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戦国塵芥武将伝  作者: 高部和尚
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鈴木重成 真面目 前編

 徳川家の旗本、鈴木重成の話。

 鈴木家は徳川家の仲でも小さな家である。そんな家の三男に生まれた重成は本来なら家督を継ぐはずもない。しかしひょんなことか家督を継いだ重成はどのような運命をたどるのか。

 天正十六年(一五八八)。この頃には戦国乱世も終焉を迎えつつあり、太閤豊臣秀吉の手による天下統一も目前であった。その豊臣家の傘下には多くの大名がいる。その中でも格も領地も格別なのが徳川家康の徳川家であった。そしてそんな巨大な徳川家なのだからもちろん家臣も多くいる。その大きさも大小さまざまであった。

 鈴木家も徳川家臣の家の一つである。徳川家の本領であった三河に長く住み多くの諸流を抱えていた。そのうち一つの当主鈴木重次に三人目の男子が生まれた。幼名を三郎九朗。後に鈴木重成と呼ばれる男である。

 さてこの鈴木家だが大した家ではない。そもそも本家の鈴木家自体が大身ではなかった。そう言うわけで徳川家臣団の中で兵を率いれる立場にあるがその中でも小さい方である。尤も鈴木重次という人物はそう言うことを気にしない。

「この乱世で家を守れれば御の字だ。幸い徳川家は大きな家になっている。その下で生きれば家も守れよう」

 そう気楽に考えていた重次は文句も言わず徳川家に従い続けた。それで大きなことを成し遂げたわけではないが家は守れる。それが重次にとって一番大事なことであった。そう言うわけだから天正十八年(一五九〇)徳川家が関東に入封されたときも文句も言わずついて行った。


 鈴木家は徳川家に従うことで無事に存続した。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いも参陣しそつなく仕事をこなす。 

 さて重成は三男であるから当然兄がいる。だが長男の重三はいささか変わり者であった。

一七歳の時に経典を読んで以降仏教に傾倒しその教えを忠実に守っている。しかしくだけた人柄で武名を重んじることを軽んじる所があった。

「何があっても命が一番だ。武名なんて後でも手に入る」

 という事をよく漏らしていた。そんな重三は重成をかわいがっていた。そして折に触れて自分の持っている本を貸してこう言う。

「これからは乱世も収まる。そうなると武芸でなく学が必要だ。お前はこの家を継ぐだろうから学んでおけ。父上も喜ぶ」

 こうれに対してもちろん重成は反論した。

「私は三男です。家は兄上たちが継ぐものでしょう」

「いや。俺はだめだ。家よりも己の思いを大事にしている。だからこの家からどっかで飛び出る。だからお前は真面目に生きて家を守って父上を喜ばせろ」

 そう断言する重三。しかし重成には重三の言っていることの意味がまだ呑み込めなかった。それが呑み込めるようになるのはまだ先の話である。


 関ヶ原の戦いの後徳川家は江戸幕府を興す。そして慶長十九年(一六一四)からよく慶長二十年(一六一五)にかけて大阪の陣が起きた。これは徳川家が旧主である豊臣家を滅ぼさんと始めた戦いである。もはや天下の趨勢は徳川家の手に収まろうとしていた。豊臣家は奮戦するも敗れ滅亡する。これで徳川家は天下統一を果たし江戸幕府による全国統治が始まるのであった。

 この大阪の陣でも重成ら兄弟も従軍した。そして特にしくじりもなく仕事を務めあげる。この息子たちの奮闘に父親である重次も満足げであった。

「よき息子たちを持ったものだ」

 そんなことを言う重次だがこれ以降重三との関係が悪化した。といっても不仲になったのではなく距離ができるようになったのである。これは重三がより仏教に傾倒し出家をしたいと言い出したからであった。これには重成も心配する。

「旗本の出家はご法度。公方様がお決めになられたことにございます」

 この時重三は別家の当主となっていた。尤も重次としてはいずれ自分の跡を継がせその家は重成にでも継いでもらうつもりである。だが重三が出家してしまえばそれもすべて水泡に帰す。だからこそ重成も父の心を慮って重三を説得しているのだ。

