石川家成 従兄弟 第十章
いよいよ近づく羽柴家との決戦。一方で家成が気になるのは数正のことであった。しかし隠居の身ではどうすることもできない。家成にできるのはただ成り行きを見守ることだけである。
羽柴家との直接対決が迫る中で徳川家は羽柴家に敵対する勢力と同盟を結んだ。そして羽柴家に対する包囲網を作り上げる。そして天正十二年(一五八四)家康は自ら軍勢を率いて出陣すると尾張の清州城に入った。ここで信雄と共に大阪から秀吉を迎え撃つつもりであったが、織田家臣の池田恒興の離反を受けて小牧山城に移ることにする。
こうした状況の中で主力として動いたのは酒井忠次ら東三河衆や本田忠勝、榊原康政などの旗本衆であった。数正は出陣しているが家康のそばに置かれている。これが数正にとって不満であった。
「(もしや私が離反するのではないかと思っているのか)」
実際そんなわけはない。家康としてはこの戦いですべてが終わると思ってはいない。今後のことを考えると秀吉との取次ぎには数正の存在が不可欠であった。ゆえに前に出さず近くに置いているのである。
「(数正は今後も働いてもらわねばならぬ。羽柴は強敵。忠次も忠勝も全軍を用いらなければ勝てぬだろう。本陣の守りは数正ら西三河の衆に任せ奴らを前に出すのが必勝の策である。それに数正は戦には反対しておった。そうした心持ではみすみす討たれてしまうやもしれぬ。それだけは避けねば)」
家康としては適材適所の結果のこの状況である。そもそも裏切りそうなものを手近に置くはずもないだろうに。しかしこの時の数正の頭の中はそこまで思い至らぬほど追い詰められていた。
犬山城の池田恒興は信長に重用された身であったが、時代が羽柴家に傾きつつあることを理解して羽柴家に従った。同じく恒興の娘婿の森長可も織田家臣であったが恒興に同調する。そして恒興の援護の為に犬山城近辺に出陣した。
一方この動きは徳川方に筒抜けであった。酒井忠次は松平家忠と共に出陣し森家の軍勢に奇襲をかける。長可は思わぬ奇襲に驚くもすぐに軍勢を立て直し抵抗した。しかし抗いきれず撤退する。その後秀吉が到着したため戦局は膠着状態に移った。
この状況の中で数正は家康に和睦を提案した。
「両軍が全力でぶつかれば双方ただではすみませぬ。傷は深くなるでしょうから今後にも差し障りがありましょう。ここは和睦すべきです。家康様が御了承成されれば私はこれより秀吉様の陣に参り話をまとめてまいります」
しかし酒井忠次や本田忠勝はこれに反対する。
「我らが退けたのはあくまで森家の軍勢。羽柴殿の兵には痛手を与えておらぬ。この状況で和睦しても大して意味はあるまい。兵を動かし損だ」
「その通りだ。どうにか大きな痛手を与えなければ終わりまで出張った甲斐がない」
「しかしこれ以上秀吉様と戦を続ければ徳川家の損になりまする」
数正はあくまで食い下がった。しかし家康としてはまだいくさを続けるつもりではある。何より同盟者の信雄がやる気であった。
「和睦はまだ早かろう。せめて秀吉に一泡吹かせんと」
そう考えて家康であったがその機会はすぐにやって来た。池田恒興が三河に攻撃を仕掛けようとしたのである。この作戦は秀吉の了承の下の行われ、秀吉も甥の秀次に兵を預け恒興たちと出陣させた。
しかしこの動きは家康には筒抜けであった。動きを察知した家康はすぐに動き逆に恒興や秀次たちに攻撃を仕掛け敗走させた。これらの戦いでは榊原康政や井伊直政などが活躍している。特に家康旗下の旗本たちの活躍は目覚ましかった。
「我が下で手塩にかけて育ててきたかいがあったものだ」
この戦果に喜ぶ家康。一方の数正は特に戦果も挙げられなかった。
家康は秀吉の甥率いる軍勢を撃破しその名声を高めた。一方で秀吉の本隊には大きなダメージを与えられたとは言えない状況でもある。さらに信雄の領地は羽柴家に攻撃され陥落していったという事態にもなった。
こうした状況を受けて信雄は秀吉への抵抗を断念し講和してしまう。尤も実質は降伏同様のものであった。
「これではもはや戦えん」
これを受けて家康も秀吉と講和する。条件は秀吉側の有利なものであったが降伏したというほどのものではなかった。
「…… というのが此度の戦の顛末です」
康通はそう家成に言った。家成は苦い顔をしている。ついでに屋敷の上の空は雲が立ち込め家成の心と同じくらい暗い。
「勇んで出て言ったはいいが得られたものは大してない、か」
「一応武名は上がりましたが」
