鈴木重成 真面目 後編
島原の乱は終わり重成もひと仕事終えた。老齢の重成はこれで自分の役目は終わりだと考えた居た。だが思いもよらぬ縁により残りの生涯をかける事業に挑むことになる。
島原の乱が平定された後、当然島原、天草それぞれの領主たちは罰せられる。島原は島原藩の領地であり松倉勝家が支配していた。だがその支配は過酷でキリシタンへの厳しい弾圧だけでなく過酷な徴税を行なっていたという。幕府は島原の乱を発生させた勝家を許さなかった。勝家は改易の後斬首される。これに重成は驚いた。
「切腹も許されず斬首とは。武士の面目を保つことすら許さなかったという事か。だがあのざまでは仕方ない」
斬首は基本武士階級以外の罪人への極刑である。武士ならば切腹という形が極刑であった。そこを曲げてでも勝家を斬首したのはそれだけ島原の乱を起こしたことが幕府の怒りを買ったという事であり、領民に対する暴政への最大級の処罰という事なのだろう。なお江戸時代に斬首となった大名は松倉勝家のみである。
一方天草を収めていた寺沢堅高は天草の没収のみとなった。そもそも天草は堅高が支配していた唐津藩の飛び地である。島原藩の一揆よりは規模が小さかったのだと思われたのであろう。それゆえか勝家より甘い措置になったのである。だが重成としては得心が行かなかった。
「天草もひどい支配をされていたという。島原と変わらんそうだ。それが一揆の原因となったのなら寺沢殿も厳しく処罰されるべきではないのか」
重成は珍しく声を荒げていった。これには重祐も重辰も驚くのであった。
なお寺沢堅高はその後幕府への出仕を止められ面目を失った。そして島原の乱の終結の十年後自害している。
島原の乱の二年後の寛永十六年(一六三九)重成は天草に向かうことになった。これは天草が新しい領主のものとなるため検分するためである。そこで重成が目撃したのは驚くべきものであった。
「信じられん。田も畑も荒れつくしている。そもそも人がおらんではないか」
そこで目撃したのは人のいない荒廃しきった村々である。よくよく調べてみるとこの村の人々は島原の乱で一揆に参加していた。一揆に参加した者たちは農民であれ浪人であれ悉く討ち取られている。一揆には老若男女問わず村単位で参加していた。ゆえに帰る者のいなくなった村が天草にたくさん出来上がったのである。
「これではどうしようもあるまい。村を蘇らせる策を考えなければ」
重成は部下と共に無人の村を見て回った。そして餓死したであろう農民の亡骸を見つけた。死体は殆ど白骨化しており一揆の時のものではない。そうした死体がいくつか見つかった。
「これは寺沢殿の時代に食うものもなく飢え死にした者たちの亡骸であろう。ここまで追い詰められていた者もおるのだ。明日は我が身と思うともはや一揆に参加するしかなかったのだろうて」
重成は怒りを覚えた。しかしそれをぶつけるべき相手はここにいない。兎も角今は天草の検分を続けることだけしかできない。そうすることで少しでも現状を知り天草の状態を良い方向にもっていく手掛かりを見つけるべきであった。
「ともかくほかの村も回ろう。一揆に参加せず村に残ったものの村もあるかもしれん」
重成は天草中を駆け回り村々を見て回った。幸い一揆に参加しなかった村も多くある。だが村人たちはみなやせ細り貧困にあえいでいるようだった。
「寺沢殿は一体どのような治世を行なってきたのだ」
そのうえ天草を周り調べてみるとどうも幕府に伝えている石高に実態がそぐわないようにも思える。
重成は怒りを抑えながら村民から話を聞いて回った。そこで出たのは税の重さやキリシタンへの厳しい取り調べの数々である。捕縛され処刑されたものや拷問にかけられたものもいるらしい。
村長はこう言った。
「もはやこの村にキリシタンはおりません。そう言ったのにまだいるはずだとお役人は我らを厳しく取り調べられました」
