彦坂光正 駿府町奉行始末録 終章
大久保長安事件は落着した。これで幕府内部の権力闘争はひと段落する。そして徳川家康は幕府を安泰にするために最後の手を打った。そうした事態の中で光正はどう生きたのか。そして家康死後の光正はどうなったのか。
慶長十九年(一六一四)から慶長二十年(一六一五)にかけて大坂の陣が起きた。これは江戸幕府が体制を盤石にするべく、旧主である豊臣家を滅ぼした戦いである。
そもそもこの戦いの発端となったのは、豊臣家が再建していた方広寺の鍾銘(梵鐘に入れる銘文)に問題があったことにある。この件に関する対応で豊臣家は対処を誤り徳川家に攻撃される口実を作ってしまった。光正は直接か関わったわけではないが豊臣家の粗忽さには驚いている。
「旧主とは言え力の差は歴然。勝てぬのならば生き残れる道を探すべきではなかったのか。大御所様も徳川の下で生きるつもりならそれでいいと考えておられたようであった」
さて大阪の陣には光正は参戦しなかった。もはや戦いに赴くような立場ではなかったし家康や将軍の秀忠自ら出陣している。光正の仕事は彼らが無事に戦いに赴けるようにすることだけであった。
「ともかくこれで豊臣家は滅びるだろう。これで大御所様の目指した盤石な幕府にきっと近づく」
自分の役目もそろそろなくなるだろう。光正はそんなことを考えていた。そんな光正だがこの後にある小さな事件にかかわることになる。
大阪の陣は大方の予想通りに徳川家の勝利で終わった。豊臣家は滅亡しいよいよ徳川家が天下を治めることになる。
戦いに参加した大名は三々五々各々の国に帰って行く。家康も秀忠と別れ駿府に入った。
「これで徳川の家は盤石よ。儂もいよいよ隠居できる。あとは秀忠たちに任せればいい」
家康は心底安堵しているようだった。一方で光正はまだ安堵していない。
「まだ戦も終わって時がたっていません。戦場は大阪の地でしたが駿府に敵方の生き残りが流れてくるとも限りません。警戒はまだ解かぬ方がよいでしょう」
「それもそうだな。光正に任せる」
戦が終わった後というのはなんとも言えないざわめきのようなものが町などに広がる。それに駿府には家康がいるのだから何か害意のあるものが来ることも考えられなくはない。
こうして光正は駿府町奉行として駿府城下の警戒に努めた。すると意外な人物を見つけることになる。その報告は部下の菱井源八からもたらされた。
「実は先ほどおかしな僧侶を捕らえました」
「おかしな僧侶とはどういうことだ」
「いえそれが身なりはボロボロなのですが、よくよく見れば元は位の高そうな法衣のようでした。それによくわからないのですが大御所様に会わせろと言っていて」
「大御所様に? 何者なのだ。名は名乗ったのか」
「はい。確か文英清韓と名乗られました」
それを聞いて光正は驚いた。文英清韓といえば方広寺の鍾銘を考えた人物である。いわば先だっての大阪の陣の発端に関わる人物であった。
「元は南禅寺の長老であった方だ。しかも件の件を考えれば私一人の判断ではいかんともしがたい。しかし捨て置くわけにもいかんか」
光正は清韓を駿府町奉行所に連れてくるように言った。その一方で家康に使いを出して判断を求める。
そうしているうちに清韓が連れてこられた。確かに風体はみすぼらしいがその眼は強い意志を湛えている。そして頑固そうな顔つきをしていた。
光正は挨拶もそこそこに清韓に尋ねる。
「御坊はなぜ駿府に。しかも何故そんな姿に」
「拙僧は先だっての戦の折は大阪城に籠っておりました。しかし落城の際には城を出て駿府に向かったわけです。とるものも取らず出てきたのでこのような風体になってしまいました」
「なるほど…… 」
清韓は豊臣家の依頼を受けたに過ぎない立場である。しかし鍾銘の件で南禅寺を追われてしまったという話は光正も聞いていた。その後は豊臣家を頼ったのだろう。しかし家臣でもないから運命を共にする義理はない。だから城を出てきたと言うのは光正にもわかる。しかし駿府に来た理由がわからない。
そのことについて尋ねると清韓はこう答えた。
「鍾銘の件について改めて大御所様にご説明をと思いまして。あれは大御所様への祝意を述べた文言にございますという事を改めて」
これには光正は驚いた。鍾銘の何が問題であったかは聞いている。そしてそれについて清韓は弁明したことも。その時も清韓は同じようなことを言っていたらしい。しかし清韓のやったことは非礼にあたり問題行動であるというのが大方の見解であった。
「(この御坊は自分が間違っていたことをあくまで認めんつもりか)」
頑固そうな風貌からもその通りであろう。兎も角光正はますます対応に困った。
