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戦国塵芥武将伝  作者: 高部和尚
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井戸良弘 めでたし、めでたし 第八章

 判断の遅れ化日和見の姿勢のせいか良弘は城を失った。良弘はもはやこれまでと隠棲を決意する。しかし良弘はなかなか世の中との縁を切れないで生きていくことになる。そしてやって来た最後の戦いで良弘は何を思うのか。

 井戸良弘は大和で隠棲することにした。それを引き留めるものなどいなかったが、別にさみしくはない。

「私ごときの者がどこに行こうと構わんのだろうな」

 一応息子の覚弘は声をかけた。

「どうせ隠居するなら私の近くの方がよろしいのでは」

 しかし良弘は断った。

「私は羽柴殿の覚えも悪い。そんな者がいれば順慶様にもご迷惑が掛かろう」

 この言葉に覚弘は答えなかった。しかしその沈黙が肯定の意味を持っていることに良弘は気付いている。この時筒井家も微妙な立場であったからだ。

 順慶は土壇場で秀吉に味方することを決めている。これにより光秀に味方した諸将のようになにがしかの罰を受けるということは無かった。しかし秀吉と光秀の決戦には参戦できず、これについて秀吉から厳しい叱責を順慶は受けていたのである。大和内ではこの叱責のあまりの厳しさに順慶が体調を崩してしまったという噂が流れるほどであった。

「(何とか大和は失わずに済んだが、これよりは羽柴殿の信を得なければならない。筒井家もいろいろと問題を抱えてしまっている。覚弘も忙しくなる。そんなときに私の世話まではさせられない)」

 良弘としてはそう言う感情もあったから一人隠棲することを選んだのである。こうして良弘は息子の前からも去り大和での隠居を始めるのであった。


 良弘が隠居してからも戦乱は収まる気配がない。今までは信長の日本統一戦争といった趣であったがその信長は死んだ。さらに嫡男であり後継者であった信忠も死んだ。そうなると必然的に起こるのはその後継をめぐる争いである。

 光秀の討伐後行われた織田家重臣たちによる会議で、織田家の家督は信忠の息子の三法師が継ぐことになった。無論幼子であり誰かが後見しなければならない。その役目は信長次男の織田信雄が務めることになった。

 このような流れで諸々決まったわけであるが、会議を主導したのは羽柴秀吉その人である。秀吉は信長の仇を討った人物なわけでるから当然と言えた。だがこれで秀吉の織田家中での発言権は増大し、抜きんでた立ち位置になる。実質的に信長死後の織田家を主導する立場といっても過言ではなかった。

 こうした話は良弘の耳にも入る。だが重要な要点はいささか異なる。

「この所順慶様のお体の調子が思わしくないと聞くが」

 良弘は訪ねてきた覚弘にそう尋ねる。覚弘はため息まじりに言った。

「秀吉様にお叱りを受けたのがたいそう響いたようで」

「件の噂も本当だったという事か」

「はい。ですが大和を守るためには秀吉様に認めてもらわなければなりません。そのために武功をあげようと筒井家一丸となって働いておる所です。ですが順慶様は弱っておられます。あまり無茶はしてほしくないのですが」

 悲しげに言う覚弘。一方良弘は順慶の気持ちもわかる気がした。

「悲願の大和統一を成し遂げて手にいれられたのだ。ここで失うわけにはいかんと気負っておられるのだろう。こういう時こそお前たちが支えなければならんのだ」

「それはもちろんのこと」

「これからもいろいろあるだろうが話を聞くくらいなら私もできる。何か吐き出したくなったらここに来るがいい」

「ありがとうございます。父上」

 覚弘は少しすっきりした表情で言った。そして少しばかり晴れやかな顔で帰って行く。一方良弘の表情は暗い。

「順慶様も気負いすぎなければいいのだが」

 実際この良弘の懸念は当たっていた。順慶は大和を失う恐怖に追われていたのである。

「父上より受け継いだ悲願を成し遂げたのだ。ここで大和を失うわけにはいかない」

 順慶はそれなりに信長からの信頼を受けていた。しかしその信長は死に実質的に跡を継いでいる秀吉からは厳しい叱責を受けている。心中が穏やかなわけがない。

「秀吉様からの信頼を得なければ」

 そう考えた順慶は秀吉の為に戦った。幸いといっていいかわからないが秀吉に対して反発を抱く信長三男の信孝や重臣の柴田勝家との抗争が勃発し合戦も起きる。順慶が秀吉に忠誠を示す機会はたくさんあった。さらに信孝と勝家を打ち破った後も秀吉に反発する勢力との戦いは何度も起きる。それらの戦いに順慶と筒井家は何度も参戦した。全ては大和を失わないためである。

「やっと手に入れた大和。筒井家の悲願なのだ」

 だがこうした無理がたたったのか順慶の体調は急激に悪化してしまう。そして天正十二年(一五八四)この世を去った。同年中に起きた戦いに病を推して出陣したのがきっかけのようである。享年三六歳の若さであった。