そう話す村人はキリシタンではないようだった。しかし重成が回った村の中にはキリシタンの痕跡をわずかながら見つけている。だが重成はそれを黙っている。
「(もともと天草を治めていた小西殿はキリシタンであったらしい。ゆえに領民にもキリシタンが多いのだ。だから反発し一揆に参加する者も出てきた。キリシタンはやめさせなければならんが厳しく抑えれば二の舞か)」
重成はそんなことを考えながら天草を検分して回るのであった。
天草での見聞が終わり帰って来た重成はさっそく報告書を提出する。そこにはこう記されていた。
「天草は乱が終わったのちも民の窮乏が厳しく暮らしを成り立たせるのもやっとのようです。これは寺沢殿が行った年貢や税の取り立てが過分で、暮らしていくための米や作物も差し出さなければいけなかった模様。また寺沢殿が定めた石高は天草の実際の石高と違うようです。しかし寺沢殿は自分の定めた石高に従って年貢や税を取り立てたため民は苦しみ一揆に参加した次第のようです。この結果天草の耕作は滞り一揆に参加した者は悉く罰せられたので廃村が多数発生しています。これらの問題を解決するには天草を天領として代官を送り込み差配させるべきかと存じます」
重成は天草で知ったことを誠心誠意書き連ね幕府に提出した。
「島原の乱は公儀の政のしくじりによるもの。それを糺さなければまた同じことが起ころう。そうなれば人心は幕府から離れいずれは滅びる」
そんなことをしみじみという重成。しみじみとつぶやいているがとんでもない内容である。これには聞いていた重祐も重辰も顔を青くした。
一方重成の報告書を受け取った幕府は頭を抱える。というのも申請されていた石高が違うとなると幕府の支配に影響するからだ。何せ大名が幕府を欺いたことになる。
「寺沢を厳重に処罰すべきだ」
「いや、今からそんなことをすれば疑いの目が幕府に向かう」
「そもそもここに記されている通り天草の石高は間違っているのか。この鈴木の思い違いではないのか」
幕府の首脳部は天草の窮乏より自身の面子が最重要であった。ただ一人松平信綱だけは報告書を眺めながら思案している。それに気づいた首脳の一人が信綱に尋ねた。
「松平殿はいかがお考えか」
こう問われて信綱はこう答えた。
「まず個々の記されている通り、天草は天領にするべきかと。石高の件もこれで覆い隠せましょう。そのうえで代官を送り復興させ今まで通り年貢や税が取り立てられれば良し。それができないようならうまくごまかせればよいでしょう」
「なるほどな。だが誰を向かわせる」
信綱は涼しい顔で言った。
「この鈴木というものがちょうどよい」
こうして重成は天草の代官になることになった。
幕府はさっそく天草を天領とすると重成を代官として送り込む。これに重成は驚いた。
「こんな老いぼれに重要な役を任されるとは」
そんな重成に重祐は言った。
「きっと父上の報告書を見てこの男ならば思われたのでしょう」
一方で重辰はこう言った。
「面倒ごとを言い出したのだから自分でやれという事なのでは」
実際のところはどちらも正解に近い。兎も角重成は天草に向かうことになる。ついでに重辰を連れていくことにした。
「私ももう年だ。いつ死ぬかわからんから代官はお前が継いでくれ」
「それならば重祐がいるのでは」
「重祐は家を守ってもらわなければならん」
「なるほど。それは然り」
寛永十八年(一六四一)重成は重辰を連れて天草に向かった。そこで重辰が見たのはあまりにもひどい天草の現状である。
「叔父上の見たこと。真だったようですね」
「ああ。だがこれをどうにかするのが我らの仕事だ」
着任した二人にとって最初の課題は廃村の存在である。廃村をどうにか復興させ作物を作ってもらわなければ年貢も何もない。
ここで重成が思いついたのは移民政策である。
