石川家成 従兄弟 第九章
ついに仇敵の武田家は滅んだ。織田家は天下統一を目前とし、その傘下の徳川家の未来も安泰といえる。しかし当時の誰もが予想だにしなかった事態が起き世は乱世に戻る。そのなかで家成と縁の深い男に変化が起きる。
武田家は滅亡し織田家に逆らうほかの勢力も衰えつつあった。もはや天下は織田家の手中に収まりつつある。織田信長もそれを感じているのか甲斐からはゆるりと東海道を下り居城に戻るつもりのようであった。家康は信長を歓待すべく私財を投じて準備を進めているらしい。
「もう完全に織田家の家臣だな。まあ今川家の傘下にいたときよりいい待遇であるからな」
別に今川家からの扱いが悪かったわけではない。それでも領地は今川家の家臣に管理されているという状況であった。今は別に子を人質にとられているわけでもないし領地も気前よく増やしてもらっているのだからだいぶいい。
「これよりは織田家の下で徳川は生きる。我ら家臣たちはその助けをすることが忠義の道という事か」
家成はそう解釈していた。
さて家康が行った歓待に信長はことのほか喜んだ。そいう言うわけもあってか信長は居城である安土城へ家康を招待する。
「武田家がいる間は色々と苦労もあっただろう。どうせなら家中の者も連れてくるがいい」
この信長の気前のいい話に家康は乗った。そして酒井忠次や石川数正、本多忠勝など徳川家の中核を務める重臣たちを連れ近江の安土城に向かう。この中に康通も含まれていた。
「本来なら父上が行くべきでは」
当初康通は遠慮した。ここまで徳川家に貢献していたのは父の家成である、それが康通の思いである。だが家成はこれを退けた。
「今家康様に奉公し助けているのはお前だ。だからお前が行くべきなのだ。それに隠居など居たら周りも妙に気を遣うだろう」
ここまで言われたらしようがない。康通は家康やほかの重臣たちと共に安土に向かった。
「まあいい骨休めになるだろう。堺も見物してくると言っていたしな」
今回ばかりは気楽に待つ家成。ところが予想外のとんでもない事態が起こってしまう。
天正十年六月京の本能寺にて織田信長は横死した。理由は重臣の明智光秀の謀反である。完全に無防備であった信長にとってはひとたまりもないことであった。武田家滅亡の僅か三カ月後のことである。
家成がこのことを知ったのはことが起きてからしばらくたった後のことである。
「こうなれば畿内は混乱するだろう。家康様や康通は無事なのか」
少し前に康通から堺見物に行く旨の手紙が届いたばかりである。おそらく境に到着直後にこの事件が起きたのであろう。
「何という災難だ。だがやれることはやっておかなければならん」
家成はすぐに掛川城に入ると家臣たちに指示を出した。幸いといっていいかわからないが、石川家の家臣たちは殆どが残っている。今回の康通は家康のお供なのだから当然であるが。
「はっきり言って何が起こるかわからん。徳川の行く末もだ。だが我らはこの城と徳川の地を守る務めがある。皆奮起してくれ」
さすがの事態に動揺していた家臣たちだがこの家成の言葉に皆団結した。そしてどんな事態が起ころうと対応できるように臨戦体制を整える。また家成は居残り組になっている徳川家の家臣や領主たちと情報を共有し領内し領内の動揺を抑えた。
「あとは家康様が無事に帰ってくるのを待つだけか」
現在徳川家の誰もが家康の現状を知りえない。正直最悪の状況も覚悟しなければならなかった。
「(考えたくはないが敵方に見つかれば命はあるまい。家康様だけでなく康通も忠勝も忠次様も。そうなれば徳川家は当主だけでなく家臣の多くも失うことになる。しかも家康様の子は二人とも幼い)」
この時家康には二人の男子がいた。しかし二人とも物心ついたばかりでまだ幼い。そうなれば家臣たちが盛り立てなければいけないがそうした立場にある人々も家康と共にいた。
「こればかりは祈るしかないか」
この時ばかりは本当にそれしかない。家成は主君や同輩、そして息子たちの無事をただ祈るのであった。
そしてこの祈りが届いたのか家康も同行した家臣たちも無事帰還した。
「死ぬかと思いました」
青い顔をそう言う息子を家成は温かく迎えるのであった。