「死んでしまってはどうしよいうもあるまい」

 良弘は順慶の早すぎる死を嘆き悲しむのであった。


 順慶の死の直後、良弘は秀吉から出仕を命じられた。これには良弘も驚く。

「今更私などを呼び出してどうするつもりだ」

 理解不能の秀吉の行動だが、この意味は翌年の天正十三年(一五八五)に判明する。順慶は男子がおらず甥の定次を養子に迎えていて、筒井家の家督は無事定次が継いだ。しかし天正十三年関白に就任した秀吉は大規模な国替えを行なっている。そして筒井家も国替えを命じられた。場所は大和の隣国の伊賀である。

 覚弘は伊賀に向かう少し前に良弘を訪ねた。そして涙ながらに言う。

「順慶様が命を賭して尽くしたのにこの仕打ち。全くひどい。ひどすぎる」

 伊賀への国替えに伴い実質的な石高も上昇している。また伊賀は要地でもあるからそこに配されるというのは信頼の表れといえた。しかし覚弘を含む筒井家の人間からしみれば苦心して手に入れた大和を奪われるというのはなんとも悔しいものである。しかし従わなければ伊賀すらも失う結果になるだろう。覚弘も筒井家の人々もそれをわかっているから泣く泣く国替えに応じたのだ。

 一方筒井家が去った後に入ったのは秀吉の弟の秀長である。秀吉は京や大阪を主な拠点としていたがこれらに隣接する地である大和には最も信頼できる人間を置きたかったのであろう。そして大和の外から入って来た人間である秀長を助けるために、大和の人間である良弘は手元に置き、大和の支配を助けようという魂胆であった。

 良弘は秀吉の命令を受け入れた。いろいろと思うところがないわけでも無かったが、別に断る理由もない。

「覚弘には悪いがもう少しばかり働くとしようか」

 隠居を撤回した形であるがそう多くの仕事を申し付けられるわけでも無い。時折自分の持っている人脈などを秀吉の命令で秀長に提供するだけである。半分隠居のような状態であった。そしてそれも秀長の支配が進めば徐々に不要になる。やがて良弘は形だけ秀吉に仕えているような状態になった。

「まあ、これも隠居と変わらん。このまま静かに朽ちても誰も気にせんだろう」

 のんびりとそんなことを考える良弘であった。


 羽柴秀吉は関白になり豊臣の姓を賜った。これ以降秀吉は天下統一のための平定戦を行いやがては天下人となる。大和は秀長が治めていたが病死してしまい跡継ぎも早逝したために別の人物が治めることとなった。この時良弘は秀吉の家臣経由で

「この後は好きにするがよい」

と、言われた。いちいち言われなくとももともとそう言う状況であったので、了承の旨だけ伝えてそのまま大和で過ごすことにする。

 伊賀に移った筒井家では家臣同士の内紛があり何人かの重臣が離れていったらしい。覚弘は残ったようである。しかしもはや良弘にとっては遠い世界の話である。

 いよいよ良弘は本格的に世間とのかかわりを立とうと考え始めた。

「もう奈良からも出て人里離れたところに居を持とうか」

 そんなことを考えていた良弘だがなんとここで仕官の誘いが来た。相手は丹後(現京都府北部)を治める細川忠興である。良弘は意外に思った。

「確か藤孝殿の御子息。そんなお方がなぜ私を。こんな老いぼれを雇おうというのだ」

 忠興の父藤孝はかつて幕臣であり室町幕府滅亡後は織田家に仕えていた。そして順慶と同様に明智光秀の指揮下に入っていた人物である。光秀とのかかわりは深く忠興の妻は光秀の娘であった。

 こう言う関わりであったから光秀は本能寺の変の折に藤孝が味方してくれるものだと思った。ところが藤孝は信長が死んだことを知ると剃髪し、喪に服するとして実質的に隠居したのである。これにより光秀は大きな味方を一つ失い敗北していった。こうしたはっきりとした行動は秀吉からの覚えもよく、忠興も秀吉の旗下で奮戦したため細川家は安定した立場にある。

 良弘からしみてればいちいち自分を取り立てる必要もないような立場の人物である。不思議に思ったので細川家からの使者にその旨を訪ねるとこう返答された。

「なんでも太閤殿下が近々唐に攻め入ると申しているそうで。忠興さまだけでなく多くの方々が在野の武人を集めておられます。そこで隠居の幽斎様(藤孝のこと)が良弘殿のことを思い出されたようで」

「なるほど。しかしこんな老いぼれでは大した働きは出来んぞ」

 この時良弘は六十を超えている。当時としては完全に老人といって過言ではなかった。

 この質問に使者はこう答えた。

「兵や将を唐に送るにあたって丹後に残すものも必要になると。そうした役目には良弘殿のような練達の御仁がいいだろうと幽斎様が仰せになられました」

「なるほど…… そういう事ならばお受けしましょう」

 良弘は話に乗ることにした。これからのことなど漠然と考えていたのだから渡りに船であるといえる。こうして良弘は丹後に旅立つことになった。

「まあ何か役を与えられるという事もあるまい。丹後の地でひっそりと生きて死ねばいい」

 良弘はそんな考えで丹後に向かった。


 それから良弘は細川家の家臣として丹後で過ごした。といってもやることといえば幽斎の身辺警護という名の話し相手程度である。尤も稀代の文化人として名の通っていた幽斎とのやり取りは面白かったから何の不満もなかった。

