太田資正 道 第一話
武蔵の武将、太田資正の物語。
代々上杉家に仕えてきた太田家。その一族に生まれた資正は若いころから主家のために戦い続けることを心に誓う。しかし資正の目の前には厳しい現実が立ちふさがる。はたして資正は己の道を進み続けることができるのか。
上杉家と言えば室町幕府の祖、足利尊氏の母親の実家である。それゆえ室町幕府でも重きをなし関東管領のほか武蔵(現東京都、埼玉県)守護などの重要な役職を歴任した。その上杉家の中で宗家である山内家と並び両上杉とも称されたのが扇谷家である。
さて扇谷家だが時代が下ると山内家と対立し関東にて抗争を繰り返した。さらに相模(現神奈川県)に現れた伊勢盛時、のちの世に北条早雲と呼ばれる男の参戦で関東での抗争は激化し扇谷家は衰退していく。だがそんな衰退していく扇谷家に尽くしてきたのが太田家であった。
太田家は上杉家が扇谷家や山内家などに分家する前から仕えていた。特に名将太田道灌の代には主家の扇谷家を支え勢力を拡大させた。尤も扇谷家の当主は優秀すぎる道灌に危機感を抱いたのか道灌を暗殺してしまっている。
さてこの道灌の養子の一族が扇谷家に代々仕えていた。そして太田資正もその一人である。
資正は扇谷家家臣太田資頼の子である。また兄が一人いて名は資顕といった。生まれたのは武蔵の岩付城である。資正が生まれた頃、関東では新興勢力の伊勢氏が北条氏と名前を変えてその勢力を伸張させていた。そのおかげで資正の父、資頼は岩付城を追い落とされている。その後は主家と共に奮戦し何とか復帰することができたが、北条家の脅威は簡単に消えるものではなかった。
このころ幼かった資正は父と共に城を追い出された。そして関東に襲来した敵、北条家の存在を幼い心に刻む。そして幼心に刻まれた北条の存在は資正の人生に関わり続けるのであった。
それから暫く後、扇谷家は天文六年(一五三七)に当主が朝興から朝定へと変わった。代替わりというものは多少の動揺を生むものである。この動揺を見逃す北条家ではなくわずかに生まれた隙を突き攻勢に出た。 結果、朝定は本拠地である河越城を奪われてしまう。この後の扇谷家と北条家の戦いはこの河越城をめぐる攻防を中心に展開していった。
このころの資正は舅の難波田憲重の松山城にいたとされる。これは天文五年(一五三六)に父が死に跡を継いだ兄とは不仲だったと言われている。兄の資顕は北条派であった。
「北条のやつらに味方するとは」
資正はかつて自分たち親子を城から追い出した北条家への憎悪がまだ残っていた。それゆえ兄の北条家への傾倒が理解できないでいる。とは言えこのころの関東の地域勢力というのは有力な勢力の傘下に入り利益を得るというのが基本方針であった。そういう意味では資顕の行動もそれほど不思議ではない。この兄弟の不仲は当主たる兄とそうではない弟の価値観の近いと言ってしまえばそれまでである。
「私は主家を支え北条を討って見せる」
資正はそんなことを舅の憲重に語る。
「そうか…… 」
資正の決意を聞いた憲重はまだ若い義理の息子を頼もしく思いつう。一方でその先行きに苦難が待ち受けるだろうとも考えた。
さて河越城を追い出された朝定が向かったのは松山城であった。勢いに乗る北条軍はこの機に扇谷家を滅ぼそうと松山城に攻め入る。資正は舅や難波田氏一族郎党と共にそれを迎え撃つ。
「北条のよそ者どもなど打ち払って見せる」
そう意気込んで戦いに出る資正。だが敵の勢いは強く苦戦を強いられた。
「なんという勢いだ。だが負けん! 」
苦戦しながらも資正は気を吐いて応戦した。それに呼応するがごとく松山城方も奮戦し何とか北条軍を追い払う。こうして扇谷家滅亡の危機は何とか去った。
資正は戦いが終わった松山城から外の景色を眺めていた。その表情は険しい。
「ご苦労だったな」
そんな資正に声をかけたのは憲重であった。思いもよらず声をかけられ資正は驚いた。
「養父上…… 」
「そのような顔をするな」
「ですが…… 」
憲重は資正を諌める。だがそれでも資正の表情は変わらない。
資正が視線の先には多くの死体があった。死んだのは兵卒だけではなく難波田氏一族の者もいる。さらに視線を泳がせると損壊した松山城の壁が目に入った。ところどころ焼け落ちたり矢が刺さっていたりしている。
随分と痛々しい状況に松山城はなっていた。だが資正がそれ以上に痛々しいと思うのは主君の朝定である。まだ十三歳の朝定は本拠を追われ必死で松山城に逃げ込んできた。資正と憲重が迎えた主君の姿はあまりに痛々しいものだった。正直その姿を思い出すと資正の気持ちは暗く沈む。
「これから先、扇谷家はどうなるのでしょうか」