その後家康から使者が届いた。そして
「恐らくなにも反省していないのだろう。どこぞの屋敷に押し込めて頭を冷やさせてやれ」
という命令が届いた。光正もこれに素直に従い清韓を拘禁した。
その後清韓は幕府のお抱えの儒学者の林羅山の口添えで罪を許されたという。
慶長二十年は途中から元号が元和に変わった。この頃家康は朝廷と幕府との関係を規定したり諸大名統制のための法令を発したりした。それが終わったあたりで家康は隠居を本気で考え始める。
「駿河のどこかに隠居の城でも作ってそこに住もうか」
どこか憑き物が落ちたみたいな様子でそんなことを言う家康。しかし光正は驚かなかった。
「大御所様はやるべきことをすべてやったのだ。もう自分にできることは無いとお思いなのだろう。あとはゆっくり余生を楽しんでもらいたいものだ」
余生といっても家康はもう七十を過ぎている。当時としては相当な長寿であった。とはいえ家康は武芸の鍛錬は欠かさないし医学にも見識がある。まだまだ生きるのだろうなと光正は考えていた。しかし元和二年(一六一六)になったばかり一月頃家康は病に倒れた。そして駿府城に担ぎ込まれる。
「儂もよくよく生きたがここまでか」
死期を悟った家康は自分の死後の葬儀などについてこまごまとした指示を出した。そして三カ月後には病死してしまう。原因は胃癌であったらしい。
家康は遺言で大名や旗本に対して自分への弔問は不要とした。他にも僧は葬儀を行う増上寺の者だけでいいなど言い残している。
光正は家康の死に目に会えなかった。尤もそうした家臣たちは大勢いる。光正もその一人にすぎなかった。
「せめて死に目に会いこれまでのお礼を述べたかったのだが」
悔やむ心はあれど仕方なし。そう言った風に光正は考えるのであった。
家康の死を受けて駿府で家康を支えていた組織や体制は解体されることになった。むろんこれには駿府町奉行所も含まれる。尤も光正に不満などない。
「家康様の為に働く組織であったのだから解体されるのも当然であろう。是非もない。私も隠居でもするか」
光正は駿府町奉行所の解体に伴う諸々の引継ぎを粛々と進めた。
こうしてあわただしくもどこか寂しい日々を送る光正。そんなある日光正を訪ねてくる者がいた。家康の十男の徳川頼宣の家老である安藤直次であった。
「引継ぎの話か。しかし直次殿自ら来る必要もないだろうに」
頼宣は名目上駿河駿府藩の藩主であった。しかし大阪の陣で初陣を遂げるほどの若年である。頼宣は駿府城で家康と共に暮らし藩政は実際のところ家康が仕切る形になっていた。だがこの度の家康の死を受けて頼宣は正式に藩主として独り立ちすることになったのである。もちろん家康の家臣が家老としてつく。安藤直次もその一人で早いうちから頼宣につけられていた。年齢は光正より十歳ほど上であるがまだまだ矍鑠としている。
「お久しぶりにございます安藤殿。此度は引き継ぎの御用ですかな」
これまで光正が行っていた駿府町奉行としての様々な活動や駿河などの地方支配に関する業務はほとんど駿府藩に受け継がれる。
直次は光正の質問に首を振った。
「それに関しては部下の者どもや貴殿の部下がうまくやってくれている。此度は殿が大御所様に託された遺命を果たすために来たのだ」
光正は首を傾げた。親が子に死の間際何か言い残すのは不自然ではない。だがそれが自分に関わってくるのが分からなかった。
「大御所様の遺命とは。一体何なのですかな」
「貴殿に関することだ。本来ならもっと早く伝えるべきだがこの忙しさだ。こちらもいろいろと準備するのに手間取ってな」
そう言ってから直次は書状を取り出して読み上げる。
「彦坂九兵衛光正。大御所様の遺命により貴殿に三千石を加増する。そして駿府藩主徳川頼宣に仕え役目を全うするように。ここまでが大御所様の遺命だ。どうだ。受けてくれるだろう? 」
光正は固まっていた。しかしすぐに気を取り直すと恭しく言う。
「承知しました。大御所様の御遺命。しかと受け取りまする」
「そうかそれはありがたい。いや、この先駿河を治めていくには貴殿の力が何より必要であったからな。殿もお喜びになるだろう」
「それはありがたきことにございます。しかし大御所様がそのような御遺命を遺されているとは」
「大御所様は殿をことのほか可愛がっておられたからな。いずれ駿河を完全に譲り渡すおつもりだったのだろう。その時貴殿がいれば百人力だと思っておられたはずだ」
「そうですか…… そうだと言いのですが」
「きっとそうだ。殿は端々のものまで目が届く。膝元であれほど働いた貴殿のことを認めておらんはずないではないか」