「ほかの領地から人を移して村を復興させる。もちろんやってきた者への税は当面少なくする」
「それではもともといる者たち悪くないですか」
「そもそも税が高すぎるのだ。それについてはちゃんと下げる」
重成はさっそく幕府の許しを得て移民を開始した。これについては思いのほかうまくいき廃村に新たな住人がやってくる。重成はあらかじめある程度村を整備しておきすぐさま耕作ができるようにと準備をしておいた。移民達も一から村を興さなければならないと思っていたのでこれには喜ぶ。
一方で移民を含め天草の住人達に全員の税を軽くした。そもそもそうしなければならないほど皆困窮していたのである。
こうした行動に天草の民は喜ぶのであった。しかしあくまでこれは一時しのぎである。
「ここから何とか食い扶持を増やさなければならん」
重成は殖産を推進し農民たちが問題なく農作業できるように取り計らった。一方で一揆犠牲者の供養も行うなど慰撫にも努める。これには重辰は難色を示した。
「一揆の者どもを供養しては幕府の覚えも悪くなるのでは」
しかし重成はやめなかった。
「まず民の心を開いていこそだ。そうしなければ我らのやることは何も成せぬ」
強い口調で言う重成。これには重辰も感心したようでこれ以上は何も言わなかった。
その後重成は民の為に善政を行なって信頼を勝ち得ていった。
天草の民から重成は徐々に信頼を得ていった。だがそれゆえに悩みもある。
「隠れキリシタンをどうするか」
検分したときも気付いていたが天草にはまだキリシタンが多く隠れている。重成は踏み絵を行いキリシタンの摘発を行なっていたが、これでは限度があるのも理解していた。
「寺沢殿はキリシタンに苛烈な所業を行った。それを繰り返すわけにはいかん。むしろ民たちが自分からキリシタンを辞めるようにしなければ」
そう考えた重成は天草の仏教を復興させることでキリスト教に対抗しようと考えた。そしてそれを先導する役目に選んだのが兄の正三である。
正三は重成に招かれると喜んで天草に入った。重成は正三にきっちり頭を下げる。
「此度は兄上のお力添えをいただかなければなりません」
そんな重成に対して正三は鷹揚に言った。
「気にするな。こうした形で仏の教えを広げられるのなら文句はないさ。それにお前には重辰も世話になっていることだしな」
そう言って正三は自分の息子を見た。相変わらず快活な笑顔である。そんな実父の姿に重辰はため息をついた。
「世話になっているのは親父殿のせいだろ」
「まあ、そう言うことになるな」
重辰の指摘にも気にせず笑う正三。そんな正三の姿に何とも言えぬ安心感を抱く重成であった。
さて重成から天草の仏教の復興を頼まれた正三は、まず天草の各寺院の再建を行った。正三は曹洞宗の僧侶であったが、宗派を問わず再建させる。
「まずは仏の教えが学べる場所を増やすこと。それがなけりゃあどうしようもない」
正三は自分の伝手で僧侶を集め重成は寺院を再建していった。各村に一つの寺院ぐらいなら何とか再建できる。重成はためらわずに行った。幸い移民に同行する形で僧侶も同伴していたこともあったし。そうした僧侶たちにも協力してもらい仏教の復興を進める。
一方で正三は別のことを行なおうとしていた。
「寺が元通りになるだけではだめだ。そもそも天草の僧侶たちがキリスト教の僧侶に抗することができなかったから、天草ではキリスト教がはやったのだ。ならば仏教がキリスト教より優れていることを証明すればいい」
そう考えた正三はキリスト教の教えを詩論的に批判する『破切支丹』を執筆した。そしてこれを各寺で写させ僧侶たちに講義させる。講義を受けた農民たちは『破切支丹』の内容に納得し自ら棄教していった。
こうした動きを見て重成は満足する。
「流石兄上だ」
そして正三の手腕と考えに素直に感心するのであった。