「私もあのように風雅な暮らしをしていたかったものだ」

 そうして平穏な時が流れた。しかし秀吉が死ぬと秀吉が作り上げた体制にも動揺が走る。やがて豊臣政権の掌握を図る徳川家康と、それに反発する者たちの激しい抗争に発展していった。そして日本の武将は慶長五年(一六〇〇)に東軍西軍に分かれての抗争を始める。家康と反目していた石田三成が有力な大名である毛利輝元と結託して挙兵したのだ。この時家康は同じく反目していた上杉景勝の征伐のため多くの大名を率いて関東にいたのである。これに忠興も含まれた。そして将兵のほとんどは忠興に従って家康の下にいる。忠興は三成と不仲で家康ひいきいる東軍への参加を表明していた。畿内にはほかにも東軍に所属する武将が存在し、三成ら西軍はこれらの勢力の領地の制圧を試みる。そして標的の一つとなったのが丹後の田辺城であった。

 こうした西軍の動きを受けて幽斎は田辺城の防衛のため入城した。良弘も幽斎と共に田辺城に立て籠もる。

「しかし幽斎様。兵がほとんどおりませぬ」

「確かにそうだ。だがここで石田の所業を許しては天下の静謐を乱すことになる」

固い決意の幽斎。しかし兵のほとんどは忠興に同道しており、残っている兵力はおよそ五百。籠城なら多少兵力が少なくても勝ち目はあるが、それは援軍があってのことであった。現在畿内で田辺城に援軍を派遣できそうな味方はいない。さらに西軍はおよそ一万五千の軍勢を動員して田辺城に迫ったのである。これを知った良弘は流石に自分の命を諦めた。

「こうなれば最後に死に花を咲かせて見せるか。老いぼれの身には大した最期になるな」

 こうして始まった田辺城の戦い。しかし兵力に余りの差がある。田辺城はあっという間に落城寸前まで追い詰められた。しかし良弘や幽斎を含む細川家の将兵は徹底して抗戦する覚悟である。すると西軍の攻撃が急激に衰え始めた。

「これは一体どういうことか」

 戸惑う良弘。実は西軍の軍勢を率いている諸将に幽斎から歌道等を習った弟子が多く居たのである。彼らからしてみれば敬愛する師であり当代きっての文化人である幽斎を失いたくないという思いが強かった。そしてどうにか早く降参してほしいと思い攻撃したのだが幽斎にそのつもりはない。こうなっては仕方がないので攻撃を遅延し幽斎の降伏を待ったのである。

 この事実を後に知った良弘は

「幽斎さまは知っていて戦ったのか? 」

と勘ぐってしまった。

 ともかくそうした事情もあり田辺城はなかなか落城しなかった。するととんでもないことが起きる。何と当時の天皇である後陽成天皇が幽斎の死を防ぐため東西両軍の勅使を派遣して和睦させたのだ。これにはさすがに幽斎も応じ、田辺城は開城された。しかしこの少し後起きた両軍の決戦である関ヶ原の戦いに田辺城攻撃軍は参加できず、これが響いたのか西軍は敗北した。

 良弘としてはなんとも締まりのない結末である。

「何というか不可思議な戦であった」

 討ち死にも覚悟で参戦したが結局はなれ合いのような形で終わったのであるから仕方のない。ただこれで良弘は完全に枯れ切った。

「前の隠居の時はなんだかんだと再起をうかがっていたのかもしれん。だが本当にこれでもう何もない」

 良弘は戦いが終わると細川家から暇を請い奈良に帰った。そして小さな家で静かに余生を過ごす。

「色々あったがここまで生きて穏やかに過ごせることになった。これはなんとも果報なことだ」

 奈良の片隅で良弘は周囲の人々と穏やかに交わりながら平穏に過ごした。そしてそれから十二年たった慶長十七年(一六一二)穏やかにこの世を去った。

「良い人生であった。めでたし、めでたし」

 最後にこう言い残した、かどうかは定かではない。


 田辺城の戦いの顛末は戦国史上なんとも締まりのない戦いだと思います。西軍は石田三成などはやる気があったのでしょうが他の人々はそうでもなかったのかな、考えさせる戦いでもありすね。この戦いで良弘がどのように活躍したかは不明です。しかしそののちひっそりと暮らすことを選んでいることを考えるといろいろ馬鹿らしくなったのかも知れませんね。まあそれもまた一つの幸せなのかもしれません。

 さて次なる話はある有名人の孫の話です。おそらく知名度としては幼少期が一番有名でしょう。そんな主人公の短い人生の話です。お楽しみに。

 最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では

 

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