「そうかもしれんが代償が大きすぎるだろう」
そう言って家成は庭を見た。だが実際は庭の塀の向こうを見ている。
「地震と大雨。領地が荒れ放題にもかかわらず行った戦で大したものが得られぬとは」
ここ数年徳川家の領地では地震や大雨が起きていた。そのため領内は荒れに荒れ多くの領民が苦しんでいたのである。さらにそこに甲斐、信濃を手に入れるための戦や今回の羽柴家との戦いも加わった。これによりますます領地は荒れますます領民は苦しんだのである。
そこは康通も理解している。そのため出陣を命じられなかったときは内心安堵していた。
「我らを残したのは居城の目の前の領地で一揆でも起これたらどうしようかという事なのでしょうね」
「まあそうだろうな。ただ得る物がなかった以上この先どうなるかはわからんぞ。今回の戦で大した痛手も与えられた訳ではなさそうだからな。しばらくしたらまた戦になるだろうがその時はどうするおつもりなのか」
現状徳川家はこれ以上戦いができないくらいの状況に追い込まれていた。しかし羽柴家は今回の戦いの痛手を癒したらすぐに向かってくるだろう。そうなったときに勝ち目はあるのだろうか。家成はそう考えていた。
康通はため息まじりに言う。
「もはや数正殿の伝手を頼るしかないでしょうな」
「まあそうだな。おそらく家康様もそこを当てにしているのだろう。まあ数正は出来る男だ。此度も家を守るためにやってくれるはずだ」
そう言ってようやく家成の表情はわずかに晴れた。空を見上げてみると雲がどいて日が差している。家成の今の気持ちそのものである。
だがその日に少しずつ大きな雲が近付いていた。
領内の立て直しに追われる徳川家だが天正十三年(一五八五)周辺の状況がますます悪化していった。まず羽柴秀吉はいったん家康との決着を保留し周辺の敵対勢力の鎮圧に移る。そして各個に敵対勢力を鎮圧し周囲の敵を一掃した。これにより家康と包囲網を築いていた勢力は軒並み秀吉の軍門に下る。
さらに秀吉は当時の朝廷で紛糾していた関白をめぐる争いに介入。これを利用して自らが関白の座についた。豊臣の姓を賜り豊臣秀吉と名乗るようになった秀吉は天下に号令をかけられる立場になる。
一方の徳川家は領内の立て直しもままならぬ有様で、味方になりそうな勢力も北条家ぐらいという状況あった。秀吉は圧倒的な軍事力の差と関白の威光をもって徳川家に対する圧力を強める。
こうした状況下で隠居である家成の耳に入ってくる情報は頭を悩ませた。
「身内でいさかいを起こしている場合ではあるまいだろう」
家成の耳に入ってきたのは徳川家の重臣同士の対立に関する情報であった。具体的には豊臣家への対応をめぐって、酒井忠次、本田忠勝など強硬派と石川数正などの融和派に分かれて対立しているという事らしい。
忠次や忠勝としては小牧・長久手での戦果を鑑みて局地戦でなら勝機があるという事だった。
「容易く敵の意向に従っては家の存続も危うい。まずは一戦交えて我らの精強さを知らしめるべきだ」
「忠次殿の言う通り、まず痛手を与えそのうえで和睦しなければ徳川を取り潰されるかもしれん。それに豊臣に下れば北条は怒ろう。そうなれば北条と戦になろうがその時に豊臣の者どもがあてになるのか」
こうした主張に数正は猛烈に反対した。
「もはや秀吉様の威光は天下にとどろいている。何より領地も兵も差が開きすぎている。我らがいくら痛手を与えようと痛くあるまい。むしろ逆らえば力でねじ伏せられそれこそ御家は滅亡だ。ともかくここは秀吉様に従い家を長らえさせることのみを考えるべきだ」
数正は強硬に主張した。しかし忠次たちはこれを受け入れるつもりなど全くないらしい。
家成の屋敷に姿を現した康通はため息まじりに言った。
「毎日激しい言い合いが行われますがどちらも譲らず何の結論も出ません。お互い自分の主張を譲るつもりなど無いのでしょう」
「そうか。しかし家康様はどう考えておられるのだ」
「難しいですね。双方の言い分に理があるとお考えなのでしょう。ただどちらの言い分を取り上げるにしろ一方を説き伏せるのは難しく思います」
この康通の言い分を家成は否定した。
「そこをどうにかするのが当主の役目であろう。特に此度は御家の存続につながる。家康様がはっきりと決めなければならんことだ」
切り捨てるように家成は言った。これには康通も苦笑する。
「容赦ありませんね」
