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戦国塵芥武将伝  作者: 高部和尚
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山名豊国 粗忽者 後編

 豊国は毛利家に従うことで自分の所領と命を守った。そして山名家の本家も毛利家に従ったことで因幡但馬はひと時の平穏を得る。しかしこれですべて終わりといかないのが戦国時代である。

 天正四年(一五七六)毛利家は自分たちの領地に逃れてきた足利義昭を保護した。これにより毛利家と織田家は全面戦争に突入する。尤も両者は先年から微妙な関係に陥っていたこともあり全面戦争に突入するのは時間の問題であった。

 織田家は毛利家と敵対し領地を失った領主たちを配下に加え中国地方へ進出する。その中には山中幸盛をはじめとする尼子家残党たちの姿あった。

 これを知った豊国は素直に感心した。

「まだあきらめんとは。流石に大した者共であるな」

 幸盛たちは織田家の旗下として戦い、やがては播磨(現兵庫県西部)に城を手に入れた。そしてここを拠点に戦いを続ける。しかし最終的には毛利家の攻撃を受け落城。幸盛は捕らえられて殺された。

「いくら武を奮い藻搔こうともこの末路か。全く侘しいものだ。ならば静かに平穏に生きて入ればよいものを」

 豊国は幸盛がそうまでして尼子家を再興させようとしていたことが、最後まで理解できなかった。それは豊国がそこまで追い込まれたことがない人生を歩んできたことに起因している。因幡を追われたときだって祐豊が保護してくれたからだ。

 そんな豊国の置かれている現状は難しいものである。但馬では織田家と毛利家、山名家の連合の戦が続き一進一退の攻防を見せていた。織田家は日に日に勢力を増しており毛利家も油断ができない状況が続いている。

 こうした状況下で豊国はあることを考え始めた。

「状況次第では織田家に下ることも考えるべきか」

 そう考えた豊国はひそかに織田家との接触を始める。織田家も因幡山名家が下ればいろいろと楽になるということでこれを歓迎した。だがこれが思いもよらぬ事態を引き起こすことになる。


 幸盛ら尼子家残党の敗北、および滅亡。これを見る限り一見情勢は毛利家に傾いているように見えた。しかし実のところ畿内の各地を平定した織田家は中国地方への圧力をいよいよ強め、毛利家はそれに押されがちになっていく。

 そして天正八年(一五八〇)豊国にとって運命の年がやって来た。この年の初め播磨の毛利方の三木城が陥落し、播磨はほぼ織田家の手中に落ちた。これには豊国も焦る。

「いよいよ織田家に降伏するべきか。しかし森下は毛利家に従うつもりでおるこれでは私もうかつには動けん」

 現状因幡山名家では織田家につくべきか毛利家につくべきかで二つに割れていた。そしてそれをうまくまとめられる器量を生憎なことに豊国は持ち合わせていない。しかし心情的には織田家に下りたいと思っていたのでそれを成し遂げる方法をどうにか模索していた。

「どうにかいい方法はないか。森下たちを言いくるめられるいい方法が」

 そんなことを考えているうちにいよいよ織田家が因幡に攻め込んでくる。天正八年五月のことで但馬にも同時に侵攻していた。攻め込んできたのは織田家の重臣で中国方面の指揮官である羽柴秀吉である。

秀吉は播磨の平定も成し遂げており切れ者であると噂だった。

「そんなものと戦えるか。そもそも兵力が違うではないか」

 この織田家の動きにたいし毛利家も援軍を送るといっている。森下道誉はその援軍を待って戦うべきだと訴えた。

「鳥取城は堅城。ここに籠り毛利家の援軍を待てば敵を挟撃できます」

 確かに有効そう考えである。しかし豊国は毛利家の援軍に懐疑的であった。

「毛利家の援軍は間に合うのか。そもそも来るのか? 」

「当然です! 毛利家は我らを見捨てたりはしません」

 多くの家臣はこの道誉の主張に賛同した。こうなれば豊国もうなずくしかない。

 ところが情勢が一変した。何と同時に攻め込まれていた但馬があっという間に制圧されたというのである。但馬山名家も織田家に降伏したようだった。

「叔父上が負けたのか。こんなに簡単に」

 豊国は祐豊が簡単に降伏したことに驚いた。あれだけ山名家の地位にこだわっていた叔父がこうも簡単に降伏するのかと思ったからである。実際のところ祐豊は病に侵されており、そもそも但馬は前々から織田家の攻撃や調略を受けていた。いかに祐豊とは言えこれ以上の抵抗は不可能と判断したのである。

