表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
戦国塵芥武将伝  作者: 高部和尚
186/399

石川家成 従兄弟 第六章

 激闘の末に遠江を手に入れた徳川家。家成もこの結果に大いに満足する。しかしその過程で武田家との関係に亀裂が走った。この亀裂が新たな戦いを呼び込むことを家成は感じ取っている。

 徳川家と今川家の間で和睦が結ばれた。この結果氏真は掛川城を出ていく。これにより戦国大名今川家は滅亡した。

「とはいえ駿河では武田と北条の戦がまだ続いているか。となれば遠江をなるべく早く手中に収めねば」

 家成は武田と北条の戦いが収まれば武田家の矛先は徳川家に向く。そう考えていた。それは家康も同様のようで迅速に遠江の掌握を進めていく。その中の立場に大きな変化が生じた。

 掛川城を手に入れ遠江の掌握を含む戦後処理の最中に家成は家康に呼び出された。家康は今川家との戦いが終わった後も三河に帰らず遠江にとどまっている。家成も西三河衆は帰したが自分の手勢の大半と共に遠江にとどまっていた。

 家成は自分が呼び出された理由を考えていた。

「恐らくは遠江の治世に関わること。しかし俺を呼び出した理由がわからんな」

 どのみち考えても仕方ないと家成は家康の下に向かった。

 家成と対面した家康はまずねぎらいの言葉をかけた。

「此度も先陣をよく務めた。流石の戦ぶりだ。忠勝などは負けていられんと奮い立って居ったぞ」

「それはいいことです。あやつなら拙者に負けぬくらいの武将になるでしょう」

「確かにあやつは武勇だけでなく将としての資質も見られる。康政達ほかの者共のそうだ。いずれはみなお前に負けぬ徳川の将になろう」

「それはいいことで。しかしそうなれば拙者の役目もなくなりましょうなあ」

 軽い口調で言う家成。しかし家康は険しい顔をした。

「馬鹿なことを言うな。お前の忠義は徳川随一。この先もいろいろあろう。まだまだお前の力が必要だ。そして此度呼び出したのもそれに関わることだ」

 この家康の言葉に家成は一気に顔を引き締める。家康は家成の変化を感じ取るとこう言った。

「家成よ。儂はこれより三河に帰る。だがすぐに遠江に戻ってくるつもりだ」

「それは…… いかなる理由で」

「これより我らの戦は東でおこなわれる。そうなると岡崎ではいささか不便だ。そこで遠江の城に入り、今後はそこを居城とする」

 この家康の発言に家成は驚いた。何故なら先祖代々の居城から離れるというのだから。

 だが一方で家康の考えもわかった。おそらく今後徳川家が挑まなければいけないのは武田家という強大な存在である。そのために遠江の掌握は必要不可欠であるがそのためにも自ら遠江に居を構えるという事なのだろう。

 家成はそう考えて納得した。家康もそれを悟ると家成にこう告げる。

「家成よ。お前に掛川城を任せる。これより城に入るのだ。そして東よりの敵に備えよ」

「承知しました家康様」

 間を置かず承諾する家成。しかし一つ気になることがあった。

「これより先西三河の衆は誰がまとめるのですか」

 この問いの答えをすでに家康は持っていた。

「これよりは数正に任せようと思う。あやつも多くの者どもをまとめられる位にはなった」

「そうですか。それはよいことです。そうとなれば拙者はさっそく掛川城に参りましょう」

「ああ。頼んだぞ」

 こうして石川家成は掛川城の城主となった。そして来たる次なる戦いに備えるのである。

 