「そうだな。だが俺はこれ以上侍として生きていくのは無理だ。僧になって仏の道を進みたいのだ」

 重成は何度か説得するが重三は聞き入れなかった。これには重次も頭を悩ませる。そして元和六年(一六二〇)にある決心をした。

「儂の後は重成に継がせる」

 それは鈴木家の家督を重成に継がせるというものであった。これに重成は驚いたが重三はそうでもない。

「やはり俺の言った通りだ。まあ重成ならうまくやれる真面目で利発だからな」

 そう言ってむしろ重成に家督を継がせるように父に言うくらいであった。

 それからしばらくして重道は出家し僧になった。名も正三に改める。この時仏教を批判した同僚に対する反論を書にしたため見事論破した。

「これが俺の生きる道さ」

 正三は重成にそう言い残すと颯爽と去っていった。なお正三の家だが時の将軍の秀忠の温情で正三の罪は不問、家も残されることとなった。


 鈴木家の家督を継いだ重成は兎も角真面目に職務を務めた。この時すでに三十二歳であり大体しっかりとした人間になっているものであるが、それ以上の真面目ぶりである。

「私には大した才はない。兄上のような生き方もできない。ならば真面目に実直に勤めて見せるが最良であろう。そしてそれは私の生きる道でもある」

 重成の根底には己の生きる道を貫く兄の存在がある。そして自身の生きる道は何だと考えたら真面目に生きることなのだろうと考えたのだ。

 こうして真面目さを己の生きる道とした重成は、幕府の様々な職を務めあげた。それは重成が真面目であり何より優秀であるからである。その実直さは多くの人の認めるところであったし、どんな職務でもきっちりと成果を上げた。

「鈴木はいかなる役目も律儀に勤めあげる。全くいてくれるとありがたい」

「全くだ。鈴木が部下にいると仕事がだいぶ楽になる」

 そうした評判を重成は受けていた。

 一方で重成は職務に真面目なだけではなかった。ある時重成は年貢を逃れるため田を隠しているものの処罰にあたることになる。もはや罪科は明白で後は処罰を下すだけという状況であった。だがこの時に重成は改めて事件のあらましを調べる。もちろん上役はこれに苦言を呈した。

「もはやすべては分かり切っている。今更調べなくともよい」

 しかし重成は聞き入れなかった。

「田を隠した理由がどこにも記されておりませぬ。これを知らなければ決は下せませぬ」

 そう言って重成はさらに調査を続けた。しばらくして重成は原因を調べ上げる。その原因とは年貢の取り立てがひどく生きていけないため、隠し田を作りそれを利用して飢えをしのいでいたらしい。重成はこれを上役に報告した。

「元は年貢の取り立ての厳しさが原因です。それを加味すべきかと」

 だが今度は上役が聞き入れなかった。

「田を隠し年貢をごまかすは公儀に逆らう謀反と同義。手心を加えるべきではない」

 これに対し重成は食い下がった。

「ここで我らの公儀の意向を押し付けてはむしろ人心を失いましょう。せめて連座だけは取り除くべきでは」

 重成は食い下がる。この結果上役は折れ、罪人の家族に連座は適用されなかった。しかし重成は悔やむ。

「本来なら我ら公儀の落ち度。それを民に押し付けるような形になってしまった。何とも申し訳ない」

 悔やんだ重成は罪人の慰霊の為に手を尽くした。これに残された罪人の家族たちは感激し重成に感謝する。

「鈴木様はお優しいお方だ」

 こうして民に慕われた重成だが上役には煙たがられた。そしてこうした噂は各所に広まる。

「鈴木は才覚があるが頑固らしい」

「ああ。部下にはほしくはないな」

 少し前までとは打って変わった評価になってしまう。しかし重成はそれも気にせず職務に励むのであった。


 重成はまじめ一徹に仕事を続け気付けば五十を目前にしていた。

「私もそろそろ隠居を考えるころか」

 実際そう言う年である。幸い息子の重祐は立派に成長していた。また正三の息子を養子にしていたがこちらも立派に育っている。名を重辰といった。

「鈴木の家は重祐に継がせればいい。だがそうなると重辰が不憫だな」

 こんなことを考える重成。これは重祐も同様であるが、今の鈴木家は別家を立てられるほどの収入もない。尤も重辰は気にしていなかった。

「そもそも親父殿が出家してどうしようもなくなったのを引き取ってくれただけでも叔父上には頭が上がりません。俺は重祐の家臣にでもしてもらえればそれでいい」

 という事を言っていた。

 さて寛永十四年(一六三七)もう戦国乱世が過去のことになりつつあるこの時代、とんでもない事件が起こる。肥前(現長崎県)の島原で一揆がおき、さらにそこに肥後(現熊本県)の一部の領民が合流した。この一揆の一団には多数の浪人も加わっており兵力武装共に大変なものとなる。しかも迫害されたキリスト教の信者たち(キリシタン)も合流して肥前の原城址に立てこもったのだ。一揆の者たちは強奪した武装や食料を持ち込み、原城を修復して籠城戦の構えを見せた。

 この一大事に幕府も動いた。幕府は上使として板倉重昌を派遣し、九州の大名たちを動員して一揆の鎮圧を行わせたのである。しかしこれがうまくいかなかった。というのも上使として送られてきた重昌は九州の大名たちに比べて格や領地が小さく、そんな重昌に従うのを九州の大名たちが嫌ったのである。それにいくら肥大化していて武装化しているとはいえ、他家の領地の一揆の鎮圧で何か得があるわけでも無かった。そいう言うわけで幕府軍の戦意は低く連携も取れない。一方の一揆方は団結力が強く戦意も高かった。そのため幕府軍が原城に攻め込んでも容易には落城せずにらみ合いが続いたのである。