 こうして但馬は陥落した。そしてもう一つとんでもない事態が起きる。何と毛利家に差し出された山名家や因幡の領主たちの人質を預かっていた鹿野城が降伏してしまったのだ。しかも城主である進藤豊後守は自身の助命と引き換えの行動であったという。

 これに当然因幡の領主たちも山名家の人々も動揺する。人質を取られればどうしようもないものそうだが、毛利家から重要な役目を任されていた者がその職務と引き換えに降伏したというのが大問題であった。もはや毛利家は頼りにならないといっているようなものである。

 一方この動きに目ざとく目を付けたのが豊国であった。

「正直驚いたがこれは使えるな」

 豊国はこの現状を利用し家臣たちを説得した。

「進藤殿は我らが信頼し預けた人質を差し出して命を長らえた。これは許せんことである。しかし彼も命が惜しかったのだろう。きっと毛利家の援軍が間に合わんと知っていたのだ。こうなれば我らも勝つ望みなどないのではないか」

 この豊国の言葉に多くの家臣たちがうなずいた。実際毛利家の援軍は到着の兆しがないばかりか秀吉率いる織田家の軍勢は鳥取城の包囲を始めている。この状況では森下道誉をはじめとする毛利派の家臣たちも降伏を受け入れるしかなかった。

「私は羽柴殿に降伏し山名の家を長らえさせようと思う。皆、それでいいな」

 この言葉に皆頷いた。こうして因幡山名家は降伏する。豊国は以前からひそかに織田家に接触していたこともあり鳥取城をそのまま預けられた。

「以外に何とかなるものよ。山名の家は私が永らえさせるから叔父上はゆっくり眠っていてくれ」

 この時山名祐豊はこの世のものではなかった。降伏した後すぐに病死してしまったらしい。豊国にしてみれば世話になった叔父であり舅である。流石にこの最期には同情した。

 こうして因幡山名家は存続した、かに見えた。しかしこのすぐ後にとんでもない事態が起こるのである。


 鳥取城をはじめ因幡は織田家の支配下に入った。これで豊国はもう心配はいらんと安心する。

「もはや織田家の勢いは止まらぬだろう。これよりは織田家に従い山名家を長らえさせる」

 そう家臣達に宣言する豊国。ところが天正八年の九月、吉川元春の下に出向していた中村春続が帰って来た。そして豊国にこう言う。

「元春様が軍勢を率いてこちらに向かっております。此度の豊国さまのことに大層お怒りの様子です」

 この発言に豊国は怒った。

「そもそも兵を送ると言いながら来なかった吉川殿の落ち度が原因ではないか。それに人質も奪われている。織田家に下るのは仕方ないだろう。吉川殿も今更やってきて何を言っているのだ」

 春続の言葉にこう反論する豊国。だがここで森下道誉が春続に加勢した。

「元春様は戦わずに降伏したことのお怒りなのです。それに城を捨てて毛利家と共に戦う道もあったでしょう。それをしなかったのだから吉川殿がお怒りになるのも当然」

「森下殿の言う通りです。ここは許しを請い再び毛利の傘下に加わるべきかと思います」

 いつになく強い口調で言う二人。そのただならぬ様子にようやく豊国は気付いた。

「(こ奴らの様子はおかしい。一体何を考えているのだ)」

 豊国はその場にいるほかの家臣たちの様子をうかがった。皆道誉と春続のただならぬ様子に気づき困惑している。

 春続は豊国にこう言った。

「元春様は鳥取城を攻め落とすおつもりです。織田家の援軍もそう簡単には来ないでしょう。吉川殿は天下に名を知られた名将。それを踏まえてどうするかお考え下さい」

 そう言って春続は出ていった。それに道誉や数人の家臣が続く。残された家臣たちはみな毛利家への降伏を口にしだした。

「中村殿の言う通り毛利家に下るべきではないのか」

「そうだ。いくら鳥取城が堅城でも毛利家の大軍に攻め入られてはどうすることもできん」

 そんなことを言いだす家臣たち。一方豊国は違うことを考えていた。

「(あの中村や森下の眼はただ事ではない。それにあの言いようは私のことを主君とも何とも思っていないようだった。これはどこの誰に従うかどうかというよりもっと大変なことになっているのではないか)」

