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戦国塵芥武将伝  作者: 高部和尚
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織田秀信 信長の孫 後編

 豊臣秀吉の温情か、ともかく秀信は祖父や父の城であった岐阜城の城主となった。家臣団も集まりここから織田家の再出発が始まる。希望溢れる未来を夢見る秀信だが、その先には思いもよらぬ事態が待ち受けていた。

 慶長三年(一五九八)豊臣秀吉がこの世を去った。跡継ぎの秀頼はまだ五歳でもちろん政権の運営などできない。

「秀頼様も幼くして家を継がれた。私のようにならぬように全力でお支えしなければ」

 秀信はもう立派な青年になったが、幼いころに家督を継いだ為に気付いたころには多くのものを失っていた。それでも秀吉は自分に織田家の家督を継がせている。その恩義があるからこそ秀頼もそんな目に合わせるわけにはいかない。そう考えていた。

 ところが秀吉の死後、名実ともに豊臣政権の二番手にいた徳川家康が独自の行動を取り始める。家康は秀吉が禁止していた私的な婚姻の計画が明るみに出た。これを家康と同等の立場といえた前田利家が追及しようとする。するとこの動きに警戒感を増した家康派と利家派の大名がそれぞれの屋敷に軍勢を連れて集結したのだ。

 この時秀信は利家側についた。それは家康の行動に疑問を持ったためであり豊臣家の存続を願う秀信としてはあり合えない行動であったからである。

「家康殿は何を考えているのだ。お爺様には誠心誠意仕えたというが、なぜ秀頼様にも同じようにしないのか」

 ともかく秀信は同じように考えた者たちと共に家康派の大名たちと対峙する。しかし軍事衝突を避けるべき双方矛を収めこの時の追及は取りやめとなった。

 この事件の翌年、豊臣政権の奉行である石田三成が福島正則ら七人の大名に襲撃されるという事件が起きる。これは朝鮮半島に侵攻した際の三成がかかわった裁定に正則らが不満を抱いたことに原因があった。この事件の結果三成は奉行職を解かれ居城の佐和山城に蟄居となる。

 この事態を受けて秀信は岐阜城下など街の防備を固めるように指示を出した。さらに有事に備えた準備を進めていく。

「もしやすると何か大きな戦が起きるかもしれない」

 はっきりと覚えているわけではないが、自分が家督を継いだ後は織田家内部での抗争が何度も起きた。それと同じようなことが起きるかもしれない。秀信はそう考えている。そしてその懸念は現実のものとなる。


 慶長五年(一六〇〇)徳川家康は自分に反発する大名である上杉景勝の討伐に出陣した。これは景勝が軍備を進めていることが理由であり、豊臣政権の名において行われる軍事行動である。そう言うわけであるから秀信も出陣せざる負えない。

「このままでは家康殿の思いのままになってしまう。どうすればいいのか」

 悩む秀信であった。そうした秀信の心理が影響したのか準備に手間取り出陣も遅れてしまう。伏見から出陣した家康は自分に従う者たちと共に先に進んでしまった。そして家康率いる軍勢が関東に入ったところで事態が一変する。佐和山で蟄居していた三成が挙兵し、毛利輝元ら複数の大名がこれに同調したのだ。

 三成と輝元は家康のこれまでの行いを豊臣家への不忠だと断じて討伐を決定。多くの大名にこれに従うよう要請した。この要請を受けた中に秀信も含まれる。三成は秀信に

「戦勝の暁には尾張・美濃の二ヶ国を与える」

といってきた。

 秀信は決断した。

「われわれは、今は亡き太閤殿下の恩義に報いるため三成殿に味方しようと思う。戦勝の暁には尾張・美濃をいただけるそうだ。この二ヵ国は織田家の領地であり父上が治めていた地。これを成せば織田家にかつての威光を取り戻させることができる」