こうも褒められては気恥ずかしい。光正はごまかすように平伏した。
「これよりは頼宣様に誠心誠意お仕えしまする。安藤殿にはなにとぞご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします」
「ああ。こちらこそ頼む」
こうして光正は新しい主君に仕えることになった。
引き継ぎ業務が終わり光正は改めて頼宣と対面する。
「これよりは頼宣様のお役に立てるよう誠心誠意働いて見せます」
頼宣は光正が家臣になったことを素直に喜んだ。
「父上が自らのお膝元を任せるほどの者が我が下に来るとは。これ程喜ばしいことは無い。こうなれば父上が存命の時よりも駿河を栄えさせるのが我が役目であろう」
頼宣は幼いながらも英気にあふれ明るい人柄であった。人の上に立つ天性のようなものを感じさせる。
光正は頼宣の意気に喜んだ。
「素晴らしいお考えです。大御所様もそれを願っておいででしょう」
「そうか、そうだろう。直次もそう思うか」
頼宣はそばに控えていた直次に尋ねた。すると直次はこう言った。
「その意気はよろしいでしょう。しかしまず主君たるもの落ち着かれなければなりません。はしゃいでいるようではまだまだですな」
「そ、そうか」
直次の言葉に頼宣はしゅんとした。しかし嘆いている風ではない。頼宣は直次の言葉をしっかり受け止めて学んでいるのだろう。
「(よい関係だ。私があれこれ言う必要もないだろう。私は私の仕事を果たすだけだ)」
光正は二人の関係を気に入った。そして頼宣も直次も光正を気に入っているようである。
「彦坂殿。貴殿の手腕に期待しているぞ」
「直次の言う通りだ。この若輩者に力を貸してくれ」
「むろんです。お任せください」
こうして頼宣に仕えるようになった光正は駿府藩領内の内政に力を注ぐ。ところが元和五年(一六一九)頼宣は駿河から離れることになった。転封先は紀州(現和歌山県)和歌山である。
これについて将軍であり頼宣の兄でもある秀忠が、自分の権威が家康の遺風を上回るのを見せつけるためだという風聞がたった。
「下らぬ噂よ」
光正は一笑に付した。実際真実はわからない。
一方の頼宣も気にしていないようだった。
「領地は増えるのだ。それに畿内に一門を置くことでいろいろと便利なこともあるのだろう」
こうした主君の前向きな姿勢もあり頼宣の家臣たちも転封を前向きに受け入れた。
転封の後頼宣は和歌山を中心に領内を整備発展させ後に将軍を輩出する御三家の一家としての面目を見せつけた。
これらの事業を光正は影に日向に活躍し続けた。それは頼宣への忠誠心の表れであり家康の遺命を忠実に果たさんとする思いであった。光正は十年以上頼宣の家老として活躍をし続けるのである。
やがて頼宣の紀州転封から時は流れた寛永九年(一六三二)。将軍は家康の孫の家光が就任しており秀忠は同年に死去している。光正も六七歳になっていた。この年光正は頼宣に隠居を申し出ている。
「なぜだ。まだ働けるだろうに」
「そうだぞ光正。貴殿より十も上の儂はまだ矍鑠としているぞ」
そう言う通り直次はまだまだ元気であった。一方頼宣はかつての幼さは消え立派な偉丈夫に成長している。
二人に対して光正はこう言った。
「この所力も衰え満足に動けませぬ。これではお役に立てません。それに頼宣さまは立派になられた。もはや私の役目はございませぬ。実は先年より天海殿に頼んで家康様の廟での奉仕を務めさせていただけることになりました。わがままながら最後は家康様の下に仕えたく思います」
穏やかに言う光正。だが頼宣はその中の強い決意を受け取った。
「分かった。光正の好きにするがよい。父上もきっとお喜びになるだろう」
「ありがたき幸せにございます。頼宣様も直次殿もご健勝で」
頼宣の許しを得た光正はすぐに支度をして下野(現栃木県)の日光東照宮に向かった。ここに家康は眠っている。
「最後の御奉公。務めさせていただきます」
しかし光正はこのすぐ後に急死した。自害したとの説もある。
江戸幕府が成立してから大阪の陣までの期間の出来事というのはあまり有名ではありません。しかし今回取り上げた二つの事件など様々な政治的事件が起きています。そもそも巨大組織の創業期はそう言ったことが起きるものです。そうした中での人間模様というのはなかなか面白いので皆さんも調べてみるといいのかも知れません。
さて次の話の主人公ですがまたも徳川家臣です。しかし光正とはまた違った立場の人物です。いったい誰なのか。お楽しみに。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では