 そう思った豊国はその夜に自分の側近たちを集めて今後の対応を協議した。しかし一人来ない。

「一体どうしたのだ」

 不審に思う豊国。するとその家臣が青い顔をして駆け込んできた。

「た、大変です」

「どうしたのだ」

「先ほど森下殿に呼び出されました。そして殿から城を奪うから手を貸せと言われて…… 返答は明日までに、とも言われました」

 それを聞いて豊国含む一同皆絶句した。豊国は当たり前だがここにいる者たちはそんな誘いは受けていない。道誉はこの側近は仲が良く説得すれば味方するだろうと話したのだろう。実際はこの側近は豊国に忠誠を誓っておりそんな裏切るような人間でもないのだが。

 ともかく豊国は危険が間近まで迫っていることを理解した。もはやこのままとどまっているのはあまりにも危険である。

「今日のうちにこの城を出る。皆準備せい」

 豊国と側近たちは手早く準備を進めその夜のうちに脱出の準備をした。そして側近の一人を羽柴秀吉の下に向かわせ豊国と鳥取城の現状を伝えさせる。

「できるだけ早く城を出る。そして羽柴殿の下に逃れるのだ」

 翌朝豊国は側近たちと共に城を出た。本当なら夜のうちに出ていきたかったがその夜のうちに準備を始めたのだから仕様がない。兎も角無事に城を出た豊国と側近たちは急いで城を離れ織田家の勢力圏に逃げ込んだ。

 一方鳥取城内は豊国がいなくなったことで一時騒然となった。しかし道誉と春続はもともと豊国を追い出すつもりでいたので気にしてはいない。

「手間が省けたというものだ」

「全くせいせいする」

 こんなことを言う二人に内心豊国を馬鹿にしていた家臣たちも笑うのであった。彼らはまだこの後自分たちに待受ける地獄を知らない。


 鳥取城から命からがら逃れた豊国たちは無事に織田家に保護された。羽柴秀吉は文化教養に関心が強かったので豊国を厚遇する。

「これよりは我らの下で楽にお過ごしくだされ」

「それはありがたい。感謝する。羽柴殿」

 一方鳥取城の春続と道誉は吉川元春の同族である吉川経家を新たな城主として迎えた。これにより鳥取城ははっきりと織田家への敵対を表明したことになる。

「これでどうにかなると思っているのか。もうどうなっても知らんぞ」

 豊国はもはや鳥取城の旧臣たちに興味を抱いて居ない。兎も角織田家に鳥取城を攻め落としてもらい戻ることを期待するのみである。

 そして天正九年(一五八一)五月。いよいよ秀吉率いる織田家の軍勢の侵攻が始まった。これに豊国も同行している。戦力的にはあてにならないだろうが国主を国に戻すという大義名分にはなるからだろう。

秀吉率いる軍勢は因幡の各所を制圧し七月には鳥取城を包囲した。この時秀吉は鳥取城周辺の町々から兵糧を買い占め、さらに周辺の農民を鳥取城に追いやる。そして周囲を完全に封鎖し毛利家からの物資の輸送を完全に遮断した。

「あとは降伏を待つだけという事か。なるほど戦わなくていいのはいいことだ」

 豊国は織田家の陣中で側近たちと共に鳥取城の落城をゆるりと待った。一方の鳥取城ではもともと兵糧の備蓄が少なかったうえに、逃げ込んできた農民たちの存在もあってあっという間に兵糧が尽きる。城内では将兵や民の区別なく皆飢えに苦しんだ。もちろん春続と道誉もそこに含まれる。

