石川家成 従兄弟 第七章
徳川家は最大の危機を何とか乗り越えることができた。だがその傷は深い。そして何より大敵の武田家はいまだ健在である。そうした中でも家成は自分の務めを全うしていく。
武田家の理由不明の撤退によって徳川家はからくも生き延びた。しかし徳川家の受けたダメージは大きく、特に遠江に至ってはその大半を武田家に奪われてしまっている。しかし家康は思い切った行動に出た。
家康は家成を浜松城に呼び出すとこう言った。
「武田家が撤退していった理由が気になる。あの状況で引き上げるのは相当な異常な事態が起きたからだ」
「確かに。勝ちを目の前にして全軍撤退とは。後方を脅かされているわけでもないでしょうし」
この時武田家の後方を脅かせそうな勢力は軒並み別の問題を抱えていた。従ってそう言った軍事的な事情ではないと思われる。そうなると答えは限られた。例えば本領の甲斐で謀反が起きた、などである。しかしそれなら何か情報が入ってもおかしくはない。ならば何が原因か。
「家康様。もしかして信玄殿に何かあったのでは」
家成は当主である信玄の身に何かあったのではないかと疑った。確証が有るわけではないがこれだけの異常事態だとそれが一番ありそうである。家康はうなずいた。
「儂もそう思っていた。今の武田家で一番の大事はそれだからな」
当主が死んだのであればどの家でも大事である。しかし当時の武田家は輪をかけて大事である理由があった。それは信玄の嫡男の義信がすでにこの世のものではなく跡継ぎがはっきりと決まっているわけではないという事情がある。そんなときに当主が死んだのだから大騒ぎであろう。
「儂はこれより駿河や武田家に抑えられている奥三河に兵を出す。これで動きがなければ信玄は死んでいるだろう」
「なるほど。あえて兵を出して様子を見る、と。ならば拙者は変わらず掛川を守っていましょう」
「ああ。それを頼もうとしていたのだ。もはや遠江で抑えられているのは高天神城と掛川城、浜松城ぐらいであるからな」
家康は大きなため息をついた。苦労して手に入れた遠江がほとんど失われたのだから仕方ないだろう。家成はそんな家康の姿に同情するのであった。
その後家康は駿河や奥三河に兵を出した。しかし武田家は大した反抗もしない。これにより家康は信玄の死を確信する。
武田信玄が死んだからといって脅威が去ったわけではない。依然武田家は強力な勢力を維持している。一方で織田家は畿内に残存している抵抗勢力との戦いに注力していた。現状徳川家だけで武田家を相手にするのは難しい。というわけでできるところからという事でとりあえず奥三河の武田家に寝返っていた領主たちの調略を家康は進めていった。
この間家成に任されたのは掛川城の維持と遠江での敵対勢力の牽制であった。あくまで守りの姿勢である。幸い武田家は代替わりの影響があってか非常に鈍い動きしかしていなかった。しかしそれもいつまでの話か分かったものではない。
「再び全軍で来られたらどうしようもあるまい。我らは兵で劣っているし敵は東からくるばかりではないのだから」
徳川家の領地は武田家の領地に囲まれている形になっている。前回の武田家の侵攻においては三河方面と遠江方面の二正面から同時に攻め込まれた。兵力で劣る徳川家はこれにまるで対応できずいい様にされてしまったのである。
「武田家が動きだしたら信長様に助けを求めるしかあるまい。だがそれでどうにかなるのか。もし援軍が間に合わなければ…… 」
こうした不安を覚える家成だが不幸なことに的中してしまった。天正元年(一五七三)武田家は高天神城攻略の為に砦の築城を始めた。家成はこれを阻もうとするも家康から
「掛川城を守ることだけ考えよ」
という命令が届いたので仕方なく出陣をあきらめる。やがて砦が完成すると翌天正二年(一五七四)二万四千兵を率いて高天神城に攻撃をしてきた。新たな当主となった武田勝頼自らの出陣である。これに対し徳川家が動員できる兵力は一万ほどである。武田家の半分以下でありどうしようもできない。
家康はすぐに信長に援軍を要請した。信長もこれに応え迅速に出陣する。しかし武田家は一年前から準備を進めていた。そのため高天神城はあっという間に窮地に陥り援軍を待たず落城する。結果徳川家は高天神城を見捨てる形となった。
家成は嘆くことしかできなかった。
「再び目の前で城を取られる。何と情けない。俺がこの城にいる意味はあるのだろうか」
再びに何もできなかった家成はすっかり肩を落とし意気消沈してしまうのであった。
高天神城の落城を受けて武田家は勢いづいた。そして次の狙いを奥三河の長篠城に定める。
「我らを裏切った奥平を討ち滅ぼし、武田の力を見せつけるのだ」