重成は代官として天草の復興を着実に成し遂げていく。そのうえで成し遂げなければならないことがあった。
その日重成は重辰からの報告書を受け取った。報告書を見つめる重成の目は厳しい。一方の重辰はどこか怒っているようだった。やがて重辰が口を開く。
「叔父上の思った通りですよ。寺沢さまの申告した石高は間違っていて過分になっている」
重辰から受け取った報告書は天草全域の再検地の結果である。重成は以前の検分の際に天草の石高に対して疑問を抱いていた。そのため重辰に再度検地をさせていたのである。その結果は実際の石高が幕府に申請されている石高を大きく下回っていた。
重成は何か考え込んでいた。そして意を決したように口を開く。
「私は天草の石高を減らしてもらうよう幕府に訴えようと思う」
「それは…… 素晴らしいことです。天草の民も喜びましょう」
こう言う重辰だが誰よりも喜んでいるようだった。しかし重成の表情は険しい。それには理由がある。
「(幕府が一度決めた石高を覆すことはほぼありえん。そんなことをすれば税も減るし他所の代官も申し出るかもしれん)」
重成は今回の訴えが果たされる望みは薄いと感じていた。だが
「(民の為にこれはやらねばならぬこと。それが天道に従うという事だ)」
と、考えていた。捨て身の覚悟でもある。
暫くして重成は幕府への現状報告を行った。
「現在天草は徐々によみがえりつつあります。移民も土地に馴染みキリシタンも見受けられません。ですがこれ以上は望めませぬでしょう。寺沢殿が幕府に申し上げられた石高は過分にございます。これを直さなければ再び一揆がおきるかもしれませぬ」
重成は再検地の結果なども伝えながら幕府に訴えた。しかし幕府の答えは非情なものであった。
「ご苦労であった。天草のことはそなたに任せる。だが石高は変えられん」
予想通りの結果であった。
その後も重成は幕府に天草の石高の見直しを訴え続けた。しかしそれらはすべて退けられる。それでもあきらめず訴え続けた重成であったが、もはや老齢であった重成にこれ以上の無理は出来なかった。
承応二年(一六五三)重成は江戸の鈴木家の屋敷で倒れた。そしてそのまま病にかかってしまう。重成は息子の重祐を呼んでいった。
「鈴木家のことはお前に任せる。天草のことは重辰に任せる。重辰には後は頼んだと伝えてくれ」
これが最期の言葉となった。鈴木重成はこの年亡くなる。
天草の代官は重成の遺言通り重辰が受け継いだ。重辰は重成の跡を継ぎ天草をよく治める。その一方で幕府に石高の見直しを訴え続けた。そして万治二年(一六五九)幕府は重辰の訴えを認め天草の石高を半減した。
「やりましたよ。叔父上」
重辰はそう重成の墓前に報告するのであった。後に重辰は天草を離れ京都の代官を任されることになる。そして京都で死んだ。
のちに重成、重辰、そして正三の三人が天草の復興に尽力した功績をたたえて、鈴木神社がたてられた。鈴木神社は今も残り天草を見守っている。
戦国塵芥武将伝では知られざる武将を多く取り上げています。その中にはある土地で大きな功績を残しそこに住まう人たちを救った素晴らしい武将も何人かいます。重成もその一人ですが彼は一揆と苛政で荒廃しきった天草を見事に復興してみせました。本当に素晴らしい人物ですね。
島原の乱は教科書に載ることもあるほど知名度のある事件です。しかしその後のことについてはあまり知られていません。大きな乱の後には知られざる人々の奮闘による復興があったのでしょう。こうした事績ももう少し世に広まってほしいものです。
さて次の話の主人公は大和の戦国武将です。大和の出身や大和での戦乱に関わった人々はなぜか浮き沈みの激しい人生を送っているように思えます。次の主人公もそうした境遇の人物です。お楽しみに。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では