 高らかに言う秀信だがこれに百々綱家や木造長政らは反対した。

「確かに恩賞は魅力的ですがそれは勝ってからのこと。石田殿では家康殿に勝てますまい」

「家康殿は反転しこちらに向かっているとの報も入っております。それに尾張の福島殿は石田殿を嫌っております。尾張は敵方につくでしょう。むしろここは家康殿味方し近江までの道をお渡しすべきでは」

 もし家康が反転し軍勢を引き連れてきたら最初に戦うのは岐阜の自分らである。一方三成らは畿内の平定を追われているようで援軍はあまり期待できなかった。流石にこの状況で家康たちを迎え撃つのは厳しいものがある。

 こうした老臣たちの意見の受ける秀信であるが、もはや意志は固まっていた。

「不利は承知。しかしてこのところの家康殿の振る舞いは豊臣家を蔑ろにしているようにも見える。これを見逃しては我らが受けた太閤殿下の恩義を無下にすることになるのではないだろうか。そうなればお爺様が天下に広めた織田家の名を地に落とすことになると思う。皆の言いたいことはわかるが上杉殿と敵対している以上家康殿もそう簡単にこちらには戻れまい。その間に畿内は平定されるだろうから対抗することも可能なはずだ。どうか私を信じてついてきてほしい」

 秀信は改めてこう言った。こうなれば綱家たちも受け入れるしかない。こうして秀信ら織田家は石田三成方、西軍に参戦することになるのである。


 やがて家康方の東軍が尾張に到着した。主力は福島正則や池田輝政。これを聞いて秀信はなんとも言えない気持ちになった。

「福島殿が敵対するのは皆が言っていた通りだ。しかし福島殿は太閤殿下から大いに恩義がある方のはず。それなのに家康殿に味方するとは。それに輝政殿のお父上の恒興殿は織田家の重臣であった方。そのような方とも戦わなければならんとは」

 色々思うところはあるが今は西軍の一員として戦うのみである。幸い三成から援軍も派遣された。家臣たちも三成が自分達や秀信を捨て駒にするつもりがないと納得する。

 秀信は綱家にこう言った。

「木曾川を防衛戦とし、川を渡ってきた敵を迎え撃つのが定石だと思うが」

「まさしくその通りにございます。地の利を生かせば数の不利は覆せましょう」

 この時三成の援軍を含めても西軍の方が数で不利であった。それを覆すには地の利を利用するしかない。これが秀信たちの結論である。

「ここで敵の出鼻をくじけば西軍の勝利に大いに利する。そうなれば我らの戦功は称され約束の二ヵ国も必ずや手に入れられるだろう。その時には皆にもこれまでの忠誠に報いて見せる。そのためには何としてでも勝利するのだ! 」

 この秀信の演説に家臣一同勇躍した。そして秀信は自ら出陣し、木曽川の手前の米野の周囲に布陣した。この時秀信の軍勢は二手に分かれ二重の防衛戦を張っている。

「まず第一陣と第二陣で交代して攻め敵を疲れさせましょう」

「ああ。それはよい考えだ」

 秀信は三成からの援軍である柏木彦衛門の策を取り入れた。秀信は木曾川を渡る東軍に遠距離から攻撃を仕掛け、被害を受けた東軍が米野に来たところに攻めかかろうと考えていた。それに彦衛門の策を足すことにする。

 やがて東軍が進軍してくる。東軍も木曽川で手間取っては被害が大きくなるという事を理解してか強引な速さで進軍してきた。これは数で劣る秀信たちにとって非常に不味い。

「数で強引に攻めかかられるのが一番いけないと綱家は言っていた。兎も角敵の足を止めるのだ。何とか木曽川に釘付けにするのだ」

 秀信の指示のもと川を渡っている東軍に攻撃を仕掛ける。だがここで誤算が生じた。東軍の主な将である福島正則と池田輝政はこの近辺に縁がある。そのためこの周囲の地形もある程度把握していた。そこで木曽川の中州をまず目指しそこに陣を張って進軍するという方策を取ったのである。秀信たちがそれに気づいた時は遅く中州に陣が張られそこを拠点に川を渡り米野に攻め込んだのだ。東軍は大して衰えておらず。さらに数に任せて強引に進軍してくる。ここで兵を分けていたことが災いした。ただでさえ兵力は劣っているのにますます少ない数で応戦しなければならないのである。無論勝敗は日の目を見るより明らかであった。