「まさかこんなことになるとは」

「これでは戦うどころか動くこともできん」

 もはや飢え衰え生きていくのもやっとという有様であった。

 こうして包囲から三か月たった。城内の人々は飢えに苦しみ挙句人肉を食うものも現れるほどであったという。この状況をみて城主の吉川経家は決断した。

「降伏しよう。私が腹を切れば生きている者の命は救ってくれるはず」

 これを受けて春続と道誉も決断する。

「此度の始末は我らにも責任があります」

「我らも腹を切らねばなりますまい」

 経家は自分と春続、道誉の切腹を条件に城内の人間の助命を秀吉に頼んだ。秀吉は経家の切腹は不要と伝えたが経家の決意は固く、秀吉はその条件を飲むことにする。

 そして吉川経家、中村春続、森下道誉の三名は切腹したこれにより鳥取城は開城された。中から出てきた人々はやせ細りまるで餓鬼のようであったという。だがここで悲劇は終わらなかった。秀吉はやせ衰えた人々を哀れに思い自軍の兵糧を解放し皆に与える。しかし飢餓状態の人間が急に食事をすると死んでしまうのだ。当然この時代にそんな知識などあるわけなくやっと食料にたどり着いた人々は、その食料のせいで命を落としてしまったのである。

 この一連の出来事を豊国は全部見た。

「これが地獄か」

 もはやそれしか言葉にできない。それぐらいの衝撃であった。


 すさまじい悲劇と引き換えに鳥取城は落城した。しかし豊国は鳥取城に戻らなかった。

「これよりは浪々の身となりたく思います」

 鳥取城の悲劇が豊国の心に何かしらの影響を及ぼしたのかは分からない。ただ豊国は秀吉の士官の誘いも断り浪々の身となった。

 それから豊国は各地をさすらい、遠江(現静岡県西部)など数ヵ国を治める徳川家康の下で厄介になることになった。

 ある時家康が豊国や家臣たちと話しているときのことである。豊国は家康にこう言った。

「粗忽者というのは朽木殿(朽木元網、織田信長に仕えていたが代官の職を罷免されている)のような方を言うのでしょうな」

 これに徳川家の家臣一同はうなずく。しかし家康は豊国にこう言った。

「確かに朽木殿は粗忽者といわれても仕様がない。しかし貴殿はそれ以上の粗忽者だろう」

 家臣たちはこの発言をいぶかしんだ。豊国は黙っている。家康は更にこう続ける。

「朽木殿は先祖代々の土地を守っている。しかし貴殿はどうだ。山名家といえばかつては六分の一殿と呼ばれ広大な領地を持っていたというのに、貴殿は所領を失い浪々の身となっている。これ程の粗忽があるだろうか」

 これに対して豊国はこう答えた。

「全くその通りです。私も六分の一殿とまでいかなくとも百分の一殿ぐらいには呼ばれたいものです」

 豊国は全く恥じる様子もなく答えるのであった。これには家康も苦笑するしかなかった。


 その後豊国は家康の下にとどまり続けた。そして関ヶ原の戦いでは東軍に付きその功からか新たに領地を与えられる。その領地というのは但馬であった。

「なんとも因果か。叔父上が聞いたらどう思うか」

 この時祐豊の家系は実質途絶えている。しかし名家である山名家が絶えるのを家康は惜しんだ。そう言うわけもあって、家康は豊国の山名家を本流とすることにしたのだろう。

「山名の家を絶やさないという事だけは出来たな」

 大名ではないが山名家は存続することができたのである。豊国は寛永三年(一六二六)にこの世を去った。享年七九歳。当時としては長命であろう。だが満足のいく人生であったかは豊国のみが知る。


 鳥取城への兵糧攻めはそれはもうひどい有様であったと言われています。戦闘による死者はほとんどいなかったようですが、それよりひどい死にざまをした人々が大勢いました。兵糧攻めはいろいろなところで行われていましたがこれよりひどい話はありません。間違いなく戦国時代が引き起こした悲劇の一つといえるでしょう。これを攻める側で見ていた豊国は一体どういった気持だったのか。それはどの資料にも記されていません。ただ一つ言いえることは豊国が秀吉の士官の誘いを断ったという事だけです。

 さて次の話の主人公はある徳川家の家臣の話です。かなりの重大事件にも関わっている人物なのですが知名度はあまりありません。いったい誰なのか。お楽しみに。

 最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では

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