勝頼は重臣らを引き連れて出陣した。この動きにたいし家康は織田家に援軍を要請する。
「ここで長篠城を見捨てれば我らの名声はいよいよ消えてしまうだろう」
そう考えていたのは信長も同じなようで、すぐに援軍を陣層に派遣した。しかもおよそ三万という大軍である。徳川家はおよそ八千で武田家は一万五千の兵力であったという。信長としてはここで武田家に大打撃を与えて背後を盤石にしておきたいという思惑もある。
徳川家も家康はもちろん東西の三河衆も旗本衆も総動員して出陣した。家康としては信長の援軍があるここで武田家に大打撃を与えておきたい。
この徳川家の命運がかかった大戦に家成は出陣しなかった。相変わらず掛川城で遠江の守りを固めておいてほしいという家康からの命令である。
この命は家康自ら家成に伝えられた。
「此度も掛川城にとどまってもらいたい」
家康は少しばかり心苦しそうに言った。この所の大きさ戦で家成は掛川城の守りのみを命じられている。前線で武功をあげる機会はほとんどなくなっていた。武功をあげるのが武士の本懐であり、それを家成から奪ってしまっているという意識が家康の中にはある。その心苦しさが、家康がわざわざ命令を伝えに来たという行動に現れていた。
一方の家成は気にしていない。
「高天神城も敵の手にある以上、拙者は動けますまい」
「ああ。それはそうだがお前から武功をあげる機会を奪っているのが心苦しくてな」
「なんの。お気にすることではありますまい。それにもはや先陣を切って暴れるような年でもないですしな」
家成は快活に笑った。家成もここまでの戦で理解したことがある。自分の今の務めはこの城を守り切ることでそれ以上の以下でもない。それがすべてである。
「(もはや忠勝も立派な将。忠次様や数正は三河の衆をしっかりまとめている。彼らが徳川の武なのだ。俺の出る幕はない)」
そんなことを考えている家成。そんな家成の姿に家康は感動した。
「お前のような己の仕事を愚直に成し遂げるものがいるからこそ家は成り立つのだ。お前の忠義は主性忘れん。そしてそれに必ず報いるぞ」
何時になく熱のこもった口調で言う家康。そんな主君の姿に家成は思わず苦笑してしまうのであった。
その後織田・徳川連合軍は設楽原で武田家と激突した。戦いは連合軍の圧勝で終わり武田家は多くの兵と多くの重臣を失う大敗を喫する。家成はこの先勝の報告を聞くとすぐに出陣の準備を始めるように家臣に命じた。これに一人の若い家臣が疑問を抱く。
「大きな戦が終わったばかりなのですが」
これに対して家成はこう言った。
「武田家は大負けしたのだ。家康様ならこの機を逃さず遠江に兵を出す。我らも出陣することになるだろうから準備は早い方がいい」
この家成の発言に若い家臣はまだ納得していないようだった。それから少しあとに家康からの伝令がやって来た。伝令はこう告げる。
「これよりこの戦の戦勝に乗じて遠江の各城を攻め落とすと申されております」
「承知しました。すでに準備は出来ておりますので、家康様にはご安心なされよと伝えておいてくれ」
「かしこまりました。では」
そう言って伝令は駆け出していった。このやり取りを聞いた若い家臣は家成を尊敬のまなざしで見つめる。それに苦笑する家成であった。
それから少しあと、浜松に帰還した家康は出陣していた将兵を休めるとともに守備の為に残していた将兵と出陣した。これに家成もすぐに合流する。
「待ちわびておりましたよ」
「そうだな。待たせた」
家成と家康はそう言って笑い合った。その後二人は遠江の城を次々と攻撃する。この頃には武田家の大敗の情報が届いており各城の城兵は動揺しきっていた。そこに家康自ら出陣してくるのだからひとたまりもない。兵をまとめることもままならずろくに抵抗もできずに落城していく。中には戦わず降伏する城もあった。
「聞けば大敗だったらしいがここまで動揺させるとは。ここまで勢いがあったことが逆に災いしたのかもしれんな」
家成はこの情勢をそう分析した。
こうして各城を落していく中で高天神城に攻め入るかという話になった。
家康は攻撃したかった。
「できるなら落しておきたい。あの城を取り戻せばあの時堕ちた名も多少は戻ろう」
あの時高天神城を見捨てる決断を下したのは今でも苦い思い出となっている。ゆえにどうにかしておきたかった。
しかし家成はこう言った。
「あの城は堅城。勢いがあるからといって落とせる城じゃあありませんよ」
実際問題その通りである。家康は渋々家成の言い分を受け入れた。
「次に攻め入るときはお前にも出張ってもらうぞ」
「勿論。その時は先陣にしてくださいよ」