その後家康は信長の敵討ちを目論み機内へ進軍しようとする。しかし明智光秀は織田家臣の羽柴秀吉に討たれたため家康は軍勢を引き返した。一方で家康は信長の死で混乱に陥る甲斐、信濃に目をつける。武田家滅亡後に入っていた織田家の家臣たちは混乱の中で逃亡したり一揆の攻撃を受けて戦死したりしていた。甲斐、信濃の織田家領国は空白地となっていたのである。
「天下も収まろうというのにまた乱世か。俺が生きている間に天下は治まるのか」
まだまだ続くであろう戦乱の予兆に家成は少しばかりうんざりするのであった。
信長が死んだとは言え織田家が滅亡したわけではない。織田家としては一応健在である。ところが信長が跡継ぎと定めた嫡男の信忠は、信長と時を同じくして戦死してしまっていた。従って織田家は新たなる当主を決めなければならない。そのため尾張の清州で会議が行われ、織田家の新たな当主となったのが信忠の長男でわずか三歳の三法師が継ぐことになった。
これを聞いた家成はいささか呆れた。
「嫡流とは言えそのような幼子を。信長様にはまだ男子がいたはずでは」
実際その通りで信長には次男の信雄と三男の信孝がいる。実際信孝を推す声もあったが嫡流という事で三法師となったようである。この際こうした会議を主導したのが羽柴秀吉であった。それを嬉々として家成に語るのが数正である。
「敵討ちの際の手腕といいその後の織田家中をまとめた手腕といい羽柴様は素晴らしいお方でございます」
数正は家成への挨拶もそこそこにそんなことを言いだした。これには少しばかり家成も狼狽える。何せ数年ぶりの顔合わせである。隠居してからは初めての対面であった。
「久々に会って早々何を言い出すのだ」
「いえ、この私はこの度家康様から秀吉様との取次ぎを命じられました。久しい大役に舞い上がっておりまして」
「そ、そうか」
家成は数正の『久しい大役』という言い方に引っ掛かりを感じた。数正は現在も西三河衆を統率する立場であるしその地位や扱いも高い。様々な戦場に出陣して活躍することも多々あった。別に『大役』が近年なかったわけではない。
「(まるで最近は冷遇されているような言い草だな)」
数正の言い方はそう感じさせるものである。実際のところ数正は家康との距離を感じていた。それは信康の切腹の件からである。
「(家康様は信康様を廃してから私を遠ざけようとしている。特にこの所は本多や榊原たち浜松の旗本たちを重用している。とくに最近は遠江の井伊家の若造を大層可愛がっている。もはや三河の衆のことはどうでもいいと思っているのではないか)」
この所の数正はそんな事ばかり考えていた。
実際に家康はそんなことを考えていない。第一本多忠勝も榊原康政も三河の出である。確かに信康に仕えていた三河の衆は冷遇されていたが、それは信康との関係性ゆえである。家康からしてみれば数正は変わらず用いるつもりであった。
家成は数正の物言いが気になったので尋ねる。
「お前は家康様のすることに不満でもあるのか。あるなら俺に言ってみろ。どうにもならんかもしれんが吐き出せば多少は楽になるぞ」
「別にそのようなことは。大役を与えられたのに不満などありませぬ」
「そうかそれならいいのだが」
一応は数正の言い分を信じ安堵する家成。だが次の言葉はだいぶ気になるものであった。
「今後織田家は羽柴様の差配で動きましょう。そうなれば私の働きが第一になりまする。私も家康様に羽柴様と争わぬように働きかけていかなければ」
「いや、そういう事ではないだろう」
「何故です? 家康様は今まで織田家に忠実に従ってきました。その織田家を羽柴様が差配するならそれに従うべきだというのが臣というものでしょう」
一見道理が通っているようにも見える。しかし家康が信長に従っていたのは力関係以上に個人的な関係が強いと家成は見ていた。ゆえに秀吉が運営する織田家にそのまま従えというのはいささか無理のある話である。
「(こいつ羽柴殿に丸め込まれているのではないか)」
にこにこという数正を見て家成は不安を覚えるのであった。
数正のことはともかく徳川家は織田家と協議し甲斐・信濃を確保する許可を得た。これは織田家が出したものであるが実態は秀吉を含む重臣たちが出したものである。しかしその重臣の一人である柴田勝家は秀吉と対立し敗死した。こうなると織田家はいよいよ秀吉に掌握される。
「数正の言う通りになったか。しかしここからどうなるか」
