事は真実に信じがたい暴挙ですが、朝廷への忠義は本物。それは今までのことからをお分かりいただけるはずでず。親王を害するようなことはせぬはずです。私はこれより明智殿の軍勢と交渉し、皆様が逃れられるように手配します。どうかこの村井をご信頼くださいませ」
この発言を聞いて誠仁親王も落ち着いたようだった。
「村井殿が引き受けるのならば申し分ない。私と家族のことは頼むぞ」
「承知しました」
貞勝は朝廷のために色々尽力してきた人物である。そんな貞勝の言葉だからこそ誠仁親王も信じたのだ。貞勝は単身二条新御所を出て光秀の軍勢の方に向かう。本能寺はすでに焼け落ちていて光秀も信忠を追撃する態勢に入っていたのである。
軍勢を進める光秀の下に貞勝が単身向かっているという情報が入った。これを受けて光秀は苦々しい表情になる。
「村井殿がこちらに向かっているのか」
「殿とお話ししたいことがあると。いかがしますか」
「…… ああ。会おう」
光秀は貞勝と面会することにした。しばらくして明智家の重臣たちが並ぶ場に貞勝が現れる。貞勝は一礼するとこう言った。
「我らは信忠様と共に二条の御所に立て籠もっております。無論貴殿らを迎え撃つために」
重臣たちはどよめいた。だがこれを光秀が制する。
「それでご用件は」
「二条の御所は信長様が誠仁親王に献上した屋敷。親王はそのご家族と共にまだ屋敷におられます。今貴殿たちが攻め込めば親王も戦に巻き込まれることとなりましょう。それは明智殿にとっても不本意なはず」
「それは貴殿らが二条の御所に向かったからであろう」
明智家の重臣の一人が言った。貞勝はその重臣を冷たい目で見据える。
「そもそも貴殿らがこのようなことをしでかしたからこうなったのです。それをご理解しておいでですか」
「何だと! 」
「やめよ! 」
怒りに任せ立ち上がる重臣。それを抑える光秀。重臣がしぶしぶ座ったのを見て光秀は尋ねた。
「それで我らにどうせよと」
「戦は誠仁親王とそのご家族が落ち延びるのを待ってからとしましょう。我らは逃げも隠れもしませぬので」
「それなら構いませぬ。但し親王が逃れるのを我らは見届けさせてもらいます」
「ええ。ではそう言うことで」
そう言って貞勝は去ろうとした。しかし
「村井殿。待たれよ」
光秀は貞勝を呼び止めた。
「何でしょう」
貞勝は振り返らずに言う。そんな貞勝の背中に光秀はこう言った。
「もはや戦の結果は日の目を見るより明らか。おそらく村井殿も生き残れますまい。しかし村井殿ほどの人物をここで失うのは残念にございます。ここは我らに下っていただけませんか。そうして頂ければ京都所司代の任は今まで通り、ゆくゆくはどの任もご子息にお任せします。いかがか」
その場はどよめいた。しかし貞勝は動じていない。一瞬の沈黙が流れ、貞勝はこう言った。
「明智殿。本当に無念でございます」
そう言って貞勝はその場を去る。残された光秀は大きなため息をつくのであった。
貞勝の交渉の甲斐あって誠仁親王とその家族や働いていた者たちはみな脱出できた。
「村井は本当に見事な男だ。何とか生き延び再び朝廷のために働いてくれ」
誠仁親王はそう言い残して去っていった。しかしこの時すでに貞勝は覚悟を決めている。
「敵は我らの十倍近く。勝てるはずもない」
それはみな考えていることである。信忠もそうであった。それならば最後に見事戦って散ろうというのがここにいる皆の考えである。
「皆の力で不忠者に一矢報いてやろうではないか」
信忠のその言葉に皆勇躍した。そして戦いの準備を整える。二条新御所を囲む明智家の軍勢も準備をすでに整えていた。そんな状況下で貞勝は笑いをこらえることができない。流石に不審に思った貞成が訊ねる。
「父上。どうされたのですか」
「何。戦場に出ず文筆を武器として戦ってきた私が戦場で死ぬとは。あの世で島田殿に驚かれるな」
貞勝は自嘲気味に言った。驚く貞成であったがすぐにこう言う。
「そんなことはありませんよ。京の町に関わり続けたのです。京で死ぬのは本望といえるかもしれませんね」
「確かにそうだな。しかも最後の場所は自分が普請した屋敷だ。何とも因果か」
村井親子は笑った。やがてその笑いを吹き飛ばすような叫ぶ声が聞こえる。
「始まったか」
こうして最後の戦いが始まった。信忠たちは懸命に攻撃を防ぎ三度までは防いだという。しかし兵力に差がありすぎた。やがて新御所に侵入され火をつけられてしまう。この時点で貞勝も貞成もこの世のものではなかった。侵入して来ようとする明知勢に挑みほかの雑兵ともども斬られて死んだ。
「思い残すことは無い」
貞勝は最後にそうつぶやいた。信長の覇業を影で支え続けた人生である。信長が死んだ以上もはやこの世に未練はなかった。
信忠は自害し二条新御所は焼け落ちた。本能寺も焼け落ちている。貞勝が普請した建物は燃え尽きてしまった。それでも多勢に無勢の状況で戦えたのはよく作られていたという事なのだろう。
この後明智光秀は一時畿内を掌握するもあっけなく羽柴秀吉に討たれる。そして天下統一事業は秀吉の手でなされることとなった。秀吉の時代でも京都所司代は残されている。江戸時代にも存続した。天下統一を目指す誰もが朝廷との関係を重視していたのだから当然ともいえる。
村井貞勝の人となりを記す資料は少ない。ただ宣教師のルイス・フロイスは貞勝のことをこう評した。
「尊敬できる異教徒の老人であり、甚だ権勢あり」
そしてこう呼んだ。
「都の総督」と。
本能寺の変では信長、信忠親子だけでなく貞勝を含む多くの織田家臣が討ち取られました。彼らは絶対的に不利な状況で逃げず主君と共に戦ったわけです。貞勝が戦に参加した記録はこの二条新御所での戦い位です。それでも恐れず戦ったのは貞勝が忠義にあふれ主君の為に戦える強い意志を持った人物であったからではと思います。だからこそ京で難しい交渉や朝廷との付き合いなどの難題を信長に任されていたのだと思います。正しく名臣といえる人物でしょう。
さて次の話の主人公は畿内の武将です。この人物はある意味貞勝と真逆であったのではないかという感じの人物です。お楽しみに。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では