「これは…… これはいかん。このままでは」

 秀信の軍勢は武将にも死者を出す大損害を受けた。このままでは全滅してしまう。ここで綱家が秀信に進言した。

「秀信様。これ以上はもう持ちませぬ。岐阜城に退きましょう」

 もはやそれしか道はない。秀信もわかっていた。秀信は苦渋の表情で決断する。

「岐阜城まで退くぞ! 皆、なんとしてでも生きて帰るのだ! 」

 秀信の撤退命令は迅速に各隊に届き撤退が始まった。東軍も渡川の疲れがあったのか追撃はしない。元より東軍の最期の攻撃目標は岐阜城であるのだからここで無理をする必要などなかった。

「このような失態。お爺様になんといえば」

 今は亡き偉大な祖父に謝りながら秀信は撤退していった。


 何とか秀信たちは岐阜城に撤退することができた。しかしすぐに東軍は岐阜城に迫るだろう。秀信は籠城を決意し三成に援軍を要請することにする。

「岐阜城は天下の堅城。容易く落ちることは無いはず。何とか耐えて援軍を待とう」

 家臣一同異論はなかった。問題は三成が援軍を送れるかどうかである。これについて柏木彦衛門は問題ない、と答えた。

「殿は御味方を見捨てるような方ではございませぬ」

 とは言え三成も畿内の平定に兵を割いている。これ以上の援軍は期待できるかといえば微妙なところであった。

「恐らく敵方はすぐにでも攻めかかてこよう」

 秀信はそう予想した。実際その通りでこの翌日には福島正則や池田輝政らの軍勢が岐阜城に迫る。秀信たちは城の各所に分かれ迎撃の態勢を整えた。

「この一日を耐えれば援軍は来る。そうなれば我らの勝ちだ」

 援軍を要請した大垣城からは一日以内で軍勢が到着できるくらいの距離である。しかしこの時秀信たちは知る由もなかったが三成は援軍を出さなかった。というより余裕がなくて出せなかったのである。

 そんなことはしらず秀信たちは攻めかかる東軍を必死で迎撃した。先日の敗北が嘘のような士気の高さである。織田家の家臣たちは秀信に心の底から忠誠を誓っており、秀信もそんな家臣達を大事にしていた。それゆえの士気の高さである。

「誇り高き織田家の武名。汚すわけにはいかぬ」

 それが秀信の、そして家臣たちの心意気であった。彼らは織田信長という大英雄を輩出した織田家の家名に誇りを持っているのである。それが力となり数で勝る敵を何度も押し返した。

 だがそれでも事態は悪化していった。というのも敵方の池田輝政はかつて岐阜城主であった時期があり、城の構造を知り尽くしていたからである。

「やはり池田殿か」

 秀信もそうした事態は予測できなくもなかったが、どうしようもないことである。城の各所は制圧されていき最後は本丸だけになってしまう。

「もはやこれまでか。ならば最期は潔く散るとするか」

 追い詰められた秀信は自害を決意する。しかしこの少し前に家老である綱家と長政は東軍に和睦を申し出ていた。

「これ以上は無用の戦にございます。池田家は織田家と縁の深い家。どうか秀信様のお命をお救いいただけませんでしょうか。あの若さで散るのはなんとも惜しいお方にございます」