 家成は掛川城に入り今後のための準備を進める。その途中でどうしても三河に帰らなければならない用事ができた。そこで思いつく。

「数正に会ってこよう。これまでの引き継ぎは滞りなく進んでいるようだが流石に顔も合わせんのは非礼だろう」

 三河に帰った家成はさっそく数正と面会した。だいぶ上機嫌そうである。

「これはこれは叔父上。引継ぎの件ならわざわざ顔を出されなくても良いのですよ」

「そうはいっても仕事を継いでもらうんだからな。顔も合わせんといくら甥とは言え失礼だろう」

 そう言いながら家成は数正の顔を見る。数正はかなり上機嫌である。

「(この仕事は待ち望んでいた仕事だろうがここまで上機嫌になるとはな)」

 内心驚く家成。だが数正が上機嫌な理由はそこではなかった。数正は上機嫌に言う。

「実は嫡男の竹千代様が元服されることになりまして。名も信長様から一字戴いて信康、とされるようです」

「ああ。そうらしいな。話は聞いている」

「そして家康様は私に信康様を後見するようにと仰せつけられたのです! 」

 どうだ! と言わんばかりに数正は言った。しかし家成の反応は静かなものである。

「それは大層なことだな。家康様もお前を信頼しているしな。岡崎は西三河に入るからお前に後見の役も任せようという事なんだろう」

 冷静に言う家成。その姿に数正は露骨にがっかりした。

「もう少し驚かれても良いのですよ」

 こんなことを言われても仕様がない。家成としては納得できる話なのだから。

「…… まあ、頑張れよ」

 そう言って家成は遠江に帰って行ったのだった。


 家成が掛川城主になった翌年の元亀元年(一五七〇)、家康は居城を岡崎から浜松に移した。

「本当に先祖代々の城を出て新たな城に移るとはな。もはや家康様は先祖代々の悲願も飛び越えている。先がますます楽しみだな」

 居城の移転は家康の同盟者である信長も行っている。家康の行動もそれを模したものなのかもしれない。

 さて家康が遠江に移ることで岡崎城は元服したての信康のものとなった。尤もまだまだ幼いので実務は主に数正が行っているようである。

 家成の下にはそうした諸々についての数正からの手紙が届いていた。いわく

「信康様は聡明でかつ勇猛なお方です。この方が徳川の家を継げば益々の発展が望めましょう。そんな方のおそばにお仕え出来て嬉しい限り。こればかりは叔父上には分かりませんでしょうが」

とのことである。

「最後の部分は余計だ」

 家成は苦笑するしかなかった。

 さて家康が遠江に移ったことで直属の旗本たちも移住してくる。浜松城は掛川城の西側にあった。そう考えると掛川城は浜松城を守る盾の立ち位置にある。

「恐らく家康様は以前から浜松を居城にしようと考えておられたのであろう。俺にこの城を任せたのは東からの敵に備えるため、というのはこういう事でもあったのか」

 家成は掛川城を任されたことに改めて誇らしい気分になるのであった。


 家康が居城を浜松城に変えた元亀元年は、同盟者である織田家にも大きな動きがあった年でもある。信長は永禄十一年の上洛の後に将軍となった足利義昭を口実にして畿内の各所や周辺諸国の侵攻を行った。そして元亀元年に朝倉家が支配する越前(現福井県)に侵攻する。この際家康は自ら援軍に向かっている。

「信長殿との盟は何のも代えがたいもの。その盟の積を果たすのだ」

 この時家成は遠江に残った。武田家への備えがあるからである。特にこの所武田家は北条家との戦いで優勢に立ちつつあった。徳川家は北条家と同盟を結んでいたが織田家への援軍を重視してあまり北条家への支援はできないでいる。

 家成としては家康の考えは理解できるが、ただ敵を見据えることしかできない現状も不安であった。

「織田家への支援も重要であるのはわかる。しかし武田家をこのままにしておいてよいものか。北条家と共に戦うべきではないのか」

 そんなことを考える家成。すると援軍に向かっていた家康の下から伝令がやって来た。

「浅井長政様が裏切り背後を突かれたそうです」

 この報せに家成は驚くばかりであった。浅井長政は信長の同盟者であり信長妹のお市を妻に娶っている。つまりは義弟でもあった。それが裏切り背後を突くというのはとんでもないことである。

 家成は伝令に尋ねた。

「家康様は御無事か」

「はい。うまく逃れることができたようで」

「そうか…… ならばこちらもいろいろと準備しておかなければな」

 数日して家康は帰還した。かなり疲労している様子である。

「此度のことは不運としか言えませぬ。兎も角今は休み体勢を整えるべきでは」

 しかし家康はこれを否定した。

「信長殿は浅井を攻めるおつもりだ。我らもこれを手伝う。そうしなければ先の戦の雪辱は果たせん。我らの沽券にかかわる」

 家成は止めようかとも考えたがあきらめた。

「(家康様はこういう時に頑固だからな。ならばそれを支えるのが俺の務めか)」

 そう考えた家成はこう言った。

「遠江のことは拙者にお任せを。家康様は思うようになされればいい」

「ああ。頼むぞ家成」

 それからしばらくして家康は再び出陣していった。今度は旗本衆だけでなく東西の三河衆も動員しての出陣である。徳川家の主力をほとんど集めての出陣であった。

「こうなれば活躍を祈るばかりか。忠次様、数正、忠勝。頼む。できるだけ痛手を与えできるだけ早く帰ってきてくれ」

 やがて近江(現滋賀県)の姉川で織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍の戦が行われた。この戦では家成の祈りが通じたのか徳川家は活躍し浅井・朝倉両家に大きな損害を与える。特に忠勝と同輩である榊原康政は大きな武功をあげた。忠次も先陣を切って活躍し数正も家康を守り切ったらしい。

「俺抜きでこの戦果か。少しばかし寂しいがまあいいだろう」

 家成は戦果を喜びつつも自分がその場にいないことに少しばかりの寂しさを覚えるのであった。


 姉川の戦いを制した織田家は浅井家に攻勢をかけようとした。しかし同時期に畿内の織田家に反発する勢力の活動が活発化し、信長はそれらへの対応に追われた。

 一方で駿河方面ではいよいよ武田家の勢力が安定し始めていて、徳川家への圧迫も強まっていた。さらに北条家は武田家との戦いを辞め再び同盟を模索しているようである。

 家成は掛川城でいよいよ近づく武田家との戦いを感じ取っていた。

「武田家もいよいよこちらに本腰を入れて対応をしてくるようだな」

 この頃家成の下には遠江の領主たちに武田家からの内応の誘いが来ているという情報をいくつも入手していた。信ぴょう性については玉石混合の状態だが、こうした武田家が攻勢をかけてくるであろうことの前触れでもある。