「ふん。もはや先陣を切るような年ではないと申しておったではないか」
「はて、そうだったかな」
この家成の物言いに家康は吹き出した。それにつられた家成も笑いだすのであった。
だがこの約束は果たされることは無かったのである。それはこの数年後に起きたある事件が関わっている。
天正八年(一五七八)越後(現新潟県)の上杉謙信が死んだ。これにより後継者争いが起こる。この後継者争いに徳川家はかかわっていない。だが領地を接し幾度となく矛を交えてきた武田家と北条家は無縁ではなかった。特に北条家は後継者候補の一人が一門の人間であったので当事者であったといえる。しかし当時別方面に敵を抱えていた北条家は同盟者である武田家に支援を要請した。ところが武田家はもう一人の後継候補を支援し、北条家の出身であった後継候補は死んでしまう。これにより北条家と武田家の同盟は破綻。北条家は翌年の天正九年(一五七九)に徳川家と同盟を結んだ。
この天正九年に徳川家を揺るがす大変な事件が起きた。何と家康の嫡男で岡崎城主であった徳川信康が切腹したのである。これを知った家成は驚嘆した。
「信康様が切腹するようなことがあったというのか。信じられん」
信康は嫡男であり最近の戦でも武功をあげている。そんな信康が自害させられるような事情など家成にはさっぱり思いつかなかった。
ただこの件について家成は家康の指示を疑っていた。
「先月いきなり岡崎に向かい信康様の城主の任を解いた。それから一月ほどでこの始末。これ程のことができるのは家康様しかおらん。しかし理由がわからぬ」
後継者の腹を切らせるなど主君しかできないことである。なのだがそれもよっぽどの理由がなければできないだろう。信康は信長の娘である妻と不仲であったというがそれが理由でもあるまいと家成は思った。
「もはや家康様と信長様の関係は対等ではない。家康様は信長様の家臣同然になられた。だからといってそこを気にして息子の腹を切らせるなどしない。だがそれではいったい何が理由なのだ」
悩む家成だがこの答えは結局出なかった。家康は信康が謀反を企てたのが理由だとしている。しかし信康は最後まで無実を主張していたらしい
これを知った家成は肩を落とした。だがそれ以上に落胆している男がいる。信康の後見人であった石川数正だ。
「跡継ぎを殺してまで何を成そうというのだ。家康様のやり方はいくら何でもありえん」
そう嘆く書状が家成のもとに届いた。家成もその気持ちは多少わかる。
「徳川のため、なにがしか理由があったのだろう。だが何であれ容易には納得できん」
当然家中は動揺するが家康はこれを力で押さえつけた。また岡崎城に詰めていた家臣の一部を処刑したり処罰したりしている。家成にはこれが家康による粛清にも思えた。実際岡崎城の家臣や三河の一部の者たちは自分たちが不遇をかこっていると不満を漏らしていたらしい。実際近年武功をあげ恩賞を受けるのは浜松の旗本衆や領主たちの方が多かった。
「三河の衆の不満がこれの背景にあるのか。いや、結局何を考えても無駄なことであるな」
家成はなんとも空しい気分になった。自分は掛川城にとどめ置かれて武功をあげる機会がなかったが自分で納得する理由を持つけている。三河の衆はそれができなかっただけというわけでもあるが、自分がもし不満を漏らしていたらどうなっていたか。
そんなことを考えた家成は自嘲した。
「こんなことを考えているようではもうおしまいだな。いや、それでいいのかもしれん」
家成は隠居を決意した。そしてその旨をすぐさま家康に届ける。家康はもちろん多くの家臣が驚いた。そして皆が家成を引き留める。家康も同様であった。
「まだ隠居には早い。お前にはやってもらわなければならぬことがまだあるのだ」
しかし家成に決意は固かった。これには家康も折れ家成は隠居を認められる。信康切腹の翌年、天正十年(一五八〇)のことであった。
三方ヶ原の戦いから家成の隠居までの間に起きた戦いに石川家成の名前は見受けられません。この間に起きた戦いの数々は徳川家の命運にかかわるものばかりでした。そこに家成がほとんど関わらなかったことについて、いろいろと想像の余地はあります。ただ後年に起きた出来事を考えると家康からの信を失ったわけではないだろうと思います。今回は数少ない遠江の拠点である掛川城の守備を任されたからという理由にしました。しかし本当のところは不明であります。
さて今回の話で家成は隠居しました。一方で徳川家はここから飛躍していきます。隠居の身になった家成にはどのように見えるのか。お楽しみに。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では