思わずそんな弱音が出てしまうほどだった。だがそんな弱音に憲重は力強く答える。
「そう思うのなら我々が扇谷家を支えるのだ」
「! はい! 」
舅の力強い言葉に資正の表情も明るくなる。資正の表情が明るくなったのをみて憲重は安どしたようにほほ笑んだ。
この後松山城は扇谷家の本拠地にふさわしい規模に改築されていく。資正も成長し扇谷家の一翼を担うようになった。そして主君と共に河越城奪還のための戦いを繰り広げる。やがて資正の人生を大きく左右する戦いの幕が上がるのであった。
天文十年(一五四一)長きにわたり対立していた山内家と扇谷家は和睦をした。そして協力して北条家に対抗するようになる。この年、北条家の当主は氏綱から氏康に変わっていた。この代替わりの混乱をついての同盟であったが、そう簡単にはいかないのが現実である。この時にも河越城奪還の兵を挙げたが返り討ちにあってしまった。それだけ北条家は盤石になっていたという事でもある。
尤も扇谷、山内の両上杉家も簡単にことが運ぶとは考えていなかった。そこで打った次の手は駿河(現静岡県)の今川家との同盟である。今川家は北条家と領地の境界をめぐって対立していた。そこで扇谷家は今川家と手を組んで北条家を挟撃しようと考えたのである。
この戦略に資正は感心した。
「なるほど。こういう手段もあるという事か」
それまでは自分たちの力だけで状況を打破しようとしていた。だがそれだけではなくもっと大きな視野で状況を見渡し有効な手を打つ。そういうことを資正は学んだ。そしてそれは今後に生きてくるのである。
今川家と手を組んだ扇谷家と山内家は一気に決着をつけるべく天文一四年(一五四五)行動を始めた。まず今川家が北条家に攻撃を仕掛ける。これには今川家と同盟している武田家も加わった。この激しい攻勢に北条家が対応している隙に扇谷、山内家は河越城に攻撃を仕掛ける。さらにいまだ関東の諸将に影響を持つ下総(現千葉県北部)の古河に拠点を置く古河公方(室町幕府の関東統括府)の足利晴氏を引き込こんで大軍をもって河越城を包囲した。
この大軍勢に参加した者たちはみな勝利を確信した。それは資正や憲重も同様である。
「ここまでしたのだから負けるはずもない」
「その通りだ」
状況を楽観視する資正たち。この状況なら致し方ないともいえる。だが河越城を守る北条家の将北条綱成は良く持ちこたえた。そして戦いは長引き包囲したまま年を越してしまう。
一方、北条氏康は状況を打破すべく今川家との和睦を決定した。この和睦は今川家に有利な形となったが、これで後方の脅威の除去に成功する。これにより河越城の救援に全力を注ぐことができた。
この和睦の情報は連合軍の面々にも届いた。しかし有効な手段が討てるわけでもなく河越城の包囲を継続することしかできない。そして天文一五年(一五四六)、氏康は連合軍の隙をつき強襲。さらにその攻撃に呼応した綱成が河越城から打って出てきた。結果連合軍は潰走、さらに扇谷家当主上杉朝定は戦死する。さらに資正の舅の難波田憲重も死に居城の松山城も北条家に奪われた。当主と重臣、さらに城をも失った扇谷家はここに滅亡するのである。
この状況で資正は何とか生き残っていた。しかしもう主家も舅も城もない。何より圧倒的有利からの惨敗に資正の心は打ちのめされていた。しかし
「あきらめん…… あきらめんぞ…… 」
戦場から痛々しい姿で逃げていく資正。だがその目は死んでいない。
「北条の者どもを必ず打ち滅ぼして見せる…… 」
この惨敗は資正の心に折れない杭を打ち込んだ。その杭は資正の今後の人生を「北条の打倒」という道へと打ち付ける。そしてここより資正の戦いの道は始まったのであった。それは果てしない苦難の道のりでもある。
打倒北条氏に燃える資正は河越での敗北の翌年の天文一六年(一五四七)行動を開始した。狙ったのは故郷の岩付城である。
岩付城はこの時北条家の支配下にはいっていた。これは城主で資正の兄資顕が北条家に従っていたからである。だがその資顕が死んでしまう。そうなれば資顕の子が跡を継ぐはずだが資顕には男子がいなかった。必然的に資顕の跡は資正が継ぐことになる。
「これも道理というものだ。北条の者どもに通じ殿を見殺しにした罰が当たったのだ」
資正はそう信じていた。実際資顕は河越城攻防戦においては北条に内通し、事態を静観している。これが扇谷家の滅亡にどれほど影響があったかはわからないが、資正にとっては不忠なのには変わりない。
さて、岩付城に迎えられた資正は家臣を集めてこういった。