「それはそうだろう。何度も言うようだが御家の危機だ。家康様が舵を取っていかねばならぬ。それを忘れてもらっては困るのだ。俺としては数正の言が正しいと思うが」
「確かにそう考えている方も何人か。しかし先だって武功をあげられた忠次様や忠勝さまに逆らおうというものはいませぬ。何より豊臣が織田家を蔑ろにしたことに怒っている方が思いのほか多く。そうした方々が数正様を廃しようとしているという噂もあります」
「馬鹿な話だ。そんなことをすれば御家は本当に終わりだ」
家成はため息をついた。康通も同様の心境のようでこちらもため息をつく。もはや二人にできることは無さそうであったのが沈む気持ちに拍車をかけた。
「(このような状況では家康様も数正に任せることもできまい)」
ああは言ったものの家康の状況に少しばかり同情する家成であった。ともかくこの時期の徳川家は内外共に危機的状況にあったといえる。そしてこの状況をさらに悪化させる事態が起きてしまう。
その報せを家成が知ったのは状況がある程度落ち着いてからであった。それまでの間隠居所で家成は異様なまでにあわただしく動く石川家臣たちの姿を見ている。
「(いったい何があったのだ)」
気にはなるが殊に触れて家臣たちの様子は尋常ではない。何か事件があれば家成の耳にも届くのだが、それすらないという事は相当の大事であると感じていた。
「(おそらく豊臣家への対処に関すること。まさか数正に何かあったのか)」
これは大体が正解であった。しかし肝心の部分が違う。数正に何かあったのではなく何かしてしまったのが正解である。
それからしばらくして康通がやって来た。その表情は暗く疲れ切っているようである。だが何よりも普段と違うのは口を開くのをためらっているような様子であった。
「(いつもなら普段は軽口から始める男だ。それが黙り込んでいるとは)」
家成は改めて起きた事態が大変なことであると理解する。ゆえに康通の心の準備を待った。そして康通はゆっくりと、しかしはっきりとこう言った。
「石川数正殿が出奔し、豊臣秀吉殿のもとに下りました」
家成は絶句した。いくらなんでも信じられない話である。あまりの衝撃に固まったまましばらく動けなかった。
暫くして家成は震える声で尋ねる。
「数正が出奔したのか」
「はい」
「しかも秀吉殿の下に」
「左様で…… 」
親子の間を重苦しい空気が漂う。康通は沈痛そうな表情でうつむいた。家成は大きなため息をつくと今度はしっかりとした声で康通に尋ねる。
「原因は忠次殿や忠勝との諍いか」
「恐らくは。皆そうだと言っております。しかし数正殿は何も言わずに出ていかれたようで」
「出奔という事は身一つでか。いや確か子息は秀康様に付いて行って居たな」
秀康というのは家康の子で先年の和睦の際に豊臣家の人質として差し出された。この時数正の二人の子が付いて行って居る。かつて今川家に人質として出された家康に家斉がついて行った時と同じようなものである。
兎も角数正は出奔し豊臣家の下に下った。これはあまりにも重い。ありえないレベルでの最悪の事態といってもよかった。
「(数正は古くから仕え西三河の衆を統率する存在。徳川の兵法の多くを知っている。そんなものが敵方に下ったようなものだ。しかも秀吉殿との取次ぎは数正がやっていた。これでは交渉もできん)」
軍事機密は筒抜けの上に交渉の窓口であった人物がいなくなった。もはやこれでは打てる手はない。
家成は愚問であるが康通に尋ねた。
「家康様はどうしておられる」
「此度のことの収拾に奔走しておられます」
それは当たり前であろう。この事態に誰よりも衝撃を受けているのは家康に決まっている。そしてどのような事態を引き起こすのかも。
「徳川家もこれで終わりか」
家成はぽつりとつぶやいた。康通はうつむいて何も言わない。同じことを考えていたからだ。こうして徳川家は滅亡の危機を迎える。それを打破する方法は誰にも思いつかない。
石川数正の出奔の原因は今だ不明です。諸説はあるのですが決定的な証拠もなくいくつもの説が挙げられていますが定説とされているものはいまだありません。結局のところ当時の数正の心情が答えなわけでそう言う意味では今後も応えは出ない問題なのかもしれませんね。
さていよいよ滅亡の危機を迎えた徳川家。しかし意外な事態がこの状況を一変させます。ご期待ください。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では