「信長様は苦戦しているようだが、今は我々も援軍を出せないという事なのだろう」

 姉川の戦いから家康は信長への援軍を送っていなかった。というよりも武田家の脅威が高まりつつある状態では出せないに決まっている。また徳川家は織田家が西進する為に後方を確保しておくという役目があった。武田家と織田家は同盟関係にあったが近年の情勢の変化により関係は微妙なものとなっている。また織田家と武田家は領地を接しており織田家は武田家の影を気にせざる負えない立場にあった。それゆえに徳川家には武田家に対する防波堤の役目も期待していたのである。

 とは言え武田家は当時最強の異名も持つ大名であった。徳川家も力をつけつつあるが未だ及ばないという現実である。それを家康自身理解していた。

 ある時家康は家成を呼び出して尋ねた。

「武田家はいずれ攻めてくるだろう。その時お前は徳川家の為に死ねるか? 」

 とんでもない質問のように思えるが家康も武田家との戦いが容易ではなく多くの死者も出すだろうと考えていたのである。しかも家成は浜松城の東側で、武田家が駿河から侵攻してきた場合命を懸けてでも止めなければならない。そういう位置にあった。そしてそれは家成も理解しているからあっさりと答える。

「当然のこと。そのために拙者はいるのです」

 その答えに家康はただ感動するばかりであった。


 その後徳川家は対武田家の備えを続け元亀三年(一五七二)にいよいよ武田家が徳川家の領地に侵攻してきた。武田家は信玄率いる本隊が遠江に侵攻すると同時に別動隊を信濃から三河に侵攻させる。これにより徳川家は戦力を三河と遠江に分けざる負えなくなり、ただでさえ劣っている兵力に拍車をかけさせた。

 この侵攻に際して家成は掛川城にとどまるよう命じられた。

「掛川城は要の城。ここを守り切ってもらわなければならん」

 家康も家成は敵が掛川城に襲い掛かってくるだろうと思いっている。ゆえに家康はこうした命令を出し家成はそれを受け入れた。

 ところが武田家が攻撃を仕掛けたのは掛川城ではなく二俣城であった。二俣城は浜松城と掛川城の中間地点にあった。確かにここを落せば掛川城は孤立するし浜松城を臨むことができる。しかし二俣城も堅城であった。

「何とか持ちこたえてもらえないだろうか」

 家成も兵を出して二俣城を包囲する武田家をけん制する。しかし兵力に差がありすぎて意味をなさなかった。さらに浜松城の家康は三河方面の救援に向かいどうすることもできない。織田家に援軍を頼んでいるようだがそれもいつ来るかわからない状況であった。

 やがて二俣城は落城し遠江の大半が武田家に奪われてしまう。領主たちも武田家に寝返っていった。

 どんどん追い込まれていく徳川家。さらに掛川城は孤立した状態にあり家康とも連絡が取れない状況であった。ただ城は攻撃されていないがいつでも落とせる状況であるというだけである。

 この状況を家成は嘆くばかりであった。

「このまま何もできずにいるのか。それだけは嫌だ」

 そう考えた家成は出陣の準備を整え始めた。これには考えがある。

「こうなれば次は浜松城を狙うだろう。武田家が城を取り囲む時を狙って討ち入るのだ」

 織田家の援軍はすでに浜松城に入っているらしい。その兵力と合わせれば何とか武田家を後退させることができるかもしれない。そんな希望的観測の下での作戦である。

 ところが武田家は浜松城を素通りし三方ヶ原の方面に向かってしまった。これでは家成も出陣できない。

「まさかこちらをつり出すつもりか。家康様はどうするおつもりだ」

 現状では家成は掛川城を維持することしかできない。ただ祈ることしかできなかった。

 それからしばらくして徳川家が三方ヶ原で大敗したという情報が入った。一応家康は無事らしいが多くの将兵が犠牲になったという。

「なんてことだ。こんな時に何もできんのか俺は」

 無力感をかみしめる家成。だがしばらくして不思議な情報が入る。

「武田家が引き上げ始めた? 」

 道も武田家は三河に入ったあたりで後退を始めたらしい。理由は不明である。だがともかく徳川家は滅亡の危機を免れた。

「生き残ったというのに微塵も嬉しくないな」

 家成はがっくりと肩を落とした。家成にとってただただ無力感ばかりが募る戦いであった。


 徳川家康の徳川家と織田信長の織田家との間で結ばれた同盟は清州同盟と呼ばれます。この同盟は歴史上においても非常に強固な同盟でした。相互の重要な戦ではお互いに援軍を出し、一方が危機に陥っても見捨てず長きにわたって維持されました。家康と信長は人質時代に面識があったと言われています。これに関する真偽は定かではないのですが、その時代からお互い認め合っていたとするならば双方すさまじい観察眼ともいえます。

 さて徳川家康三大危機の二つ目三方ヶ原の戦いが終わりました。ここから徳川家の戦いも新たな段階に移っていきます。そして家成もある重要な決断をします。お楽しみに。

 最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