 幕府はこれ以上時間をかければ面子にかかわると思ったのか、新たに上使として老中の松平信綱を派遣。信綱は格でも領地もでも九州の大名に引けを取らなかった。九州の大名たちも幕府の最高幹部が送られてきたことで納得し新たに増援を派遣した。もちろん信綱もわずかだが軍勢を率いて島原に向かっている。この中に重成と重辰の姿もあった。

「私のような老いぼれが戦で役に立つのだろうか」

 さすがの重成も不安であったが命が下されている以上従う。重辰も同じであった。

「まあ前線には俺が出ますので伯父上は後ろにいてください」

「そうはいかん。私は鈴木家の当主として戦わなければならんのだ。それが我らに下された命だ」

 そんなことを言う重成の姿に重辰は苦笑いするしかなかった。


 新たな上使の派遣を知った板倉重昌は焦った。このまま信綱に来られては面目がつぶれるだけでなく攻撃失敗の責も問われかねない。

「松平殿が来るまでに何としてでも一揆の者どもを討ち果たすのだ」

 重昌は信綱到着前に原城への総攻撃を仕掛けた。しかし諸将の足並みはそろわず一揆勢も頑強に抵抗したので失敗に終わる。およそ四千という死者まで出す有様であった。そして重昌自身鉄砲の直撃を受けて戦死している。

 それから数日後松平信綱が到着した。信綱は島原に入ると現状を確認し原城への包囲をさらに厳しいものにする。一方で原城内の様子を調べさせ、城内の兵糧が少なくなっていることを知った。

「ならば兵糧攻めがよかろう。堅城に力攻めは愚の骨頂であるからな」

 この兵糧攻めに対して反対の声も上がった。相手は侍でもないのに何を恐れているのか、という事である。しかし実際のところ浪人も参加しているし原城の守りが固いことは皆知っていた。さらに戦国乱世を知る立花宗茂らの領主たちは信綱の策を支持したため兵糧攻めが決定される。

 この兵糧攻めの決定に安堵する者も多かった。重辰もその一人である。

「人は生きていてこそ。むやみやたらに危険な手に出る必要もあるまいて」

 実際鈴木家の家臣や兵士たちも同様であった。そして重成も

「力攻めが下策という松平様のいう事はもっとも。一揆の者どもに援軍も来るはずがない。いずれはこちらに下ろう」

と、考えていた。

 こうして原城への包囲は続いた。この間ただ包囲していただけでなく幕府と交易を行なっていたオランダが砲撃するという奇策も行われている。だがこれは諸大名の反対もあって一度きりとなった。

 そうこうしているうちに原城内の兵糧は枯渇し始めた。もう一息で落城というところまで来たがここで幕府からの指令が下る。

「これ以上の長期化は幕府の面目に関わる。一刻も早く鎮圧すべし」

 この指令に腹を決めた信綱は諸将と軍議を行い原城への総攻撃を決定した。やがて原城への総攻撃が始まる。幕府軍はその圧倒的な物量で一揆勢を蹂躙していった。重成も自ら前線に立ち兵を率いる。これにはさすがに重辰も青い顔をした。

「無理をしないでください叔父上。死なれたら重祐に何といえばいいのか」

「そうも言っていられん。私が前に立たねば兵たちは怖気づく」

 重成は重辰の制止も振り切って暴れまわった。存外好戦的だったのかも知れない。兎も角攻撃は無事成功し重成も重辰も生還した。そして島原、天草の一揆は壊滅したのである。

 すべてが終わり動員された大名たちも幕府に動員された旗本たちも帰路についた。

「そもそもは領主の失策が原因。それを民に背負わせる結果になったな。今度は上に立つものが民の苦しみを和らげなければならん」

 重成は帰り道でそんなことをつぶやく。だがこの時は思いもよらなかった。自分が民の苦しみを和らげるものになることを。


 はたして島原の乱のあった時代が戦国時代に入るのか、という疑問はごもっともです。それに関しては諸説あるのでここでは戦国時代の範囲に入るという事でご容赦を。

 さて今回の話の中で島原の乱が出てきました。有名な一揆でありに明治維新までに起きた最後の内戦という側面もあります。これの鎮圧に参加した武将には立花宗茂など戦国時代を戦い抜いた歴戦の将もいましたが幕府軍は大きな苦戦を強いられました。これに関しては大阪の陣だって20年近く前なのですからもう戦いは過去の物、という認識があったのかも知れませんね。参加させられた大名たちや将兵にはたまったものではなかったでしょう。その原因は領主の苛政であったわけですからなんともやるせない話です。

 さて次回は重成のある功績に関わる話です。まじめ一徹の鈴木重成は何を成し遂げたのか。そしてどのような最期を迎えるのか。お楽しみに。

 最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では

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