 実際のところ輝政も秀信には降伏してもらいたかったようだった。輝政の父の恒興は長信長の乳兄弟でもある。

「ここで秀信様に死なれては、今は亡き父上に冥土で会わす顔がございませぬ」

 また福島正則もこれに賛成のようだった。

「先だっての戦も此度の戦も見事な戦ぶり。天下に恥じぬ見事さだ。流石信長公の孫にあたるお方。ここで死なすのは惜しい」

 東軍の主要な二人が秀信の助命を決めたので他の皆も賛成した。了承を取り付けた両家老は急いで秀信の下に向かう。秀信は残された家臣たちと共に自害する寸前であった。

「ここでみすみす生きてはお爺様の名を汚してしまう。死なせてくれ」

 秀信は両家老にこう訴えるが両家老はこれを否定した。

「すべては生きてこそ。信長様も本能寺までは生き延びて名を残されたのです。秀信様もそうなされませ」

 綱家と長政はそう訴えて何とか自害を思いとどまらせようとした。そして長時間に及ぶ説得の末に秀信は投降を決意する。

「全く情けなく思う」

 意気消沈した様子の秀信であった。その後秀信は寺に入り剃髪し、のちの処分を待つことになる。東軍と西軍の戦いは東軍の勝利で終わり徳川家康が天下人へと大きく近づくのであった。


 戦いの後、秀信の処分が下った。改易である。これに文句はない。

「戦に敗れたのだ。当然である」

 秀信は高野山で僧になることを決意する。もはや織田家の再興はあきらめた。

「豊臣の天下も終わり徳川の天下になる。織田の天下など遠い幻であった」

 世の無常さを感じたことが秀信に僧になる決意をさせたのかも知れない。だが最後に秀信にはやることがあった。

「最後まで私についてきて生き延びたものにはどこかの武家に仕えてほしいものだ」

 秀信は静観した家臣全員に感状を欠いた。感状はその人の武功を讃えるもので、再仕官の際には大いに役に立つ。秀信は自分についてきてくれた家臣たちに何とか報いたいと思ったのである。それがかつての主君としてできる最後のことであった。

「これで私の役目は終わりだ」

 感状を書き終えや秀信は護送されて高野山に向かった。しかしここで思いもよらぬことが起きる。

「高野山には入れぬだと? 」

 何と秀信は高野山側から入山を拒否されてしまったのである。その理由は祖父の信長が高野山に攻撃をした際に被害を被ったから、というものであった。

「まさかお爺様の因果がここで災いするとは」

 生き延びられたのは信長が祖父であったからだがここで拒否されたのは信長が祖父だったからである。

「因果とは断ち切れぬものだ」

 よもやの事態に嘆く秀信。だが何とかこの数日後入山を許可された。

 これから五年後の慶長十年(一六〇五)秀信は高野山を下山した。理由は体調の悪化である。その後高野山の麓で養生するが体調は回復しなかった。そしてそのままこの世を去る。享年二六歳の若さであった。正しく自身の血に翻弄された人生であったといえる。

 なお岐阜城の戦いで生き残り感状を受け取った家臣達は多くが再仕官できた。家臣たちの忠誠は本当であったからでありそれが岐阜城への奮戦につながった。それが秀信の感状という形あるものになり家臣たちのその後の人生を助けたのである。それは信長の血は何の関係もないものであった。


 関ヶ原の戦いが起きた時、その前後様々な地域で色々な戦いが起きています。岐阜城をめぐる戦いもその一つです。三成は岐阜を家康迎撃の最前線にしようと考えていたようです。一方池田輝政や福島正則は迅速に岐阜城を制圧することで家康からの信頼を得ようと考えていました。結果から分かるように池田、福島両名の思惑通りになり三成の想定は破綻することになります。ここから関ヶ原に向かうわけですから大きな意味を持った戦いであったと言えるでしょう。そんな重要な戦いで負けたとはいえ奮戦した秀信の評価はもう少し高くていいのではないかとも思います。

 さて次の話の主人公はある織田家の家臣の話です。お楽しみに。

 最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では


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