「我々は代々上杉の家に仕えてきた。特に祖父の代からは扇谷家に厚遇され栄達できた。だが兄上はこの恩着を忘れ北条に下ったのだ。これは言語道断のふるまいである。私が当主になった以上は旧恩に報いるべく戦うぞ」
資正は声高に言った。だが家臣たちの反応は鈍い。中には資正を露骨に嘲るような目をするものもいる。
この資正の演説は確かに立派なものである。しかし現実と言えば扇谷家は滅び山内家さえも風前の灯火であった。さらには岩付城のある武蔵はほぼ北条の手に落ちている。この状況で北条家へと敵対するのは自殺行為ともいえた。
家臣たちには資正の演説がこうした状況を無視したように思えた。さらには北条家に敵意がある家臣も素直に従おうとしている家臣も新しい当主を信じきれないでいる。ゆえに資正と家臣たちの間には微妙な距離が生まれてしまっていた。
家臣たちを目の前にした資正は微妙な距離を確かに感じていた。そのことに怒りがわかないでもない。だがそこは呑み込むことにする。
「(今は行動を起こし家臣に実力を示すべきか)」
資正はそう思った。確かにそれができれば北条家への恐怖の払しょくと資正の実力を見せることができる。
「(やるしかないのだ。私の大願を成就させるためにも)」
こうして資正は対北条家の行動を始めた。最初の目標は養父の居城であった松山城である。この時北条家は上野(現群馬県)に逃げ込んだ山内家当主上杉憲政への攻撃に集中していた。資正はこの隙をつき松山城を攻撃、見事これを奪取する。これには家臣一同感嘆した。
「なんと見事な」
「全くだ。資正さまがこれほどの将とは…… 」
資正は自分をほめたたえる声を聴きながら内心安堵していた。とりあえず自分の実力を見せて求心力を得るという目標は達成できたからである。
「(いささかうまくいきすぎか? だがよしとするか)」
とりあえず最初の目標は達成できた資正は岩付城に帰還することにした。ここで欲を出しては逆に危ない。
「上田殿。松山城はお任せします」
「承知した。任されよ」
資正は松山城を扇谷家臣であった上田朝直に任せた。朝直は資正の妻のいとこでもあった。資正より二回り以上年長で温厚篤実な人物である。慎重とも臆病ともいえる性格をしているが信頼できる人物であった。
「(上田殿ならば大丈夫だ)」
資正は朝直を信じて岩付城に帰った。しかしこの後に資正を待ち受けていたのは非情な現実であった。
岩付城に帰った資正は次なる一手の準備を始めようとする。だがここで北条家は目標を変え先に資正たちへの対処を優先することにした。これに関しては資正も望むところである。
「(私や上田殿が耐え忍べば関東の諸将も北条恐れるに足らずと考えるはずだ。そうなれば北条に反抗するものも増えよう。そうした者たちと手を組んでいけば勝機はある)」
実際の所武蔵や上野はともかくほかの地域でも北条家に服属していない勢力もまだまだ多い。特に上総(千葉県中部)の里見家は北条家と下総をめぐって睨みあいをしていた。これらの勢力を結集すれば勝機はある。そう資正は見ていた。
しかしそんな資正の目論見はあっさり崩壊する。なんと松山城の上田朝直が北条家に降伏してしまったのだ。これには資正も絶句するしかない。
「…… 何という事だ…… 」
やっと絞り出せたのはそんな一言だけであった。
松山城が降伏した以上、資正の岩付城は孤立無援となった。これではどうしようもない。資正に選べる選択肢は討ち死にするか降伏するかだけである。資正にとって前者を選ぶのは死に等しいものだった。しかし実際に死んでしまってはそれでで終わりである。この選択肢に資正はとことん悩んだ。そして
「申し訳ありません…… 養父上…… 朝定様…… 」
資正は降伏を選んだ。正直腸の煮えくり返る思いであったが、ここで死んではどうしようもないと判断したのである。天文一七年(一五四八)の始めのことである。わずかな間の抵抗であった。
「だが、いつか必ず機会はめぐってきます。ですからお許し下さい…… 」
資正は泣くに泣いた。だがすべては北条家が滅びるのを見届けるためである。そのためにはどんな屈辱だって耐えてみせる、そう資正は誓うのであった。
というわけで太田資正の話、第一話でした。
この太田資正という人物は今まで取り上げてきた人物の中では認知度がある方だと勝手に思っています。それはある特徴的な逸話のであるからなのですがそれについては後々語ることにします。
さて、本編のほうですが早速に主家が滅亡したうえ自分は仇敵の傘下に入るという屈辱を味わいます。しかしここからが資正の本番といえるでしょう。この後の話も楽しみにしていてください。
最後に誤字脱字などがありましたらご連絡ください。では