家成は徳川家と織田家、というよりは羽柴家との関係が気になる。しかしそれ以上数正の立ち振る舞いも気になるのであった。
家康と秀吉の関係は一時期良好な状態が続いた。家康は甲斐信濃の確保を進め、秀吉は天正十一年(一五八三)対立する柴田勝家を撃破し立場を確固たるものにする。両者はお互いの目的を達していき良好な関係を築いていった。
ところがこの両者の関係は急激に悪化する。その理由は織田家の次男の織田信雄の存在であった。信雄は三法師の後見人であったが実質的には織田家の当主である。ところが実権は秀吉に握られていた。さらに秀吉は勝家を撃破後織田家の枠内を飛び越えて活動を始めていたのである。
もちろん信雄にはこれが面白くもなんともない。
「羽柴は織田家の家臣。だというのにこの私をないがしろにして好き勝手振舞っている。これは許せん」
怒る信雄であるが織田家の家臣の大半は秀吉に従う姿勢を見せていた。これでは戦いにならない。そこで信雄が頼ったのが家康であった。
「家康殿。この所羽柴は家臣の立場を忘れ己が主君のようにふるまっている。他の家臣たちも羽柴を主君のように敬い私のことは忘れてしまったようだ。何とも嘆かわしい。父上に会わす顔がない。だが私は父上の跡を継ぎ織田家の天下を作り上げるという悲願がある。このままではいかんのだ。不忠者を成敗する為にどうか力を貸してもらえないだろうか」
このように頼られたとき家康は内心ほくそ笑んだ。
「羽柴のこのところの動きは我らにとっても面白くない。いつか戦に臨まなければならんと思っていたがよい名目ができた」
家康は信雄と同盟を結び秀吉に対抗する姿勢を取った。同時期に秀吉に反抗する勢力とも連絡を取り包囲網を作り上げる。秀吉もこれと対決する姿勢を見せ、羽柴家対徳川・織田連合軍の戦となりつつあった。
この動きに浜松はあわただしくなる。今回の戦で家康は自ら出陣し秀吉と雌雄を決しようとしていた。尤も康通は掛川城で留守番らしい。
「まあこれが我らの役目という事でしょう」
康通としては別に不満もない。むしろ家康の留守を務めるのだから大役と感じていた。
一方で家成の顔色は優れない。屋敷を訪ねた康通が驚くほどであった。
「一体どうなされたのですか? 」
体でも壊したのかと心配になる康通。そんな康通に家成は手紙を差し出す。それは数正から家成への手紙であった。
その内容は徳川家と羽柴家が対立したことを嘆くことと家成にどうか家康を止めてほしいと頼む内容のものであった。これには康通も驚く。
「数正殿は一体どうなされたのですか」
「あやつは羽柴家殿との取次ぎであったからな。戦になれば面目を失う」
「それにしても…… それに忠勝殿たちはいずれ羽柴家と戦になろうと言っておられましたが。何より家康様が乗り気です」
首をかしげながら言う康通。そんな康通に家成は言った。
「あやつは妙に羽柴殿に入れ込んでいる。それが原因なのだろう」
「だとしても…… 」
家成の言葉に疑問を抱く康通。しかしそれは家成も同じである。
「(数正よ。お前はどうなってしまうんだ)」
頭を抱える家成。だが事態は着々と進んでいく。そして徳川家にとって大きな出来事となる小牧・長久手の戦いが始まる。これが運命の大きな運命の代わり道となるのであった。
今回の話にあたっていわゆる伊賀越えを改めて調べたのですが、予想以上に徳川家の首脳が集まっていて驚きました。基本大名家は当主が不慮の死を遂げても家臣がしっかりしていて跡継ぎを盛り立てれば何とかなります。しかし伊賀越えの時の家康の一行は酒井忠次を始め首脳陣ばかりが勢ぞろいしています。もし道中で全滅でもしていたらおそらく徳川家は無くなっていたでしょう。家康の三大危機の一つといわれる伊賀越えですが家康どころか徳川家の最大の危機でした。そう考えると徳川家康という人物はなんとも悪運の強い人物です。それも天下人に必要とされる要素の一つなのでしょうが。
さて次章はいよいよあの男がやらかします。徳川家としては三大危機とは別のベクトルの危機を迎えるわけですが、家成の目にはその時のごたごたがどう映るのか。お楽しみに。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では




